始まりの日
赦罪 - 17
尾形澄人
「――――………………」
地下の駐車場に停めた車に乗り込んで、ハンドルに伏せた。
心臓、痛い…………。
あんな辛そうな顔して、心の底から俺を拒絶するなよ。
そのくせ、事件のこととなると目の色変えて飛び込んでくる。
「はぁ……………」
重い溜め息が出た。
底のない暗闇に突き落とされたような気がした。
あんなこと言ってたけど、雨宮は確実に自分の気持ちに気付いている。
俺を好きだと認めているし、それを否定するつもりもないと思う。
けれども、「俺がどんなに愛してるか」なんてことは、雨宮には関係ない。
俺が雨宮に気持ちを伝えたところで、あいつは手近な理由を使って、徹底的に俺の気持ちを拒む。
――――愛されることを拒絶している。
愛されていると認めるということは、相手を信じるということだから。
たぶん、そうやって2021年でも他人を排除して、自分を守っていたんだろう。
そして、雨宮はその残酷さに、気付いていない。
「泣きそ……………」
思わず呟いて、しばらく何も考えずに目を閉じた。
それから大きく深呼吸をして、体を起こした。
とりあえず、今の雨宮には何を言っても伝わらない。
さすがにここまで強情だとは思わなかったけど、とやかく言う前に、今やれることをするしかないか。
…………面倒くさいガキだな、ったく。
雨宮陽生
マンションの前で待っていた尾形の車にバタバタと乗り込んで、ふと我に返った。
勢いで付いてきたけど、この状況で何を話せばいいんだろう……。
まともに恋愛なんてしたことないけど、俺は尾形をフッたんだよな。でも、そもそも出会った当日から嫌ってほど否定してたわけだから、基本的に今までと変わらないわけだし……っていうのは俺の都合のいい解釈、だよな……。
とりあえず、助手席から朝日に照らされた景色を眺めるふりなんかしてみた。まだ通勤時間には早い時間帯のせいか、道は思ったほど混んでない。赤坂なら15分もあれば着くと思う。
15分……長いな。
そういえば、さっき尾形、何を言いかけたんだろう。
もう一緒に住めないとか、出て行けとか。
愛してるなんて言ったのは、その場の勢いだったとか。
おまえの淫乱っぷりにはついていけないとか…………いや、それはお互い様か。
そんなことを考えていると、ふいに尾形が口を開いた。
「ホテルの部屋から出たところで刺されたらしい。自力で部屋に逃げ込んだみたいだし指も全部動くみたいだから、そんなに酷い傷じゃないとは思うけど、さすがに驚いたね。このタイミングじゃ狙われたとしか思えないな」
助かった……ほかの話をしてたほうが、よっぽど楽だ。
チラッと尾形を見ると、めずらしく神妙な顔で正面を見たまま続けた。
「この前、冗談みたいに自分も殺されるかもって言ってたけど、もしかしたら本当に殺される理由があるのかもな。鹿島弘一と組んで何やってたんだよ」
殺される理由、そのフレーズがなぜか脳に響いた。
人が殺されたのに、正当な理由なんてあるわけがない。鹿島のことを話したとき、他人事みたいに笑ってた坂崎さんだって、きっとそう思ったはずだ。
だから、坂崎さんはあんなふうに冗談みたいにしか言えなかったんだと思う。
大切な人を殺されても自分を支えるために笑い、その理不尽さへの憤りや恨みを隠すために笑った。
「坂崎さんって、物凄く強い人なんだろうね」
「へぇ、なんで?」
「なんとなくだけど」
あんまり話したくないから適当に濁すと、尾形が少しだけ口角を上げた。それから唐突に。
「そうだ、一応報告。パークタワーのエビゾーの正体、綾瀬だった」
「は……? 綾瀬?」
北林将岱の秘書が一ノ瀬と黒田と一緒に、それも父さんと母さんを殺しに関わった場所にいた?
「――ってことは、父さんと母さんを殺したかったのって、北林かもしれないんだ」
そう考えると、いろいろ辻褄があう。
元警察官僚の北林なら捜査情報なんて簡単に入手できるから、極秘捜査の情報を知っていてもおかしくない。深川の狙った現金輸送車の警備会社が、警察OBが多い京葉警備保障だったのも、北林の人脈を持ってすれば、簡単に運送スケジュールを知れるからかもしれない。
それに俺が北林を知らなかったのは、事件に絡んでいてスキャンダルで引退したか逮捕されたからだとしたら?
