始まりの日

赦罪 - 30

尾形澄人

 坂崎さんは、偉そうにソファに座る北林の正面に立ち、冷ややかに見下ろした。

「23年前、あなたが何をしたのか、覚えてますか」

 敦志に、今まで隠し続けていた醜い感情も何もかも、曝け出すつもりなんだろう。
 すべてを失う覚悟で。

「23年前? そんな昔のことは覚えてるわけないだろ」
 頬を引きつらせながら目も合わせず即答する北林は、どこか滑稽に見えた。
 これほどの覚悟をした人間の前で、どうしてこんな軽々しい態度をとれるんだろう。2人の温度差を思うと、坂崎さんのこの23年間はなんだったんだろうと、虚しさすら感じる。
 だからこそ、坂崎さんは許すことができないのかもしれない。

 本当に、これが坂崎さんなのか。
 そう疑ってしまうほどの、氷で刺すような感情を滲ませた。

「では、ドルチェの良子に息子がいたのを、覚えてますか」
 その名前に、ようやく北林の顔色が変わった。
「りょ…………おまえ、まさか!」
 目を見開いて青ざめる北林に、坂崎さんはうっすらと冷笑を向けた。

「あなたは、僕の目の前で母を殺したんです」
 は? 目の前で?

「な、なにを言ってるんだね! 私がそんなことを――――」
 必死でごまかそうとする北林を、坂崎さんの冷静な言葉が遮る。
「今でも、鮮明に覚えています。
 母を殴って気絶している間に、あなたは自殺に見えるように母の首を吊った。僕は妹を抱きながら、あなたに必死で母を助けてと何度も頼みましたよね。
 けれどもそんな僕たちを跳ねつけて、あなたはこう言ったんです。『妹も殺されたくなかったら、誰にも言うな』」

 たった6歳で………いや、6歳だからこそ今まで誰にも言わずにいれたのかもしれない。
 一途に妹を守ろうとする気持ちがあったからこそ、憎悪に流されないように耐えるしかなかった。
 雨宮みたいに忘れられたら、どんなに楽だったか。

「嘘だ! でたらめだ! たとえ本当だったとしても、23年も前なら時効だろう!」
 興奮して立ち上がり、図星と言わんばかりに声を荒げる北林に、坂崎さんは淡々と続ける。
「時効? ふざけないでください。
 突然母親を目の前で殺されて、必死で知らない道を歩いた僕たちの気持ちがわかりますか? ようやく手に入れた幸せを、つまらない地位や名誉のために奪われた真奈美の気持ちが、あなたなんかに分かるわけがない!」
 両手を強く握り締めて言い捨てる。
 張り裂けそうな心を必死で繋ぎ止めるようで、その痛みが容赦なく伝わってくる。

「法が裁かないのなら、僕がこの手で裁くしかないでしょう?」

 赤い眼を、思い出した。
 あの夜、横たわる父親を前にした4歳の子供と同じ、憎悪に染まった眼。
 6歳の坂崎さんが、同じように赤い眼で母親が殺されていくのを見る光景が重なった。

「もっと、もっと早く裁くべきだった。真奈美が殺される前にっ――――」

 坂崎さんの掠れた言葉を止めたのは、敦志だった。
 強く、後ろから坂崎さんを抱きしめた。

「もういい悠真。もう、終わりにしよう」

 終わり――――23年間も続いた憎しみを、終えることができるんだろうか。
 敦志への想いさえも振り放って復讐を望んだ坂崎さんが、そんな言葉で納得するんだろうか。

 坂崎さんは、敦志の腕をそっと外し、身を返して向き合った。
「僕は、敦志も利用していたんだ。こんなふうに優しくされる資格はないよ」
 利用?
「おまえ何言って………」
 困惑する敦志を遮るように、杉本さんが口を開いた。
「セブンスフィアと北林の贈収賄をタレコんだのは、君だね」
 は?
「なんだそれ、どういうことだよ!?」
「うちが贈収賄?」
「君、何を言ってるんだ! そんな事実はない!!」
 俺と敦志と北林が同時に突っ込むと、杉本さんが勢いに押されて後ずさった。それをフォローするみたいに、足利さんが説明する。
「2001年から2003年に、郵便局公社化に伴う公共事業がセブンスフィアに発注されてる。当時、郵政大臣だった北林センセイはその口利きをして、見返りに8千万以上の金を受け取ったんですよねぇ?」
 20cm近い身長差で足利さんに威圧的に見下ろされ、北林は忌々しそうに目を吊り上げた。
「フン、でたらめだ。作り話もいいところだ」
 落ち着いて見せてるけど、浅黒い肌から面白いくらい汗が吹き出てる。
 そして足利さんの次の一言が、北林のとどめを刺した。
「残念ながら、皆川会の深川賢治が洗いざらい自供しちゃったんだよねぇ」
「な、に――――…………」
 充血した目を見開いて、よろけるようにソファにへたり込む。

