始まりの日

記憶 - 16

杉本浩介

 所轄から一課のオフィスに戻ると、足利さんが眉間に皺を作ってノートパソコンの画面を睨んでいた。また昔の事件の調書でも読んでるんだろう。物好きな趣味だ。
「お疲れ様です。今度はどんな事件ですか?」
「あーーー横浜のじけーん」
 画面から目を離さず、いつもの間延びした口調で面倒そうに答える。
「横浜って、とうとう管轄外にも手を出し始めたんですか」
「うーん、ちょっとねぇ」
 そう意味深に言うと、カチッとマウスをコントロールして、ようやくこっちを見た。

 そう言えば足利さん、二課にいただけあって坂崎や北林のことも詳しかったな。奥田和繁の情報も何か持ってるんじゃないか? そう思って聞いてみると、足利さんはニンマリと不気味な笑みを浮かべた。
「な、なんですか?」
 思わず身構えつつ、とりあえず空いてるデスクから椅子を引っ張って隣に座った。想像してた以上に情報を持ってそうだ。
「いやぁ杉本、おまえがその若さで係長になれたのは、このタイミングの良さのおかげだなぁ」
「あの………それは実力じゃない、ということですか」
「運も実力のうちって言うだろ。何か持ってるんだろうなぁ」
 持ってると言われても、運の良さなんて実感したことない。年末ジャンボだって300円しか当たったためしがないのに。
「はあ…………って、それより、奥田に何かあるんですか?」
 話を戻すと、足利さんは腕を組んで少しもったいぶったように。
「下世話なスキャンダルっつーやつだ」
 スキャンダル? 犯罪じゃないってことか?
「ま、俺が話すより、あいつが話したほうがいいな」
 そう言って、デスクの電話を取ると素早く内線番号を押す。相手はすぐに出たみたいだった。
「お疲れさん。足利だけど、おまえちょっとこっち来れるか? ―――あぁヨロシク~」
 口調からすると足利さんよりも年下だということは分かるけれど。
「誰ですか?」
 受話器を置いた足利さんに聞くと、いつもどおり飄々と。
「んー塩入ヶ谷要しおいりがやかなめ。覚えてるだろ?」
「あぁ、二課の刑事ですよね。去年の坂崎の事件で話を聞いた」
「そうそう」
 変わった名字だったからということもあるが、俺と話した時はおどおどしてたくせに、足利さんの前では「できる男」に変貌したから、かなり印象に残っている。
「先週だったか、要が俺んところに相談しに来たんだよ。奥田をどうにかしてぇってな」
「どうにか? 逮捕したいってことですか?」
 二課は、政財界での犯罪を取り扱ってる部署だ。どうにかしたいということは、つまり奥田に何らかの犯罪の疑いがあって送検したいということになる。
 その犯罪が、坂崎の言っていた皆川会との癒着に関係ある可能性もある。
「そ。大物すぎて迂闊に手ぇ出せねぇからな」
 足利さんがそう答えたところで。
「お待たせしました!」
 威勢のいい声に振り向くと、息を切らしながらずれたメガネを直す塩入ヶ谷が、足利さんのデスクの数歩手前にいた。
 おいおい早すぎだろ。4階からこの6階まで、非常階段を猛ダッシュしたに違いない。
「おー早かったな。ちょっとこっち座れ」
「ハイッ。あ、この椅子借りていいですか?」
 言いながらテキパキと近くに畳んであったパイプ椅子を持って来て、足利さんを挟んで俺の反対側に座ると、相変わらず就活中の学生みたいにピン背筋を伸ばす。そして、まるで「待て」をされた子犬みたいに、行儀よく足利さんを見た。

