始まりの日

赦罪 - 29

雨宮陽生

「紀尾井町ホテル! 大至急!!」
 尾形が俺をタクシーに押し込んで叫ぶように告げた行き先を聞いて、さっき尾形が杉本さんに言ったことが現実になる怖さを感じた。
 それから尾形はタクシーが走り出すのも待たずに、手にしていた携帯を耳に当てる。
「紀尾井町ホテルにいる。警察も向かってる。来たかったら、来い」
 相手は、たぶん三並さんだ。
 尾形が前置きも何も言わないって事は、三並さんはもう坂崎さんが何をしようとしてるのか知ってるのかもしれない。

「すべてを失うかもしれないけれど、真実が知れる」

 その尾形の突き放すような言葉は、大切な人を失う覚悟があるのかと、そう試しているように聞こえた。
 坂崎さんには、あったんだ。
 すべてを失ってでも、成し遂げようとする覚悟が。
 本当に、坂崎さんは北林を殺そうとしてるのかもしれない。

 っていうか、どうして急に尾形は坂崎さんが復讐を実行しようとしてるなんて思ったんだろう。
 何も話してくれないから判断材料がなさ過ぎる。
 昨日もそうだったけど、なんで尾形は直前まで重要なことを話してくれないんだよ。振り回すんだったら責任持てっつーんだよ。

「で、そろそろ俺にも説明しろよ」
 携帯を下ろした尾形を睨みつけると、尾形は一瞬俺の顔をマジマジと見て――――。
 柔らかく笑った。

 ドクン、と心臓が大きく揺れる。

「―――――っなんで笑うんだよ!」
 今さらそんな顔するか?! しかもこの状況でっ。
 焦って怒鳴りつけると、今度はいつも通り皮肉っぽく口角を上げた。
「俺、雨宮のそういうところが好きなんだと思って」
「はあ!?」
 そういう慣れた軽い言葉がムカつくんだよ。どうせ誰にでも言ってるくせに。
「こんな時に言うことかよ」
「こんな時だからこそ、だよ。こんな状況だから、雨宮がいてくれてよかった」
 そう囁く尾形の声が、急に耳元に近くなっる。

 うわ、待て! ここでキスはありえねーだろ!?
 反射的に抵抗しようと全身に力を込めた瞬間、尾形がそのまま低く続けた。

「坂崎さんが死のうとしてるって、敦志から連絡あった」

 ――――――え?

 思わず振り向くと、ほんの数センチ先に尾形の冷静な眼があった。
「敦志の家から坂崎さんの荷物が綺麗さっぱり消えてて、それに気付いた敦志の、ただの直感だけどね。それとアコニチンの売人が、坂崎さんに売ったって自供した」
「マジで――――?」
 坂崎さんがアコニチンを買っていた?
 それじゃ、綾瀬が持っていたのは――――。
「坂崎さんは、綾瀬にアコニチンを渡して、北林を殺させようとしていたんだろうね。けれど失敗して、今度は自分の手で殺して、自殺しようとしてる。そう考えるのが妥当な線だろうな」
 そしてタクシーのシートに背をつけ、正面を見据えて続ける。

「今この瞬間に、復讐しようとしているのかもしれない」

 複雑に絡んでいた糸がするりと解けると同時に、坂崎さんの暗闇の深さがわかったような気がした。

 その感情は、俺にも痛いほどわかる。
 どうやったら心の底から湧きあがる憎しみを抑えられるのかわからない。
 あんな奴らは死んで当然だと、大声で言ってやりたい。
 同じ目に合わせてやりたい。
 どんなに命乞いしたって、許さない。
 許せない。

 けれど誰かのたったひと言で、その一線を越えずに済む。

 それでも、大切な人が隣にいても、その人が傷つくと知っていても、歯止めがきかないほどの憎悪が、坂崎さんの中にはある。
 すべてを失うと分かっていても止められない憎悪が。

