始まりの日

記憶 - 17

杉本浩介

 尾形と約束していた時間より3時間近く遅れて新橋駅で電車を降りた。
 駅自体はそこそこにぎわっているが、さすがに駅を離れるとオフィス街だけあって土日は人通りが少ない。時々買い物や観光に来たような人たちとすれ違いながら数分歩いたところで、ドトールの黄色と黒の看板を見つけた。
 この一方通行の通りを挟んだ向かい側に、一ノ瀬組の事務所がある。比較的新しいが小さなオフィスビルの5階だ。

 尾形が言うには、現時点で麻布事件に一番近い人間は、香港に逃げていた川井正男だ。去年、雨宮総理に直接脅迫の電話をしてきた男だ。その時、川井は「殺しの請負い」をにおわせた。川井は雨宮夫妻の殺人を何者かに依頼されたということだろう。
 その川井が帰国し、厚労省の麻薬Gメンから押収した麻薬の横流しを受け、それを一ノ瀬のシマで裁いているらしい。尾形が相沢から聞き出した話だから嘘ではないだろうが、それが本当なら一ノ瀬は川井の居場所を知っているということになる。
 その川井の居場所を、一ノ瀬から聞き出すつもりらしい。

 一ノ瀬組の事務所の場所を確認してドトールに入ろうとしたとき、カウンター席で頬杖をついている尾形を見つけた。ガラス越しに目があったような気がして右手を上げたが、尾形はぼんやりと通りを見つめたまま反応しない。軽く手を振ってみたが、その甲斐もなく無視された。
 行き場のなくなった右手を下ろして、文句でも言ってやろうと店に入ってすぐに尾形に声をかけた。
「おい、尾形」
 ビクッと背中を震わせて振り向いた尾形は、なぜか驚いたように俺を見た。
 おいおい、ここは俺に遅刻の嫌みを言うところだろ。
「大丈夫か?」
 思わず心配になって、鞄を尾形の隣に椅子の上に置きながら聞くと、尾形はいつも通りの性格の悪そうな目で軽く笑った。
「ああ、なんでもない。そっちは? ずいぶん時間かかったみたいだけど」
 言いながら店内にある時計を見る。午後4時を回ったところだった。
「まあな、意外とガードが固かった」
 さっき行ってきた山手警察署での堂々巡りのようなやり取りを思い出してため息が出た。
「ガード?」
「これから話すことを聞けばわかるよ」
 それだけ答えて、とりあえず飲み物を注文することにした。

