始まりの日

記憶 - 5

尾形澄人

 さすがに昨日は言い過ぎた。
 早めに雨宮のフォローしておかないと深みにはまりそうだし、今日はさっさと帰ろう。
 と、朝から決めていたのに、こういう日に限って残業になる。
 定時より1時間オーバーしてPCの電源を落として、あとは白衣を脱ぐだけだったところで、神田が緊急の鑑定依頼を持ってきた。
「あら、ごめんなさい。これ今日中に提出しろって命令なのよね」
 悪びれもなく、いやむしろ嬉しそうに言いながら、ダンボール箱から小さなポリ袋に入ったガラスの欠片や特殊な容器に保存した残焼物を次々とテーブルに広げて、手元のバインダーに挟んだ書類と見比べて確認する。
 聞かなかったことにして帰りたいところだけど、急ぎの鑑定ってことは現在進行形の事件ってことだ。
「誘拐? 拉致? 強盗?」
 そう聞くと、神田は手を動かしたまま口角を上げた。
「残念。奥田和繁が襲撃されたのよ」
「奥田和繁って、民自党幹事長の?」
 史上最年少で幹事長になった、中堅ではナンバー1の二世議員だ。父親は総理大臣にこそなれなかったけれど、引退した今も絶大な影響力を持っていて、永田町のフィクサーとも言われている。
 そのフィクサーの息子が襲撃されたわけだから、永田町はもちろん、警察官僚だって黙っているわけがない。
「そうよ。5時半ごろ赤坂の料亭の前で、火炎瓶が飛んできて大パニックだったみたいよ。あの辺ってただでさえ警官多いし、すぐ逮捕できるだろって最初は余裕だったみたいだけど、ビルの上から投げられたせいで目撃者がいなくて苦戦してるわ」
 それで今日中に鑑定しろ、ね。
「火炎瓶なんて古い手使ったのは、野次馬に紛れるためか。犯人の作戦勝ちだな」
「あなた、被害者の怪我の心配とかしないのね。下手したら焼死よ?」
 一度広げた遺留品を手早くダンボールに戻しながら呆れたように言う。
「俺の知らない人間がどうなろうと関係ない。それに神田が足蹴にするような事件なんだから大した被害者は出なかったんだろ?」
「まあね、当の奥田もかすり傷ひとつないわよ。でも刑事部長も鑑識課長も、そりゃもう公安に先越されちゃ困るって息巻いてて、ホントいい迷惑よ。現場は他にも重大事件かかえてるってのに」
「へぇ、公安が出てきたってことは右翼の犯行か」
 奥田は靖国参拝に批判的な発言をしてる。その上で公安が出てきてるってことは右翼の犯行が濃厚だ。つまり、相沢が先導きってるはずだ。
「上はそう睨んでるみたいだけど」
 神田はどこか腑に落ちないような返事をした。その理由を聞こうとしたとき、白衣のポケットから携帯の着信音が聞こえた。
「あら、陽生くん?」
「だったらいいんだけど」
 雨宮からの着信は音を変えているから、違うのはすぐわかる。白衣から携帯を出すと、ディスプレイには意外な名前が表示されていた。
「残念ね。じゃ、一刻も早く愛する彼に会えるように、がんばって鑑定終わらせてね」
 神田はムカつくくらい完璧な笑顔で言いながらバインダーを俺に差し出して、早足でオフィスから出て行った。
 それを見送りながら携帯を耳に当てると、想像していたよりもはるかに健康的な声が聞こえた。
『坂崎です。お久しぶりです』
 1週間前は微動だにしなかった人間とは思えない、聡明で滑らかな口調だった。
 精神的に不安定な人間は気分の浮き沈みも激しい。今が「浮き」だとしたら、それはそれで厄介だと分かっているけど、それ以前に坂崎さん自ら俺に電話してきたことに驚いた。
「なにかあったの?」
 坂崎さんと敦志にふりかかりそうなあらゆるトラブルを想像しながら聞くと、坂崎さんは柔らかく答えた。
『大丈夫だよ。ありがとう』
 本当に、あんな事件なんてなかったと思えるほど落ち着いている。
『この前はお見舞いに来てくれたのに会えなくてごめんね。まだ時々わからなくなるんだ』
「気にしなくていいって。雨宮と出かける口実にもなったから、逆にこっちが感謝してるくらい」
 考えてみれば、あれは久しぶりに雨宮との外出だった。そう思い出しながら言うと、坂崎さんはクスッと笑った。坂崎さんらしい嫌みのない笑みに少し安心した。
「で、そんなこと謝るために、わざわざ電話してきたわけ?」
『ううん、ちょっと話しておきたいことがあって。できれば早めに会って話したいんだけど、時間あるかな』
「明後日、金曜なら行けるけど、どういう―――」
『ごめん、電話じゃちょっと。あ、看護師が戻ってきそうだから切るね。それとこのこと雨宮君には言わないでほしい。そのかわり尾形君が信用してる刑事がいたら一緒に来てもらえないかな。じゃ、金曜日、待ってるから』
 そう早口に言うと、一方的に電話を切った。看護師の目を盗んで電話してきてたんだろう。
 精神疾患専門の病院だし、坂崎さんの病状で携帯電話が禁止なんてことはない。俺と会うことを誰にも知られたくないということかもしれない。雨宮にさえも。
 坂崎さんがこんなふうにして会う理由は、1つ。
 父親同然だったという、鹿島弘一のことだ。

