始まりの日

赦罪 - 21

杉本浩介

 真上から照りつける残暑とは名ばかりのきつい日差しにうんざりしながら、路肩に停めた車から降りる。
 東京駅近くの古めかしい雑居ビルにあるその男専用のサウナ兼カプセルホテルは、俺たちが到着する頃には刑事と鑑識と制服を着た警察官が40人以上詰めかけて騒然としていた。
 低賃金の日雇い労働者や訳ありのサラリーマンが利用するカプホなんだろうが、今は警察がただでさえ間口の狭いビルの入り口を占拠して、営業妨害もいいところだ。こういうときの警察の横暴さはどうにも気に入らない。
 昼間から酔っ払った利用客のクレームやそれを沈める警察官や、迷惑そうに説明を求める従業員の怒鳴り声が、歩道にいる俺たちまで届いた。
 しまいには近くの交番警察官が交通整理を始め出し、野次馬も何事かと集まり始めた。

 その光景を眺めて、思わず溜め息が出た。
 どこの部署も真剣なのはわかるが、幼稚すぎる。
「このぶんじゃ、ロッカーに辿りつくまで相当時間がかかりそうですね」
 俺の溜め息に同調するように、代々木署の岸田さんが言った。
 その「ロッカー」というのは、綾瀬が隠していたコインロッカーのことだ。
 鍵についていた赤いタグを足がかりに、生活安全部の手を借りて、結局うちの三沢とその後輩の日比野が見つけた。そして一課から鑑識に連絡が行き、綾瀬の自殺捜査をしている築地署、北林を逮捕したい二課と起訴したい検察、それに田口真奈美の捜査をしている代々木署に伝わった。
 とにかく注目度が高い代物だけに、その各部署から刑事や捜査員がぞろぞろやってきて、意味もなくごった返しているわけだ。
 どんなに焦ったところで一番最初に中身を見れるのは、ロッカーを見つけた日比野と三沢だ。
「まぁ、あいつらに任せるか」
 岸田さんもそれに頷いて、近くのドトールで待つことにした。
 そしてホテルに背を向けて野次馬を掻き分けようとしたとき、携帯がスーツの胸ポケットで震えた。
 まさに今このホテルの3階のロッカーの前にいるはずの日比野からだ。
「岸田さん、ちょっとすみません」
 前を行く岸田さんに声を掛けて、立ち止まって携帯に出た。
「はい、杉本」
『杉本さん………なんか、すごいこと書いてあるんです』
 ずいぶんテンションの低い声で、日比野は要領を得ない報告をする。
「ロッカーの中身か? 何が出てきた?」
『日記です、4冊』
「誰の?」
『誰のって、田口真奈美ですよ』
 ――――は?
『俺、こんな日記最後まで読めませんよ………』
 今にも泣きそうな声で言う。
「だから何が書いてあるか説明しろ」
『怖いとか助けてとか………これかもしれないです、田口真奈美が殺された理由』
 殺された理由だと? 一体、何が書いてあるんだ?
「わかったすぐ行く。それ絶対に他に渡すなよ!」
 携帯を切ると同時に岸田さんを呼んで、詰めかけた刑事たちを掻き分けた。
「すみません、ちょっと通してください!」
 ラッシュ時の電車並みに混みあっている狭い通路に体をねじ込ませて、クーラーなんて全く効いていない階段を3階へと向かった。

 田口真奈美の日記?
 どうして綾瀬がそんなものを隠していたんだ。
 いったい、何が書いてある?