推測が確信に変わりはじめて、思わずゴクリと唾を飲んだ。その時。
「気持ちはわかるけど、焦るなよ」
尾形が、静かに俺を引き止めた。
「具体的な動機がわからないし、綾瀬がいたからって北林が絡んでるとは限らない。それに、綾瀬は一ノ瀬と黒田の2人に会っていただけで、今回の計画を主導した深川と繋がりがあるかどうかもわかっていない」
冷静に矛盾点を指摘していく。その冷静さに、自分がまた客観的に見れなくなっていたことに気付いた。
尾形の言うとおりだ。
事件のことを考えて犯人に近づいていると思うと、冷静でいられなくなる。感情的になって、知らず知らずのうちに、都合の悪いことに目が行かなくなる。
ふぅっと小さく深呼吸をして、気持ちを入れ替えた。
「ああ、そうだよな」
尾形は横目で俺を見て、ニヤリと笑った。
「ってわけで、ちょっと待ってて」
言いながら路肩に車を停めてサイドブレーキを引く。
「何?」
まだ赤坂よりかなり手前だ。
「手ぶらじゃ、なんだろ?」
尾形はそう言うと車を降りて、歩道の向こうにあるビルに入っていった。
一瞬、この状況で手土産買うのかと思ったけど、入っていったビルに「水島美容形成外科」という看板があったから、ホッとした。
応急処置のための医療用具を貸してもらうんだろう。医師免許を持ってる尾形だったら、医者の友達がいてもおかしくない。
数分後に紙袋を手にした尾形が戻って、それを俺に渡した。中身を見てみると、思ったとおりガーゼや消毒液やステンレスのトレイなんかが入っていた。
「研修医の時の友達がここの跡継ぎなんだよ」
尾形は短く説明すると、すぐに車を出した。
今の日本の法律だと、6年間の就学に、2年間の臨床研修をしなきゃ、絶対に医師免許は取れない。つまり、どんなに早くても26歳にならないと、医師免許は取得できない。でも尾形は24歳だから、たぶん飛び級のあるアメリカで物凄く早く医師資格を取得して、それから日本の医師免許を取得するために臨床研修をしたんだ。
そこまでして日本の医師免許を取ったのに、どうして科捜研の、それも化学なんて分野で働いているんだろう。そういえば犯罪心理学の教授をしてたって言ってたし、犯罪に興味があるってことなのかな。
そんなことを考えながら何気なく運転席の尾形を見ると、視線に気付いたのか、俺の方をちらりと見た。咄嗟に視線を逸らして、窓の外を見た。
絶対に何か言われる、そう思ったけど、結局そのまま赤坂のホテルに着くまで一言も喋らなかった。
尾形も、昨日のことはなかったことにするつもりなのかもしれない。
その方がいい。
尾形とは、今くらいの距離が、ちょうどいい。
尾形澄人
都心のビジネスホテルのドアをノックすると、しばらくして申し訳なさそうな顔をして坂崎さんが出てきた。
「ごめんね、変な時間に呼び出して……敦志に来てもらうわけにもいかなくて」
顔を合わせるなり謝る坂崎さんは、ついさっき襲われたとは思えないほど気丈だ。けれども、タオルで巻いた左上腕部を中心に、白いワイシャツは赤黒く血で染まっていた。
「そんなこと気にしなくていいから、ベッドに横になってて」
「ありがとう」
こんな状況でもいつもと変わらない柔らかい表情が、どこか痛々しく見えた。
部屋は少し広めのツインルームで、ドアの内側に、黒く変色した血液がべったりとついていた。床に血が垂れなかったのが不思議なくらいだ。ベッドに畳んで敷いたバスタオルにも、血が染み込んでいた。
雨宮が眉間に皺を寄せて青ざめた。両親が殺されたときのことを思い出したのかもしれない。
落ち着かせるためにも、雨宮にタオルを濡らしてくるように頼んで、坂崎さんが横になったベッドの脇に椅子を置いた。
「悪いけど、敦志に連絡してもらってもいい? 仕事に差支えが出たら嫌だから」
ベッドに体を倒しながら、坂崎さんは本当に申し訳なさそうに眉を寄せた。
止血がしっかりできていたんだろう、意識も口調もしっかりしている。ただ、痛みはどうにもならないみたいで、額には脂汗が浮かんでいた。
「この借りは高いよ」
冗談混じりに了承すると、坂崎さんは小さく苦笑して頷いた。
この人は、本当にこの借りを返すような気がする。
携帯で敦志に連絡して、とりあえず安心させながら、止血していた布を外してワイシャツの袖をハサミで切り裂いた。
そして、携帯を肩で挟んで露になった傷口を見ながら敦志と坂崎さんに傷の説明をした。
