始まりの日

赦罪 - 31

雨宮陽生

 自分でも驚くくらい、冷静でいれた。
 ここに来るまでの怖さや緊張が嘘みたいに、心が落ち着いていた。
 たぶん、いろんなものが見えてきたから。
 坂崎さんが、本当にしようとしていたことが分かったから。

 偶然や成り行きなんかじゃなかったんだ。
 すべて、仕組まれていた。
 贈収賄の密告も、綾瀬が死ぬ前の行動も、坂崎さんと出会ったことも、俺達 が茅ヶ崎へ行ったことも。
 坂崎さんに操られていた―――――。

「本当のことを話してください、坂崎さん」
 一瞬驚いたような顔をした坂崎さんを、真っ直ぐ見据えた。
 坂崎さんはすぐに真顔に戻って、チラリと尾形の手元のコーヒーに目をやる。
「本当だよ。そのコーヒーに毒物を混ぜて北林に飲ませようとした」
 違う、それが嘘だ。
「そのコーヒーは北林のために入れたものじゃないはずです。北林がコーヒーが苦手だってことくらい、坂崎さんなら知ってますよね?」
 毒殺をしようってのに、わざわざ嫌いなものに混ぜるはずがない。
「おい……………それ間違いないのか?」
 尾形が、たぶん俺が考えていることに気付いて、それを確かめるように慎重に聞く。
「雑誌で読んだことがある。北林には絶対にコーヒーを出しちゃいけないのは党内じゃ有名な話って書いてあった」
 それなのに、坂崎さんが知らないわけがない。そもそも復讐を思い続けた相手の好みを、調べないわけがない。
 坂崎さんの眼を見据えると、そっと視線を伏せて苦笑した。
「そう。コーヒー嫌いだったんだ。君たちが来なくても、僕の計画は失敗だったんだね」
 …………まだ言うか?
「そんなの嘘です。
 坂崎さんは、北林に殺されたように偽装して自殺するつもりだったんですよね。今度こそ、北林を殺人犯にするために」
 それが、坂崎さんが実行しようとした復讐。
 北林を殺すことよりも、自分の死をもって北林に復讐することを選んだ。
「自分の命を犠牲にしてまで―――? ………そうなんですか? 坂崎さん」
 杉本さんの、どこか否定的な問いかけに、坂崎さんは小さく口角を上げた。
「そんなわけないでしょう? 雨宮君が考えすぎなんです」
 違う。そうじゃない。
 坂崎さんは嘘をつくとき、微笑うんだよ。
「なんで認めないんですか。そんな見え透いた嘘ついたって―――――」
 誰も幸せにならない、そう言おうとした俺を、三並さんが静かに遮った。
「雨宮君の考えを、聞かせてもらえないか?」
 坂崎さんに向けたままの視線が、ゆくりと俺に向く。
「何が嘘なのか、悠真が何をしようとしていたのか、教えてくれないか」
 そう射るように俺を見た三並さんには、俺が想像していた悲痛さなんてどこにもなかった。
 毅然と、事実に向き合おうとしているように見えた。

