始まりの日

赦罪 - 23

雨宮陽生

「ん………」
 首筋がくすぐったくて、その原因を探ろうと手を伸ばそうとしたけど、何かに押さえつけられて腕が上がらない。
 まだ半分眠ったまま重い瞼をうっすら持ち上げると、至近距離に少し茶色い髪の毛があった。
 反射的に危険を察知して、寝ぼけた頭が音を立てて冴え渡った。

「―――――な、なにやってんだよ!!!」
 思わず怒鳴りながらありったけの力を込めて、でっかい図体を跳ね除けけると、ガコッと嫌な音が響いて尾形が顔を歪めた。
「うっ、いってぇ…………」
 ハンドルに背中を打ったんだ。自業自得だ。
「寝込み襲うなんて最低だ!」
 思いっきり怒鳴ってやると、尾形は棒読みみたいな口調で、
「運転してやってる人間の横で熟睡するとは感謝のかけらも見受けられないので、つい見返りを求めてしまった」
 見返りって…………さっきといい今回といい、何考えてるんだよ。
「見返りじゃなくて嫌がらせだろっ」
「そんなことで嫌がらせするほど俺の器は小さくない」
「助手席で寝る人間に感謝を求めるあたり、すでに小せぇよ」
 そもそも見返り求めるのも感謝求めるのも同じだろ。
「往復3時間の運転に気の利いたねぎらいの言葉くらい出すのが助手席に座る人間の務めだ」
「あのなぁ……何の断りもなく茅ヶ崎までつれてったのはそっちだろ。しかも太田さんから聞いたことだって話してくれないし」
 つーか、ここまで俺様っぷりを発揮する尾形を見てたら逆に清々しいかも…………。
「………で、なんで銀座なわけ?」
 窓の外に見えるコインパーキングの看板は「銀座7丁目」と書かれていた。まぁ、ナビ設定したのは俺だから目的地はわかってたけど。でも、どこに行くんだろう。
「ちょっと確かめたいことがあって」
 そう平然と応えて、車を降りた。
 慌てて俺も車を降りた瞬間、
「っ痛…………」
 腰、痛てぇ………なんで今頃っ。
 ヨロヨロとコインパーキングのフェンスを掴んで痛み逃がしてると、尾形が鼻で笑った。
「あんまり無理するなよ」
 誰のせいだと思ってるんだよ。
 ニヤニヤと笑って言う尾形を追いかけながら文句の1つでも言ってやろうと思ったけど、その前に尾形が本題に入った。
「今回の件は、おまえの両親が殺されたこととは直接関係ないかもしれない」
 え――――?
「関係ないって………坂崎さんが?」
「と、綾瀬の死」
 綾瀬が、じゃなくて綾瀬の死がってところが微妙に気になるけど、俺もうすうす別の事件かもしれないと思ってたから驚かなかった。それよりも。
「確かめたいことってなんだよ」
「坂崎さんの父親について」
「父親?」
 何も答えないまま、駐車場から2分くらいのところにある黒いビルの螺旋階段を登った。
 階段を上りきった広めの踊り場の突き当たりには黒い重厚なドアがあり、アクリルのプレートにゴールドのイタリック文字で「Dolce」と書かれていた。
「田口真奈美がバイトしてた………」
「母親も昔ここで働いてたそうだ」
 そう言うと尾形はそのドアを躊躇いもなく引いた。

 薄暗い店内に足を踏み入れると、高そうな装飾のエントランスの中央に、大きなカーラーの生け花が置かれていた。
 その奥の客席で掃除でもしていたのか、40代くらいのラフな服装の男が俺たちに気付いて歩いてきた。早足なのに妙に落ち着いて見えて、なんとなく月本を思い出した。合気道とか剣道とか、そういう武道をやっていたのかもしれない。
「申し訳ありません、当店は夜8時からですので、その頃にまたお越しいただけますでしょうか」
 彼は丁寧にそう言って、ピンと伸ばした背を曲げて頭を下げた。
「いえ、ちょっと聞きたいことがあって来たんですが、この店が『ドルチェ』になる前のことを知ってる方はいませんか?」
 お、尾形が普通の人に見える……………。
 いつもの性格の歪みを映し出したような口元とか、からかうような笑みは完全に消した、普通のサラリーマンみたいな営業スマイル。
 いくら演技とは言え、ここまで変わるか?
 詐欺レベルの変貌に驚く俺をよそに、目の前の男は柔らかく笑みを浮かべた。
「あの、失礼ですが?」
「ああ、これは申し訳ありません。個人で探偵事務所を開いております、尾形祐希と申します。彼は鈴木です」
 尾形は戸惑うこともなくスラスラと嘘を並べた。っつーか尾形祐希って誰だよ。
「実は、以前こちらで働いていた田口真奈美さんからご依頼を受けてましたが、あんなことになってしまったでしょう。ですから気になってしまって、ご依頼いただいたことをどうしても調べたくなったんです」
 どう考えたって怪しすぎる設定なのに、男は疑うそぶりも見せない。客を扱う上で身に付けたポーカーフェイスなのかもしれないけど。
「そうですか。少々お待ちください」
 彼は丁寧に言ってカウンターの脇にあるドアの向こうへと消えた。
「尾形祐希って誰だよ」
 さっきの疑問を小声で聞くと、一瞬でいつもの尾形に戻った。
「俺の兄。恵比寿で探偵事務所を開いてるんだよ」
「尾形の兄………恐ろしすぎる」
 どう考えたってこんな男に普通の兄弟がいるとは思えない。尾形に輪を掛けて傍若無人で歪んだ性格してるに違いない。尾形がサイヤ人なら尾形兄はスーパーサイヤ人だろ。
「ちなみに祐希もゲイだから、会っても気を許すなよ」
 ………そっちかよ。
「それを尾形が偉そうに言うなよ」
 俺を困らせている張本人のくせに。