「傷口は腕に垂直に6センチくらい」
『深いか?』
心配を隠さない敦志の声に、思わず苦笑した。敦志が特定の誰かのために、こんなふうに動揺するなんて昔は想像すらしてなかった。
「見た感じじゃ、そんなに深くないだろ。指も全部動いてるし」
とは言ったものの、あの出血量を見る限りじゃ、太めの静脈の1本や2本切れてる。けれども、坂崎さんはそれを敦志に言うことを望んでいないし、どうせ当分の間は会えないんだから、多少の誤差は目を瞑ることにした。
『ちゃんと診ろよ』
「19で医学博士号取った天才に向かってなに言ってんの? 忘れるくらい綺麗に傷跡消してしてやるよ。ま、電話しながらじゃ無理だから、一旦切っていい?」
安心させるためにもあえて適当な返答をすると、敦志は小さく溜め息をついた。
『…………わかった。頼んだぞ』
「了解」
携帯を切って隣のベッドに投げ捨てると、坂崎さんが「悪いね」と苦笑した。
「これくらい別にいいって。とりあえず、傷の周り洗うな」
軽く言いながら、固まった血を生理食塩水で流した。
坂崎さんは薄まった血が下に敷いた白いバスタオルにしみこんでいくのを、無言でじっと見つめていた。
腕にこびり付いた血をふき取ると、傷のすぐ近くに火傷の痕を見つけた。4~5cmくらいの、ずいぶん昔のものだ。けれども今はそのことよりも目前の傷の深さに驚いた。
「掠った程度とはよく言えたね。本当はかなり深いよ、傷。どうしても病院に行かないわけ?」
「政治家が切り付けられたなんてことになったら、痛くもない腹を探られるからね。秘書や後援会の人たちにも迷惑かけることになるし、この程度なら大事にしたくないんだ」
そう言って自嘲するように笑う。
「痛くもない、ね」
鹿島弘一や、実の妹の田口真奈美のことといい、探られたら痛いところだらけのくせに。そんなに探られたくない真実が隠れているのか、それとも本当に周りの人間への迷惑を考えているのか。
どっちにしても、自分さえ我慢すれば済むっていう考え方は嫌いだ。
「強がるのはわかるけど、もっと自分を大事にしたほうがいいんじゃない?」
「そうだね」
まるで社交辞令を受け取るように頷いて、坂崎さんはあいている右手で枕もとにあった携帯の時計を確認し、持ったまま鳩尾に置いた。
俺の言葉なんて、きっとこの人には届いていないんだろうな、と漠然と思った。
坂崎さんも、雨宮と違った意味で面倒な性格だ。
「どんな奴だったか見た?」
薬のアレルギーなんかを確認して、形成外科医の友達から借りた局所麻酔薬を注射しながら聞くと、坂崎さんはハッとしたように俺を見て、小さく頷いた。
「チンピラだよ。包丁を構えて待ってたって感じで、部屋を出た瞬間に突進してきた」
このホテルは防犯カメラがそこらじゅうにあるような感じじゃないし、もし犯人が映っていたとしても、事件を公にしたくないわけだから、警察に通報するつもりもないんだろう。
「なんで議員宿舎じゃなくてホテルなんかに泊まってるの?」
議員宿舎からこのホテルまで、歩いても15分程度の距離だ。わざわざこんなところに泊まる必要なんてない。
「言ったでしょ、殺されるかもしれないって」
このまえと同じように、顔色ひとつ変えずに物騒なことを言う。
「それにしては余裕だな」
「鹿島が殺された時点で、それなりの覚悟はしているから」
仕方なさそうに、けれどどこかどうでもいいことみたいな口調だ。まるで、それが問題じゃない、とでも言うような。
「つまり、犯人の見当はついてる?」
「さぁ………実はいろいろありすぎて、今回がどれなのか僕にもわからないんだ」
おいおい……誠実そうな顔して、いったい何やってるんだよ。
「……逮捕されないことを祈るよ。敦志のためにも」
何よりも、敦志が苦しむ。
坂崎さんは小さく頷いて、ぼんやりと天井を見つめた
数分の、沈黙が生まれた。
雨宮はいつの間にか備え付けの椅子を持ってきて、少し離れたところで座って無言で見守っていた。
どこを切っても謎だらけのこの坂崎さんを「強い人だ」と言った雨宮は、今の坂崎さんを見てどう思うんだろう。命を狙われていると笑い、こんな怪我を負いながらも病院に行かずに耐える坂崎さんを。
ステンレスの器具の音が部屋に響く中、その沈黙を破ったのは坂崎さんだった。
天井を見つめたまま、静かに問う。
「田口真奈美の出生は、わかった?」