始まりの日

未来 - 24

尾形澄人

「すみません、1件報告を忘れてました」
 忘れてたって……本当に忘れてたわけじゃないだろうけど自由すぎる。でもこの人は一見頼りなさそうに見えるけど爆弾発言をするから、面白い。松下もそれを分かっているから、指示を遮られても何も言わないんだろう。
「なんだ、足利」
「はい、あ、1つじゃなくて2つでした」
 足利さんは制服の女性警察官からマイクを受け取り、いつものもったいぶった言い回しでそう付け足すと、松下が呆れたように促した。
「1つでも2つでもいい。早く要件を言え」
「えーと、まず現金輸送車の件ですが、実は事前に杉本警部から情報が入っていて、すでに都内の銀行の輸送ルートとスケジュールを把握しています。さっき犯人が要求した5行については、まさに要求通りの時間に輸送されることになっており、輸送現金の合計金額は約22億円です」
 足利さんの呑気な口調とは裏腹、刑事部長の顔がみるみるうちに醜く引きつった。
「足利! そんな情報があるのにどうして上に報告しないんだ!」
 刑事部長は裏返りそうな声で怒鳴って、鼻息を荒くした。けれども足利さんはというと、あくまでマイペースに答える。
「あぁ、すみません。確証もなくあまりにも突拍子のない情報だったんで、混乱させるのもどうかと思って私の判断で止めてました。まぁ、刑事部長に報告したところですぐに犯人が捕まるところじゃないし、いいじゃないですか」
 ……やるな、足利さん。ノンキャリアの強みってやつか。
 怒りと自分の立場の危うさにワナワナと震え出しそうな刑事部長の隣で、松下が冷静に話を進めた。
「つまり、犯人は捜査本部の情報も銀行の現金輸送車の輸送スケジュールも知ることができる人間か」
「そういうことになりますねぇ。それにその5行すべて、同じ警備会社が、現金輸送車の輸送をしてます」
「同じ警備会社だと?」
「えーと、株式会社京葉警備保障です」
 その社名に、会議室が静まり返った。
 株式会社京葉警備保障――警備会社の中でも、役員に警察OBが多い会社だ。そこから情報が漏れている、つまり、この事件には少なからず元警察の人間が関わっている可能性が高い、誰もがそう考えるはずだ。
 嫌な空気だな。
 身内を疑ようなことになったら、せっかくまとまりかけた捜査員の結束が水の泡だ。
 重い緊張感を打ち破って最初に意見を言ったのは、刑事部長だった。
「君は、警察に共犯者がいるとでも言いたいのかね?」
 どこにでもこういう空気を読まない人間がいるもんだな。
「刑事部長、お言葉ですが、今は捜査会議ですから、論点を戻しましょう」
 松下があくまでも丁寧な口調と敬意を払った態度で刑事部長をなだめると、咳払いをして話を戻した。
「警察内部の情報が漏れていることが考えられるため、重要事項は会議終了後に班長に伝える。足利、もう一つの報告をしてくれ」
「はい。えーと、この男の足取りを追ってます」
 そう言いながら、足利さんは隣の若い刑事に何かを渡した。若い刑事はそれをプロジェクターに繋がったパソコンに持っていってUSBポートに差し込むと、すぐに雨宮が目撃した中国人のパスポート写真が映し出された。
王勇オウユウ、中国国籍のパスポートの情報ですが、偽造であることがわかりました。雨宮夫妻が殺された当日の23時50分頃に六本木5丁目のバーを出るところが防犯ビデオに残っていました」
「この男がどういう関係があるんだ」
 松下の問いに、足利さんが一息ついてから、わずかに緊張した面持ちで答えた。
「雨宮夫妻殺害の、実行犯と思われます」
 まだ知らなかった刑事の一部がざわめいた。あまりの信憑性のなさに、内輪でも伏せていたんだろう。
「その情報は、どこから手に入れた」
「言えません。ただ、そのバーの従業員に確認したところ、20時過ぎに来店して、4時間ほど1人で飲んでいたそうです。これが防犯カメラの映像です」
 プロジェクターの横の36インチの液晶モニターに、防犯ビデオの映像がスローモーションで映し出される。深夜にもかかわらず明瞭に映った通りの一角の地下へと続く階段から男が上がってくる。そして、悠然と防犯カメラの方へ歩き、男が一番大きく映った瞬間に一時停止した。
「身長は180cm前後。人着は黒の長袖に黒のスラックス。それからこのスニーカーですが、ドイツの有名メーカーのもので、日本では発売していませんでした。ソールの型が、雨宮家の現場に残されていたものと、一致しています」
 さすが足利さん。この短時間で、よくそこまで調べたな。
 情報源がわからない以上、実行犯であるという別の証拠を見つけなければ、説得できない。そのために、死に物狂いで探したんだろう。杉本さんがたった2時間でホテルから戻ってきた理由がわかった。
「わかった。全力でこの男の足取りを追う。中華街の防犯ビデオの解析を急げ。各班長は5分後に隣の小会議室に集合。外の者は携帯電話をつないでくれ」
 松下の声で、捜査員が一気に立ち上がって会議室が動き出した。
 とりあえず、捜査は前進している。