 それは酷く哀しくて、退廃的で、胸をえぐられるように、寂しい。

「坂崎さんから、目を背けるなよ」
 ふいに尾形が呟くように言う。
「泣きたくなったら、肩くらい貸してやるから」

 どうして尾形は、俺が欲しい言葉を言うんだろう。

 たとえ最悪な結末が待っていたとしても、俺はその事実を見届けなきゃいけない。
 坂崎さんは、俺だから。

尾形澄人

 タクシーを降りてホテルのロビーに駆け込むと、フロントで杉本さんと一課の刑事2人が従業員と話していた。こっちのが早いと思ってたけど、さすが警察だ。
「杉本さん! 部屋は!?」
 広いロビーの真ん中で声を張り上げると、そこにいた全員が一斉に振り向いた。
「1415号室だ! 日比野、行くぞ!」
 杉本さんは答えると同時に、刑事を1人を残してフロントのスタッフとエレベーターに走った。それを追ってちょうど開いたエレベーターに駆け込むと、日比野が14階のボタンを強く叩いて俺を睨んだ。
「なんで尾形とこのガキがいるんだよ」
「日比野、おまえは黙ってろ」
 珍しく俺よりも先に杉本さんが日比野を抑えつけた。
 さすがに杉本さんも事の重大さに気付いたか。こめかみから流れる大粒の汗をハンカチで拭きながら腕時計を見る。
「北林の会合は19時25分に終わっている。秘書はその後裏口から1人で帰ったと言ってるが、裏口の警備員は北林を見ていない」
 握り締めたままの携帯のディスプレイは、19:57。
 まずいな………もう30分以上経っている。

 大学の医学書で読んだアコニチン中毒の処置を、記憶の奥から引っ張り出した。
 ――――アコニチンには解毒剤がなく、摂取後約10~20分程度で症状が顕れる。初期には全身倦怠感、口唇の痺れ、灼熱感や嘔気があり、約1時間でショック症状(血圧低下、心室性不整脈、呼吸困難など)により死に至る。早急に胃・腸洗浄、吸着剤・下剤の投与を行い、呼吸筋麻痺の恐れがあるため、呼吸管理を行う。
 心室性不整脈には抗不整脈剤を投与するが、効果のない場合は心肺補助装置PCPSを使用し、循環動態の安定をはかる。

 つまり、体液の循環をできるだけ早めて毒素を体外に排出させながら、起こった症状に1つ1つ対処していくしかない。
 がんばれ、としか患者に言えない毒だ。
 北林はともかく、自殺真っ只中の人間にそんな言葉が通じるわけがない。

 たった数秒の移動が、どうしようもなくもどかしい。

「あああああ!! クソッ!」
 ガンッとエレベーターの壁を殴りつけた瞬間、ドアが開いた。
「落ち着けよ、尾形」
 杉本さんが俺の肩に手を置いて、先に下りた。
 落ち着いてなんて、いられるわけねぇだろ。
 この瞬間に、取り返しのつかないことになっているかもしれない。
「こちらです」
 ホテルの従業員が案内する方へ走りながら、ドアの部屋番号を追った。
 シンとした廊下に、5人の足音と息遣いが響いた。
 静かすぎて、胸騒ぎが際立つ。

「1415! ここか!」
 従業員と並んで先頭を走っていた杉本さんがドアを乱暴に叩く。
「警察です! 開けてください!!」
「坂崎さん!? いるんだろ!」
 ガチャガチャとドアノブに手をかけて、声を荒げる。返事なんて待ってる余裕はない。
「鍵は!?」
「あっ、はい!」
「早くしろよっ!」
 周囲の迫力に押された従業員が、震える手でカードキーをドアノブの上に差し込む。

 頼むから、無事で――――!