「さっき目の前通ったのに全然気付いてなかったな」
 アイスコーヒーを持って尾形の隣に座りながら言うと、尾形はなぜか俺を睨んだ。
「考え事してたんだよ」
「へぇ。尾形にしては珍しいな。何かあったのか?」
 どうせ雨宮関係なんだろう。ポーションを開けてアイスコーヒーにミルクを入れながら聞と、尾形は頬杖をついてほとんど氷の溶けたグラスのストローを弄びながら。
「杉本さん、タイムパラドックスって知ってる?」
「なんだそれ。雨宮のタイムスリップ関係か?」
「そ。例えば雨宮が今、雨宮誠一郎に『雨宮陽生は2021年に電車の脱線事故に巻き込まれたのがきっかけで、2008年にタイムスリップする』って言ったとする。それを信じた雨宮誠一郎は、孫を守るために2021年に雨宮を電車に乗せなかった。結果、どうなったと思う?」
「本当に脱線が原因でタイムスリップしたんなら、その電車に乗せなければタイムスリップしないんじゃないか?」
 それが当然だと思って答えたが、尾形は心底呆れたように笑った。
「不正解。つーか、予想通りすぎる回答だな」
「ムカつくな。予想してたんならクイズなんてしないでさっさと正解を言えよ」
 尾形を睨みつけると、ニヤリと楽しそうに笑った。間違えると分かっていて質問するというこの性格の悪さは今に限ったことじゃないが、何度やられてもムカつく。
「よく考えてみろよ。もし杉本さんの言うとおり雨宮がタイムスリップしなかったら、雨宮は過去に戻って雨宮誠一郎に会うことができないだろ」
 つまり雨宮誠一郎は、雨宮がタイムスリップするということを事前に知ることができない――――、
「そうか! 雨宮誠一郎が雨宮を電車に乗せないなんてこともできなくなって、結果、雨宮は脱線事故に巻き込まれてタイムスリップ、妙な堂々巡りだな」
「そ。それがタイムパラドックスだよ。これを解決するとしたら、雨宮が誰に何をしても、雨宮は必ずタイムスリップしなければならない」
 尾形の話を聞いて、ちょっと前に「この世界は誰かにプログラムされている」と偉い学者が言っていたのを思い出した。
 その「誰か」が神なのか宇宙人なのか何億年も未来の人間なのかは知らないが、尾形の言っていることが妙に当てはまって少し怖くなった。もし本当にプログラムなら、雨宮はバグなのかもしれない。そのバグによって事実が変わらないように、雨宮の起こしたエラーを自動修正する。
 一度過ぎた時間をやり直すことができない以上、そうするしかないのか。
「は~、なるほどなぁ」
 深く頷くと、尾形は俺を横目で見て、
「――――理論上はね」
 そう付け足した。
「ああ…………そういうことか。理論上は、か」
 そんなこと、誰も経験したことがない。
 どんなに尾形が頭がよくてあらゆる可能性を含めて考えたとしても、あくまでもそれは理論上のことで、本当にその通りになるかなんて保障は、どこにもない。
 けれども、今の雨宮なら実験できる。元々いた時間に戻りたいと思っているなら本人がそうなるよう行動できるし、偶然未来の雨宮を知る人間と会ってしまうかもしれない。
「そう。理論上は」
 尾形は噛み締めるようにそう繰り返すと、小さく息をついて顔をあげた。
「で、俺が頼んでた件は?」
「あ、そうそう。麻布事件には関係なさそうだったぞ」
「ふぅん。奥田の件も調べてるんだろ?」
「あぁ、そっちは日比野に探らせてる」
「日比野が?」
 尾形が驚いたように言う。
 雨宮のことを知ってはいても、特に親しいわけでもないし麻布事件がどうなろうと日比野には関係ない。それどころか、未だに捜査してるなんてことが上層部にバレたら立場が危うくなるかもしれない。
 だからといって日比野は人が2人も殺されて黙っていられる刑事じゃない。
「あんな終わり方の事件、納得した刑事なんているわけないだろ。この仕事に誇りを持っているなら、あの事件から目を背けられないさ」
 そう答えながら、バッグから出した手帳をテーブルの上に開いた。
 ここにメモした山手署の刑事の証言も同じだ。署内では「調書に書いてある通りだから話すことはない」としか言えず、けれども駅まで俺を追って、真実を話してくれたあの刑事も――――。

 

雨宮陽生

 廊下の片隅で、呼吸が、止まった。
 その瞬間、周りのすべての音が消えて、その男だけに意識が集中した。

 診察待ちの外来患者が行き交う中、立花先生と立ち話をするダークスーツの男。
 俺の17歳までの人生で誰よりも長く一緒にいて、誰よりも強く影響を受けた彼に、ずっと会いたいと思っていた。
 もし彼がいなかったら、そう考えるだけで全身がすくむ存在。

 ―――――――月本だ。

 間違えるわけがない。
 俺の知っている月本と何一つ変わらない姿で、ほんの数メートル先にいる。

 凛とした背筋。見慣れた物静かな表情。
 冷たさを感じるほど静かな目で、目の前の医師と短く言葉を交わす。自分より10歳近く年上の医師に媚びることも顔色をうかがうこともなく、対等に、けれどもごく自然に。
 やがて浅く頭を下げると、迷いのない足取りでその場を離れた。
 そして、俺の真横を素通りしていく。
 視界の隅に入ったはずの俺に見向きもせず、素通りする。

 わかっている。
 今ここにいる月本は俺を知らない。
 同じ人間なのに、これは俺の知ってる月本じゃない。
 どんなに俺が雨宮陽生だと言っても、俺を分かってくれない。
 毎日俺を見ていたその目に、俺は映っていない。
 同じ、月本なのに。

 あぁそうか。
 俺は、本当にタイムスリップしたのか―――――。

 振り返って、静かに歩く月本の背中を見つめた。

 今俺が月本に接触したら、どうなるんだろう?
 例えば、あんたが教育係としてこれから12年間も育てる子供がタイムスリップしてここにいるなんて言ったら、俺はタイムスリップしなくなるんだろうか?
 そうしたら俺は、あの時のままつまらない高校に通って、何かにつけてじいさんに振り回される毎日を送るんだろうか。
 父さんと母さんの死の真相を知ることもなく、復讐なんて感情を知ることさえなく。
 尾形に会うこともなく、人を好きになることもなく。

