始まりの日

赦罪 - 16

杉本浩介

 残業して報告書を書き終えたところで尾形に呼び出され、銀座の住所のマンションに向かった。車で来いと言われたから警視庁の覆面パトカーを借用したが、どういう用件なんだろう。
 尾形の声がひどく低かったのが気になった。
 そしてマンションに着いて尾形の携帯に電話すると、尾形が、なぜか相沢との間に雨宮を抱えて出てきた。
 どうやら雨宮に何かあったのは明白だ……。
 この三角関係を考えると、俺には想像もつかない苦悩が雨宮に降りかかったんじゃないかと一瞬かなり焦った。けれども、完全に気を失っている雨宮の顔を見て、思い過ごしかもしれないとも思う。
「どうしたんだ?」
 尾形の険しい表情とは対照的に、雨宮の顔はどこか幸せそうというか、緩んでいるというか、緊張感がまるでない。酔って寝てるだけにも見える。
 2人は雨宮を気遣いながらバックシートに寝かせると、尾形だけがそのまま乗り込んで、膝に雨宮の頭を乗せた。
「二度とここには近づかせるな」
 尾形の冷たい言い方に、相沢は真顔で「わかってる」と答えてドアを閉め、無表情のまま俺に小さく会釈するとすぐにマンションに消えていった。
「杉本さん、出して」
「了解。おまえの家でいいな?」
 行き先を確認すると、消えそうな声で「ああ」と聞こえた。
 どこか緩慢とした雨宮の様子と尾形の緊張感にギャップがありすぎて、何が起きたのか見当もつかない。ただ、尾形の険しいオーラがヒシヒシと後ろから伝わってくる。
 とりあえず言われたとおり車を出したものの、重苦しい雰囲気に耐えかねて、思わず口を開いた。
「何があったのか、聞かないほうがいいか?」
 バックミラー越しにそう聞くと、尾形は溜め息をついて顔を上げた。
 今までに見たことがないほど、思い詰めた目をしていた。
「……俺、今度こそ嫌われるかも」
 静かにそう言って、また雨宮を見つめた。
 何があったのか知らないが、尾形にしてはあまりにも弱気な発言に、驚いた。と同時に、尾形が本気で雨宮を思っているんだと、今さらながら気付かされたような気がした。
 これまで冗談やからかい半分で雨宮に接しているんだとばかり思っていた。そもそも尾形は恋愛をゲームとしか思っていないようなところがあったけれど、今回ばかりは本気なんだろう。だったら、なお更。
「嫌われてようが避けられてようが恨まれてようが、強引に振り向かせるのが尾形だろ。なに弱気になってるんだよ」
 そのくらい本気じゃなかったら、俺がお前から雨宮を引き離してやる。
 尾形は小さく、弱々しく笑った。
「そうだな。どうかしてた」
「ああ、そうだ。どうかしてるよ、まったく」
 本当に何があったんだ。こんな尾形は初めて見たし、あの雨宮の緩んだ顔からじゃ、どうして尾形がこうなったかわからない。ただの三角関係のもつれだったら、こうはならないだろう。
 それから10分くらい車を走らせたところで、ふいに尾形が気を取り直したように聞いてきた。
「一ノ瀬組って、麻薬もやってる?」
 バックミラーに映った顔は、とりあえずいつもの尾形に見えた。
「薬? さぁ、聞いたことないな。あいつらはそんな危険なことはしないだろ」
「そう」
 確かに暴力団にとっては金になるだろうが、リスクが高すぎる。それに、一ノ瀬組はそんなことをしなくても、すでに金が入ってくる仕組みを確立している。
 なんでそんなことを――――そう考えて、恐ろしいことが頭に浮かんだ。
「おい、待て……まさか雨宮…………」
 思わず車を路肩に寄せ、サイドブレーキを引いて、体をひねって、雨宮の顔をもう一度確認する。
「―――やっぱり!」
 どうして最初に見たときに気付かなかったんだ!
 何度もこういう奴を見てるし、逮捕したこともあるじゃないか。
「何を、されたんだ? 一ノ瀬に打たれたのか? 大麻チョコか? LSDペーパーコカインコーク、いや、MDMAエクスタシー!?」
 ありとあらゆる麻薬の名前が頭にうかんだ。一ノ瀬組が捌いてるとは考えづらいが、入手するだけなら朝飯前だ。何を持っていても不思議じゃない。
 狭い車内で声を荒げる俺に、尾形はどこかわざとらしく。
「まぁまぁ落ち着いてよ。雨宮が起きる」
「落ち着いてなんていられるわけないだろっ。覚せい剤だったらっ――」
5-MeO-DIPTフォクシー。8mg」
 俺の言葉を遮るように言った薬物名に、思わず絶句した。
 一ノ瀬とフォクシーと言ったら、やることは1つだ。
「…………そ、そう、か……」
 ようやくそれだけ言ってから、何が起きていたのか、想像して怒りが込み上げた。
 一般人にそんなもの使って、レイプしたってわけか。尾形の気持ちを思うと、やりきれなくなる。
「あいつ……ムショに送ってやる……」
 低く呟く俺を、意外にも冷静に尾形がなだめた。
「だから落ち着けって。寸前で相沢が止めて俺に連絡してきたから、なんとか雨宮は無事だったんだけど」
「ああ……なんだ、そうか、よかった……」
 レイプはなかっただけでも、精神的にはずいぶん楽だろう。薬の量も少ないから、副作用もそれほどないはずだ。
「でも、やりすぎたかなぁ」
「なにが?」
「雨宮を虐めすぎた。制御がきかなくなって、6回も」
 ニヤッと揶揄するような顔をして言う。さっきの思いつめたような影は微塵もない。
「………………は?」
 つまり、さっきの「嫌われるかも」発言の理由が、コレか?
「ノロケか? それともおまえの絶倫っぷりをアピールしてるのか?」
 だいたい俺は男と男のセックスに興味はない。
 思わず顔をしかめた俺に、尾形がククッと喉を鳴らして笑った。
「なにが可笑しいんだ。この世の終わりみたいな顔してたから、こっちは本気で心配してたんだぞ。雨宮をだけどな」
 最後に当て付けのように言ったが、あまり効果はなかったみたいだ。
「ごめんごめん。ほら、杉本さんの想像って、俺と違って健全だなぁって思って。詳しくは言わないけど」
「ああ、パクられたくなかったら、誰にも言わないことだ」
 健全って、何をやったんだよ尾形は。雨宮がドラッグで飛んでるのをいい事に、とんでもないプレイをしたんじゃなかろうか。いや、それはいくらなんでも…………いや、尾形ならありえる……。
 俺だって男同士のセックスでどういうことをするのかくらいの知識はあるが…………想像して後悔した。
「雨宮が可哀そう過ぎる………変な男にばっかり目を付けられたな」
 一ノ瀬からレイプは免れたのに、尾形なんかに好き勝手にされて。
「俺も、こんなに嵌るとは思わなかったけどね」
 冗談っぽく言う尾形をちらりとバックミラーで見ながら、車を発進させた。
 このちぐはぐな明るさが、何かを隠すためのものでないことを祈りつつ。