 そんなことをひそひそ話していると、男が消えたドアから、上品な着物を着た女が出てきた。
 30代後半くらいだと思うけど、異様な威圧感というか、堂々とした物腰でどこか只者じゃない雰囲気がある。彼女は俺たちを見ると上品に笑みを浮かべて、小さく会釈した。
「はじめまして、ママの京子です」
 ママっていうと、オーナーとか店長みたいなものかな。
 尾形はまた胡散臭い営業スマイルを見せて、自己紹介をした。
「私立探偵をしてます、尾形祐希と申します。こちらは鈴木です。突然押しかけて申し訳ありません」
「お名刺いただいても?」
「申し訳ありませんがちょっと切らしてまして………ご心配でしたら恵比寿西2丁目の尾形調査事務所で調べていただいて結構です」
 尾形調査事務所……尾形の兄さんの事務所かな。本当に存在するかどうかは別として、具体的な固有名詞と尾形の態度のでかい演技のおかげで、信じてくれたみたいだった。
 彼女はすっと尾形の眼を見つめたあと「そんな無粋なことはしません」と言い切った。

「真奈美のことですって?」
 カウンターに俺と尾形を座らせると、彼女はカウンターの中に入り、慣れた手つきで飲み物を用意しながらそう切り出してきた。
「ええ。ご依頼いただいた調査が終わる前に彼女が殺されてしまって、どうしても気になったものですから」
 スラスラとありもしないことを並べる。
 こういう嘘をなんの後ろめたさも感じさせずに言えるところが、尾形を信じきれない理由のひとつになってるのかもしれない。悪意があるわけじゃなく、人を騙すことに無関心なだけなんだと思うけど。
「そうですか、真奈美が………どういった依頼だったんですか?」
「父親探しです」
 グラスに氷を入れる手が一瞬だけ止まって、すぐにまた動きだした。
 そっか。父親に会うために田口真奈美はここで働いたんだ。だから黒田の愛人になって金に困らなくなっても、ここでのバイトを辞めなかった。
 それに、この人は何かを知ってる。
「そう。それで、お分かりになりました?」
 マドラーを回す手元を見ながら、あくまでも冷静にそう聞いた。
「検討はついたんですが、まだなんとも言えません。ところで、このクラブは以前スナックだったと聞きましたが、その頃もママはここにいらっしゃったんですよね?」
 ゆっくりと段階を追って聞いていこうと思ったのかもしれない。けれども、喫茶店で出てくるようなアイスグリーンティーを出されてから、かなりショートカットした答えが返ってきた。
 無言のまま、表情も変えずにコースターの上にグラスを置いて、「やっぱり」と小さく呟く。
「………真奈美の母親は良子さんだったのね」
 つまり。
「坂崎良子をご存知なんですか?」
 尾形がほんの少し身を乗り出して聞くと、彼女は尾形と俺を交互に見て頷いた。
「私にホステスの仕事を教えてくれたのが良子さんだったんです。上京したばかりで右も左もわからない私にとても優しくしてくれて、一時は一緒に暮らしていたこともありました。もう25年以上も前のことです」
 どこか懐かしそうに話す。けれども、次の尾形の問いに頬が強張った。
「当時、坂崎良子が子供を産んだことはご存知ですか?」
「ええ……酷いものよ。金は出してやるけど認知はしないって言って、たったの200万投げ捨ててそれっきりだったみたいです。良子さんはそれからすぐに東京から離れて、1人で子供を育てて、そのうちホステス仲間とも連絡が取れなくなって―――人づてに自殺したって聞いて、やりきれなかったわ」
 言い終えると小さく溜め息をついた。
 この「やりきれなかった」というたった一言に、いろんな思いが込められているような気がした。それがなんなのかは俺にはわからないけど、この人にとっても、坂崎良子は大切な人だったんだ。
「真奈美さんは父親のことを調べるためにこのクラブでホステスをしていたようですが、あなたから良子さんについて、何かお話しされましたか?」
「ええ。真奈美は良子さんに似てるところがあったから。あの時はまさか真奈美が良子さんの子供なんて思わなかったし、彼女って聞き上手で口が堅くて。でも、話しちゃいけなかったのね…………」
 伏せ目がちに弱々しく言う。
 この人は父親が誰なのか知っていて、それを田口真奈美にも話したんだ。
「坂崎良子の子供の父親は―――――」

「北林将岱よ。あの男が、良子さんと真奈美を殺したのよ」

 ああ、そうか。

 一気に、今までのことが1つの線で繋がった。
 パズルが綺麗にはまったみたいにストンと腑に落ちた。

 田口真奈美はこの人から自分の父親が誰なのかを聞いて、黒田の紹介で綾瀬に会ったんだ。
 そして綾瀬は、田口真奈美から北林の子供だと打ち明けられて殺してしまった。
 こんなスキャンダルが明るみになったら、間違いなく北林の印象は悪くなるし、総裁選にも影響が出るから。

 そう考えると、ひとつの疑問が浮かんできた。
 坂崎さんは綾瀬が妹を殺した動機に勘付いたはずなのに、俺たちには綾瀬が田口真奈美に言い寄っていたと嘘をついていた。
 どうして、嘘をついてまで北林が父親だと知られたくなかったんだろう。議員に未練のない坂崎さんには、北林が父親だと言ったって、なんのデメリットもないのに。

 そう思った俺に答えるように、尾形が静かに問いかけた。

「ちなみに真奈美さんは、北林氏を恨んでましたか?」

 坂崎さんは、北林を恨んでいるのかもしれない。
 だとしたら、坂崎さんのしようとしてることって………復讐?