始まりの日

赦罪 - 22

尾形澄人

「そういえば―――」
 デニーズを出たところで、太田さんが懐かしそうに目を細めた。
「海の家でアルバイトをしてたことがあったよ」
 入れ違いで店内に入っていた3人の男子高校生たちを見ながら、「ちょうどあのくらいの年頃だった」と付け足した。
「坂崎さんがですか?」
「ああ。日焼けして真っ赤になって一所懸命に働いていた。自立するために金を貯めてるんだと思っていたんだがね、そうじゃなかった」
 ……まさか施設の子供に、とか言うんじゃないだろーな。
 冗談混じりに浮かんだその想像は見事に的中した。
「あの施設は高校生は小学校低学年の子の世話をすることになってるんだが、その子供たちにクリスマスプレゼントをあげてたよ」
 おいおい………どんだけ聖人なんだよ。そんな人間、美しすぎて信じられない。
 思わず引き気味の俺をよそに、太田さんは思いのほか安らかな笑みを浮かべた。
「子供たちの喜ぶ顔を見る悠真の笑顔が今でも忘れられなくてね。心底、彼には幸せになってほしいと思ったよ」

 住宅街に消えていく太田さんの背中を見つめながら、坂崎さんの29年間の人生と境遇を思って、息が詰まるようなやるせなさを感じた。

 6歳で母親の死を目の当たりにし、直後にたったひとりの妹と生き別れながらも、施設では誰からも愛されて気丈に育った。
 23年後に父親同然だと慕っていた人が殺され、立て続けに妹が殺された。
 そして自分自身さえも命を狙われている。
 それなのに、「怖いほど幸せ」と言う。
 偽善だと言われてもおかしくないくらい、できすぎた人間だ。

 けれども、それが坂崎さんなのかもしれない。
 決して自分の不幸を棚に上げずに、子供たちのためにバイトをした高校生が、坂崎悠真という男の本質なんだろう。

「…………幸せになってほしい、か」
 敦志も同じことを言っていたな。
 幸せかどうかなんて本人が決めることだし、本人にしかわからないことだけど、周りの人間がそう願いたくなる理由がわかったような気がする。
 敦志が坂崎さんを愛した理由も。

 あきれるほど矛盾だらけで、息苦しくなるほど、優しい―――――。

雨宮陽生

 坂崎さんは、何をしようとしてるんだろう。

 コンビニで買ったコーラをちびちび飲みながら、助手席でぼんやりと今朝の坂崎さんを思い出した。
 三並さんには言わないでほしい――そう言った坂崎さんの、何かを覚悟するような眼。

 今朝襲われた理由とか、妹を殺されたのに名乗り出なかったりとか、坂崎さんには不自然なことが 多すぎる。綾瀬のことにしても尾形に相談したタイミングが良すぎるし、今朝の坂崎さんの様子もしっくりこないし。
 冷静に考えれば考えるほど、坂崎さんの不審な点が浮き彫りになってくるのに、それでも「偶然だよ」とか「勘違いだ」なんて思いたいのは、どうしてなんだろう。

 目を閉じてそんなことを考えてると、突然運転席のドアが開いた。
「どうだった?」
 車に乗り込む尾形に言うと、チラッと俺を見て何も言わずにドアを閉める。
 と同時に、突然グイッと腕を引っ張られた。
「うぁっ!?」
 あまりにも唐突で、抱きしめられたんだと理解するのに少し時間がかかった。―――って、
「おいっ、何するんだよ!!」
 慌てて引き剥がそうとしても、がっしりと痛いくらいに両腕ごと抱きしめられてビクともしない。それどころか、抵抗するほどに締め付けが強くなる。
「痛っ……ざけんなよ! 離せ!!」
 脚だけをバタつかせて抵抗すると、尾形が低く吐き捨てるように。
「煩い、犯すぞ」
 はあ!?
「てめー、何考えてんだよっ」
「黙って抱かれてろ」
 この期に及んでその上から目線はなんなんだよ、そう言い返そうとした時、尾形がボソリと付け足した。

「あと、2分だけ…………」
「な――…………」

 なんでそんなに、辛そうに言うんだよ。
 拒否れなくなるだろ…………。

「――――信じらんねー……」

 この姿勢けっこうキツイし、Tシャツ越しに尾形の体温が伝わってきて暑苦しいし、真夏に男同士で抱き合ったって気持ち悪いだけだし……。
 それなのに、尾形の息遣いを耳元で感じて、一気に鼓動が早くなるのがわかった。

