始まりの日

赦罪 - 32

雨宮陽生

『たった今、北林内閣房長官の事務所に捜査員が入りました! 午前7時20分、東京地検特捜部と警視庁捜査2課による強制家宅捜索が始まりました!』
 昼時のせいか閑散とした待合ロビーで、天井に吊るされたテレビをぼんやりと眺めた。
 ダークスーツの捜査員がダンボールを抱えて北林の事務所に入っていくシーン。朝から飽きるくらい流されているから、見すぎて捜査員の顔覚えたし。

 あれから16時間。
 紀尾井町ホテルでのことは極秘に処理され、坂崎さんの自殺未遂も北林への復讐未遂も報道されていない。それどころか、北林は体調を崩して入院中ってことになっていた。
 結局、警察は政治家の言いなりになって事実をうやむやにし、自分たちの過去の過失を隠蔽したことになる。

 そして、坂崎さんはなんとか一命を取り留めている。けれどもまだ予断を許さない状況で、このまま目を覚まさないことも覚悟してくださいと、医者は言った。

「そろそろだな」
 なんの気配もないのに、背後から聞き覚えのある声がした。
 澱んだ顔を引き締めて振り向くと、スーツの上着を腕にかけた足利さんが、ニヤリと笑って俺を見下ろしていた。ただでさえ身長が高いから、座っていると見下ろされ感が半端じゃない。
「こんな所にいていいんですか?」
 尾形は通常業務、杉本さんは裏付け捜査をするとかで、朝には警視庁に戻ったのに。
「俺は今回は担当じゃないから暇なんだよ、雨宮君」
 足利さんは、得意げにそう答えた。嫌味なほど「雨宮君」にアクセントを付けて。
 鈴木と名乗っていた俺が、昨日当たり前のように雨宮って呼ばれていたからさすがに否定はできない。かと言って素直に認めるのも悔しい。
「………………偽名だったことは謝りませんよ。俺が付けたんじゃないし」
「じゃぁ、フルネームは雨宮陽生か」
 改めて確認されると責められてるみたいでムカつく。開き直って足利さんを睨みつけたけど、そんな攻撃は効果なしとばかりに、足利さんは知らん顔をして俺の隣に座った。
「総理の隠し子だと思ってたんだが、さすがに孫に同じ名前はつけないよなぁ」
 よりよってじいさんの隠し子って………ちょっと面白いけど。
「はは、日本から寿司がなくなるくらいありえないですよ」
 呆れ半分に笑った俺を見て、足利さんはスッと目を細めた。
「自分から正体を明かす気はないか?」
 そんなこと聞いてどうするんだろう。
「言ったって、信じてもらえませんから」
「俺はわりとオカルトは信じるほうなんだけどなぁ」
 さすがにタイムスリップっていう単語ぐらいは思い浮かんだのか。でも確信が得られてないってところかな。
「じゃぁ、その豊かな想像力にお任せしますよ」
 適当にはぐらかしたところで、アナウンサーがセブンスフィアの記者会見が始まったと中継を繋げた。
 足利さんはそれまでの会話をあっさり区切って、楽しそうにニヤつきながらテレビを見上げた。
「三並敦志は、何を言うかな」

 画面には、会見場で無数のフラッシュを浴びる三並さんが映っていた。
 他の重役に挟まれる形でマイクがセットされた机の向こうに立ち、揃って深く頭を下げる。
 こういう記者会見に知ってる人が出たことは、今までにも何回もあった。じいさんの知り合いは必然的に企業の重役や社長が多いから。
 小さい頃世話になった人が容赦なく叩かれるのを見て、ますますマスコミ嫌いになった。

『この度、株式会社セブンスフィア前代表取締役・紺野和彦と、北林将岱衆議院議員との贈収賄の疑いにより、多くの関係者ならびに国民の皆様にご迷惑をおかけし、また政治への不信感を与えておりますことを、心からお詫び申し上げます』
 三並さんのありきたりの言葉で、記者会見が始まった。