 こんなふうに目を逸らさない強さはどこから来るんだろう。
 こんなにも強く坂崎さんを思う三並さんを裏切るのは、酷すぎるよ、坂崎さん。

「ずっと、どうして坂崎さんは綾瀬のことを尾形に相談したんだろうって考えてました。綾瀬を殺したんなら相談するわけないし、逆に殺してなかったとしても、相談することで真奈美さんの日記や強請られていたことがバレて坂崎さんが疑われる。どっちにしてもメリットなんてないって。でも――――」
 その当たり前すぎる考え方が、間違ってた。
「坂崎さんは、綾瀬が死んだことを利用したんですよね」
 俺の言葉が届いているのか、それとも完全に無視するつもりなのか―――坂崎さんは視線を伏せ、何も言わなかった。
 そのかわりに、杉本さんが疑問を口にする。
「利用って、綾瀬にアコニチンを渡して北林を殺させようとしてたんじゃないのか?」
 俺もそうだと思っていた。ついさっき、ここに来るまでは。
「違ったんです。坂崎さんが綾瀬にさせようとしていたのは、北林を殺すことじゃなくて、アコニチンを北林の持ち物に紛れ込ませることだったんだと思います」
 そう考えれば、すべての辻褄が合う。
「なんでそんなことを――――」
 そう眉間に皺を寄せる杉本さんに、尾形が逆に聞く。
「坂崎さんの復讐は、北林を坂崎さん殺害の罪で逮捕させて有罪に持ち込むことだ。じゃぁ、被告が否認する殺人罪を有罪にするには、何が必要?」
「そりゃぁ、物的証拠と、確実な目撃証言と動機があれば、本人が否認しても有罪に持ち込めるが」
 当然すぎて聞かれること自体に意味があるのかとでも言うように答える。
「正解。さらに言うと、物的証拠で一番攻撃力が高いのは、凶器だ。今回の場合、凶器はアコニチン。つまり、北林がアコニチンを持っていたっていう状況を、坂崎さんは作ろうとしていた」
「だが綾瀬は北林の荷物に紛れ込ませるのに失敗したと考えるのが自然だろ? 日記と一緒にアコニチンもコインロッカーから見つかったんだから」
「そうだね。でも、坂崎さんが綾瀬と連絡が取れないと警察おれに相談したことで、綾瀬との関係を北林が勘ぐった。そのおかげで当選して1年にもならない新人議員が党の最高幹部と接触する機会ができたってわけだ。翌朝北林の事務所に呼ばれた坂崎さんは、その時にアコニチンを置いてきたはずだ。
 だろ? 坂崎さん」

 ここまでバレてるんだから、もうやめろよ。
 そう言い伏すみたいに尾形が言う。
 それでもやっぱり坂崎さんは眉ひとつ動かさず、唇をキュッと閉めたままだった。

 何を考えているんだろう。
 何を言えば、届くんだろう。

「坂崎さんが綾瀬のことを尾形に相談したことは、北林と接触する機会ができたこと以外にもいろんな効果がありました。
 殺した人間がわざわざ相談するはずがないという先入観を警察に持たせたこと、尾形が坂崎さんの過去を調べて北林との親子関係を知ったこと、そして綾瀬が隠していた真奈美さんの日記が見つかって綾瀬殺害の容疑が坂崎さんに向けられたこと」
 すべてが、坂崎さんの思い通りに動いた。
「おいおい………わざと疑われるように仕向けたってのか?」
 足利さんが呆れたように言う。
「はい。筋書きは、こうです。
 今日、この部屋で坂崎さんは北林に過去の罪や真奈美さんの事件の真相とかを突きつけて、アコニチンを飲んで自殺するつもりだったはずです。
 目の前で坂崎さんが服毒自殺なんてしたら、北林は絶対にここにいなかったことにする。なぜなら坂崎さんに、それも死に際に関わっていたなんて知れたら、自分の息子だったことも、綾瀬が真奈美さんを殺した動機が北林を守るためだということも警察が突き止めるかもしれないから。
 総裁選直前にそんなことが知られたら、総理どころか国会議員を続けることもできなくなる。だったら当然、坂崎さんとは会わなかったことにしようと考えますよね。だから北林は指紋を拭き取ったり、秘書にアリバイを証言させたりして、隠蔽工作に走るはずです」
「目に浮かぶなぁ…………」
 足利さんが不愉快そうに顔をしかめた。
 本当に、なんの罪悪感もなく保身のためだけに事実を隠そうとする北林が、リアルに想像できる。
「でもいくら北林が隠しても、2人が親子関係だったってことは尾形が調べて分かっているし、綾瀬を殺した疑いで坂崎さんを張ってた刑事がこのホテルで北林を見る可能性が高い。この情況証拠だけで、警察は間違いなく北林を疑いますよね。それに北林がこの部屋から指紋を消したことで、そのコーヒーを坂崎さんが入れたという証拠まで消されたことになる。この時点で北林は圧倒的に不利になります。
 そして、ダメ押しに坂崎さんが密告した贈収賄で北林に強制家宅捜索が入って、前もって紛れ込ませたアコニチンが見つかる。坂崎さんが売人から買ったものだと警察が突き止めていても、坂崎さんが自殺だったら残りのアコニチンは現場に残ってるのが自然だから、警察は北林が証拠を隠すために持ち帰ったと考えるはずです」