 どうして尾形が急にこんなことしたのかとか、太田さんから何を聞いたのかとか、そんなことは全部頭の中から消えた。
 周りの時間が止まって、ここだけゆっくりと時計の針が進んでるみたいに。

 尾形の高い体温と呼吸の音だけが、俺を支配する。

 好きだ。
 心臓が痛いくらい。

 尾形に、愛されたい――――………。

杉本浩介

 カプセルホテルの従業員に聞き込みをしていると、尾形から携帯に着信が入った。さっき電話して出なかったから、太田元警部との話が終わって着信履歴を見て掛けてきたんだろう。
 岸田さんにその場をまかせて、警察関係者の控え室になっている従業員休憩室に戻りながら出た。
『俺からのありがたい電話は3コール以内にさっさと出ること』
 相変わらずメチャクチャなこと言うよな。
「……コールバックのくせに偉そうに言うな。太田元警部から何か聞けたのか?」
 少し怒り気味に言うと、珍しく厭味なしであっさり本題に入った。
『ああ、たった今ね。坂崎さんのいい人指数が格段にアップしたよ』
「いい人? 坂崎が?」
 俺たちの知ってる坂崎は、鹿島のあとにちゃっかり当選した新人議員で、妹が殺されても名乗り出ない薄情な兄。つまり自分が第一の強欲な男だ。そして、綾瀬殺害の重要参考人。
 いい人とは程遠い。
 けれども、尾形は呆れたように溜め息をついた。
『杉本さん、坂崎さんを誤解してるね。少なくともそんな露骨に人格を否定されるような人じゃないよ』
「そうだといいんだけどな」
『で、何? 太田さんとの話の内容聞くために電話してきたんじゃないだろ?』
「相変わらず勘が鋭いな」
 話しながら従業員休憩室に入ると、鑑識班が荷物をまとめて帰ろうとしていた。
「綾瀬の持ってたコインロッカーの鍵あっただろ。そのロッカーが見つかったんだよ」
 言いながら、鑑識の男にテーブルの上にまとめてあったロッカーの中身一式を広げていいかとジェスチャーで頼むと、「どうぞ」とでも言うように頷いた。
『へぇ、やるじゃん。で?』
「中から田口真奈美の日記と、4センチ画のチャック付きのポリ袋に入った白い粉が出てきた」
『大漁だな…………』
 言葉とは裏腹の、真面目な口調で呟く。
「白い粉末は覚せい剤じゃないみたいだが、無臭でなんなのかわからない。おまえの本業が生かせるぞ」
 こういう正体不明の粉類は科捜研の化学第一が鑑定するはずだ。けれども尾形の興味はそっちじゃなかったみたいだ。
『それより、日記ってマジで田口真奈美のやつ?』
「ほぼ間違いなく本人のものだろうね」
 携帯を肩で挟んで白手袋をはめ、日記を開いてキーになる部分だけ抜粋して読み上げる。数行で、電話の向こうで息を呑む気配がした。

 この6冊の日記のうち、1冊目の大半は禍々しささえ感じるほど痛ましい文字の羅列。
 すでに日記とは言えないほど穴があくほどの強い筆圧で「助けて」だとか「死にたい」と書きなぐってある。
 人の暗い闇の部分を詰め込んだような日記だ。
 たった12歳の田口真奈美が、何を思い、何を求めてこの日記に文字を書きなぐったのか。それを考えるだけで、胸が痛くなる。

『性的虐待、か…………』
 尾形の押し殺したような声が、その凄惨さを代弁するようだ。
 日記を読む限り、田口真奈美は、養父にかなり過激な性的虐待を受けていたことは、間違いないだろう。養母にも見て見ぬふりをされ、誰にも相談できず、抵抗することもできなかった。
 その痛みは、男の俺には想像すらできないほど、辛いものだと思う。
「こんなふうに、見えない誰かに助けを求めたり責めることで、なんとか自分を保ってたんだろうな」
 けれども、もっと信じられないことは。
「これが両親が死ぬまで続いてる」
『死ぬまでって、2年もか? 正気じゃいられねーだろ……』
 確かに、そう思うほどこの日記に込められた苦痛は半端なものじゃない。
「だろうな。1999年1月16日の日記に、こう書かれている」
 尾形ならその日が、田口真奈美の両親が焼死した火事が起きた翌日だとわかるはずだ。