 坂崎さんがこの病院に運び込まれてから、その2時間後には三並さんは会社に戻っていた。
 大切な人が死にそうなのに、冷静に仕事に行った。
 三並さんの立場や状況を考えると坂崎さんに付き添っていられないのは、頭では分かっていても納得できなかった。でも、この記者会見を開くための根回しをしていたんだと思う。
 だから、新事実が出てくるとか、ちょっと期待してたんだけど。
「当たらず障らずって感じだな。結局、事実関係把握中ですっつって逃げて終わりか~?」
 足利さんが言うとおり、三並さんはマスコミからの質問に対しては多くは答えず「調査できしだい報告します」を繰り返していた。
 そもそも、この時点でセブンスフィアが記者会見を開く必要なんてない。贈収賄罪は、収賄は7年で時効になるけど、贈賄、つまりセブンスフィア側の時効は5年でもうとっくに過ぎている。それに強制捜査が入っただけで、北林が逮捕されたわけじゃないし。
 だからこのタイミングで記者会見を開くってことは、それなりの釈明とか言い訳とか、少なくとも現状報告くらいはすると思っていた。
 それなのに核心に触れるような内容は、一切ない。これじゃ、ただ責められるために開いたようなもんだ。
 なんのために記者会見なんてしたんだろう。
 そう思いながら中身のない質疑応答を眺めていると、進行係が「時間がきましたのでそろそろ会見を終了します」と強引に記者の質問を締め切った。
 そして三並さんがシメの挨拶とばかりにマイクを手にした。
『最後に、セブンスフィアの代表としてではなく、私個人としての意見としてお伝えしたいのすが』
 そう切り出して、まっすぐ正面を見据えた。
『今回、この北林氏との贈収賄疑惑について警察・検察に告発した衆議院議員の坂崎悠真氏に、心から敬意を表したいと思います』

「――――――え?」

 完全に、意表を突かれた。

「おい………この件で坂崎の名前は公表してないぞ!」
 当たり前だ。坂崎さんが告発したなんて、警察が公表するはずない。

『どういうことですか!? 坂崎議員が告発したということですか!?』
 一瞬静まり返った会場が、誰かの怒号のような声をきっかけに一気に騒然とする。三並さんはそれに動じることなく、一言一言を噛みしめるように続ける。
『今回の坂崎議員の行動は、人としての道義などを深く考える機会となり、また私個人の生き方を大きく変えるものでした。
 坂崎議員が告発に至るまでには多くの葛藤があったことと想像しますが、踏み切られた勇気に、心から感謝します。
 警察・検察には、坂崎議員の保護を強く望みます』

 眩しいくらいのフラッシュと叫ぶような記者たちの声を浴びながら、深く頭を下げる。
 そして顔をあげた三並さんは、何かを乗り越えたみたいに強い目をしていた。

 ――――殺されたって、愛してやる。

 その覚悟を見せ付けられた気がした。

 本当に、どうしてこの人はこんなに強いんだろう。
 どうして、坂崎さんを赦せるんだろう。

「サプライズにもほどがあるだろ…………何考えてるんだ、三並敦志は」
 足利さんが、呆気にとられたように呟いた。
 でも俺にはなんとなく三並さんの意図がわかった。記者会見を開いた理由が。
「少しでも坂崎さんの復讐を果たそうとしているんです、きっと」
「………坂崎の名前を出して?」
「そうです。これでマスコミはこぞって坂崎さんを探して、すぐに自殺未遂で重体だと突き止めると思います。そうなると当然坂崎さんへの取材が過熱して、北林の息子だってことも、殺された真奈美さんのこともマスコミが暴き出すのは時間の問題で、警察はこれまで隠蔽していた事実を公表せざるをえなくなるっていう流れです」