雨宮陽生

「ん……痛ってぇ……」
 腰と尻が痛くて、目が覚めた。
 全身が筋肉痛になる前みたいに、だるい。
 その感覚で、すぐに自分がした事を思い出した。
 一ノ瀬に襲われそうになって、ていうか襲われて、相沢に助けられて、それなのに俺は相沢にあんなこと言って、しまいには尾形にも――――。

「サイアク………………」
 あんな状態で、なんで記憶が残ってるんだよ……。
 どう考えたって、あんなのただの変態とか淫乱っていうカテゴリーの人間だろ。
 薄暗い部屋で、肌蹴たタオルケットを体に寄せて、なかなかこっちに来なくて視線を回して、気付いた。

 尾形がいた。
 ああ、そうか。ここ、俺の部屋だ。

 ベッドを背もたれ代わりに座って、首を曲げて寝ている。その背中とベッドの間にタオルケットが挟まっていた。寒いわけじゃないし、無理やり引っ張ると起きそうだからそのままにして、そっと寝返りを打って尾形に背を向けた。
 服も寝るときに着るTシャツとジャージにちゃんと着替えてる。汚れていた体も綺麗になっていた。気を失ってる間に尾形がやってくれたんだと思うと、情けなくて悲しくなった。

 俺、なにやってるんだろ…………。
 ずっと、誰も信用しないようにしてきたのに、なんで相沢や一ノ瀬なんか信用しちゃったんだろう。そもそも違法極まりない奴らだって、わかってたのに。
 信用するから、こんなことになるんだ。
 結局こうやって自分が傷付く。
 そんなのずっと前から知ってたくせに、何回繰り返してるんだよ……。

「雨宮?」
 あぁあ、起こしちゃった。
 顔、合わせたくない。
 だいたい、あんなことしておいて、どんな顔すればいいんだよ。
 どう考えても、誰だってヒクだろ、あれは………。
 カッコ悪すぎるし恥かしすぎるから、そのまま寝てるふりを続けることにした。
 けれども。
「起きてるんだろ」
 疑問形じゃなくて、断定形。しかもそんな俺の考えを見透かすみたいに、
「ドラッグやると、眠りが浅くなるんだよ。体、大丈夫か?」
 無神経に心配してくる尾形に、ムカついた。いや、半分は八つ当たりとか、成り行き。どうやって顔を合わせたらいいかわからなくて。
「……誰がやったんだよ」
 出した声が思いのほか掠れてて、びっくりした。そういえば散々喘いでいたような気が……心底、自分が嫌になる。
「俺か。でも、俺でよかっただろ?」
 自信たっぷりに言う。
 けれども。
「違う――あの場にいたのが一ノ瀬とか相沢とか杉本さんとか、その辺のホームレスでも、俺は同じだったよ」
 言ってから、目の奥が熱くなった。
 本当に、あの時は誰だってよかった。これは事実だし、嘘をつくつもりもない。
 それなのに、どうしてこんなに心臓が痛いんだろ…………。
 なんで、こんなことで涙なんか出てくるんだよ。
 肺が縮むような、気管支が極端に細くなったような息苦しさを感じて、そっと自分の体を強く抱きしめた。