 ヘトヘトになりながら3階に辿りつくと、鑑識と所轄の若い刑事が体を張って通路を塞いでいた。
 IDを見せて通り抜け、殺風景なリノリウムの廊下を左に曲がると、壁面に備えつけたクリーム色のコインロッカーの前で数人の鑑識が作業していた。その向かい側ドアが開きっぱなしになっている。
 作業をしている鑑識に日比野の場所を聞くと、そのドアの中を指差した。
「その中で日記読んでますよ」
「従業員室か」
 礼を言って中に入ると、片面の壁一面にタオルやアメニティがぎっしり積まれた棚のある、人が1人やっと通れる通路のような空間だった。その薄暗く狭い床に日比野と三沢が座り込んで黙々と日記を読んでいた。俺たちが入ってきたことにすら気付かない。
「お疲れ、何が書いてある?」
 声をかけると、2人はどんよりと曇らせた顔を上げた。
「なんか壮絶っすよ………ね、三沢さん」
 日比野が低い声で隣に座ってる三沢に相槌を求める。普段はそうそう人に同情しない三沢は、その端正な顔を歪めて立ち上がると、手にしていた日記帳を差し出した。
「田口真奈美の人生ってなんだったんだろうって思うような内容ですよ」
 あわてて白手袋をはめて受け取る。手首にずっしりと重みを感じるほど分厚い日記帳だ。
「全部で4冊あって、1995年4月1日から2008年3月12日まで不定期に書かれてます」
「95年ってことは……13年前か」
 A5サイズのクリーム色の布表紙をめくると、幼い字で「4月1日(土)」と始まっていた。
「田口真奈美は当時12歳です」
「中1か。坂崎悠真は15歳だな」
「はい。最初は他愛のない内容で、誰と遊んだとかテストでいい点とったとかそんな感じですが……」
 そう言って、三沢が一気に半分くらいのところまでページをめくる。
「ここです、2月10日土曜日―――『お兄ちゃんが会いに来てくれた』って書いてあります」

2月10日(土)
昨日はマナミの13歳の誕生日だったから、お兄ちゃんが神奈川から来てくれた。お兄ちゃんに会うのは2年ぶりでマナミのこと覚えてるか不安だったけど、すぐに見つけてくれた。それに、お兄ちゃんカッコ良くなっててびっくりした。
パパにもママにもナイショだけど、自慢のお兄ちゃんだよ。
プレゼントのネックレス、大事にするね。

 お兄ちゃんというのは、おそらく坂崎悠真だ。この分だと、ずっと連絡を取り合っていたみたいだ。
 それに、真奈美は本当に彼を慕っていたんだろう。幼い文章の中にも、うれしさが伝わってくる。
 けれども、その次のページを見て、息を呑んだ。

「………なんだ、これ」

 まるで幼稚園児が書いたような幼い筆跡が、視界に飛び込んできた。

14日
どうしよう。
どうしよう どうしよう どうしよう どうしよう
こわい。
怖いよ、助けて助けて助けてたすけて

 小さな汚い字から、次第に書き殴るように大きく強くなっている。
 一瞬、オカルト的な恐怖さえ感じるような、禍々しさだ。
 真奈美の精神状態が変わったのが、明らかにわかった。

 たった4日の間に、彼女の身に何があったっていうんだ?

尾形澄人

 車に雨宮を残して、海沿いの国道に面したデニーズに入った。週末だからか、まだ昼前なのに店内は海に遊びに来た若者たちで賑わっていた。下手に空いているよりも会話を聞かれなくていい。
「高校生はよく寝るな」
 店員にコーヒーを頼んでから、太田さんは世間話でもするような口調でそう言った。相手が敦志だったら、夕べはドラッグ盛られて大変だったからなんて話すところけど、さすがに元刑事じゃシャレにならない。
「息子さんもそうでしたか?」
 無難に話をあわせると、太田さんはオレンジ色のおしぼりで顔を拭きながら苦笑した。
「ああ、野球部でね。といっても県大会にも行けないような弱小野球部だ。それでも、この時期はまた来年に向けて勉強もそっちのけで一生懸命練習していたよ」
 その頃のことを思い出したのか、懐かしそうに目を細めて、窓の外を眺めた。サーフボードを抱えた地元のサーファーや水着のままの海水浴客が行き交っている。
 そして、懐かしむような口調のまま続けた。
「23年前、息子がその高校の受験に受かった日だったよ。坂崎良子が死んだのは」
 覚悟は出来ていたんだろう。太田さんは俺が問いただすまでもなく自分から話し始めた。