 坂崎さんとの関係が知られ、非難されるリスクを知りながら、三並さんはこの方法を選んだ。
 これが正しいかどうかなんて分からない。
 けど、強いと思う。

「なるほどなぁ。ここを出た時から、あいつはそのつもりだったのか」
 足利さんは会場を後にする三並さんの映像を見ながらそう言って、「それにしても」と感心したように付け足す。
「おまえ、頭いいなぁ」
「でも、それだけですよ」
 本当に、それだけだった。
 坂崎さんが何をしようとしていたのか知っていても、結局俺は目の前で苦しむ坂崎さんに何一つしてあげることができなかった。
 真剣にそう思って言ったのに、足利さんは冗談だと思ったのか、楽しそうに笑う。
「ははは、謙遜してるんだかしてねーんだか」
 そうひとしきり笑った後で、思い出したように。
「そうだ、いい知らせが2つあるんだ。1つ目は北林の事務所からアコニチンが見つかった。2つ目は、坂崎のアリバイが証明された」
 そんなこと部外者にペラペラ喋っていいのか、という問題は俺が聞きたいからこの際置いといて。
「アリバイって、綾瀬が殺された時の?」
 明け方に尾形が「坂崎さんは絶対に綾瀬を殺してない。アリバイもあるはずだ」と断言していた。坂崎さんの目的は北林を完全な悪役ヒールにすることで、殺される坂崎さんは絶対に「善人」じゃなきゃならないから殺人なんてするわけない、と。
「そ、秘書が口を割った。党内の反北林の議員と秘密裏に会っていたらしい。手を組んで新党でも旗揚げするつもりだったのかわからんが、党のお偉いさんに知られたらマズイから誰にも言うなって口止めされていたみたいだ。北林はもう失脚確実だし、隠す必要もなくなったってわけだな」
「そうなんだ…………」
 坂崎さんへの殺人容疑が晴れたんだからいいことなんだけど、手放しには喜べなかった。

 やっぱり、坂崎さんのシナリオは完璧だった。
 駆けつけたのが坂崎さんが死んだ後だったら、誰もが北林が坂崎さんを殺したと決めつけていたと思う。それしかないと信じ込むのに十分すぎるくらい、俺たちは坂崎さんに動かされていた。
 そしてそれが成功しようと、失敗しようと、坂崎さんは死ぬつもりだった。だから壊れたロボットみたいに復讐を実行しようとしたのかもしれない。
 そんなの、絶対に間違ってるのに。

 そして足利さんが、俺のその気持ちを知ってか知らずか、懐かしい思い出でも語るみたいに残酷なことを言う。
「もし坂崎劇場がシナリオ通りに進んでいたら、一番の被害者は三並敦志だったかもしれないなあ」
 その通りだ。
 今度は三並さんが、大切な人を殺した北林を恨んで、憎む。たった15年の懲役なんかじゃ足りないくらいに。
 坂崎さんはその辛さを三並さんに課そうとしていた。
 どうしてこんな残酷なシナリオを書いたんだろう。

「子孫を残すために最期の力を振り絞って川を遡る鮭を思い出すな」
 かなり唐突に、足利さんは何を思ったのか意味の分からないことを呟いた。
 ………鮭? これってツッコむところか?
 微妙に悩む俺を見て、にんまりと意味深な笑みを浮かべる。
「な、なんですか?」
 思わず身構えた。不気味すぎるんだよ、このおっさんの含み笑いって。
「いーや、なんでもない」
 そう言って立ち上がると、坂崎さんの様子を見て来ると言い残して出て行った。
 なんでもないわけねーだろ、あの顔は。何考えてたんだろ。

 つーか、足利さんって全体的に何考えてるのか分からない。
 部外者の俺に捜査状況を話したりとか、担当でもないのに坂崎さんの様子を見に来たり、昨日の現場に居合わせたりして、何が目的なんだろう。
 本当にただの暇つぶしか、何か別の事件と関係あるのか…………。
 そういえば坂崎さんがホテルで襲われた理由って、結局分からないままだ。坂崎さんが一番知りたがっていた、鹿島が殺された理由と繋がってるのかもしれない。
 それに坂崎さんの言ったことが本当なら、父さんと母さんは、坂崎さんが鹿島のことを相談した直後に殺された。

 やっぱり、坂崎さんは何か知ってる―――――?