「で、そもそも杉本はなんで奥田について知りたいんだあ?」
 足利さんの言葉に子犬がピクリと反応して、好奇心を隠そうともせずメガネの奥からジッと俺を見た。興味があるのはわかるが、坂崎は尾形を信用して話したわけだから、そう簡単に喋るのは気が咎める。
「そこはあまり聞かないでくれると助かるんですが…………」
 やんわり拒むと、足利さんは何もかも見透かすように目を細めて薄笑いを浮かべた。
「ほぅ?」
 弱みを握られたような気がしてくるのは………まぁ気のせいじゃないだろうな。
 妙な威圧感を与えたわりには、足利さんは何も聞かずに「ま、いっか」と呟いて、塩入ヶ谷に話を振った。
「要、杉本に先週俺に話したことプラス他に分かったことがあったら話してやってくれ」
「はい。奥田和繁のことですね」
 塩入ヶ谷はピンと伸びた背筋をさらにシャキッとさせて、流れるように説明をし始めた。
「こちらも嫌疑内容については詳しくは話せないんですが、数年前から奥田和繁に目を付けて内偵を続けてるんです。ですが、やり方が巧妙というか、確固たる証拠を残さないことと、絶対に自分の手を汚さないこともあって、不審な金の流れなどがあってもなかなか立件には踏み出せませんでした。そうこしているうちに、昨年急に雨宮総理が辞任して内閣改造があり、奥田が幹事長になったので、結局、立件すらできないままお蔵入りになってしまったんです」
 確かに相手が幹事長となると、たとえ任意での事情聴取でも確実に支持率が下がるから政治家としては避けたいはずだ。天下り先や予算を確保したい警察上層部、つまり警察官僚は、それをコントロールする政治家から圧力を受けて、奥田に関する捜査から手を引くことにしたんだろう。上からそう指示があれば、現場はもう手出しできない。
 警察は政治家の言いなりか――――そう溜息が出そうになったとき、「ところが、」と塩入ヶ谷が身を乗り出した。
「ここへきて、奥田を追い詰めることのできるカードが、手に入ったんです」
 これが、さっき足利さんの言ってた「下世話なスキャンダル」か。
「そのカードというのは?」
「はい、実は奥田には隠し子がいたんです」
「………また隠し子か」
 それほど驚くことはなかった。大物政治家の隠し子には昨日会ったところだ。
「ええ。今年19歳なんですが、奥田が結婚前に交際していた矢上貴子という一般女性との間に生まれた子供で、認知はしていません。奥田の妻は光橋(みつはし)グループの長女で、政治資金の援助を受けるための政略結婚のようなものですから、矢上貴子が妊娠していると分かっていたにも関わらず婚約したそうです。
 それで、その裏を取るために当時奥田の秘書をしていた男性に事情を聞いたところ、毎月120万円の養育費を振り込むことと引き換えに、矢上貴子に口止めをしたと証言したんです」
「ワイドショーの恰好のネタだな」
 妊娠した矢上貴子を捨てて金のために大企業の令嬢と結婚し、矢上貴子には金で口止めしていたということか。マスコミは一斉に奥田を叩くだろう。いくら演説で綺麗ごとを並べても信用はガタ落ちだな。
「ええ。この隠し子スキャンダルをマスコミにリークすれば、政治家生命とまではいかなくても奥田のイメージダウンは確実です。それに隠し子は警察の介入するところではないので、警察上層部は口出しができません。一度火のついたマスコミは容赦ないですから、いずれ奥田の不正もスクープします。そうなれば党は中途半端に奥田を擁護するよりも、いっそのこと奥田一人を悪者にしてしまった方がいいという方向に動くでしょう」
「で、二課は奥田への事情聴取も家宅捜査もできるようになって、不正を立件できるということか」
「はい」
 なるほどな。敵を孤立させて追い込むという作戦か。
 ただそれは、奥田の犯罪には関係のない人間を巻き込むということだ。
「その矢上貴子と隠し子は、今は?」
「矢上貴子は2年前に亡くなりました。酒に酔って自宅マンションのベランダから転落したことによる事故死ということになっています。貴子には身寄りがなかったので、現在息子の矢上剛は奥田からの養育費で1人暮らしをしながら都内の大学に通っています。優秀で近所の評判はかなりいいです。幼いころから貴子が家事もろくにせずに派手に遊び歩いていたようで、家のことはほとんど矢上剛がしていたそうです」
育児放棄ネグレクトか」
「何もしなくても毎月120万の口止め料が転がり込んでくりゃ、そりゃあ堕落するわなぁ。そういう母親だからいい子でいなきゃならなかったってところか。根底には真っ黒い膿が沈んでそうだと思わんか?」
 足利さんが俺に相槌を求めるようにニヤッと笑って言った。
 子供の存在を口止めするために、養育費として毎月120万を払っていたということか。そこまでしてでも奥田は子供の存在を隠しておきたいんだろうな。
 父親に存在を否定され、唯一の家族だった母親にも無視され続けた。だから母親や周囲の気を引くために「良い子」を演じ続けたんだろうか。
 そして今度はその父親の逮捕を理由に、駆け引きのカードにされる。
 どんな子供でも、親の逮捕のカードにされて傷付かないわけがないのに。