 収賄に、隠し子に、殺人犯の元秘書。
 北林は、もう終わりだ。

「三沢、日比野、北林を連れて行け」
「はい」
 杉本さんの指示を受けた2人が、愕然とうなだれる北林の両脇を抱え、引きずるように部屋を出て行った。それを見送りながら、杉本さんがホテルの従業員に丁寧に礼を言って追い払う。

 ドアが閉まると、裁判でも始まる前みたいにシンと静まりかえった。
「さてと、人払いもできたところで、本題に入りましょうか」
 と、足利さんがどこか呑気に仕切り直しながら坂崎さんのほうを向いた。
「坂崎さんは、北林とセブンスフィアの癒着を噂で聞いて、三並さんの自宅からセブンスフィアの社内ネットワークにアクセスして、過去の株の売買データを盗んで警察に送ったってところですかねぇ。未公開株の取引内容は本社にしか残ってないはずですし」
 株の売買データか。
 セブンスフィアが上場したのが2002年。北林はセブンスフィアの上場前の株をもらって、上場直後の高騰を狙って売却して金に換えたってわけか。未公開株を利用したありがちなインサイダー取引だ。
 皆川会の深川は、金の流れを不透明にするための仲介役だったんだろう。ヤクザが喜びそうな話だな。
 坂崎さんが前にセブンスフィアが暴力団と繋がってるって言ってたのも、そのことだったのかもしれない。
 アラートは出てたってわけか。

 坂崎さんは静かに頷くと、甘い言葉でも囁きそうなほど穏やかに敦志を見た。
「4年前に敦志に近づいたのは、北林に復讐するため。贈収賄の証拠を手に入れるために敦志を利用したんだ」
 なんでそんな残酷な嘘を、そんな顔で言えるんだろう。
 敦志は何も言わずに、真意を見定めるように坂崎さんを見つめていた。

「どうして、そこまでして復讐なんか………」
 杉本さんにとっては素朴な疑問でも、それは坂崎さんにとっては残酷な質問だったのかもしれない。
 薄く息を吸ってから、覚悟をしたように淡々と話し始めた。

「僕が小学校に上がる少し前、母が何度か電話で言い争ってるのを聞きました。今思うと、北林に養育費を出すように頼んでいたんでしょう。入学の準備で金が必要だったんだと思います。いくら母子家庭で補助金が出ると言っても、借金がありましたし、真奈美はまだ2歳で母は思うように働けなかったでしょうから」
「真奈美―――さっき殺されたって言ってたのは、妹だったのか?」
 やっぱり敦志は何も知らないのか。
 坂崎さんは敦志に一瞬だけ眼を向け、小さくうなづいて続けた。
「父親が誰だったのかは今でもわからないけど、真奈美が生まれてから、僕の中心は真奈美になった。本当に可愛くて、仕事で遅くに帰ってくる母を1人で待っていた僕にとっては、唯一僕の寂しさを和らげてくれる、誰よりも大切な妹でした」
 家を空けがちだった母親の代わりに、小さな体で必死で慣れない子育てをしたんだろう。
 でも坂崎さんのことだから、そんなのは苦にもならなかったんだろうな。
「北林が来たのは、雪が降りそうな寒い日でした。
 母は少しでいいから養育費を出してほしいと、泣きながら北林にすがり付きました。見ているほうが怖くなるくらいに必死で、そんな母に手を上げた北林を、僕は敵だと思った。体当たりして無我夢中で北林を追い払おうとしました。けれどもたった6歳の力で適うわけもなく、北林が僕を殴ろうとしたとき、母が身を挺して僕を庇って…………」

