始まりの日

赦罪 - 18

雨宮陽生

 え――、このタイミングで言うか?
 それも自分から?
 なんで?

 思わず坂崎さんの顔をまじまじと見てしまった。
 でも当の本人は特に表情を変えることなく、俺と同じように驚いて手を止める尾形を見ていた。
「……さすがにに驚いたよ。彼女と兄妹だなんて想像もしてなかった」
 溜め息まじりに尾形が言うと、坂崎さんは天井を見上げた。
「僕は、警察が真奈美の戸籍を調べていなかったことに驚いたよ」
 らしくない言葉で警察を批判する。そんなに警察に不信感を持っているのに、実の兄だって誰にも言わずに隠し続けた理由って、もしかして。
「坂崎さん、本当は綾瀬が犯人だって、知ってたんじゃないんですか?」
 警察に田口真奈美の兄だと名乗り出なかったのは、犯人を知っていたから。名乗り出れば逆に自分が疑われ、坂崎さんの所属する派閥に大きなダメージが及ぶ。それを回避するには、綾瀬が犯人だと言うしかないけど、その綾瀬でさえ同じ党の大物政治家の秘書で、派閥どころか党自体の支持率にまで影響してしまう。
 坂崎さんは感心したように「君は物怖じしないタイプなんだね」と言って。
「北林先生から綾瀬さんの遺書の件は聞いたよ。遺書に書いてあることは本当だと思う。2月の初めに急に真奈美から連絡があって、綾瀬さんのことを聞かれたんだ。彼に言い寄られていて悩んでるみたいだった。僕は、綾瀬さんの女性関係にはあまりいい印象を持ってなかったら反対したんだけど、真奈美が殺されたことを新聞で…………」
 そこまで言って、珍しく悔しそうに頬を歪めた。
「真奈美にもっと注意するよう言っていれば、殺されなかったかもしれない……………」
 あれ…………?
 自分を面責する坂崎さんに違和感を覚えた。
 坂崎さんらしくないような気がする。
 確かに、阻止できたかもしれないと思って自分を責める気持ちはわかる。俺だって、父さんと母さんに何が起こるかわかっていたのに何もできなかった。あの時迷った自分がいまだに許せないから。
 でも今の坂崎さんの態度は、一昨日の鹿島の話をした時とは正反対だ。あの時は、こんなふうに自分の感情をストレートに出さなかったのに。
「それで、急に綾瀬と連絡がとれなくなったから俺に相談したのか」
 尾形の言葉に、坂崎さんは静かに頷いた。
「あの段階で僕から警察へ直接言うのは、党への影響が大きすぎるから」
 党への影響――北林への、じゃないんだ。
 今回のことで一番ダメージを受けるのは、党でも派閥でもなく総裁選に出馬しようとしている北林なのに。
「北林は綾瀬が真奈美さんを殺したって知ってたと思いますか?」
「知っていたら、今回の綾瀬の死には北林先生が関わってるかもしれないね」
 この人はまた平然と怖いことを言う。
「じゃぁ、綾瀬が真奈美さんから坂崎さんの話を聞いて、それが北林に伝わっていたら――――」
「北林は僕を殺そうとするかもしれない」
 俺を遮って、政治家らしいきっぱりとしたトーンで答えを言った。そして、
「考えたくないけど、ありえないとは言えないよね」
 そう付け足して、何かを考え込むように天井を見つめた。
 確かに、同僚みたいな人から命狙われているなんて考えたくない。俺だって6年前に誘拐された時、犯人がじいさんの運転手だって知ってかなり人間不信になったし。