「…………酷い話だな」
 思わず、思ったことがそのまま口をついて出た。
「ええ、幸せな家庭を知らないんでしょうね…………」
 本当は二課の捜査を批判する言葉だったけれど、塩入ヶ谷は俺が矢上剛の家庭環境のことを言っていると受け止めたようだから、そのままにしておくことにした。
 分かっている。一課の刑事である俺は、二課の捜査方針に口出せる立場じゃない。
 分かってはいるんだけど、な。

 

尾形澄人

 夕食は、暗黙のルールで雨宮が作ることになっている。
 俺は元々外食派だからわざわざ作ってもらう必要はないんだけど、家柄のわりに経済観念がしっかりしてる雨宮としては、無駄にエンゲル係数を上げたくないみたいだ。仕事を終えてマンションに帰ると、安心して嫁に出せるクオリティの食事がほぼ毎日テーブルに並んでいる。
 ちなみに今日の献立は、ピーマンの肉詰め、カツオのたたき、ほうれん草の胡麻和え、サラダ、なめこの味噌汁。そのピーマンの肉詰めのピーマンを剥がしながらそれとなく聞いてみた。
「明日の午後、予定ある?」
 土曜日だから大学は休みのはずだ。けれども雨宮は、俺をチラッと見て短く、
「ある」
 とだけぶっきらぼうに返す。
 たぶん昨日のことがあって、俺とどう接したらいいのか分からないんだろう。つまり、照れてるわけだ。
「あ、そう。せっかくデートに誘おうと思ったのに」
 ニッと笑って言うと、雨宮に露骨に嫌な顔をされた。
「キモイ単語使うなよ。つーかピーマン食えよ」
「ピーマン嫌いっつっただろ。でも恋人同士なんだからやっぱりデートだろ?」
 目を合わせようとしない雨宮を覗き込むと、ほんの少しだけ頬を赤くして、俺を睨みつけた。
 ヤバイ、初々しすぎる。
 生活のことも事件の捜査も勉強もなんでも厭味なくらいそつなくこなす雨宮が、恋愛のことになるとこんなに新鮮な反応をする。それを俺が引き起こしてるんだと思うと、なんとも言えない優越感が湧き上がる。

「また麻布事件の捜査にでも行くわけ?」
「違う、みな大病院だよ。立花先生んとこ」
 俺が撃たれて入院した時の担当医だ。雨宮もその時に話をしたらしく、大学を選ぶときに何度か相談にのってもらったことがあると言っていた。だから、入学の報告とか礼とかするならわかるけど。
「土曜日に?」
 そもそも毎日通っている大学のすぐ近くなんだから、わざわざ休みの日に行くことはない。
「心臓移植があるから見に来ないかって誘われたんだよ。学生3~4人と一緒に見るからあと1人くらい入ってもいいって」
「へぇ、心臓移植か。まだ症例数が少ないからな」
 ごく自然に感心して見せながらも、心臓移植という言葉に驚いた。神田の妹の脳死判定のタイミングが重なっていたからだ。
 心臓移植は脳死が前提で、そう頻繁にあるものじゃない。しかも神田の実家は横浜中華街の近くだ聞いたことがある。歩行圏内のみな大病院に入院していたとしてもおかしくない。つまり、明日雨宮が見る心臓移植のドナーは、ほぼ100%神田の妹だ。
 そしてその妹の婚約者は月本慧ということになる。
 雨宮が、雨宮誠一郎の私的ボディーガードの月本慧と顔見知りだったとしてもおかしくない。親しかった可能性もある。もし病院で会うことがあったら、雨宮はどうするんだろうか。
 ただ、それを雨宮に聞くことはできない。
 俺が月本慧に接触している――つまり、麻布事件の捜査をしていることは、今は雨宮に知られないほうがいい。