 カチャ、と音を立てて鍵が開くと同時に、一斉に部屋に飛び込んだ。

 ネクタイを緩めた北林が、ソファに深く座ったまま目を見開いてこっちを見ていた。
 そして俺たちの正面、夜景が広がる大きな窓を背に、どこか悠然と立つ坂崎さんがいた。
 その手には、コーヒーカップとミネラルウォーターのペットボトルを持って。

「な、なんだね君たち!!」
 ソファから立ち上がった北林将岱が、人相の悪い顔を引きつらせて怒鳴り声を上げる。
 北林の前のテーブルには、まだ何も出されていない。

「間に合ったか――――…………!?」

 杉本さんの第一声を聞いて、一気に体中の力が抜けたような気がした。
 雨宮が肩で息をしながら、ホッとしたように「よかった」と呟く。

「い、いったい何の真似だ、無礼にもほどがあるだろう!」
 北林が手にしていた携帯を投げつけんばかりに興奮してでかい声で怒鳴り散らす。坂崎さん以外の全員がジロリと睨みつけると、一瞬うろたえる表情を見せた。
 その北林に、杉本さんが丁寧に一礼した。
「突然押しかけてしまい、申し訳ありません。警視庁捜査一課の杉本と申します。詳しい話は後ほどしますので、部屋の外でお待ちいただけますか」
 自分たちの非を認めつつ、けれども有無を言わせない口調で言う杉本さんに、北林は不満そうに目を吊り上げ、威圧的に正面に立った。
「なんで一課がこんなところに来るんだ。綾瀬のことなら、秘書を通して改めて時間を作りなさい」
「いえ、綾瀬の件ではありません。とりあえず、一度部屋の外に出ていただけませんか」
 ある意味、公務員にとって最大の上司にあたる男に対して、一歩も譲らない態度で言い切る。
 杉本さん見直したよ。あんた、カッコいい。
「たかが刑事が偉そうに指図するのかね。一課の杉本とか言ったな。私は君のクビを切ることなんか簡単なんだぞ」
 たかが………ね。
 こいつ、1回死んだほうがいいな。
 坂崎さんの気も知らずに人を見下す北林を見てたら、緊張が溶けていろいろバカらしくなってきた。
 北林との意思疎通はさっさと諦めて、坂崎さんと話したほうが早いな。

 呆然と立ち尽くしたままだった坂崎さんに歩み寄って、その人形のような手を1本1本剥がすようにカップとペットボトルを引き取った。
 背後で杉本さんと北林があーだこーだ言ってて煩いのに、坂崎さんの中の時間はまるで止まってるみたいだ。
 冗談でも大げさでもなく自分の命を賭けた復讐が阻止されたわけだから、絶望に近いものを感じているのかもしれない。
 けれども、そんなのは一瞬だ。
 絶対に、誰がなんと言おうと「殺さなくて良かった」と思える日が来る。

「なぁ、坂崎さん。俺たちが来た理由、分かるよな」
 坂崎さんの目を見て言うと、その時初めて俺に視線を向けた。そして、瞼を落としてうっすらと笑みを浮かべた。
 酷く冷たい眼をしている。
「どうして分かったの」
 動揺なんて微塵も感じさせない、緩やかな口調。
 こうなることさえも、覚悟してたのかもしれない。
「敦志から連絡があった。間に合ったみたいだね」
 そんなこと、坂崎さんも分かってるだろ。
 諦めの笑みなのか、自嘲の笑みなのか。
 感情の読めない小さな沈黙の中、ガチャっとドアの開く音がした。
 俺の後ろを見た坂崎さんの表情が、大きく揺らいだ。それだけで、誰が来たのかわかる。

「敦志…………」

 汗だくで息を切らした敦志と、その後ろから足利さんが入って来た。
 敦志に部屋番号までは教えてない。足利さんが案内したんだろう。
「うわ、三並敦志!?」
 日比野の浮わついた反応なんて飲み込んでしまうほど、息苦しい空気が滞る。

 敦志はゆくりと歩みを進め、北林を一瞥してから、険しい顔で坂崎さんを見つめた。
「怪我は、大丈夫か?」
 汗を拭いもせず、坂崎さんの左腕を見て心配そうに問いかける。
 けれども坂崎さんは無言のまま、俺の脇をすり抜けた。

 敦志に抱きつくのかと、そう思った俺の予想は、外れた。