始まりの日

記憶 - 15

尾形澄人

 病院から戻ったその足で庁舎の端にある喫煙ルームに向かうと、アクリルブースでの前で携帯を耳に当てる神田を見つけた。
 視線を伏せて、静かに「そう」と返事をする。普段の挑発的な態度とは間逆の、物静かな顔をしていた。
 その顔を見て、麻布事件のさなか、月本慧に俺を会わせたいと話した時のことを思い出した。
 まるで自分の弟のように月本のことを話して、彼を「ストイックすぎる」と表現したあの時と、同じ顔をしている。
 その横を通り過ぎると、ちょうど携帯を下ろした神田が俺に気づいた。その顔はもういつもの神田だった。そしてその挑発的な目で。
「あら、何かいいことでもあったの? 顔色が各段によくなってる」
 ははは………杉本さんといい神田といい、なんなんだよ。
「そっちは? 電話の相手、月本だろ」
 いちいち相手にしてるのが面倒だったのと、単純に直感が当たってるか確認してみたくてそう聞くと、神田はわずかに目を大きくした。
「いつから聞いてたの?」
「別に会話の内容なんて聞いてねーよ。顔見ててなんとなくわかっただけ。キャラ変えたのかと思った」
 軽く切り上げるつもりで冗談っぽく言ったけれど、神田は小さくため息をついた。
「明日の13時に妹が死ぬって言われれば、さすがにキャラも変わるわよ」
「13時に、死ぬ?」
 不自然な言い回しに思わず聞き返すと、神田は何かを諦めたように笑った。
「法的にはもう死亡ね。脳死判定が下りて、さっきドナーが決まったって連絡があったの」
「あぁ…………そういうことか」
 脳死判定というのは、すでに脳死状態だと医者に「診断」された後に、臓器移植のドナーになるために行う「法的な判定」だ。
 法的には、脳死判定が終わった時点で「死亡」として扱われることになる。とはいえ、いくら「法的に死亡」と言われても心臓が動いているわけだから、そう簡単に死んだとは思えない葛藤があるのが普通だ。
 けれど神田はもうその葛藤を乗り越えたのか、これから妹の心臓が人の手によって止められるとは思えないくらいいつも通りだった。
 それにしても神田の妹が脳死状態だったなんてな。つーか、妹がいたこと自体知らなかったけど。
「何歳?」
「明後日が25歳の誕生日。でも、お通夜になっちゃったわ。その日に結婚式挙げる予定だったんだけどね」
「じゃぁ、残された方は可哀そうだな」
 煙草を1本取り出しながら適当に合わせる。適当な返事が返ってくるかと思っていたけれど、妙な間ができた。
 その間が少しひっかかって神田を見ると、らしくない真顔で俺をじっと見て、短く。

「慧よ」

「……………?」
 一瞬、なんのことなのか分からなかった。
「新郎は、慧だったのよ」
 月本、慧?
「マジかよ…………」
 驚いたな。
 ただのSPじゃないとは思ってたけど、こんな波乱を背負っていたのか。
 それじゃぁまさか。
「警察辞めたのと関係ある?」
 俺が勝手に想像していた「雨宮のじいさんに引き抜かれた」説は、間違っていたかもしれない。そう思って聞くと、神田は「さぁ」と首をかしげた。
「違うんじゃない? 慧は妹のために警察官になったような感じだし」
 妹のためって…………おいおい。
「ちょっと待て、今ものすごくベタな想像が脳裏を駆け巡ったんデスが…………」
「そのベタな想像通りよ。妹が小さい頃に近所の男の子にイジメられてて、慧が警察官になって守ってやるって言ったのが始まり。律儀に剣道、柔道、空手の道場に通って、それはそれは立派なSPになったわけ」
 あんなストイックそうな男が、1人の女のためにそんなことしてたのかよ。
「ヤバイ、ピュアすぎて眩暈が…………」
「ほんと、少女マンガでも今時このピュアさはギャグよね」
 神田は腕を組んで深く頷く。
 さらに、そのピュアな男の相手がこの女の妹だとは到底思えないけど、それは言わないことにした。
「ま、そんなわけで明日から休むからヨロシクね」
 神田は、まるで産休でもとるように明るく言うと、エレベーターホールに消えていった。

 

雨宮陽生

 深山の好きな奴が、じいさんの秘書………?

