始まりの日

記憶 - 4

雨宮陽生

 新入生歓迎イベントと言う名のサークル勧誘活動で賑わう多目的ホール。その壁際にずらっと並んだパイプ椅子に座って、大声でサークルを宣伝する学生や、なぜか突然胴上げを始める謎の集団を眺めながら、何度目かの溜息をついた。

 ―――― 犯人を目の前にして、本当に殺意を抑えられるの?
 尾形のその言葉が刺さったままの傷口から、黒い血が滴ってみぞおちに溜まっているみたいだ。
 尾形だけは、俺が殺さないと言ってくれると思っていたのに………。

 時間が経つほどに、父さんや母さんとの記憶を思い出す。
 秋の紅葉を見て、庭の楓を父さんに肩車されて摘んだことを思い出して、雪が降ると母さんと小さな雪だるまを作ったことを思い出して。
 そんなふうに、俺の回りの景色が変わると、それまで脳の奥に閉じ込められていた記憶が鮮やかによみがえる。そしてそれに引きずられるように、あの夜父さんの体から噴き出す血を必死で止めた記憶が、抑えきれない感情と一緒に込み上げる。
 大声で叫び出したくなるほど、体の芯が痛くなる。

 そのたびに、考える。
 どうして俺はタイムスリップなんてしたんだろう。
 こんな感情に苦しむために、父さんと母さんが殺された日にタイムスリップしたのか? 忘れていた記憶と感情を呼び起こすために、あの惨状を見たのか?
 ―――――だとしたら俺は、復讐するためにここ来たんだ。
 この8ヶ月間何度も考えては、その結論にたどりついた。
 まるで数式を解くように出てしまうその結論のせいで、『だから殺してもいいんだ』と、誰かに背中を押されている気さえしてしまう。殺すために、おまえはタイムスリップしてきたんだと。

 けれど、その答えが正しいなんて、思いたくない。
 復讐したい。心の底から犯人を殺してやりたい。けれど、そのためにこの世界にいるなんて思いたくない。そのために生きているなんて、絶対に思いたくない。

 そう思えるのは、尾形がいてくれたからだ。
 タイムスリップして最初に会ったのが尾形で、最初に俺の存在を信じてくれたのも尾形だった。
 尾形が俺に同情してるなんて思わないけど、俺の気が済むまで調べろと言ってくれて、いつだって俺の気持ちを尊重してくれていた。
 だから尾形だけは、俺が人を殺さないと信じてくれていると思っていた。

 それなのに俺は、なんで尾形がそこまでしてくれるのか、考えようとしなかった。
 深く考えて尾形の真意を―――尾形の俺に対する気持ちを受け止めるのが怖いから、何も気付かないふりをして、考えることから逃げていたんだ。そのくせ自分に都合のいい言葉だけを信じて、尾形を利用して…………。
「酷いのは、俺だろ…………」
 尾形がいなかったら、立ち上がることさえできなかったのに。
 俺には尾形を責める権利なんてない。それどころか俺の方が尾形に謝るべきなのかもしれない。

 でも、謝るって、何を謝るんだよ。
 尾形の気持ちを考えずに利用して悪かった。ごめんなさい――――そう謝るのか?
 そんなことを言ったところで、今の俺には捜査をやめるなんていう選択肢はない。犯人は裁かれるべきだし、殺意を抑えることができたとしても、真実を知りたいという俺の意志だけは譲れない。
 そしてそのために尾形を利用する必要があるなら、尾形を裏切ってでも俺は尾形を利用することを選ぶ。
 なんだ………結局、俺はこの世界では誰かと繋がることなんてできないのか………。

 ――――そう考えて、自分の心が何か黒い塊に少しずつむしばまれているような気がした。

 あぁ、そうか。
 坂崎さんも、こうやって三並さんを利用したんだ。利用して、三並さんを傷付けると知りながら、罪悪感や胸をえぐられるような痛みを感じながら、それでも復讐を選んだ。
 少しずつ、確実に「悪」になっていく自分を止められなかったんだ。