 去年、敦志の家で鹿島が殺されたという話をした時、『僕もそのうち殺されるかもしれない』と坂崎さんは言っていた。その言葉を信じれば、鹿島弘一は「何か」を知っていたから、「何者か」が雇った殺し屋によって殺された。そして坂崎さんもその「何か」と「何者か」を知っているから、去年の8月に襲われた。
 けれどもその「何か」も「何者か」も話してくれなかったのは、坂崎さんが鹿島を殺害されたことよりも、母親を殺した北林や、殺人事件を隠蔽した警察への復讐を優先したからだ。
 その復讐が終わった今、坂崎さんに残っている課題は鹿島弘一殺害の犯人への復讐――――いや、違うか。復讐じゃない。
 今、こんなふうに俺に電話してきたのは、自分が殺されるという「危機感」があるからだ。
 その危機感は裏を返せば「生きたい」という意志。

 敦志に、その赦しを得たから。

 ――――ハッピーエンドだったんだと、意識を手放す直前にそう微笑んだ坂崎さんを思い出した。

 

雨宮陽生

 じいさんと喧嘩すると、たいてい俺が折れた。
 一緒に住んでいる以上、いつまでも喧嘩しつづけるわけにはいかないし、呆れるほど唯我独尊なじいさんは自分が悪いとわかっていても絶対に謝らないから、最終的に俺が折れるしかない。
 でも高校に入ってからは喧嘩するのも面倒になってたから、じいさんが間違っててもわざわざ反抗することはなかった。それがしばらく続いたある日、じいさんが『つまらん孫だ』と自分を棚に上げた上に俺を底辺につき落とすという発言をしたことが引き金になって、史上最大の大喧嘩に発展した。
 きっかけは些細でも、今まで我慢していた分が一気に爆発した俺は、じいさんに一方的にまくし立てたうえ、3日間まったく口をきかなかった。あの時は本当に「キレた」という状態で、ふだんは俺とじいさんの関係に口をはさまない月本も、何度も俺に謝るよう説得したけど、俺はじいさんが謝るまで絶対に折れないと決めていた。
 けれど、4日目にじいさんが慣れない料理なんかをして手を火傷した。思った以上に広範囲の火傷で、仕方なく手当をしているうちに、なぜか自然と仲直りしていた。
 その時じいさんが作っていたのは、俺が好きで自分でもよく作っていたグラタンだった。料理どころか、カップラーメンも作ったことないのに。
 それが、じいさんが折れた最初で最後の喧嘩だった。

