始まりの日

記憶 - 18

雨宮陽生

 予想通り、立花先生は眉を寄せた。
「規則は知ってるよな?」
「…………はい」
 ドナーの遺族と移植患者レシピエントが接触してトラブルになるのを防ぐために、提供者ドナーの個人情報は絶対に公開されない。病院としても厳しい規則があるだろうし、もちろん俺が移植手術を見る時にも必要のない情報だ。だから俺なんかが聞いても答えてくれるわけがない。
 やっぱりダメか―――そう諦めかけた時。
「どうして知りたいの?」
 立花先生はドアノブから手を離すと、俺に向き合ってそう聞いた。
 理由によっては教える余地があるのかもしれない。だったらその「教える余地のある理由」を作るしかない。
「本当は、さっきの人と知り合いなんです。月本慧さん、ですよね?」
 立花先生は驚くよりも、腑に落ちたという感じで頷いた。
「やっぱり知っていたのか。ただ月本さんは君のことを覚えてなかったみたいだね」
「そうだと思います。俺が4歳の頃に会ったきりですから」
 できるだけ事実に近付けたいのは、たぶん罪悪感があるから。罪悪感を紛らわせたいっていう、姑息で汚い自己満足だ。
 肺の奥に溜まっていくしこりに気付かないふりをして、冷静に嘘を並べた。
「もう14年も前だけど、すごくお世話になったんです。俺、両親を同時に亡くしてて、その時に月本さんの友達や家族にも良くしてもらってたから、そのうちの誰かだったらって思うと居ても立ってもいられないっていうか………」
 真意を探るようにじっと俺の目を見る立花先生に、「あとで月本さんに聞けば分かることですけど」と付け足した。本当は月本に聞けるわけなんてないけど、どうせ後で俺が知るんだと分かれば立花先生も言いやすくなるから。そしてそれが功を奏したのか、先生はふっと息をついた。
「いや、これ以上彼を苦しめることはない」
 そう言うと俺の耳元に顔を近づけて、俺にだけ聞こえる声でその名前を告げた。

「神田さくらさんだ」

 ああ、そうか。

 ―――――桜が嫌いなんです。

 月本は毎年どんな気持ちで、春を迎えていたんだろう。
 窓の外には、ほとんど散ってしまった桜が緑の葉の中で風に揺れていた。

 

尾形澄人

 杉本さんの説明によると、始まりはちょうど2年前、2007年4月13日に発生した未解決事件だ。

 その日、被害者の神田さくら(当時23歳 横浜市中区本郷町2-68)は友達に「知人に合いに行く」と言って大学を出たが、翌日になっても帰宅せず連絡がつかなかったことから心配した姉の神田みちる―――鑑識の神田が、警察に捜索願を提出した。
 しかし警察はさくらの交友関係に不審な点がないことと、数日前からさくらが何かに悩んでいるようだったという家族の証言、そして普段は持ち歩かないノートパソコンを持ち出していたことから、本人の意思による家出と判断。家族と婚約者の月本慧(警視庁警備部勤務)は事件性を主張したが捜索は打ち切られた。

 一般的に、警察に捜索願を出して家出として処理されることは珍しくない。全国で毎年8万件以上の行方不明者が出るが、そのうち事件性が疑われるのは1%に満たず、残りの99%は家出か事故か遭難だ。そしてそのほとんどが届け出後に所在が確認されている。つまり日本はそのくらい自分の意思で失踪する人間が多いということだ。当時担当した警察官も、そのうち見つかると軽く考えていたんだろう。

 ところが、失踪から9日後の4月22日の朝、大黒埠頭だいこくふとうで全裸の状態で気を失っているさくらが発見された。
 全裸で一晩過ごしたことによる肺炎と後頭部の打撲以外に外傷はなかったが、病院での尿検査でMDMAの陽性反応と、膣内から3人分の精液が検出された。検出された精液のDNAは警察のデータベースに登録されていないものだった。
 また、足の裏に複数の傷があったことから、どこか別の場所に拉致・監禁のうえ暴行され、自力で逃げ出してきたと思われる。