 これが坂崎さんの描いたシナリオ。
 用意周到に、きっと何ヶ月もかけて慎重に計画を立てて、何重にも伏線を張っていた。
 それに坂崎さんのことだから、警察が否定できないほどの証拠を積み上げるために、他にもいろんな用意をしていると思う。

「つまり、北林がなんと言おうと『北林が坂崎さんを殺した動機と目撃者と物的証拠』が完璧に揃うんです」

 殺すなんていう、単純な復讐じゃない。
 23年前の母親を殺した罪と、北林が決して裁かれることのない真奈美さんを死に追いやった罪、そして実の子供を冷酷に切り捨てた罪。
 法がゆるした罪を、法で断罪しようとした。

「なるほどねぇ。誠実で誰にでも好かれる坂崎先生は、母親も妹も殺された上に、ようやく成功を手にしたところで綾瀬に強請られ、挙句の果てには実の父親に殺されたってか。世間はあっという間に坂崎さんに同情するだろうなぁ。
 逆に北林は、証拠隠滅を図った上に犯行を否認して、公判でも情状酌量の余地なし、懲役15年ってところか。北林が暴れれば暴れるほど雁字搦めになる。………蜘蛛の巣みたいだな」
 そこまでするか、とでも言うように足利さんが呟いた。

 北林から権力も名声も奪い、総裁最有力候補という地位から地獄に引きずり落とす。
 権力の頂点を目の前にし、何もかも思い通りにしてきた北林にとって、身に覚えのない殺人を罵られることは、何よりも耐えがたい屈辱だと思う。

 でも、坂崎さんの憎しみとか悔しさとか、復讐を望む気持ちも痛いほどわかる。
 何年前だろうが、人を殺したらそのくらいの罰は受けて当然だ。
 むしろ、こんなんじゃ足りないくらいだ。

 ただ。
「ただ、唯一の誤算は、三並さんですよね」

 それまで感情の見えなかった坂崎さんの眼が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。

 不思議なくらい、ほっとした。
 坂崎さんの中には、まだ残っている。
 マンションから坂崎さんの荷物がなくなってると気づいた三並さんと、そのリスクを押してでも三並さんを巻き込むことを拒んだ坂崎さんの思い。
 俺達 がここに来れたのは、2人のお互いを思う気持ちがあったからだ。

 だから、坂崎さんは裏切っちゃいけない。
 事実を曲げて、殺人犯になんかなっちゃいけない。
 たとえ三並さんがそれを許したとしても。

「殺したいって思う気持ちは、実際にその一線を越えてしまうこととは、違いすぎます」

 きっと坂崎さんはそれを知っているから、殺すという手段じゃなく、自分が死ぬことで復讐する方法を選んだ。
 人を殺すという行為が、最大の裏切りだと分かっているから。

 坂崎さんは一瞬何かを言いかけて、それから儚げに微笑んだ。
「殺人未遂だよ。だから、早く逮捕してくれないかな。本当のことを話すから」
 やっぱり、俺の言葉は通じないのか。

 坂崎さんは殺人未遂で逮捕されて、裁判で真相を話すつもりだ。
 自殺だったとなると、坂崎さんは起訴されることはない。それに過去の事件には警察の職務怠慢ががっつり絡んでるわけだから警察だって今回の騒ぎを隠蔽しようとするから。だから殺そうとしたことにする。
 俺達がここに乗り込んできた時点で、きっと何の躊躇いもなくシナリオを変えたんだ。
 そして誰がなんと言おうと、その最後の賭けみたいな復讐を、強引に実行しようとしている。