 どうしてそんな回りくどいことをしたんだろうと思っていたけど、父さんと母さんの記憶の中にその理由があった。
 何が原因かはわからないけど、父さんと母さんと喧嘩したことがあった。朝、俺が保育園に行く前は、子供の俺でもわかるくらい険悪な空気だったのに、夜にはすっかり仲直りしていた。その日の夕食は、父さんが作ったグラタンだった。色も臭いもグラタンと言われないと分からないような出来で、久々に帰っていたじいさんは「親を殺す気か」と言って出前を取ってたけど、母さんは「焦げた味しかしないよ」と言いつつ嬉しそうに食べていた。

 そんなことを思い出したせいで夕食に尾形の好きなハンバーグの材料を買って、エレベーターの15階のボタンを押した。
 いや、尾形とのことは喧嘩とは違うのは分かってる。ただ、一緒に住んでいるのに今のままっていうのはやっぱり気まずいし、昨日の俺の態度はどう考えてもまずかった。
 とにかく、このままっていうのは良くない。
 尾形がどう思うかはともかく、このまま俺が逃げていたって何も解決しないし、もし尾形に何か言われたら、俺は正直に自分の気持ちを言うしかない。
 それで出て行けと言われたら、出ていくしかないんだ。俺はそれだけのことを尾形にしてきたし、そもそもこの関係自体、最初から無理があったんだから。

 大丈夫。俺は、絶対に殺さない。
 ひとりでも生きていける。

 心臓に刺さった棘を無視して、そう出した結論を自分に言い聞かせながらマンションのドアを開ける。と同時に、インターホンのチャイム音が聞こえた。オートロックのマンションだから、1階のエントランスに誰か来たということだ。
 この家に客が来るとしたら、宅配便か杉本さん、あとは昨日のムカつく男か。なんか嫌な予感するけど。
 リビングの壁に埋まった液晶モニターを覗くと、その予感どおり昨日の男の顔が映っていた。
 でっかい溜息が出た。

 居留守を使うべきか、それとも部屋に入れてやるべきか。
 昨日の様子だと居留守を使ってもエントランスを通り抜けてこの部屋の前で待ち伏せするだろうし、部屋に入れたとしても、尾形に文句言われるかもしれないし、そもそもこんなヤツと顔を合わせたくない。
 やっぱり、ここは居留守だな。
 そう決めてモニターから離れようとしたとき、またチャイムが鳴る。
 無視。
 さっさと帰れ、そう思いながら冷蔵庫に買った食材をしまっている間に、さらに3回。
「あーーー、しつこい!」
 思わず怒鳴りながらモニターを睨むと、そいつがカメラ目線で何か喋っているみたいに見えた。それから連続してチャイムを鳴らす。
 一瞬ぞっとした。
 いや、分かってる。このタイミングで来んだから俺がマンションに入るのを見られてたってことぐらい分かってるんだけど、チャイムの連打ってストーカーっぽくって、ムダに恐怖心を煽るんだよ………。