「――――で、敦志はどこから知ってるわけ?」
 尾形が傷口の手元に視線をおいたままごく自然に聞いた。すると、坂崎さんはなぜか緊張が解けたように柔らかく微笑んだ。
「敦志から、物凄い鬼畜だって聞いてたけど、4年も経つと人って変わるのかな」
 なんでこの質問でそうなるんだろう。いまいち俺にはわからないけど、尾形はニヤッと口角を上げた。
「本気で好きな奴がいなかっただけだよ」
「そう?」
 って、なんで俺を見るんだよっ。この2人の会話、おかしくないか?
 思わず尾形の横顔を睨みつけると、坂崎さんがクスッと笑うのが聞こえた。
 っていうか、尾形も尾形で本質的には鬼畜のままって言ってるようなもんだろ。わざわざ否定するなよ。
「で、話したの?」
「敦志には真奈美のことは何も話してないよ。聞いてくることもないし、彼のことだから調べようと思えばいくらでもできるだろうから」
 知らないんだ……そいえば、鹿島との関係についてもそんなに深く知らないみたいだったっけ。
「……それでも、敦志は話してくれるのを待ってるんじゃない?」
 坂崎さんは、寂しげに笑みを作って頷いた。それから尾形を真っ直ぐ見て。
「そうだと思う。だから、尾形君からは言わないで欲しい。調べるなとは、言わないから」
 そう言った坂崎さんの眼は真剣で、何かものすごく大きなことを成し遂げる決意―――、覚悟をしているような気がして、また少し違和感が湧き上がる。
 けれども、包帯を巻き終えた尾形はそんなこと思わないのか、納得したように頷いた。そして、坂崎さんを見て。
「わかった。そのかわり、1つ聞いていいか?」
 その先の言葉は、なぜか俺の体に深く突き刺さった。

尾形澄人

「坂崎さん、いま幸せ?」

 こんな状況にあっても、この人は苦しくないんだろうか。
 近しい人をたて続けに殺され、それでも笑っていられるのは、どうしてなのか。

 坂崎さんは一瞬驚いたように真顔になって、それから小さく微笑んだ。
「…………ええ、怖いくらい」

 その笑みは、どこか哀しげで痛みを紛らわせているようにも見えた。
 この笑みを見て、雨宮は坂崎さんは犯人じゃないと言ったんだろうか。
 両親を早くに失って、妹と離れ離れになって、その妹が殺され、父親同然という鹿島も殺された。それを愛する人にさえ相談せずに、独りで抱え込んでいる。
 それでも、怖いくらいに幸せだと言いながら、こんなに辛そうな顔で笑う。

 強い人?
 この状況を幸せだと言える、強さ?
 そんなものが、本当にあるんだろうか。
 そんな強さが、必要なんだろうか。

 雨宮、おまえには坂崎さんがどう映っている?

雨宮陽生

 助手席から、議員会館の門を抜ける坂崎さんの背中を眺めて、思わずため息が出た。

 2008年に来てから、いい事なんて1つもない。
 両親が目の前で殺されて、殺されそうになって、尾形が死にかけて、一ノ瀬に変なクスリで飲まされて、あんなことされて……まだ1ヶ月も経ってないのに、立て続けにいろいろなことが起こりすぎだろ。どう考えたって、今の俺は幸せなんかじゃない。

 それでも、どうにか自分を保てているのは、尾形がいたからだ。
 俺がダメになりそうなとき、必ず尾形が俺を引き戻してくれるから。

 でも坂崎さんは、一番近い存在の人にも過去のことを話さずに痛みを全部自分の中に封じ込めて、その上、殺されそうになった時でさえも、三並さんを気遣って、俺たちに気遣って…………。
 それでも怖いくらい幸せだなんて言える。
 痛々しさすら感じるくらい、辛いことだらけなのに。

 本当に強い人だと思う。
 でも、もしその強さがほんの少しでも欠けてしまったら、満水のダムが決壊するみたいに、封じ込めていた痛みが一気に爆発して、坂崎さんの中の何かが壊れてしまうんじゃないか。
 そうなったとき、人はどうなってしまうんだろう――――。