 ――――って、『思われる』?
「それ、本人から事情聞けなかったの?」
 思わず杉本さんの説明を途中で遮った。
 脳死は植物状態と違ってそう長くは生きられないから、さすがにこの2年前の事件が原因で脳死になったとは思えない。肺炎と打撲程度だったら、被害者のさくらから話が聞けたはずだ。
 けれども杉本さんは眉間に皺を作った。
「それが、神田さくら本人に記憶がなかったんだよ」
「記憶障害?」
「というより解離性障害というらしいが、自分を6歳だと思っていたそうだ」
 あぁ、なるほどね…………。雨宮の記憶喪失と同じタイプだ。
 あまりの苦痛に耐え切れなくなって、現実から逃避するように「別の人格」を形成して自分に降りかかった事実を客観視する、もしくは無かったことにして、自分自身を守る。
「無理もないね。事実かどうかは別としても、MDMAで抵抗できないまま複数の男に無理やりレイプされて、殺されかけたところを裸で逃げ出したんだとしたら精神に支障をきたしても不思議じゃない」
「事実かどうか、か」
 杉本さんが、手帳を見ながら意味深に呟いて続けた。
「神田さくら自身には記憶がなくても、精神病院のカウンセラーには事件のことを別の『お姉さん』の話として打ち明けている。犯人につながる内容はなかったが、監禁されて暴行を受けた時の苦痛や恐怖を6歳の視点で話していた。田口真奈美の日記を読んだときのことを思い出したよ。辛かっただろうな、神田さんも、婚約者のSPも…………」
 山手署でその時のカルテの中身を読んだのか、杉本さんは目を伏せて唇を固く結んだ。

 神田と月本は、期せずしてさくら本人から彼女の受けた凌辱を知らされてしまったわけか。本人はもとより周囲にとっても、雨宮のように記憶がすっぽり抜け落ちていたほうがよっぽど楽だ。
 それに目の前に婚約者がいるのに、その婚約者の時間は6歳で止まっているという現実を、月本はどれほど恨んだだろう。たとえ彼女が月本を認識していたとしても、7歳から23歳までの16年間の月本との記憶はなく、まして婚約や結婚なんて6歳の少女にとってはファンタジーでしかない。
 何より、月本は自分を責めただろうな。子供の口約束とは言え、彼女を守りたいという気持ちがきっかけで警察官になったわけだから。

 そんなことを考えていると、杉本さんが小さく溜め息をついた。
「それとさっき、『ガードが堅かった』って話しただろ」
「ああ、そういえば。なんで?」
 杉本さんは3時間も俺を待たせた言い訳に、ガードが固くて思うように調べられなかったようなことを言っていた。
「家出と断定した理由の『普段は持ち歩かないノートパソコンを持ち出していた』ってやつなんだけどな、実はそのノートパソコンは、神田さくらが大学でレポートを書くために当日だけ持ち出していたということが神田さくらの発見後に分かったらしい。山手署の刑事課長がその事実を揉み消して判断ミスを隠蔽したそうだ。で、今日話を聞いたのがその刑事課長で、俺がその隠ぺいを調べていると勘違いして、なかなか協力してくれなかったというわけだ」
「ははは、警視庁の捜査一課の刑事が神奈川県警のそんな隠蔽をわざわざ調べに行くわけがないのに、被害妄想もいいところだな」
 思わず笑うと、案の定杉本さんに睨まれた。
「笑いごとじゃないぞ。最初から分かっていたら事件として捜索が続いていたかもしれないんだ」
「確かに神田と婚約者がこのことを知ったら、間違いなくタダじゃ済まないね。あの2人のことだから司法に訴えるよりもマスコミ使って刑事課長を追い詰めて再起不能なまでに叩きのめしそうだ。それはそれで面白そうだけど」
 そう冗談を言う俺を、杉本さんはまた睨みつけて「俺たちだって他人事じゃないだろ」と苦言を言って続ける。
「それでも、部下の係長には罪悪感があったんだろうな。俺が署を出たところを追ってきて、正直に話してくれた。公になったら自分も処分されるだろうに、本当によく話してくれたよ」
 杉本さんはどこか悲しいような嬉しいような複雑な笑みを浮かべた。
 杉本さんには、犯罪を認めない絶対の正義がある。けれども同時に、自らの罪を償おうとする人間を許すことができる優しさも持っている。罪を犯した人間には、それが直感的にわかるのかもしれない。だから、部下にも犯罪者にも慕われる。

「で、その後の捜査は?」
「ああ、当時さくらが発見された大黒埠頭をくまなく捜索したが、監禁場所は見つからなかったらしい」
 大黒埠頭は横浜ベイブリッジを渡ってすぐのところにある人工島で、高速道路でしか繋がっていないから歩いて行くことはできない。もし走って逃げたとしたら、埠頭内に監禁されていたと考えたんだろう。
 警察としても初動捜査でミスってたわけだから、汚名返上するつもりで必死になって埠頭内を捜査したはずだ。それでも何の手掛かりにも得られなかったということは。
「ま、監禁場所から逃げ出したとは限らないな」
「他にどこがあるんだ?」
「大黒埠頭って言えば、ヤクザが死体を海の底に沈めるための場所だろ」
「いやそのための場所じゃないが………後頭部に打撲傷があったし、殴って気絶している間に車で大黒埠頭まで運んで海に沈めようとした、というのは大いに考えられるな」
 杉本さんは納得したように頷いた。

 ただ、気になる点がいくつかある。
 気絶させただけで運んだのはどうしてか。少なくとも犯人の中には男が3人以上いたんだから、殺そうと思えば素手でも殺せる。移動中に意識が戻る可能性を考えると、殺してから運んだ方が確実だ。
 それに、コンテナの影で見つかったなんてのは、どう考えてもおかしい。犯人はさくらに顔を見られた可能性が高いから、生きて保護された時のリスクを考えると、意地でもさくらを探し出して殺すはずだ。衰弱した裸足の女を、男3人で探して見つけられないわけがない。
 こういう疑問を俯瞰で見ると、矛盾だらけの仮説が浮かび上がる。

 神田さくらは、逃げたんじゃなく、逃がしてもらったんじゃないか?
 だとしたら、誰に? 何のために?

