始まりの日

記憶 - 12

雨宮陽生

 ちゃんと食って体力付けろ。
 という走り書きのメモを添えて、テーブルの上には明らかにオリジン弁当だとわかる惣菜パックが無造作に並んでいた。
 そういえば、父さんと母さんが殺された次の日も、尾形は杉本さんに大量のコンビニ弁当を持たせてたっけ。
「食えばいいってもんじゃないだろ…………」
 そう呆れつつも、出勤前にわざわざ俺のためにオリジンまで買いに行ってくれた尾形の優しさが嬉しかった。

 尾形の言葉ひとつに傷ついて、あっさり浮上した俺は、実はかなり単純な人間だったのかもしれない。何かから解放されたみたいに、気持ちが軽かった。
 解放?
「はは、変なの…………」
 自分が自由でいるために尾形と距離を置いていたはずなのに、いつの間にか身動き取れなくなっていたのか。とっくに尾形に依存して、尾形がいなきゃダメだったんだ。
 俺は、尾形の過去や蟻ヶ崎さんの弟とのことよりも、尾形に俺の中の殺意を軽蔑されることの方が怖かったのかもしれない。
 本当は俺が一番、その殺意を軽蔑しているのに。
 自分の感情すら矛盾だらけで、どうしようもなく不安になる。

 けれど、まだ大丈夫だ。
 俺はまだ、汚れていない。
 尾形がそう言うなら、大丈夫だ。

 

杉本啓介

 坂崎悠真の入院している病院は、横浜の比較的新しいベッドタウンにある。
 朝一で借りた覆面パトカーを運転して、真新しいマンション群やショッピングモールの街並みを走り、突然現れた森の向こう側に古めかしいクリーム色の病棟が見えてきた。
 何度か来ているが、まるでそこだけが時代に取り残されたようで、世間から隔離された空間に感じる。
 駐車場に覆面パトカーを止めて降りると、近くの森から野鳥のさえずりが聞こえた。

 尾形から坂崎が会いたがってるという話を聞いたのは、一昨日のことだった。ただでさえ連続死体遺棄事件の捜査で忙しいのに、どうして平日の午前中なんかにセッティングしたんだ、という俺の不満は例のごとくあっさりスルーされた。
 徹夜で仕事を前倒しにしてなんとかスケジュールを調整できたものの、さすがに上司をごまかすのは大変だった。尾形と俺が単独で坂崎に会うなんて知ったら、3ヶ月減給は免れないだろうな。

 正面玄関の自動ドアの前で尾形を待っていると、すぐにタクシーが滑り込んできた。
 当然雨宮も一緒だと思っていたけれど、後部座席を覗くと尾形しか乗っていなかった。
 昨日横浜の病院に迎えに行った時は、雨宮は思ったより元気そうに見えたけれど、また悪化したんだろうか。いや、それ以前に2人の間に相当のストレスがあったみたいだから、そっちが原因で雨宮を誘わなかったのかもしれないな。

「おはよう。雨宮は?」
 半開きになったドアを開けながら、運転手に料金を支払っている尾形に聞くと、チラッと俺を見て素っ気無く答える。
「来ないよ」
「なんだ、まだ仲直りしてないのか?」
 尾形はタクシーから降りると、財布をジーンズに押し込んでニヤッと笑った。
「そっちは解決済み」
 いつもの性格の悪い顔に戻っている。
「どうりで肌のツヤがいいわけだ」
 なんだか嬉しくて皮肉ると、尾形が白い目を向ける。
「杉本さん、それ雨宮が聞いたら加齢臭がするって言うよ」
「ああ、そうか? ははは」
 よかった。
 尾形と雨宮がうまくいくと、自分のことみたいに嬉しいな。
「っていう冗談はさておき、雨宮はまだ体調悪いのか?」
「いや、坂崎さんから、雨宮には言うなって釘刺されるんだよ」
 坂崎が?
「麻布事件絡みなんだろ?」
「雨宮を連れてくるなってことはそういうことだよ。でもこの事件は何が起こるかわからないだろ」
「何が起こるかって、まだ何か起こるのかぁ? 勘弁してくれよ………」
 思わずため息が出た。
 麻布事件は隠蔽されたままお宮入りになって、その関係者だった田口真奈美から、坂崎の復讐劇に発展して自殺未遂、次期総理とまで言われていた大物政治家が逮捕されただけで、もう十分だろ。
 けれども尾形は真顔で。
「俺にとっては、何か起きてくれたほうが好都合だけど」
「なんで?」
「今のままじゃ、何の手がかりもないってこと」
 なるほど。確かに何かが起きればその分、真犯人への手がかりも増える。けれど、その「何か」が起きることを望んでしまうのは不健康な考え方だ。
 それほど尾形が雨宮のことを考えているということだろうが。

