始まりの日

記憶 - 11

尾形澄人

 九分目まで登った長いはしごを、何の前触れもなく上から外されたら、きっとこんな気分だろう。
 底の見えない真っ暗な海底に落ちていく感覚。

「離せって言ってるだろ」
 もう一度言われて、だらりと雨宮に回した腕を解いた。

 どうしたら、俺は雨宮に近づけるんだろう。
 どうしたら、雨宮は俺を見てくれるんだろう。
 どうしたら――――。

 そう考えたとき、俺の背中に何かが触れた。
「…………雨宮?」
 雨宮の体が俺に寄り添う。
 背中に触れたのが、雨宮の腕だと気付くまでに、かなりの時間がかかった。
「そんなにきつく締められたら、俺が身動きとれねーだろ…………」
 肩口で、ボソリと言い捨てる。
 抱き合った姿勢でかろうじて目に入ったうなじが、真っ赤に染まっていた。
 つまり離れろってのは、抱かれるだけじゃなくて、抱き合いたいからだったという―――。

 思わず、壮大なため息が出た。
「はああああぁ………ツンデレも度が過ぎると心臓に悪いだろ………つーか、俺の人生最大の覚悟に、こんなしょうもないオチつけるなよ…………」
 言葉では恥ずかしくて言えないから、態度で表したってことだろうけど。
 どうしてこう、いちいち俺の期待を裏切ってくれるんだろう、こいつは。
「しょうがねーだろっ。俺だって尾形にくっつきたかったんだから」
 真っ赤になって言い訳する雨宮が可愛すぎて、たまらずに抱きしめた。
 この状態で「くっつきたかった」って、その単語はヤバすぎる。
「俺が好きだって、ようやく認めたな」
 深い安堵に、ほんの少し皮肉を込めて言うと。
「時間、ムダにしたかな…………」
 どこか後悔するような口調。
 俺は、雨宮にとってこの8ヶ月は決して遠回りではなく、むしろ必要な道のりだったんだろうと思う。もしこの葛藤がなく俺を好きだと雨宮が言っていたら、上辺だけの関係になっていたんだろうと。
「そう思うなら、今から巻き返せば? 俺は歓迎するよ」
 ニヤリと笑って言うと、雨宮が「調子に乗るなよ」と少し呆れたように小さく笑う気配がした。その久しぶりの笑顔が見たくて顔を合わせると、雨宮は少し照れたように、俯いて目をそらした。
 至近距離で揺れる雨宮のまつげに、小さくキスをする。
 雨宮はくすぐったそうに瞬きをすると、誘うようにうっすら唇を緩めて、顔を上げた。
「そんなエロい顔すると、襲うぞ」
 とは言っても、病み上がりで手を出すのは主義じゃない。Sとしては、万全のコンディションの人間だからこそ苛め甲斐があるわけだ。
 けれど、雨宮は一瞬、思いっきり否定の態勢に入ってから、直後に何か思い出したように口をつぐんで。
「……………い……ぃよ、別に」
 消えそうな声で言う。
「え……………?」
 思わずじっと雨宮の眼を見つめた。
 視線が交わることはないけれど、冗談を言ってるようには見えない。
「今、いいって、言った?」
 そう聞き返すと、小さく頷く。
「念のため確認だけど、いいってのは、俺が襲ってもいいってことだよな?」
 いや、確認しなくてもわかるけど、今までの雨宮からは考えられないほどの劇的な進歩で、雨宮がどういう思考回路を経てこの結論に達したのか、見当もつかない。まさか去年みたいなお試しなんて言わないだろうな。
 そんなことを考えていると、雨宮は何も言わずに、けれど文句を言いたそうに上目遣いで俺を睨み付けた。
 それから、俺の胸ぐらを、ぐいっと引っ張って。

「―――――――!!」

 キスだ。
 色気も情緒もない、一方的に皮膚を押し付けるようなキス。
 それなのに、雨宮の感情が一気になだれ込んできたような気がした。

 そのまま雨宮を抱き寄せて、唇の間に舌を滑り込ませる。ぎこちなく応える舌を強く吸い上げて上顎を舐めると、雨宮が縋り付いてきた。その腰に手を回して、唇を繋げたままベッドに押し倒す。
「ァ………はァッ………ん―――………」
 息継ぎするたびに漏れる遠慮がちな声には、紛れもなく快感がこもっていて腰骨に響く。
「もっとがっつけよ」
 言いながらTシャツを捲り上げて、しっとりと汗ばんだ肌に手を這わせる。乳首を掠めると、ビクンと小さく震えた。
「っ………あんたじゃあるまいしっ」
 負けず嫌いの潤んだ目で俺を睨む。
 そんな憎まれ口も可愛いと思うくらい、俺は雨宮に惚れてるってこと、わかってんのかな。
「これでも8ヶ月も我慢したんだけどね」
 こんなふうにキスをするのも抱きしめるのも、去年の8月に一ノ瀬にドラッグを盛られて以来で、俺の体は否応なしに反応した。それは雨宮も同じだったのかもしれない。布越しに、雨宮の硬いものが俺の腰に当たった。
 あんなことがあったから雨宮がセックスを苦痛に思うかもしれないと少し心配していたけれど、取り越し苦労だったみたいだ。