「杉本さん、神田さくらが会うはずだった知り合いって分かってるの?」
「いや、わからん。名乗り出た人間はいなかった。携帯の通話やメールの記録、普段使ってるパソコンのメールでは連絡を取った様子もない」
「容疑者は?」
「1人だけ、事件の6年前に神田さくらにストーカー行為を行って厳重注意を受けた男の名前が上がっていた。ただ、事件当日は妻の出産に立ち会っていたという完璧なアリバイがある。未熟児だったみたいでその後1ヶ月以上毎日病院に通ってたらしい」
「すっげぇアリバイだな」
「その男の家が山手署の近くだったからついで本人に会って来たんだけど、あれは白だな」
「っつーことは、今は疑わしい人間は上がってないってことか」
「ああ。さくら本人は犯人の顔を見てるだろうから、思い出しさえすれば逮捕に繋がったんだろうが………」
 杉本さんはそこまで言うと、苦い顔をして小さくため息をつく。
「先週、大型トラックに撥ねられたそうだ。事件以降みなとみらい大学のメンタルケアセンターに入院してたんだが、月本慧が病室から散歩に連れ出した際に、センターの敷地外へ飛び出したらしい」
 交通事故か。
 体は25歳でも、思考は6歳だ。何かに気を取られて車道に飛び出したとしてもおかしくない。
「その事故、何日?」
「3月24日だ。急性硬膜下血腫だったそうだ」
 この前月本に会った時は、すでに神田さくらは意識不明の重体だったってわけか。非人道的なまでに不機嫌だったのはこのせいかもな。

「それで、尾形はなんでこの事件が気になるんだ? さすがに神田さん絡みで気になるってだけじゃないんだろ」
 杉本さんはそう言うと、アイスコーヒーのストローに初めて口を付けた。
「そういえば言ってなかったっけ。この婚約者の月本慧って元警護課1係で、去年の麻布事件直後から雨宮誠一郎が総理を辞任するまでの間、雨宮誠一郎を警護してたんだよ」
 ストローをくわえたまま、杉本さんは眉間に皺を寄せた。
「元ってことは、異動したのか?」
「退職したんだよ、先月。それで、今は雨宮誠一郎のボディーガードっていう名目で個人的に雇われてる。まぁ実際に警護してるかどうかは分からないけど」
「警護してるか分からないって、なんでそう思うんだ?」
「今の雨宮誠一郎には最低でも2人以上のSPが24時間体制で付いているはずだ。それなのに、個人で元警察官を引き抜いて警護させるほどあのじいさんは小心者じゃないだろ」
 一国の総理にまで昇りつめた男だ。それに麻布事件での犯人との電話でのやりとりを聞いていた人間なら、実際に話したことがなくても雨宮誠一郎という男の性格はわかる。
「確かにな…………ということは、別の目的で月本慧を雇ったってことか」
「そ。その目的が分かるかと思って、神田さくらの件を杉本さんに調べてもらったわけ」
「なるほど。それで、分かったのか?」
「ぜんっぜん、分かんない」
「……………………あ、そう」
 杉本さんが呆れたような溜め息をついて、どこか投げやりに続ける。
「単純に月本慧をヘッドハンティングしただけじゃないか? 元SPなら身辺警護は当然任せられるし、彼の場合は法学部出身だから秘書としても十分活躍できそうだしな」
「その線も考えてはみたけど、月本が警察を辞めたのは神田さくらが交通事故に遭う前だ。容疑者も上がってないのに警察官を辞めるなんて選択はしないだろ」
 俺の反論に、杉本さんは自分と月本を重ね合わせたのか眉間に皺を作って頷いた。
「まぁ、なぁ…………」

 もし俺が月本なら2年前の事件の犯人を殺してやりたいほど憎んで、必ず犯人を突き止めようとする。それを堂々とできる権利と殺傷能力のある武器を持ち、時には殺すことさえ合法となりえる「警察官」という地位を、捨てるわけがない。
 けれど、月本はその地位と権利を捨てた。
 復讐する気が失せたのか、逆に復讐するために警察官としてのケジメをつけたのか、それとももっと別の理由があるのか。

『タイムスリップって信じる?』
 神田はどんな気持ちでその言葉を月本に言ったんだろう。
 月本は、どう思ってそれを『嫌味』だと返したんだろうか。