始まりの日

記憶 - 3

尾形澄人

 据え膳―――すぐ食べられるように用意された状態で前に出される食膳。

 カッコ大辞泉より、って状態だ。
 頭を傾けて無防備に首筋をさらし、薄く開いた唇から規則正しく寝息を吐く。
 ソファに座ったままうたた寝する雨宮は、誰がどう見ても隙だらけだ。ここがアフリカのサバンナだったら間違いなく肉食獣の食料になっている。
 半年以上おあずけ状態じゃなかったとしても、だ。
 起こさないようにそっと雨宮の横に立って、その隙だらけの寝顔をじっと見下ろした。

 俺との関係がこれ以上深くならないように、俺に依存しすぎないように距離を作るのは、いつものことだ。
 それでも最近は少しマシになったように感じる瞬間がある。それにたぶん、今俺が雨宮に手を出したら、雨宮は俺の誘いに流されるだろう。
 けれどもそんなことをしたら、明日には手のひらを返したように、この部屋から出て行く。
 こいつは、そういう奴だ。
 そういう不安定な芯の強さに惹かれたけれど、逆に面倒だったりもする。
 惚れた弱み、か。この俺が。
 嘲笑わらえるな。

「雨宮、風邪ひくぞ」
 見下ろしたまま声をかけると、雨宮はハッと目を開けて背筋を伸ばした。
「え、俺いつの間に寝て………」
 すぐ現状を理解して、それから懐疑的な目で俺を見上げる。
「何もしてないって」
 苦笑いで否定してやると、雨宮は露骨にホッとしてみせた。これも地味に傷つく。
「そんなに俺のこと嫌い?」
 思わず意地悪に聞くと、雨宮は珍しく不意打ちを食らったみたいに動揺した。
「え? いや、つーか、俺ホモじゃねーし」
「ふぅん………」
 嘘ばっかり。
 動揺してる割には、下手な言い訳じゃなくて暗に「恋愛対象じゃない」と根本から否定する辺り雨宮らしいけど。
「大学どうだった?」
 財布と携帯をカウンターに置きながら適当に話をふると、あくびが聞こえた。
「んー、なんか無意味に疲れた。深山透みやまとおるって覚えてる?」
「深山………?」
 冷蔵庫から缶ビールを出して、その場でプルトップを開ける。プシュッと炭酸が逃げ出すいい音が響いた。
 冷えたビールを喉に通しながら、退院した時のことを思い出した。※注釈
「あぁ、あのやたらとガタイのいい高校生か」
 缶を持ってソファに歩み寄ると、雨宮がソファに両足を上げて占領した。隣に座るなということらしい。文句のひとつも言いたいところだけど、何も言わずにダイニングの椅子に座った。
「退院する時にちょっと話したくらいだな。素直でいい奴そうだったけど、そいつがどうかしたのか?」
「同じ大学だったんだよ」
 憮然とした顔で言う。
「マジで? すげぇ偶然だな」
 あの病院のERに運ばれたってことは、家があの辺りだったとしてもおかしくないけど、まさか雨宮と同じ大学に入るとは思わなかった。第一、そんなに頭よさそうに見えなかった。
 雨宮はそんな偶然の凄さなんてどうでもいいらしく、心底うんざりしたように溜息をついた。
「めちゃくちゃ迷惑だよ。裁判傍聴愛好会とかいう微妙なサークルに勧誘されて、今日なんて2時間くらい追いかけられた」
「ははは、傍聴マニアか。いいじゃん。司法試験最年少合格者として色々教えてやれば?」
 軽く言う俺に、雨宮は冗談じゃないとばばかりに顔をしかめた。
「ありえねーって。勧誘の変なプラカード持ったまま電車の中まで追いかけてくる奴に、なんで法律の何たるかを教えなきゃいけねーんだよ。あのしつこさは都市伝説並だぞ」
「へー、あいつってそういうキャラだったのか。おもしろそーじゃん」
 病院で会った時はもっと常識人かと思ってたけど。
「他人事だと思って」
 俺を睨み付けて、ローテーブルのペットボトルの水を飲み干した。
 サークルの勧誘がしつこいってだけで怒ってるわけじゃないんだろうな。深山は俺と雨宮の関係を知っている。いや、病院で聞かれた会話の内容を考えると、今の俺達の状況よりもっと深いものだと解釈している可能性のが高い。
 つまり、深山にとっては完璧に雨宮はゲイで―――あれ、もしかして………。
「ちなみに、深山から声かけてきた?」
 そう聞くと、雨宮はかすかに首をかしげた。
「あぁ、そうだけど?」
「ふぅん。なるほどね」
 思わず顔がにやけた。
 それを見て、雨宮は何か気色悪いものでも見るように眉間に皺を作る。
「なるほどって、何が?」
 まぁ、隠したところですぐに分かるだろうけど、今の雨宮に言ったら、さらに機嫌が悪くなりそうだ。
 すでに「俺の周りはホモばっかり」だって思ってるだけに。
「いや、深山ってやっぱりおもしれー奴だなと思っただけ」
 適当にはぐらかして別の話に切り替えると、怪訝そうにはしていたけれど、それ以上踏み込んでこなかった。