 耳たぶを噛んで、水音をたてながら耳の中を舌で犯す。
「……ぅんッ…………」
 雨宮の身体がぶるっと細かく震えて、小さく声が漏れた。
「硬いね。あたってる」
 雨宮の股間に脚を押し付ける。布越しでもその熱が伝わってきた。
「るせっ………」
 首まで真っ赤にして睨みつける顔は、無条件に俺の加虐心を刺激する。
「俺とのセックス想像して、自分で抜いてた?」
 健康な17歳男子があれだけの快感を覚えておきながら、何もしないわけない。
「んなこと、聞くな…………」
「へぇ、してたんだ。もっと早く手ぇ出しておけばよかった」
「……………ごちゃごちゃ言ってねーで、さっさとヤレよ」
 とても愛あるセックス中とは思えない台詞だな。
「もちろん」
 仕返しに雨宮のジャージを下着ごと剥ぎ取って、露出したペニスの茎を刺激すると、とっくに硬くなっていたそこは、すぐに先端から透明な液を滲ませた。それを塗り広げるように、溝をなぞる。
「っ………はぁっ」
 薄く開いた唇から、快感に濡れた声が漏れた。
 首筋にキスをして、鎖骨のホクロに吸い付く。そして色白の胸にある小さな乳首を唇で挟む。舌先で転がして甘噛みすると、胸を俺に押し付けるように脊椎がしなった。
「ん、くぅっ………んっ…」
 乳首とペニスを同時に責められて、その快感を握りつぶすように声を堪えている。
 こういう快感に耐えながら俺を受け入れる顔もそそるけど、やっぱり鳴かせたいと思うのが男ってやつだ。

 乳首への愛撫を放棄して、肋骨を舌先でくすぐりながら雨宮の片脚を抱え上げ、間に身体をねじ込ませる。
 鼻先で、雨宮の勃起して濡れたペニスがビクンと揺れた。
「………んなに、見るな」
「でも、見られると感じるんだろ」
 軽く上下に擦ると、タラリと先端から先走りが溢れた。
「すっげぇ濡れてる」
「んっ……違っ………」
 何が違うんだか。
 雨宮に見せ付けるように、ガチガチに勃ち上がったペニスを見ながらゆっくりと顔を近づける。そのわずかな間にまた、先端でぷっくりと先走りの玉が出来上がって、やがて糸を引いて雨宮の下腹に滴った。
「ほら、また垂れた」
 ニヤリと意地悪く笑う俺を、雨宮は羞恥と快感に染まった目で睨みつける。
 エロすぎる。
「その顔、そそるね」
「なっ――――、あっ」
 先端を口に含むと、雨宮の熱と臭いが口の粘膜から体中に広がった。
「やめろ、汚いからっ………」
「綺麗だよ」
 わずかな抵抗を押さえつけて、亀頭に舌を絡め、右手で根元を擦りあげる。感じやすい先端から、ジワリと体液が滲んだ。
 緩急をつけながら丁寧に、ねっとりと舌の奥のほうで舐めまわして、張った袋を優しく弄ぶ。次第に雨宮の呼吸が浅くなって、その隙間から濡れた声が漏れはじめた。
「あ……っ………んっ………」
 たまらずにゆらゆらと揺れだした尻を優しくなでながら、その割れ目に指を滑り込ませ、襞の周りを丸くなぞると、そこだけ別の生き物のように細かく収縮した。
 一度後ろの悦さを知った男がこんな刺激で満足するはずがないのに、雨宮は理性を手放すまいと硬く唇を噛む。
「声、出せよ」
 フルフルと小さく首を横に動かす。
 最初から素直に快楽に身を任せるなんて選択は、雨宮には到底考えられないのかもしれない。
 けれども、一度ここで絶頂を覚えた身体は、そう簡単には忘れない。
 欲望の上限は、経験に比例するから。