お母さん、ごめんね。
でもこうするしかなかったの。
あの悪魔から逃げるには、これしかなかった。
お兄ちゃんに助けてもらうしかなかった。
お兄ちゃん火傷してたけど、ちゃんと病院に行ったかな。
真奈美は大丈夫だよ。
もう、自由だから。
やっと自由になれたんだから、大丈夫。

 言い聞かすように。
 自分の罪を正当化しようとする日記。

 そして日記の内容から容易に推測できるのは、養父から性的虐待を受けていた妹のために、坂崎悠真が何をしたのか――――。

『杉本さんは坂崎さんが妹を助けるために放火したって睨んでる?』
 ほんの僅かな沈黙の後、そう聞いてきた。
「火傷をした兄が坂崎だってことには間違いないだろう。しかし、あの火事に坂崎がいたという記録はない、つまり逃げたということになる。逃げる理由があるとしたら、放火したと考えるのが自然だ。それに妹と連絡を取り合っていたのに、養父母を亡くした妹を引き取らなかったのも気になる」
『じゃぁその日記を持ってた綾瀬も、きっとそう考えただろうね』
「ああ。これをネタに坂崎を強請ってたんだろうな。それに、綾瀬が何度か公衆電話から電話をしてるのが防犯ビデオに写っていた。どこにかけてたか、明日にはわかるよ」
 つまり、捜査一課は坂崎を綾瀬殺害の犯人とみて捜査を進めているし、俺もその可能性が高いと思っている。
 けれども、尾形はやんわりとそれを否定した。
『でも、俺が坂崎さんだったら、必ず日記を回収してから綾瀬を殺すけどな』
「それは俺たちも考えたさ。でも日記を回収する前に勢い余って殺した可能性は否定できないし、殺してから家の中を探し回った可能性だってあるだろ」
 そう反論すると、尾形はあっさりと引き下がった。
『どっちにしても、俺はまだ他殺だって断定するのは早いと思うね』
 意外だな。
 尾形がこんなに答えを引っ張るなんて、初めてじゃないか?
 坂崎悠真に遠慮でもしてるんだろうか。
「その点については一課も同じだ。とは言え、綾瀬が田口真奈美を殺したことには間違いないだろうな。マンションの防犯ビデオにも映っていたし」
『動機は?』
「わからない。いくら聞き込みしても綾瀬と真奈美の接点はこれっぽっちも出てこないんだよ。おまけに、綾瀬は極端なロリコンだったからストーカーの線もない」
『ははは、だよなぁ。真奈美はロリ顔でもないうえにFカップだしな』
 なんでバストサイズなんか知ってるんだよ、と突っ込みそうになったけれど、わざとらしい明るさに違和感を感じてやめた。
 話を逸らそうとしている気がする。
「おまえ、何か知ってるだろ?」
『知らないよ』
 笑みを含んだ口調。
 やっぱり、なんかおかしい。
 明確な理屈なんてない。ただの勘だが、尾形は俺に何か隠している。そして尾形が俺に隠し事をするとしたら――。
「……………何を企んでる?」
 クスッと笑う気配がした。
『杉本さん、もし俺が何かを企んでたとして、言うと思う?』
「企んでるのか…………」
『企んでないよ』
 その短い言葉の隙間に、尾形の本心が見えたような気がした。

 尾形は平気で嘘をつける男だ。
 けれども、本当に大切な嘘をつくとき、一瞬だけこいつの「良心」が垣間見える時がある。
 この大切な嘘は、誰のためなんだろうか。
 雨宮なのか、それとも坂崎なのか。
「………そういう事にしておいてやるよ」
 口ではそう言って電話を切ったが、尾形の様子が気にかかった。

 今のところ警察は坂崎悠真が田口真奈美と綾瀬司郎の死に少なからず関与しているとみているし、今回見つかった日記から9年前の火災にも関わってたとして再捜査する。
 尾形が坂崎とどの程度の関係なのかは知らないが、身近な人間が殺人犯だなんて考えたくもないし、その捜査の手から庇いたいと思うのは当然のことだろう。

 けれども、3人だ。
 3人も殺した疑いがかかっている。
 現段階では「疑い」でしかなないけれど、逆に坂崎が殺してないという証拠はどこにもない。疑いと動機がある以上、警察はそれから目を背けるわけにはいかない。

 たとえそれが親友だろうと、愛する者だろうと。