 ああ、まただ。雨宮にはこういう癖がある。相手が話さないことを無理に聞き出そうとしない癖が。それは相手の心に入らないだけじゃなく、自分の手のうちも見せないということだ。
 相手と深く関わらないように、ある一定の溝を保つために身に付いた、雨宮なりの防御なんだろう。それが時々、ひどく俺を苛立たせる。

「で、雨宮はサークルとか入んの?」
「入るわけないじゃん。父さんと母さん殺した奴、突き止めなきゃいけないのに」
 予想はしてたけど、雨宮にとっては俺や自分の生活よりも犯人が優先なのか。
「もったいないね。せっかくの学生生活なんだからもっと謳歌しろよ」
「俺にとっては、空いた時間に遊んでるほうがもったいないよ」
「そこだけ聞くと教育委員会もPTAも拍手喝采しそうな言葉だな」
「こっちは本気なんだから、からかうなよ」
 雨宮は俺の言葉の表面だけを理解して、小さく口を尖らせた。

 別にからかったわけじゃないんだけどね。
 もったいないって言葉は、未来のために使うんだよ、雨宮。
 今のおまえは、ただ過去に捕らわれているだけだ。たとえ刹那的だとしても「今」を楽しむバカな大学生のほうがよっぽど健全だろ―――というのは、俺の愚痴か。こんなふうに復讐心を抱き続ける雨宮を、なんの見返りもなく見守れるほどの心を、俺が持っていないだけだ。
 その自分の弱さにムカついて、いつまでこの埋まらない溝を眺めていればいいんだと、問い詰めてしまいたくなる。

 だから、傷つくと分かっているのに。

「でも、本当に調べるだけで気が済むの?」

 雨宮は急に水を打ったように真顔になって、俺を見た。
 その顔があまりにも俺を「都合よく」見ていて、無性にイラついた。
 信じられない、傷ついた、どうしてそんなことを言うんだ―――そう俺を責めるように見る。
 頼むから、そんな顔で俺を見るな。
 俺は、そんなに出来た人間じゃない。

「おまえも分かってると思うけど、麻布事件はなかったことになっているから犯人が分かっても裁くことはできない。別の犯罪で逮捕するにしても、2人殺したのと同等の罪になるとは限らない。というかならない確率の方が高い。それなのに、制裁目的で犯人を捜しているおまえが、いざ犯人を目の前にして冷静でいられるか? 本当に、殺意を抑えられるのか?」

 言いながら、肺の奥がキリキリと痛んだ。

 小さな沈黙。その狭間で何を考えたのか、雨宮はゆっくりと視線を伏せた。
 あぁ、やっぱり傷つけた―――………。

 俺は、何があっても雨宮を信じてやらなきゃいけないのに。
 俺が信じているから、雨宮は俺に応えようとしている。
 俺がいるから、雨宮は犯人に対する復讐を法に委ねる決心をした。坂崎さんの二の舞を舞わないと決めた。

 そう分かっているのに―――それでも、俺の言葉で傷つく雨宮を見ることで、俺の存在理由を、確かめることができる。
 膨らむ罪悪感に反比例して、肺に立ち込めていた不安が薄らいでいく。

「酷いね…………」
 俯いた雨宮の声が、心臓に刺さった。
「そうだな。ごめん」
 この謝罪が届かなかったのか、雨宮は俺を見ずに立ち上がると、そのまま自分の部屋に入って行った。