 埋まるか埋まらないかの力でアナルを指先で押しながら、先端を親指の腹でこする。そのまま舌先でペニスの裏を根元から辿ると、雨宮の腰が大きくしなった。
「はぁっ………も、放せ、っ………出る」
 力の入らない両手で俺の髪を掴んで、引き剥がそうとする。
「このまま出せよ」
 じゅる、とわざと音をたてて鼓膜を刺激しながら、奥まで雨宮を咥えて唇と指を上下に動かす。
「や、………イヤだ、っつってっ………はぁッ………」
 高まる射精感を抑えるように、力の入った両脚が俺の身体に絡みついてきた。
 かまわずに、しつこいくらいに舌を絡めながら唇で扱きあげる。
「あッ、っ……はぁっ、あんッ、ァ」
 荒い息遣いが、抑えきれなくなった嬌声に変わっていく。

 俺だけを感じろ。
 俺が与える快楽にだけ溺れろ。

「っあぁ――――っ!」
 雨宮の腰が大きく反ると同時に、俺の口内に精液が飛び散った。

 ビクビクと痙攣するペニスを最後まで絞るように吸い上げた。
「あッ……放、せ………っ………」
 苦しそうな顔で雨宮が俺の頭を引き剥がそうと髪を掻きむしった。射精の直後だから、敏感すぎて辛いんだろう。仕方なく顔を離して、粘つく精液を唾液と一緒に飲み下すと、雨宮が大げさに驚いたような顔をした。
「え、………飲んだ? 今の」
「ん? ああ、もっと不味いと思ってたけど、飲めなくなかったな。美味くもないけど」
 ティッシュで手を拭きながら思ったまま答えると、雨宮はなぜか一瞬真顔になって、直後にふいっと顔を背けた。
「…………感想なんか聞いてねぇし」
 なんでそこで不機嫌になるんだ。
 ベッドに手をついて雨宮の顔を覗き込んだ。

 あれ?
「今、笑ってた?」
 一瞬だけ、雨宮の口角が上がってたのを見逃さなかった。
 もしかして、嬉しかったとか?
「なんで俺が笑うんだよ」
 そう俺を睨む顔は、少し赤い。
 余韻のせいだけじゃないはずだ。
「嘘だね。なんで笑ったの?」
 聞きながら、思わずにんまりと口が緩んだ。
 雨宮がムキになるのは、照れ隠しに間違いない。でなければ、笑ったことを隠す必要なんてない。
「ぅるせーな。尾形の鼻の穴がでかくなってたから笑ったんだよっ」
「そんなことで笑うような性格してねーだろ。ごまかさないで、セーエキ飲んでくれてありがとうって素直に言えばいいのに」
「はぁ? 誰がっ!?」
 赤い顔で本気で冗談じゃない、とばかりに俺を睨みつけ、その延長に。
「つーか、これじゃ俺ばっかり受身で、尾形はぜんぜんよくねーだろっ」
 売られた喧嘩を買うような口調で、とんでもなく可愛いことを言う。
 確かに、エロすぎる雨宮を目の前にしつつもなんとか理性を保ってるけど、これ以上先に進んで、暴走しないでいられる自信がない。
「脳が液状化しそうなくらい魅力的なお誘いだけど、今日は遠慮しておくよ」
 ニヤッと笑って冗談っぽく言うと、雨宮は拍子抜けしたみたいだった。俺が断ってくるなんて、思ってもいなかったんだろう。こっちは雨宮の体調を気遣って我慢してるのに。
 こいつ、俺をケモノか何かと同列にしてるな。まぁ、強くは否定しないけど。
「雨宮、知ってるか? 免疫力が下がってる時にアナルセックスすると、イボ痔になりやすいんだって」
「イボ痔って…………」
 と言いかけて、小さくため息をつく。
「今のでやる気なくなった………つーか、これがあんたの狙いか」
 心底呆れたようにそう言うと、だるそうに足元に散乱していたボクサーパンツを履いた。そして「シャワー浴びてくる」と言いながら俺の横をすり抜けてベッドを降りる。
 その背中に、「おやすみ」と声をかけると、雨宮はドアの前で半分だけ振り返った。
「そっちこそ素直に言えよ。まぎらわしい」
 唇を尖らせて、拗ねたように言う。
「でも、俺が『雨宮の体が心配だからやめよう』って言ったところで、雨宮は大丈夫だって言い張るだろ? まぁ、強引な雨宮を見るのも悪くないけど、せっかくお互いの気持ちが通じ合ったわけだから、ありあわせの材料で作ったツマミみたいなセックスじゃなくて、贅沢なフルコースで味わいたいんだよ」
 と、この俺が稀に見る素直さを披露してやったのに、雨宮は顔を引きつらせ、「加齢臭がしそうなセリフだな」と言い置いて出て行った。
 いろいろひっくるめて、なる早でお仕置き決定、と。