 これから会う坂崎も、雨宮と同じように復讐を望み、実行しようとした人間だ。
 何もかもを捨てる覚悟で、たった1人の人間を恨み続けた。
 その結果、本人の望む形ではなかったが復讐が叶った。けれども、俺には理解できないような精神病になってこんな病院に軟禁され、社会的な地位は完全に奪われた。
 彼は、復讐にすべてを捧げたことを、後悔していないのだろうか。

「それにしても、あれから半年以上経つのにまだ退院できないというのは気の毒だな」
 受付で面会の手続きを終えて、エレベーターを待ちながら、思わず考えていたことが声に出た。
 警察としては早く坂崎に事情聴取をしたいところとはいえ、波乱万丈の人生を送った結果、事件の話ができないほどのダメージを受けたことを思うと、気の毒としか言いようがない。
 けれど、尾形は横目で俺を見てニヤッと口角を上げた。
「退院できないんじゃない。あえて退院しないんだよ」
「退院しない?」
 坂崎の今後のことを考えると、精神病院に長期で入院したという経歴は必ず不利になるはずだ。それなのに、あえて退院しないというのは、どういうことだろう。
 エレベーターに乗り込み、ドアが閉まるのを待って、尾形が疑問に答えた。
「去年、坂崎さんが赤坂のホテルで襲われたって話、しただろ」
「あぁ。チンピラに切りつけられて、おまえが縫ったってやったってやつか」
「あの時坂崎さんは『鹿島が殺された時点でそれなりの覚悟はしている』って言ってたんだよ。これ、どういう意味だと思う?」
「鹿島が殺された理由を知っていて、なおかつ坂崎自身もその理由が当てはまる――――」
 そう考えて、この前の尾形の話を思い出した。
「なるほどな。それで坂崎が鹿島殺害を企てた犯人を知ってるって言ったのか。でもそれならそうと坂崎が警察に言うはずだろ?」
 実際、坂崎は鹿島の死が自殺として処理されたことを不審に思って、警察に抗議をしたとも聞いている。それなのにどうして坂崎は、肝心なことを警察には言わなかったんだ?
 そう尾形に言うと、尾形は冷ややかに溜め息をついた。
「そんなことが気になるなら坂崎さんに直接聞いてみれば」
 あぁ………違うのか。俺の見方はことごとく間違っているということか…………。
 がっくり肩を落とすと、尾形が隣でどこか楽しそうに鼻で笑った。
「ま、どっちにしても坂崎さんは鹿島が殺された理由を知っていて、自分も殺されると思っている。現に俺にかけてきた電話でさえ警戒していたしね。だから退院しないんだよ」
「だったら三並敦志に頼って雲隠れしたほうが安全じゃないか?」
 三並にならその程度の金はすぐに用意できるはずだ。けれど、尾形はその俺の疑問に予想外に理屈を無視した答えを出した。
「あの坂崎さんが敦志に迷惑かけるような選択すると思う?」
 どうも腑に落ちない。尾形のいう「あの坂崎さん」と、俺が持つ坂崎に対する印象に差があるみたいだ。俺の視点が尾形と合わないのも、そのせいだろうか。
「納得いかないみたいだね」
 俺の顔を見て、尾形が言った。
「いや、坂崎悠真という男は、そんな殊勝な人間なのか? あの計画性の高さを考えると今も何か企んでいたとしても不思議じゃないと思うんだけどな」
「あぁ………そこか。坂崎さんは、杉本さんが思っているよりもずっと情にもろくて、献身的な人間だよ。だからあんな復讐を考えたんだろ」
「献身的か。言われてみればそうだな」
 自分を犠牲にして復讐するという考え方は、ある意味、究極の献身なのかもしれない。
「と同時に、冷静に状況分析をする能力にも長けている。ここは精神疾患専門の病院だけあって監視カメラは至るところにあるし、人の出入りも厳重に管理されている。ホテルなんかよりもずっと安全な場所だ。敦志に迷惑をかけるよりも、ここを選んだってことだろ」
 確かにこの病院は比較的重症な精神病患者が多いから、患者の自殺防止や部外者との接触を制限するために、部外者の入出は家族でさえ厳しく管理しているし、患者が病院から逃げ出さないように24時間体制で監視している。ある意味、セキュリティは刑務所レベルと言ってもいいかもしれない。
「ついでに警察の事情聴取からも逃れられるってわけ」
 尾形はそう付け加えて、エレベーターを降りた。
 献身的に、かつ冷静に、一番メリットのある方法を選択する男か。
 やっぱり利己的で計算高い男という印象は拭えないな。