「最初は、子供が母親の遺体を発見したという悲劇以外は、本当にただの自殺の裏づけ捜査だった。だが、坂崎良子の自殺の動機を調べても、何一つ出てこない。調べれば調べるほど、2人の子供を必死で育てようとする、いい母親だったことがわかった。借金はたったの300万円しかなかったし、それも少しずつだがちゃんと返済していた」
「仕事は何を?」
「一時は水商売もしていたが、真奈美が生まれた時に辞めたようだ。死んだときはスーパーの鮮魚売り場で働いていたよ」
 水商売のほうがよほど楽に金を稼げるのに。子供のことを考えたんだろうな。
「そんな女が自殺するような理由があるとは思えなかった。逆に、他殺を思わせるような点はあった。玄関の鍵は開いていたし、後頭部に殴られたような形跡があった。だから捜査員は全員、自殺から他殺に切り替えるべきだと主張した。父親の存在があまりにも綺麗に消えていたから、そこに何かあるんじゃないかとも。ところが、上は自殺のまま捜査を打ち切った…………何かあるとしか思えないほど強引な打ち切りだったよ。」
 当時のことを思い出したのか、苦々しく頬を歪めて、大きな溜め息をついた。
「君も警察の人間ならわかるだろうが、警察組織というのは縦社会だ。上の命令は絶対で、当時は今よりももっと保守的だったから、打ち切りと言われたら従うしかない………」
 確かに、警察は呆れるほどの縦社会だ。けれども、上司の命令は絶対だからこそ、総勢25万人以上の巨大組織をまとめることができているとも言える。
 けれど理不尽な決定に対して不満を抱くのは、仕事に真剣に向き合ってる人間であれば、当然のことだと思う。
 事実、打ち切りと言われてもこっそり捜査を続けていたり、担当から外れても時間の隙を見ては聞き込みをする刑事は意外と多い。
 そして、この太田さんもその1人だった。
「それでも私は、上司に隠れて捜査を続けた。半年前に昇格したばかりで自惚れもあったのかもしれない。父親が誰なのかさえ分かれば、上からの圧力も押しのけることができると信じていたんだよ」
 そこまで言うと、太田さんは口を閉じた。
 信じていた。それなのに叶わなかった――それは、父親が分からなかったわけじゃなく。
「誰なのか、わかったんですね」
 静かに問うと、太田さんは一瞬だけ俺の眼を見て、すぐに顔を伏せた。
「…………ああ。意外なほどあっさり。けれども、この20年誰にも言わずに――……墓まで持っていくつもりだ」
「――――脅威なんですか」
 23年前に受けた圧力は、未だに太田さんの脅威になっている。
「あの時は息子が高校へ上がる年だった。今は警察官になって、今年は春に2人目の孫が生まれたばかりだ。
 相手は所轄の刑事の1人や2人、簡単にクビにできる人間だ。私には、自分の家族を犠牲にしてまで貫くような信念はなかった」
 決して弱々しくはないけれど、堂々とできない後ろめたさがあるのか、目を逸らしたまま言った。
 この人には聞いてもこれ以上はなにも聞き出せないかもしれない。守ると決めたものがある人間ほど、意思は強いから。
「そうですか。わかりました」
 この話を終わらせて次の話題に移ろうとしたとき、太田さんが驚いたように顔を上げた。
「責めないのかね」
「責めてほしいんですか?」
「いや……ただ、他殺だと知りながら見て見ぬふりを、責められて当然のことをしたと思ってる」
「確かに内部告発でもしてれば何かが違ったかもしれませんね。でも、たとえ何かを犠牲にしてでも大切なものを守りたいというあなたの気持ちは分かります。それに、その方法に対して俺が何かを言ったところで、後悔はしてないんでしょう?」
 俺も、雨宮を守るためならどんなことでもするつもりだから。