 俺も、そうなのかもしれない。
 今は抑えつけていても、少しずつ自分の中の負の感情に蝕まれて、変わっていくのかもしれない。
 犯人を目の前にしたら理性を失って、最後には殺意に染まってしまうのかもしれない。

 それでも、そんな資格はないとわかっているけど―――――尾形にだけは、俺は人を殺さないと信じていてほしい。
 俺は、そんなことのために生きていないと、言ってほしい―――――。

「雨宮?」
 急に真上から声がして、ハッとした。見上げると、知念順平ちねんじゅんぺいの沖縄系の濃い顔があった。
 ヤバイ、完全に自分の世界に入ってた。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた。いいサークル見つかった?」
 取り繕って隣の椅子に置いてあった荷物をどかすと、知念はそこに腰を下ろした。
「うーん、なんかピンと来ないんだよねー」
 少しだけ沖縄訛りの残る口調で言いながら、手にしていた大量のサークル宣伝チラシをペラペラと捲る。
 ピンとって、そういうフィーリングで選ぶものじゃないと思うんだけど。

 知念はガイダンスの時にたまたま席が隣で、なんとなく話すようになった。
 その、色も彫りも眉毛も濃い顔とは対象的に、クセのないのんびりとした性格で、俺の回りでは杉本さんに次ぐ貴重な常識人だと思う。でも、かなりの優柔不断だということが判明した。
 サークルに入りたいから選ぶのを付き合ってほしいって言われて、サークルや部の勧誘のためのブースが集まったこの多目的ホールに一緒に来たのが1時間前で、さっきから16個ものサークルに話を聞いて回ってるのに、ぜんぜん絞り込めてないみたいだ。
 持ってるチラシにしても、体育会系から文系、理系、ボランティア系まで良くも悪くも偏りなく揃ってる。
「つーか、なんでサークルなんて入りたいわけ?」
 そもそもの疑問を聞くと、知念はさも当然のように。
「なんでって、せっかく血ぃ吐くほど勉強して入った大学なんだから楽しまないと損でしょ。俺、沖縄の人しか知らないから、いろんな県の人と友達になりたいし」
 つまり何かしたいことがある訳じゃないのか。
「だったらどこだって同じだろ」
「違う違う、遊び目的のサークルはダメさー。ほら、何事も真剣に取り組まないと面白くねーっしょ?」
 そう言って、はにかむように笑った。
 それは分かるような気がする。俺も、代わり映えしない生活に飽き飽きして司法試験を受けたりしたから。何かに没頭することで、いろんなストレスからも開放された。
「じゃぁ、興味のあることに絞れよ。これだけの中から選ぶの大変だろ」
「そうなんだよね。本当はスポーツ系がいいんだけど、道具とか場所代とかで意外と金かかるんだよ。うちそんなに金持ちじゃねーから、学費と生活費だけでいっぱいいっぱい」
 なんだかんだで選択肢は狭まってるのか。それなのになんで決まらないんだよ、と思った時。