「つーか、雨宮、あの医者に気に入られすぎだろ。気をつけろよ」
「は? ありえねぇよ。この前会った時に俺が早く臨床やりたいって言ったの、覚えていてくれたんだよ」
「そんなに臨床やりたかったら、さっさとアメリカに行けばいいだろ」
「無理。麻布事件が片付かないうちは離れられないよ」
 やっぱりそっちか。わかってたけど。
「俺と離れたくないからって言えば可愛気があるのに」
「可愛気とか言うなら、そっちだって俺が行かないってわかってるから、平気でアメリカに行けばいいなんて言ったんだろ」
「そうだよ。俺は、雨宮と離れたくないからね」
 ストレートに本心を言うと、雨宮は胡麻和えにのばした箸をピタリととめて俺を睨みつけた。そして、少し顔を赤くさせたまま話の筋をかなり大幅に戻す。
「日曜もダメだから」
「…………せっかく雨宮とふたりっきりでラブラブしようと思ってたのに」
「だからキモイってそれ。男同士でラブラブとか………ねぇだろ」
 今度は本気で気色悪そうな顔をして言う。
 昨日の素直さはどこへ行ったんだ。

 そもそも雨宮はこう見えてかなり流されやすい。というか、自ら流されることを選択するところがある。もし昨日の夜もそうだとしたら、今日1日経って「無かったこと」にされた可能性は、十分にあるわけだ。
 そもそも、雨宮の言葉ではまだちゃんと気持ちを聞いてなかったし。

「雨宮、俺のこと好き?」
「は? なんだよ急に」
 ほんの少し頬を赤くして俺を睨む雨宮を見て、内心ホッとした。
「だから、俺のこと好きかって聞いてるんだよ」
「昨日言った。てかピーマン食えつってんだろ」
「あんなの言ったに入らねーよ。流れに任せて頷いただけだろ」
 それが事実だって雨宮も分かってるはずなのに、ごまかすどころか当然とばかりに。
「十分だろ」
「…………へぇ、そう」
 確かに昨日の雨宮は言葉にこそしなかったけれど、俺を好きだと認めてたということには変わりないし、俺にも雨宮の気持ちはちゃんと伝わっている。
 けれど、あれで十分だと言われると話は別だ。何のために「言葉」があって、何のために「愛してる」という単語があると思っているんだ。
 言葉にするということを軽視しているのか、それとも、そもそも雨宮には俺に自分の気持ちを伝えたいという願望がないのか。
 俺は、どんなにウザがられても、俺がどれほど雨宮を愛しているか伝えたいのに。

 そんなことを考えながら、味噌汁を飲む雨宮をじっと観察してると、俺の視線に気付いた雨宮がお椀越しに眉を寄せた。
「な、なんだよ」
「いや、雨宮にとっての言葉の重みってどんなもんなのかと思って」
 かなり集約して雨宮にぶつける。
 雨宮はお椀を置いて、困ったように俺を見た。そして何を考えてたのか、
「………つーか……逆だよ。重すぎて、取り扱い方が分からないんだよ」
 躊躇うようにそんな言い方をした。
 抽象的過ぎて何が言いたいのかいまいちよく分からないけど、まぁ、受け流したりごまかさなかっただけでも、進歩か。
 雨宮が俺に好きだとか愛してるなんて言うのは、かなり先のことなのかもしれない。
「そうなんだ」
 ニヤッと笑って納得したふりをした。雨宮は少しムッとしたように「そうだよ」と返して、味噌汁のなめこを器用に箸でつまんで口に運んだ。

「なめこ汁って、エロい響きだよな」
「尾形にとっての言葉の重みってその程度なんだね」