 その覚悟を示すように、坂崎さんは三並さんを射るように見つめた。

「だから、敦志とはもう一緒にいられない」
 三並さんに向けた強い眼差しとは反対に、その声はひどく震えていた。

 けれども三並さんは、嫌味なくらい平然と、本当につまらないプレゼンを聞いた後みたいに。
「で?」

 で、って………?
 思わず、三並さんの顔をまじまじと見てしまった。
 ここにいた全員がその言葉に意表を突かれたように三並さんを見た。当の本人はそんなことはお構いなしに、腕を組んで続ける。
「だから、なに?
 おまえにとって俺よりも復讐が大事だったとして、俺がおまえを捨てるとでも思ってるのか? そもそも俺が悠真の考えてることが分からないとでも思ってるのか? 坂崎悠真が自分を犠牲にして生きてきた人間だと、知らないとでも思ってるのか?
 おまえは俺を裏切ったんじゃない。おまえの俺を思う気持ちを、犠牲にしただけだろ」

 羨ましいくらい自信に満ちた態度。
 三並さんは「誰に何を言われようと」を本気で地でいってる人間なんだ。きっと、必要だと思ったら坂崎さんとの関係をマスコミに公表することだっていとわない。

「俺は、おまえが何をしようが、どうだっていいんだよ――――おまえに殺されたって、愛してやる」

 その言葉は、非現実的で、くさいドラマみたいなのに、なぜか心に刺さった。
 けれども、三並さんがどういう気持ちでそう言っているのか、俺には一生わからないような気がした。
 人を殺すということが、どういうことなのかを知っているから。
 俺には、絶対に許せないことだから。
 坂崎さんは、俺と同じ痛みを背負っている坂崎さんは、三並さんの気持ちに応えるんだろうか。

 真っ白だった坂崎さんの頬に、血が通い始めたような気がした。
 冷めた眼に、涙が浮かぶ。
 それを隠すように、ぎこちなく微笑んだ顔が、崩れた。

 怖いほど幸せだと言った、あの時の顔を思い出した。

 そして、唇が震えながら薄く開いた。

 きっと、本当のことを話してくれる。
 北林も綾瀬も殺していないと、話してくれる。

 その確信のような期待は、現実にはならなかった。

「――――――嘘みたい」

 え――――――?

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

「ハッピーエンド……んだ―――………」

 かすれた声でそう言った坂崎さんの体が、ゆっくりとくの字に折れる。
 三並さんが反射的にすくい上げるように坂崎さんを支えて、お互い膝をついて抱き合うような形で止まった。
 そして、坂崎さんの顎から何かが伝って三並さんのシャツに落ちた。

 活字が脳裏に浮き上がった。
『アコニチンの初期症状には、口腔の痺れ・麻痺、めまい、灼熱感があり―――――』
 ――――って、つまりコレだろ!?

「なんで!? 飲んで―――――っ! カプセル!?」
 このタイミングで症状が出るってことは、あらかじめカプセルに詰めて飲んでたってことか!
 こんなのって、ありかよ!?

「杉本さん病院! 大至急正面にパトカー!!」
 尾形が坂崎さんの肩を後ろから支えながら怒鳴るように言う。
「了解!」
「足利さんロビーにいる奴にAED用意させて! あと水分なんでもいいから持って!!」
「雨宮タオル持って来い! 車ん中で吐かせるから!!」
「悠真、なんでこんなっ――――」

 三並さんに支えられて上半身を起こしたまま、嗚咽するように咳き込む。
 紅潮した肌に、じっとりとした汗が滲む。
 呼吸が浅くなっていく。
 ついさっきまで、普通に話していたのに。
 微笑ったのに。

 人が、強制的に命を絶たれる瞬間。
 その生々しさを、思い出した。