 ディスプレイの横の「緊急」ボタンを押したい気持ちを抑えて、仕方なくインターホンの「通話」ボタンを押すと、それが「再生」ボタンだったかのようにムカつく声が流れた。
『てんだから開けろよ。卑怯なんだよ居留守とか使って、ガキはこれだからめんどく――――』
「そこの赤いマークの警備会社に通報されたいわけ?」
 強い口調で遮ると、画面の中の顔が一時停止して、それからあっさりと開き直った。
『俺は澄人に話があるんだよ。さっさと入れろ』
 偉そうに。やっぱりこいつ性格悪い。
「留守を預かってる者として、知らない人間を上げるなんて無理だね。悪いけど出直すか尾形の携帯に連絡しろよ。あ、でも家に来るってことは携帯の番号も教えてもらってないのか。可哀そうに」
 こんな嫌味を言う俺だって十分性格悪いと思いつつ、モニターの中の引きつる顔を見てスッとした。
 けれども相手もタダじゃ起き上がらないタイプだったみたいだ。
『じゃぁ聞くけど、おまえは澄人の何を知ってるわけ?』
 は――――?
『あいつが、どれだけ酷い奴で、今まで何人の男を騙してきたか知ってんの?』
「そんなこと知って――――」
 言いかけて、やめた。
 知ってるから、俺は尾形とはこれ以上の関係にならないと決めた。だったら、こんな挑発に乗る必要なんてないし、そもそもこいつに責められる理由だってない。言いたい奴には言わせておけ。

 俺が黙り込んだのを察して、ふん、と鼻で笑ってペラペラと続ける。
『どうせおまえも澄人にとっては遊び相手の1人にすぎねーんだよ。ただの恋愛ごっこの相手。一度手に入れたら面倒になって見向きもされねぇよ』
 ざまぁみろ、とでも続きそうな態度だ。
 腹の底からふつふつと怒りがこみ上げてきた。
『おまえがマジになればなるほど冷たく切り捨てられるってのが目に浮かぶね』
 わかってる。言いたい奴には言わせておけ。それはよく分かってるけど、さすが見ず知らずの人間にここまで言われて黙ってるんじゃ、俺のプライドが許さない。
「ああそう。あんたはそうやって捨てられたんだね。実体験に基づくアドバイスでとても参考になりました。俺もマジにならないようにくれぐれも気をつけることにするよ。ためになる忠告ありがとうございます」
 怒鳴りつけたいのを我慢して言い終えると同時に、通話終了ボタンを殴るように押した。
「っっマジでムカつく! コイツ、バカじゃねーの? 俺が尾形とどうなってるわけ? どうなってたら満足なわけ? 勝手に勘違いしてんじゃねーよ!」
 灰色のモニターに思いっきり怒鳴りつけて、それから深く息を吸って吐き出した。
「はあああああぁ…………」

 …………。
 だめだ。全然、すっきりしない。

 妬み嫉み系の攻撃は小さい頃からよくされてたけど、家柄とか頭脳にはなんの思い入れもなかったからまだ耐えられた。
 でも、今はあの時とは質の違うダメージがある。そのダメージが、尾形に対して特別な感情を抱いているからなんだと自覚させられてるみたいで、無性にイライラした。

 尾形が俺を口説くのがただの遊びだってことくらい、たとえ今本気だったとしても一時的なことにすぎないってことくらい分かってる。ずっと自分にそう言い聞かせてきた。
 俺は尾形とは、そういう関係にはならない。
 犯人を捜すために、尾形を利用してるだけだ。
 だからあんな男に何を言われようと、尾形が何をしようと、俺に何を言おうと、俺は大丈夫だ。
 俺には関係ない。

 けれども、そう自分に言い聞かせるほどに、心臓の棘が深くのめりこんだ。

 ――――――――嘘ばっかりだ。

 

尾形澄人

 神田に頼まれた鑑定を終えて急いで帰宅すると、マンションの前で思いもよらない人間が目に入った。
 まだ22時過ぎとはいえ、マンションのエントランス前の花壇の淵に1人で座ってる男っていうのはちょっと異常だと思う。けれど、こいつにとってはそんなことどうでもいいんだろう。
 出逢った時から他人の目ってのを恐ろしいほど気にしない奴だった。
 だからこそ、俺に会いに来れるんだろう。普通の神経してたら来れるはずがない。
 かなり面倒だけど前を通らないと家に入れないし、こいつが雨宮に会ったのかも気になるから。
「2年ぶりだな」
 少し離れた場所から声をかけると、蟻ヶ崎晶ありがさき あきらはハッと顔を上げて、両手で白いヘッドフォンを外した。