「田口真奈美のこと、本当だと思うか?」
 尾形に聞かれて、現実に引き戻されたような気がした。
 そうだ。今はそんなことよりも事件のことを考えなきゃ。
「うーん……正直、わからない」
 率直に返すと、尾形は少し意外そうに俺を見た。
「へぇ。坂崎さんのことが、わからなくなった?」
「坂崎さんの言葉や態度がどうしてもしっくりこないんだよ。何が嘘で何が本当なのかがわからなくてさ。けど、1つだけ確実に違うって思ったのは、妹を助けられなかったって言った、坂崎さんの態度かな」
「ああ、あんなふうに人前で露骨に自分を責めるような人間じゃない。だろ?」
 やっぱり尾形も気付いたんだ。
「うん……でも、それが何のためなのかは分からないけど」
 あんな態度をとった理由があるとすれば。
「考えられるとしたら、真奈美から綾瀬のことを相談されたってことからして嘘で、その流れで重ねて嘘をつい――――」
 説明していると、なぜか目の前でETCの赤と白のバーが上がって、思わず尾形に向き直った。
「って、なんでいきなり高速乗ってるんだよ! 帰るんじゃねーの!?」
 俺の断りなんて一切ないままどこかに行こうとするその神経を疑って思わず声を上げると、尾形は正面を見たまま平然と。
「海に行きたくなった。夏だからね」
「………………は?」
 なに言ってんだよ、コイツ。尾形のことだから何か理由があるかもしれないけど、ただの気まぐれっていう線も拭えないのはどうしてだろう……。
 思わず尾形をまじまじと見て絶句していると、横目で笑った。
「嘘だって。坂崎さんの過去を見に行こうと思って」
「面倒くさい言い方するなよ。今から静岡かよ?」
 鹿島の選挙区は静岡だから、坂崎さんはちょっと前までは静岡にいた。けれども尾形は首都高の急なカーブにハンドルを切りながら、
「違うよ、もっと前――20年くらい遡る」
 そう言って、直線になったところで、俺にカーナビのリモコンを渡して、電話番号を言う。しぶしぶ目的地にセットすると「目的地まで1時間25分です」と機械のアナウンスが流れた。
 カーナビに表示された目的地は、茅ヶ崎より少し静岡寄りにある、二ノ宮町という海沿いの町の一角。
「湘南………?」
「そこまで行くと湘南じゃないだろ」
「そんなことどうでもいいよ。ここって、真奈美が3歳までいたっていう施設?」
「そう、坂崎さんもそこで育ったんじゃないかと思って昨日杉本さんに確認したら、やっぱりそうだった」
 確かに真奈美と連絡をとりあってたんだから、施設に一緒にいた可能性は高いし、そこで育った可能性だって高い。雑誌の対談で海沿いの町で育ったって言ってたし。だけど、だ。
「っていうか、俺の都合はどうでもいいわけ? 普通、断りもなく目的地まで1時間25分の小旅行に連れてくかよ」
「でも、坂崎さんのことを知るには一番近道だと思わない? それに、1人より2人のが楽しいだろ」
 悪びれもなく言うあたり、絶対に計画的犯行だ。
 そもそもどう見ても未成年で部外者の俺が行ったって邪魔になるだけだから、どうせ車で待ってるのがオチで、それを見越した俺が行かないって言う前に既成事実作ったんだ。
 少しはこっちの身にもなれっつーんだよ。
 これ以上好きにならないように線を引きたいのに。できるだけ距離を置きたいのに。
「だったら俺より杉本さん連れてけよ」
「確かに杉本さんのが実用的だけど、色気がない」
「色気で選ばれても嬉しくねーよ。それにもっと色気のある奴知ってるんだろ」
 セフレみたいなのは相沢だけじゃないはずだし。
「知ってるか? 体質によって効きやすい薬と効きにくい薬があるように、フェロモンにも効きやすい、効きにくいってのがあるんだよ」
 ニヤリと口角を上げて言う。
 つまり俺のフェロモン(なんてないに決まってるけど)は、尾形の体質に効きやす―――――。
「キ、キモイこと言ってんじゃねーよっ。セクハラオヤジ!」
 思いっきり怒鳴ったつもりだったけど、尾形はそんなのどうってことないみたいに、カラっと笑った。
「ははは、おにーさん若いねぇ」
 ……………ムカつく! こいつが運転してなかったら、バックシートの紙袋からメスを取り出して切りつけてやるのにっ。