「だったら、ぜひ裁判の傍聴に行ってみないかい?」
 と言ったのは、もちろん俺じゃない。
 条件反射的にうんざりして顔を上げると、予想通り例のプレートを掲げた深山が、俺たちの前に立っていた。でっかい図体の上に目を輝かせて。
「いいかげん―――」
 諦めろよ、と俺が言うのを押しのけて、知念が予想以上に食いついた。
「裁判っすか?」
「そ。裁判って人間の本音や嘘について赤裸々に議論して、1人の人間の人生を決めるんだよ。これって結構すごいと思わねぇ?」
「確かにそうっすね………」
 って、興味持ってるし。まさかこいつに関わろうってんじゃねーよな。
 俺の懸念をよそに、深山がさらに畳み掛ける。
「それに傍聴はタダだからかかる費用は交通費だけだし、マスコミが注目する裁判で運よく傍聴券が当たったりしたらかなり高値で売れるんだよ」
「マジっすか!?」
 ちょっと待て、金目当てかよ。
「知念、金が欲しいなら普通にバイトしろよ。それに、裁判の傍聴なんて完全に個人行動だろ。サークルの意味ねーよ」
「いやいやいやいや、裁判の情報交換とかシミュレーションとか結構本格的にやるよ。それに1つの裁判に何ヶ月もかけるから、最初から最後まで傍聴して判決聞いた時のなんとも言えねー醍醐味は、そこにいた人にしか分からないのさ」
 のさ、って………自分の実体験みたいに語るな。昨日入ったばっかりの深山がそんなこと知ってるわけない。こいつ、ほんと調子いいよな。
 シラけながら知念に目をやると、本気で尊敬の眼差しを深山に注いでいた。
「そうなんすかぁ。なんか凄いっすね」
 ダメだ、完全に騙されてる………。
「待てって知念、こんなの勧誘するための定型文に決まってるだろ。だいたいこんな奴に敬語なんて使う必要ねーから」
「え、でもこの人先輩―――っていうか、あれ? 友達?」
 俺と深山を交互に見て言う。
 冗談じゃない。
「断じて違う。ただの知り合いだから」
「やだなぁ、秘密を共有した仲じゃん。な、雨宮」
 さっそく呼び捨てかよ。
 にんまり笑う深山を睨み付けたい気分を抑えて、鼻で笑ってやった。
「そうだったな、お互いに」
 正直、それを持ち出されると下手に反撃できない。となると一番ラクに交わせる方法は、俺も深山の秘密を知ってるって思い込ませることだ。もちろんそんなの知らないけど、こうやって知ってるフリしておけば、弱みを握られたかもしれないと思って変なことは言わないはずだ。
 予想通り、深山は少し驚いて目を泳がせた。
 誰だって知られたくない秘密の1つや2つ、あるに決まってる。深山だって例外じゃない。
 その俺達の駆け引きを見て、知念がなぜか「仲良いんだね」と納得して。
「決ーめた。俺、裁判傍聴愛好会にするよ」
「えっ…………」
 優柔不断のくせに、あっさり決めるなよ………。
 できることなら深山と同じサークルなんて入ってもらいたくないけど、さすがに俺に知念の意思を否定する権利なんてない。それに、こいつは優柔不断ではあるけど、一度決めたら変えないような気がする。
 がっかりする俺とは対照的に、深山は満面の笑みを浮かべた。
「まいどあり! あっちのE9ブースで先輩がいろいろ説明してくれるから行ってみてよ」
「はーい」
 指さした方へと消える知念を見送ると、深山は空いた椅子にドスッと座り込んで、俺に深々と頭を下げた。
「ご協力あざーしたっ」
 厭味か。
「別に協力したわけじゃねーよ。知念が興味あるんだったら、俺はとやかく言うつもりないから」
 かなりの敵意を込めて言ったつもりだったけど、深山は意外にも屈託なく頷いた。
「そっか、おまえいい奴だな」
 なんだか毒気を抜かれた気分だ。
「いやー、それにしても知念君? あんなあっさり入ってくれるなんて思わなかったな。もしかして法学部?」
「違うよ。医学部」
「医学部? じゃ、雨宮も?」
「そう」
「へー。俺、法学部だから、4年間キャンパス一緒だな。ヨロシク」
 相変わらず呑気に言うけど、4年もこの深山と顔合わせるなんて、こっちは考えただけで疲れてくる。
 それに尾形との関係を知られているってのは、かなりイタい。せっかく「総理の孫」っていう肩書きが外れて清々したのに、今度は「ホモ」なんてマジでありえねーだろ。
 変な噂流される前に誤解を解くか、確実にこいつの弱み握っておかないと。
 って思ってるそばから。
「そう言えば尾形さん元気?」
「………まぁ、元気だよ」
 尾形の話なんてするなよ。というのを分かりやすく顔に出して言うと、深山は俺の肩をバシバシ叩きながら。
「そうツンケンすんなって。誰にも言わねーよ。俺のことだって知られちまったみたいだし」
 俺のことって、さっきの秘密の共有の話か。こいつ単純だし、この流れで聞き出してやる。
「そうだよ。驚いたよ」
 適当に話を合わせると、深山は「そうだよなぁ」と長く深く頷いた。
 そして、俺が想像もしてなかったことを言う。
「類は友を呼ぶっつーのはこのことだな」
 は?
 類は友って、まさか――――。
「ま、俺は雨宮と尾形さんに気付かされたようなもんなんだけどな、病院で」
「そ、そうなんだ……………」