 

尾形澄人

 あの日から半年が過ぎた、3月の終わり。
 俺と雨宮の視線の先には、敦志に車椅子を押され、茶道でも始めそうなほど姿勢よく座った坂崎さんがいる。その焦点の合わない目は満開の桜の、太い幹に向いていた。

 解離性昏迷かいりせいこんめい―――受け入れられないほどの苦痛や心的外傷体験などが原因で、ある一定時間、意識はあるが随意運動、知覚への反応、発語が欠如する精神疾患。

 坂崎さんがそう診断されたのは、あの復讐劇から3週間後のことだった。
 簡単に言うと、目を開いて起き上がっていても、音や光に反応したり、食事をしたり、言葉を発したりっていう、自発的な行動を一切とらないという症状だ。
 坂崎さんの場合、その状態が朝起きた瞬間から夜眠るまでの時もあれば、ほんの数時間だけの時もある。

 声をかけても、肩をたたいても、頬を抓っても反応もしない。
 それでも敦志は、坂崎さんの耳元に優しく話しかける。
 ここからは遠くて聞こえないけど、他愛のない話なんだろうと思う。
 敦志は返ってこない返事を待つわけでもなく、最後の力を振り絞るように咲き誇る満開の桜を眩しそうに見上げた。

 精神疾患専門のこの病院には、本数は少ないけれど立派な桜がある。
 その庭を見下ろせるこの病室は、ビジネスホテルの一室のような個室で、坂崎さんらしく綺麗に片付いていた。

「なんで、赦せるんだろ…………」
 パイプ椅子に座って窓枠に片肘をつき、桜色の階下を眺めながら、雨宮がポツリと呟いた。
「俺だったら、絶対に赦せないよ」
 坂崎さんの裏切りを、赦せないと言う。
 けれども、俺には敦志がどうして坂崎さんを赦したのか想像できる。
 本当に愛することを知っている人間になら、分かるはずだ。だから、今の雨宮には何を言っても分からない。
「だったら、復讐なんてするなよ」
 それだけ言う。
「しないよ」
 雨宮は2人を見つめたまま、きっぱりと言い切って、「でも」と続ける。
「そのかわり絶対に探し出して、警察に突き出して、死刑にしてやる」
 憤りを抑えるように。
 雨宮の中にある憎悪は、たぶん半年前と何も変わっていない。その感情だけは、坂崎さんや敦志のこととは無関係みたいだ。
 ま、自分の手で殺すなんて言わないだけ良しとするか。
「杉本さんに怒られない程度にな」
 冗談込みで言うと、雨宮は俺を上目遣いで睨んだ。
「それはムリだから」
「じゃぁ足利さんに怒られない程度に」
「なんでもOKってことだろ、それ」
 また睨む。まるで拗ねるように。
 もしかして。
「あれ、俺に危険なことはするなって止めてほしいの?」
 表情が固まって、一気に赤く染まると同時に顔を背けた。
「違う、尾形だって仮にも警察の人間なんだから少しは注意しろって話だよ」
 あぁ、やっぱり可愛いな。
「照れなくてもいいって。雨宮は『好きだったら少しくらい心配しろよ』とか思ってたわけか。それはかなり嬉しいな」
「だから違うって―――――」
「止めてほしいなら全力で阻止してやるよ。縛り付けて監禁してでもな」
 否定する雨宮にニヤッと笑って言うと、まだ少し赤く染まった頬を少し引きつらせた。
「ヤメロ。シャレになんねーから」
 シャレ、ね。
 俺がどんだけ心配していると思ってるんだか。
 それでもおまえがこの世界で生きていくためには、必要なんだろ?
「ま、雨宮の気が済むまで調べれば? 付き合ってやるよ」
 ポンと雨宮の頭に軽く手を乗せると、雨宮は驚いたように俺を見上げた。それから負け惜しみみたいに。
「物理的にも精神的にも上から目線がムカつく…………」
 色んなもの背負ってるくせに、こういうところは普通に17歳なんだよなぁ。
「どうとでも」
 そう折れてやると、また少しだけ不満そうな顔をして桜を見下ろした。

 この桜が散るころ、雨宮の新しい生活が始まる。
 大学に通い始め、いろんな人間の考え方や価値観を目の当たりにして、たぶんその天才的な頭脳でも解決できない困難に直面する。
 そんな時、今は犯人に向けられている雨宮の憎悪が、自分自身の運命や生い立ちに向くことが、俺にとっては一番の恐怖だったりする。
 俺とこの場所に、この時間にいることだけは、恨んでほしくない。

「サンキュ」

 雨宮が不意に、ぶっきらぼうに言う。

 知らずに顔がほころんだ。

 真実を知れば、その大罪を赦すことができるのだろうか。
 そして、その真実を知る時、雨宮の傍に俺が在ることを、心から誓う。