「後悔か…………確かにそうかもしれないな。ただ、何年経っても申し訳ないという気持ちは消えなかったよ。だから袖ヶ浦学園に2人の様子を見に行ったりもした」
 太田さんは、まるで自分に言い訳するようにそう呟いた。
 なんとかこの罪を償おうと、自分の中でも正当化しようとしてるのかもしれない。2人のために何かをして、こっそり赦しを請い、仕方なかったんだと自分に言い聞かせて、自尊心を保ってきたんだろう。
 ま、本当に赦しを得たいなら、自分に言い聞かせるんじゃなくて相手に真実を言うべきだと思うけどね。
 黙って太田さんの気が済むのを待っていると、店員がドリンクを持ってきた。
「お待たせいたしました。アイスコーヒーです」
「ああ、ありがとう」
 太田さんは気を取り直して丁寧に礼を言い、テーブルの水の入ったグラスとおしぼりを寄せてアイスコーヒーを置くスペースを作った。この年にしては珍しく細かいことに気の利くタイプなんだろう。
「どうして2人の父親が分かったんですか?」
 店員を見送ってから話を戻すと、太田さんはコーヒーには手をつけるそぶりも見せずに、両手を脚の上に置いて椅子に背を付けた。
「坂崎良子が茅ヶ崎に来たのは真奈美を産んだ後でね。それまでは、銀座のスナックでホステスをしていたんだよ。そこで2人の父親に出会ったんだろう。そのスナックが、今の『ドルチェ』だ」
 おいおい………銀座の『ドルチェ』っていえば、真奈美が殺されるまでバイトをしていた店だろ。それに太田さんは真奈美がドルチェのホステスだったことを知ってたのか。
「太田さんが、真奈美にドルチェのことを教えたんですか?」
「いいや、真奈美とは施設で見送って以来、一度も連絡をとったことはない。だが、悠真には大学に入学したときに母親がホステスをしていた店のことを話したからそこから伝わったんだろう」
 やっぱり坂崎さんは周囲には隠して真奈美と連絡を取り合っていたのか。そして坂崎さんから母親の過去を聞いた真奈美は、父親を探すために『ドルチェ』で働いた。父親に会うためという目的があったから、黒田と愛人関係になってマンションを買ってもらってからも、ドルチェを辞めなかったんだろう。
「真奈美が殺されたとニュースで知って、すぐに警視庁の知り合いに真奈美の事件のことを調べてもらった。それで『ドルチェ』で働いてると聞いて、2人が連絡を取っていたことに気が付いたんだ……。悠真に店のことを教えてたことを、心底後悔したよ」
 言ってる本人には自覚がないみたいけど、さっきから「父親が真奈美を殺した」と思っているのがよくわかる。
 だから、その父親を知っている太田さんは、大罪を背負っているような気持ちなのかかもしれない。
 真奈美が父親を探そうなんて思わなければ、23年前に父親に何らかのアプローチをしていれば、真奈美は死なずに済んだかもしれないと。

「私にもっと力があれば…………」
 太田さんはそう言って大きな溜め息をついてから、ようやくアイスコーヒーにストローをさして口をつけた。

 けれども。
 何よりも大切な家族を守るためにしたことと引き換えに、他人が犠牲になった――――これは、どのくらいの罪なんだろう。

 どう足掻いても逆らうことのできない、大きな力というのは確かに存在する。
 それに立ち向かわない人を責めることはできない。それに、俺も大切な人を守るためだったら他人を犠牲にし、その罪を背負って生きていくことを選ぶ。
 だからと言って、今の太田さんには何を言っても慰めにすらならないだろうし、それを望んでないような気がした。
 結局、他人の俺にできること言えば。
「話してくれて、ありがとうございます」
 ストレートに礼を言うと、太田さんは後ろめたそうにグラスを置いて視線を伏せた。
「いいや、申し訳ない……………」
 この謝罪は、坂崎さんに向けたものなのかもしれない。