「そうだとしても、雨宮は俺が好きなんだよ」

 ―――そうだよ。

 もう聞き慣れたその言葉の意味が、やっとわかった。
 俺は、尾形が好きなんだ。

 好きだから、好きだと言われるのが怖い。
 無意識にずっと気付かないふりをして、これ以上の関係に進むことが、震えるほど怖いんだ。
 怖いから――――。

「だったら? 余計に軽蔑するだろ? 俺が尾形を好きだったとしても、誰にでも醜態見せ付けるような奴なんだよ、俺は。尾形だからあんなことさせたってわけじゃないし」

 突き放される前に、突き放したほうがいい。

 シンとした部屋の冷たい空気を感じて、心臓を握りつぶされたような痛みが胸の中心に広がった。
 ぎゅっと唇をかんで、その痛みに耐えた。
 これ以上の関係に進んで裏切られる痛みに比べたら、こんな痛みはかすり傷みたいなものだ。

「雨宮――――」
 尾形が何かをいいかけたその時、携帯がフローリングの床で震える音がした。
「チッ…………」
 尾形が小さく舌打ちして、携帯を見たのがわかった。
「どうした?」
 こんな大事な話してるときに、しかもこんな時間に出るってことは、よほど大事な相手なのかもしれないと、なぜか冷静に思った。その予想は当たっていたみたいで、背後で尾形が息を飲む気配がした。
「おい、マジかよ……」
 尾形の声に緊張感が宿る。
「それで? どのくらい出血してる? 滲むくらいとか流れるくらいとか」
 出血?
 思わず起き上がると、すでに尾形は立ち上がって部屋を出ようとしていた。
「わかった。清潔なタオルを巻いて傷の上からきつく抑えるように伝えて。そう、痛いくらい強くていい。――ああ、わかってる。場所は? ああ、見附みつけ なら20分くらいで行けるけど、大丈夫か?」
 バタバタと部屋を行き来する足音と廊下から聞こえる会話で、誰かが怪我をして、出血してるのがわかった。医師免許を持ってるっていう尾形に助けを求めてきて、これからその人のところへ行くんだ。
「雨宮、ちょっと出てくるから、ちゃんと休んでろよ!」
 すごい速さで着替えを済ませてから、俺の部屋に上半身だけ入って言う。
「え!?」
 その尾形の慌てぶりが尋常じゃなくて、咄嗟に立ち上がった。
「待って、どうした――あっ、痛ってぇ……」
 瞬間、尻に痛みが走って、ヨロヨロとベッドにへたりこんだ。
「おい、大丈夫か?」
 すぐに尾形が俺に駆け寄って、そっと腰に手を回す。その場所が、急に熱くなったような気がして、顔が赤くなるのを感じた。
「へ、平気……それより、どうしたの?」
 無理やり痛みを我慢して顔を上げると、尾形がホッと息をついた。
「ああ、坂崎さんが赤坂のホテルで襲われたらしい……」
「え――……坂崎さんが?」
 一瞬で、昨夜のことなんてどうでもよくなった。
 俺の神経のすべてが、事件のことに切り替わるのを、どこかで冷静に感じた。
「ナイフで腕を掠った程度とは言ってるけど」
 国会議員が襲われたなんて、何かでっかい裏があるに決まってる。
「犯人は?」
 そう聞くと、尾形は小さく首を振った。
「逃げられてる。坂崎さんも大ごとにしたくないからって、警察にも連絡してないし、医者にすら行ってないみたいなんだ。それで敦志に連絡して、敦志が俺にかけてきた。ちょっと様子見てくるよ」
 命を狙われるほどの情報を、坂崎さんは握っている。もちろんその情報を警察にも言えないから、襲われても通報できない。
 坂崎さんは、俺の両親が殺された事件の関係者と、深いつながりがある。つまり、父さんが殺された理由ともつながっているかもしれない。
「俺も行く」
「でも体辛いだろ」
「平気だって言っただろ。俺も行って、話聞きたい」
 坂崎さんには、聞きたいことが山ほどある。
 きっぱりと言うと、尾形はじっと俺の眼を見た。
 尾形が断ったとしても、自力でも坂崎さんに会いに行く。ほんの小さな手がかりでも欲しい。
 しばらく見つめあった後、視線を逸らしたのは尾形だった。
「…………わかった。車出しておくから、早く降りて来い」
 無表情に言って踵を返し、マンションを出て行った。