杉本浩介

「ま、復讐心ってのは本能だからなぁ」
 出勤早々、エレベーターで足利さんと出くわした流れで、廊下の端にある自販機の前で昨日の尾形の話をすると、足利さんは自販機に小銭を入れながらいつもの間延びした口調でそうコメントした。
 そしてブラックコーヒーのボタンを押して落ちてきた缶を取り出すと、にんまり笑って俺に渡す。
「情報料だ。受け取れ」
「やめてくださいよ。悪い事してるみたいじゃないですか」
 見返りのために雨宮と尾形の話をしてるわけでもないのに、こんなふうに言われたら妙に後ろめたくなる。
 軽く睨み付けると、足利さんはケラケラと笑った。
「ははは、冗談だよ。押し間違えたんだよ」
性質たちが悪すぎますよ。最初からそう言ってください」
 文句を言いながら足利さんから缶を受け取ると、足利さんは「恥ずかしいだろ」と言い訳しながら今度は微糖ミルク入りのボタンを押した。

 足利さんに雨宮のタイムスリップがバレたのは、坂崎さんの意識が回復した時だ。
 どさくさに紛れてカマをかけられて、俺のちょっとしたボロを見逃さずに攻めてきた。
 ベテラン刑事だけあって、あの時は取調べで追い詰められて自白する容疑者になったような気がしたが、足利さんなりに雨宮を心配しているんだと気付いたのはここ最近のことだ。

 自販機の横のベンチに腰を下ろしながら、足利さんが話を続けた。
「復讐してやりたいっていう感情は、痛みから逃れたい、乾きを潤したいっていうのと同じだ。コントロールすることはできても、あいつが完全に復讐心から解放されることはねぇな。そばにいるのが尾形だろうが、ガンジーだろうがなあ」
 足利さんの言うことは一理ある。たとえ自ら手を下さなくても、法で裁き刑罰を与えるという手段は被害者の復讐を代行しているようなものだ。けれど。
「特に雨宮の場合は、殺害を指示した人間が法で裁かれることはないでしょうしね」
「いや、犯人が殺人を依頼しなけりゃならなかった理由は犯罪がらみの可能性が高いから、その理由さえ調べ上げられれば有罪までは持ち込める。ただ、2人も殺した罪と同等の判決が出るかはわからんがなぁ」
「ああ、なるほど。死刑ですからね」
 今の日本の判決では、ああいう形で2人以上を惨殺した場合は死刑になる可能性が高い。けれども殺し屋に殺人を依頼するような人間が、死刑になるほどの犯罪に手を染めているとは考えにくい。
 雨宮ならそのくらいの推測は簡単にするだろう。
 だからこそ、犯人を許せない。

 数年前に妻子を惨殺された男が、報道番組で「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てきたら、私が自分の手で殺す」と堂々と言い切ったことを思い出した。
 すでに起訴され、有罪が確定していてもそう思うのだから、雨宮はどんなに苦しい思いをしているんだろう。
 そんなことを考えていると、足利さんが「そーれにしてもーなぁ」と、変にリズミカルに言って続ける。
「雨宮の復讐心をコントロールしているのが尾形だとしたら、あいつらの関係が成り立ってるのは奇跡みたいなもんだなあ。尾形が60や70のじーさんならともかく、まだ24、5だろ?」
「奇跡って、どうしてですか? そんな不安定な関係には見えませんけど」
 足利さんの意図がわからずに聞くと、横目で俺をチラリと見て。
「雨宮は尾形との恋愛関係には一線を引いているが、生活と復讐って点じゃぁ完全に尾形に依存してるってこったろ。雨宮に悪意がなかったとしても、尾形にしてみたら、愛してねぇけど愛してくれって言われたのと同じレベルだ。例えるなら、歌舞伎町のナンバーワンホスト『ハルキ』に本気になって貢いでる客ってところか? いくら尾形が雨宮を思ってたって、それが何ヶ月も続きゃあ我慢も限界だろうよ」
 どこか突き放すようにそう言うと、少し口の端を上げて「尾形も気の毒だな」と付け足した。
 尾形のことを「ホストに貢ぐ女」なんて言えるのは足利さんくらいだ。

 足利さんの例え方はともかく、雨宮は尾形が自分を好きだと分かっていながらも肉体関係を拒み、一緒に住み続けてるのか。確かに、いつひずみが生まれてもおかしくないバランスなのかもな。
 さらに言えば、尾形は、雨宮が自分を好きだと分かっているから、雨宮への「貢ぎ物」を断ち切れないでいるんだろう。
 いつか雨宮が振り向いてくれると期待して、もう8ヶ月か。
「よく考えたら、かなり辛いですね、尾形の立場は……………」
 昨日の落ち込み程度で済んでいたのが不思議なくらいだ。俺だったら、逆ギレするか泣いてるだろうな。
 今度会ったら、もう少し優しく慰めてやるか。