 ものすごく信じ難い、けれども限りなく正解に近い仮説が一瞬にして脳内で組み上がった。
 深山は総理総理って連呼してるけど、じいさんは去年9月に総理を辞任した。そして今年の3月、つまり先月、じいさんの秘書になったのが月本だ。
 俺の知ってる限り、ここ数ヶ月で新しくじいさんの秘書についたのは月本だけだ。それに月本は本牧に実家があるから、深山の家がある元町とは目と鼻の先で、家庭教師というのもつじつまが合う。
 間違いない。
 深山の好きな人ってのは、月本だ。
 つまり月本が深山の元家庭教師で――――と想像したところで、思わず脱力した。
 てか、あの月本が、深山コレに勉強を? シュールすぎだろ…………と思ったのが顔に出たのか、深山がムッとしたように。
「うわ、なにその顔! なんか今すっげぇバカにしただろオマエ!」
「だって元総理大臣の秘書がおまえのカテキョとか、振り幅大きすぎるだろ」
「どういう意味だよ。これでも偏差値43から本牧高校に合格できたのは慧さんのおかげなんだよ」
 本牧高校って、偏差値67くらいじゃなかったっけ………月本のスパルタっぷりが目に浮かぶな………。
「やっぱり振り幅広すぎだろ。つーか、さすが元総理の秘書だけあるよな」
「だよなー。慧さんならヘッドハンティングされても不思議じゃねーよ。ビビったけど」
 こっちはビビるどころの話じゃない。この不自然すぎる偶然は、なんなんだよ………。見えない力に操られてるみたいで、不気味にすら感じる―――いや、今はそんなこと言ってる場合じゃない。
 ここまでくると冗談抜きで深山の近くにいるのはマズいかもしれない。これ以上関わらないように距離を置いた方がいい。そう考える俺をよそに、深山は改まったように体の向きを俺の方に振って続ける。
「で、俺もいろいろ考えたんだけどさ、あの川崎とかいう胡散臭い奴の言いなりになって雨宮が危ない目に遭うより、慧さんに頼んで雨宮総理と話してみるのもありだよなーって思ったわけ。雨宮総理の息子のこと調べてるんなら親に聞くのが手っ取り早いだろ?」
「まぁ、そうだけど…………」

 月本に会う。
 じいさんと話す。
 そんなこと飽きるほど考えた。
 もしかしたら、俺が思っているよりもじいさんは事件の真相に近いところにいるかもしれない。それどころか、すべてを知っていて俺のために隠していた可能性だってある。それにただのSPだった月本がじいさんの秘書になったのだって、何か関係があったのかもしれない。
 会って話せば、必ず何か有力な手掛かりが得られるはずだ。
 けれども、俺がじいさんや月本に会うことで、何かが変わるんじゃないか―――例えば、月本が俺の教育係じゃなくなる可能性とか、じいさんが政治家を辞めなくなる可能性とか、そういうことがあり得るんだと思うと、あえて自分から近づくなんてできない。
 俺の2021年までの人生から月本とじいさんが削除されるなんて、考えただけで全身が竦む。
 それは、俺が俺でなくなるということだから。

「なんなら今から慧さんのケータイに電話してみっけど?」
 考え込んでる俺を無視して、深山はそう言いながら携帯を手にした。
「ちょっと待てよ。いくらおまえがその秘書と仲いいって言っても、そう簡単に元総理なんかに会わせてくれるわけねーだろ」
 俺が月本やじいさんに会うのは最終手段だ。それ以前に、あの月本がたかがバイトでの教え子なんかをじいさんに会わせるわけがないけど。
「でも聞いてみやきゃ分かんねーだろ」
「そんなこと言いつつ、どうせ俺を口実にその慧さんって奴に会いたいだけだろ」
「そ、そりゃ確かに少しは考えたけど………でも! 俺は純粋に雨宮が心配なんだよ!」
 声でけぇし心配とかいらないし………。
「電話してなんて言うつもりだよ。元総理の息子の暗殺説を調べてる学生がいるから会ってほしいって言うのか? そんな怪しい奴、即却下されるに決まってるだろ」
「じゃぁ、例えば最近の政治についてレポート書かなきゃいけないから取材させてほしい、とか?」
「へえ。その秘書はそんな見え透いた嘘を真に受けて、前総理大臣っていう要人を一介の学生に簡単に会わせてるようなバカなんだ」
「慧さんがそんなバカなわけねーだろっ」
「だろ?」
 ほら見ろ、と深山を眺めると、深山は自分の言動の矛盾にやっと気付いて、気まずそうに「なんだよそれ」と俺を睨みつけた。
「おまえ会いたくねぇの? 雨宮が何調べてるのか知らねーけど、わざわざ怪しい奴にでたらめかもしれないような情報と引き換えに危険なことに首突っ込むくらいなら、ダメ元でも雨宮誠一郎に聞いてみた方がいい、会えば何か聞き出せるって、おまえなら絶対そう考えるって思ったんだけど」
 こいつ意外と鋭い。俺が思った以上に、深山なりに色々考えてるのかもしれない。肝心なところは何も聞かないのだって、きっと俺に気を使ってるからで。
 けれども今は深山の提案を受け入れるタイミングじゃない。
「ま、そもそも雨宮誠一郎が自分でひき逃げって公表したんだから、暗殺説なんて雨宮誠一郎にとって迷惑な説なんだよ。本当に暗殺だったとしても、話してくれるわけがないだろ。深山の気持ちだけ受け取っておくよ」
 正面を向いたまま、そう遠まわしに礼を言う。
 深山の顔は見れなかったけれど、驚いているのがわかった。
 それから、ニカッと屈託のない笑顔で。
「はは、何かあったら遠慮なく言えよ!」
 不覚にも、悪い気はしなかった。