 最上階、エレベーターホールから一番離れた特別室に、坂崎悠真の部屋があった。
 部屋の入り口には坂崎の名前はなく、ドアの横に「特別室 2」と書かれたプレートがはめこまれていた。尾形がそのドアを軽くノックすると、すぐに内側から開いた。
 フワッと部屋の中から、アロマかなにかのいい香りが微かに漂ってきた。病院と言うより、若い女性の部屋にでも聞き込みにきたみたいだ。
 そしてそのドアの内側から顔を出した坂崎悠真を見て、驚いた。
「いらっしゃい」
 まるで新居に友達を招き入れるように穏やかな笑みを浮かべた。

 あの事件のときとは、まるで印象が違う。
 俺にとって坂崎悠真は、最初は利己的な殺人犯、次に妹を思う悲しい兄、最後には復讐にすべてを捧げた頑なで計算高い男だった。それはついさっきの尾形との会話でも変わらなかった。
 けれども目の前にいるのは、物腰の柔らかい、人を気遣うことのできる好青年じゃないか。その上、入院しているのを疑うほど顔色がいい。
「元気そうじゃん」
 尾形が挨拶代わりに言うと、坂崎は「なんとかね」と苦笑して答えながら、俺たちを病室に招き入れた。
 特別室といっても、内装は名前ほど豪華なものじゃない。よくあるビジネスホテルと同じで、ベッドと木目のデスクとクローゼット、テレビがあるごく普通の部屋。精神疾患向けだからか、病院らしい設備と言えばベッドの上の名札とナースコールのボタンくらいだ。
 その上、坂崎は長袖のシャツにベージュのカーゴパンツというラフな格好で、何も知らずに見たら地方出張に来たサラリーマンの休日程度に思うんじゃなかろうか。
「これ、杉本さん。知ってるよな?」
 尾形に物扱いの紹介をされて小さく会釈すると、坂崎は柔らかく笑みを浮かべた。少し前まで政治家だったとは思えない、素直な笑顔だ。
「ええ。あの時、紀尾井町ホテルにいましたよね」
 驚いたな。あんな状況で自分に関係のない人間の顔を覚えていたのか。錯乱していたようで、やはり冷静だったんだろう。
「はい。警視庁捜査一課の杉本です」
「あそこにいらっしゃったってことは、雨宮君とも面識あるんですか?」
 その言葉は俺に対してのものだったが、坂崎は尾形を見て聞く。
「ああ。よーく知ってるよ」
 尾形の短い返事に、彼は安心したように小さく息をついた。坂崎もタイムスリップも含めて雨宮の正体を知ってるらしいから、その辺りの話なのかもしれない。
 それから坂崎はデスクにあったメモ用紙にサラサラと何かを書きながら。
「この部屋ね、昨日移ってきたばっかりで、眺めはいいんだけど少しカビ臭くない?」
 カビ臭いどころか、品のいいアロマの香りが漂う中でそう言って、たった今書いたメモを俺たちに差し出した。
『盗聴器が見つかったから外で話したい』
 思わず尾形と顔を見合わせた。
 シャレにならんな………。
 いくらなんでも移ったばかりの病室に盗聴器が仕掛けられるなんてのは、物騒にもほどがある。
「あぁ、言われてみれば臭うな。杉本さん、車だろ?」
「駐車場に停めてあるよ。移動しようか」
「すみません」
 坂崎は申し訳なさそうに眉を下げて微笑んだ。