 なんつーか………全身の力が抜けそうだ。
 まさかこいつまでホモだったとは………。
 あぁそうか、昨日の尾形の意味深な「なるほど」はこういうことだったんだ。
 確かに、よく考えてみればそうだよ。
 こいつがあまりにも常識外れで普通と違うって思い込んでいたけど、いくらノルマとは言え、たかがサークルの勧誘でホモ(じゃないけど)を2時間も追い掛け回すなんて、普通の男がするとは思えない。

「俺、あん時まですっげぇ悩んでたんだ。でも、あれで一気に楽になってさ。入院した時は最悪って思ったけど、今考えると入院して良かったよ。いや、あの時雨宮と尾形さんに会って良かった、かな」
 そう言って、深山は照れたように笑った。
 どこまでも能天気っつーか素直っつーか、騙されやすい上に、騙されて自分から秘密を暴露してることに気付きもしない。しかも、騙した俺に感謝までするか。
「おまえ、バカだな………」
 思わず溜息と一緒に本音が出た。
「ははは、そんなにしみじみ言うなよ。これでも検察官目指してるんだからさぁ」
 深山はこれっぽっちも傷ついてなさそうに笑い飛ばす。
「検察官目指してるんだったらちょっとは人を疑えよ」
「あー、それよく言われる」
 だろうね………って、オイ。
「違うだろっ。俺はおまえを騙してたの、わかる?」
「ええ? うっそだぁ」
「嘘じゃねーよっ。俺はおまえの秘密なんて知らなかったし、ましてやホモだなんて想像すらしてなかったよ。俺が変な噂立てられたくなかったから弱み握ってるフリしただけだろ。それを自分からペラペラペラペラ暴露するなっ。俺が詐欺師だったら今頃おまえ怪しい契約書に署名捺印してるところだぞ。もっと危機感持てよ!」
 ったく………なんで俺が怒らなきゃなんねーんだよ。
 そして深山は、俺を責めるどころか。
「へぇ、雨宮ってしっかりしてるよなぁ。でも、どっちにしろ俺は雨宮には話すつもりだったから大丈夫」
 こいつは…………。
「…………どこが大丈夫だよ」
 という俺の小さなツッコミは周りの騒音に溶けて届かなかったのか、深山は呑気に「さてと」とプラカードを杖にして立ち上がった。
「俺、そろそろ勧誘に戻るわ。あと1人でノルマ達成なんだよ。じゃーな」
 後腐れなくニカッと笑いながら言うと、ホールの中央へと歩いて行った。

 あいつ絶対に変な詐欺に引っかかりそう。いや、今まで無事だったのが不思議なくらいだ。保護者か友達がよっぽどしっかりしてるんだろうな。

 けれど、ほんの少し羨ましい。
 騙されたことにすら気付かない―――違う、騙されても気にしない。
 深山が鈍感なのか強いのかは分からないけど、あんなふうに生きられた楽かもしれない。

 っていうか。
 なんで俺の周り、ホモばっかりなんだろ…………切実に。