 流れるようだった言葉が、突然途切れる。
 そして、息を呑むような沈黙のあと、淡々と続ける。

「気を失った母を、首吊り自殺にするために偽装工作をして帰った」

 息のある母親を、子供の目の前で吊り下げたのか。

 殺人を犯す人間の「悪」を目の前に、たった6歳の子供が立ち向かえるわけがない。
 北林が放った『妹も殺されたくなかったら、誰にも言うな』という命令は、幼い坂崎さんにとっては何よりも絶対だったんだろう。妹を守るために、母親の死の真相を誰にも打ち明けることなく時効をむかえ、23年もの間耐えていた。

 けれども、そうやって守り抜いた妹さえも、殺された。

「以前は、鹿島のような真っ直ぐな政治家がいる一方で、北林のような私利私欲に駆られた政治家がいることが許せないという思いのほうが強かった。だから金銭スキャンダルをマスコミに流して辞任に追い込もうと思いました。それで癒着の噂があったセブンスフィアを探ろうと、敦志に近づきました。敦志は面白いくらいに僕を信用してくれたから、とても楽だったよ」

 そう敦志に微笑む坂崎さんは、この前とはまるで別人みたいだ。
 あの時の屈託のない笑顔は、嘘だったって言うのか。

「でも、3月に真奈美が殺されて、僕の中で何かが変わり始めました」

 敦志の両手が、苦痛と悔しさを抑えるようにきつく握り締められた。
 何も知らなかった、何もできなかった、そして坂崎さんは何も話してくれなかった。
 俺が敦志だったら、たぶん坂崎さんを責める。どうして俺の存在を無視したんだと。けれど、敦志は何も言わずにまっすぐ坂崎さんを見つめていた。
 その視線の鋭さから逃げるように、坂崎さんは俺を見た。
「日記は、見つかったよね?」
「ああ。綾瀬の使ってたコインロッカーで見つかった」
「じゃぁ、僕と綾瀬の関係も――――」
「調べはついてるよ。9年前の火事の日、坂崎さんは何したわけ?」
 本当に坂崎さんが火を放ったのか。真奈美の養父母を、殺したのか。
「何もしてなかったら、綾瀬に脅されるまま大金を振り込んだりなんてしないよ」
 そんな曖昧な答えなんて俺は求めてない。
「あの日記の表現はかなり曖昧だ。何もしてなくても『したに決まってる』と思われても仕方ないだろ。つまり、坂崎さんが何もしていなかったとしても、坂崎さんの立場を脅かす効力は有り余るほどだと思うけど?」
 殺意があったのか無かったのかはっきり言え、と圧力をかけたつもりだった。
 けれど、坂崎さんの顔つきが変わった。
「そうだね。だからこそ綾瀬は、自分が殺した女の兄を強請ろうなんて考えたんだろね」
 話をすりかえるなとは言えなかった。
 坂崎さんの目が、あまりにも憎しみに満ちていたから。
「そんな人間は生きる価値なんてない」
 吐き捨てるように。

「死んで当然でしょう?」

 その刺さるような冷たさに、ぞっとした。
 憎しみで心が痛いほど冷たくなって、麻痺してるみたいだ。

「だから、殺したのか――――?」
 杉本さんが低く聞く。
 坂崎さんは、その問いに小さく頷いた。

 綾瀬司朗を殺したと認めるのか?

「尾形君たちが綾瀬の遺体を見つけた日、北林に呼び出されました。その時、初めて僕は北林と直接話しました。
 彼は、何を言ったと思いますか? 15年も自分の秘書をしてた綾瀬の死を悼むどころか、綾瀬が僕に何を話していたのか、北林に不利なことを話していなかったか、そればかりを気にして、僕に探りを入れるために呼んだんです。
 その時、何もかもが、どうでもよくなりました」

 自分の人生も、敦志さえも―――――。

「北林を殺そうと思いました」

 躊躇のない口調は、坂崎さんの決心を映し出しているように思えた。
 坂崎さんの23年の人生を賭けて出した、結論なんだろうと。

 間違っている。
 ここにいる誰もがそう思っているはずだ。それなのに、否定することができなかった。
 出した結論は間違っていたとしても、その過程はあまりにも辛く、壮絶で、賭けたものの重さは計り知れない、あまりにも強すぎる覚悟。
 その賭けに負けた坂崎さんは、これから何をかて に生きて行けるんだろう。
 その上、復讐そのものまで否定したら、坂崎さんが生まれてきたことさえも、否定してしまうんじゃないか。

 そう思うと、かける言葉が見つからなかった。

 けれども、雨宮がその芯の強い眼でまっすぐ坂崎さんを射抜いて、否定した。

「どうしてそんな嘘、つくんですか」