 本当に俺が未来に影響を与えることができるのか、なんて今はどうでもいい。
 問題は、未来に影響を「与えるかもしれない」という現実だ。
 今の俺は、「今の俺」を変えることができるのかもしれない。
 タイムスリップするのかしないのか、選ぶことができるとしたら――――俺は、タイムスリップすることを選ぶ。
 元の時間に戻れないとしても、俺は「今の俺」を選ぶ。

「雨宮君、待たせて悪いね」
 背後からの声にハッとして振り向くと、さっき月本と話していた立花先生が俺のすぐ真横に立っていた。
「あ、すみません」
 慌てて取り繕うと、立花先生は柔らかく笑みを浮かべて、遠くでエレベーターを待つ月本に視線をやった。
「知り合い?」
 俺がずっと月本を目で追っていたのを、しっかり見られてたみたいだ。
「いえ、よく知ってる人に似てたんですけど、人違いでした」
 そう答えてから、内心少し笑えた。
 あながち間違ってないな、この言い訳。
「そう」
 立花先生は短く頷いて、エレベーターホールとは逆の、ERのある棟へ俺を案内した。

 立花先生とはたまに連絡を取っていて、昨日の夜、心臓移植があるから見に来ないかというメールをもらった。
 心臓移植なんて2021年ではそんなに珍しくないけど、2009年時点では全国で1ヶ月に1回あるかないかだ。しかもみな大病院ではまだ2回目らしい。今度いつ見られるか分からないから見ておいたほうがいいということだった。
 そこでまさか月本に会うなんて、想像もしてなかったけれど。
 立花先生と、何を話してたんだろう。

「ドナーの婚約者だよ」
 外来を抜けて人通りが少なくなった辺りで、立花先生が、半分だけ俺に向いてそう言った。
「え?」
 一瞬、後頭部を殴られたようなショックを受けた。
「さっきの彼」
 俺の反応の意味を誤解した立花先生が付け足す。
「そうだったんですか………気の毒ですね」
 ありきたりの返答をしながら、混乱した。

 月本の、婚約者?
 婚約者が脳死?
 そんな過去を、月本が抱えていた?
 嘘、だろ?

 記憶を片っ端から検索した。
 俺の知っている2021年の月本には恋人がいる。詳しく聞いたことはないけど、本当にその人が大切なんだというのが淡々とした口調でも伝わってきた。
 その人の前にも付き合ってた人がいて当然だとは思うけど、婚約者を亡くしていたなんて思いもしなかった。月本は俺に自分のことをほとんど話さないし、そもそもそんな辛い経験をしてたなんて、月本の性格からは想像もできない。
 でも、ただ1つ思い出すことがあるとしたら――――。

『死んだ日なんて、生まれた日時に比べたら曖昧なものですね』
 近所のマンションで、孤独死した老人が死後1ヶ月以上たってから発見されたことがあった。その話をしている時にふいに月本が言った。
 いつもと変わらない、他人事のような口調だった。
 俺はその時、言葉どおりにしか受け止めなかった。この孤独死の老人に限らず、死亡日が特定できないことなんて珍しくない、そういう意味だと思った。月本の婚約者が、脳死だったなんて思いもしなかったから。だから俺は無神経に、
「でも命日ってちゃんと決まってないと法事とか面倒そうだよな。こういう場合って推定して適当に決めるのかな」
 そう言う俺を、月本は一瞥して目を伏せた。
「そうですね。所詮、曖昧なものですから」
 どこか俺を非難するような口調だった。
 その後すぐに月本に電話がかかってきて何が気に入らないのか聞けなかったけれど、今なら俺が酷いことを言っていたんだと分かる。
 法事が面倒だとか、適当に決めるだとか、大切な人が死んだ日はそんな軽いものじゃない。

 臨床的な、脳の死。
 法的な死の判定。
 肉体の死。
 精神の死。
 どこが本当の死なんだろう。
 月本が言いたかったのは、そういうことなのかもしれない。
 だから、何も知らない俺の言葉を聞いて苛ついた。苛つくほど、婚約者のことを思っていたんだ。

 どういう人だったんだろう。
 どうして脳死なんて状態になったんだろう。
 月本がSPを辞めてじいさんの秘書になったのと関係あるんだろうか? だとしたら麻布事件とも関係あるかもしれない、そう頭をかすめたけれど、それよりも月本の過去の方が気になった。
 俺の知らない月本を、知りたいと思った。
「立花先生、ドナーの名前教えてくれませんか?」
 イチかバチか、ER会議室と書かれたドアのノブに手をかける立花先生を引き止めて聞くと、先生は手を止めて俺をじっと見た。