杉本浩介

 中華街の真ん中で、溜め息をついた。
 左耳のイヤホンから本部の捜査会議の様子が流れている。
 足利さんが俺や尾形の突拍子もない、情報源も明かせない話を信じてくれたことはありがたかった。ただ、警察内部に内通者がいるのだと思うと、ずっしりと肩が重くなった。
 誰が裏切っているのかなんて、考えたくもない。
「杉本さん、こんな状態で深川を発見できるんですか?」
 隣で同じように無線を聞いていた日比野が呟いた。
 警察の捜査情報が外部に漏れている上に、現時点で決定的な手がかりがない。
 かといって、人もまばらで開いている店も限られる朝の中華街では、聞き込みに限界がある。しかも、捜査員のほとんどが事件の概要すら知らずに「誘拐事件の犯人が潜伏している可能性がある」という指示で動いているのだ。誘拐事件は極秘捜査が基本だが、ここまで情報を隠されると現場の警察官は不快に思うだろう。仕事に不備が出ないか、かなりの不安が付きまとう。それでも。
「聞いただろ、タイムリミットまで3時間しかない。捜査員を信じて、『可能性』を片っ端から白黒つけていくことが、俺たちの仕事だ」
 そう言うと、日比野は顔を引き締めた。
 あと3時間。タイムリミットが近づいた今、松下理事官は捜査員を大幅に補充する。そうなれば、2時間弱で全件回れるはずだ。12時に間に合うかもしれない。
 そう意気込んだとき、電話がかかってきた。ディスプレイには雨宮の名前が出ていた。
「はい、杉本」
『雨宮ですけど』
「おはよう、どうした?」
『杉本さん、今どこですか?』
「ああ、中華街に――」
 言いかけて、ハッとした。
 あまりにも普通に聞かれたからつい答えてしまったが、言うべきじゃなかった。被害者の家族を逮捕前の犯人に近づけるのは、危険すぎる。
 尾形も雨宮に簡単に教えるとは思えない。だから、俺に電話したんだろう。
『中華街って、例の肉まんの?』
「…………肉まん? どうして?」
 注意深く言葉を選んだ。
『尾形が昨日肉まん食べてたから』
 それだけでよくわかったな。カマをかけたられてたのか……尾形と同じ匂いがするぞ、雨宮。
 居場所を教えたのは、本当に失敗だったな。
「事件とは関係ないよ」
『利用するだけ利用して、肝心な時は仲間はずれですか』
 冷めた口調で雨宮らしくない厭味を言う。電話越しでも苛ついてるのが分かる。
「尾形に何か言われたのか?」
『別に。何もできない自分に、ムカついてるだけですから』
「もう充分、捜査に協力してるだろ。ひとりで何でもできるわけじゃないんだ。誰かに任せるっていう選択肢も、時には必要だ」
 納得していないような沈黙が返ってきた。気持ちはわからないでもない。けれども相手が銃を所持している殺し屋だということを考えると、雨宮をむやみに近づけるわけにはいかない。
「犯人は警察が必ず逮捕するから、そっちで待ってろ」
 それしか言えない。
「俺たちを、信じてくれ」
 その言葉は通じなかったのか、無言のまま通話が切れた。
 目の前で両親が殺されたんだ。何を言っても届かないかもしれない。
「杉本さん、誰と話してたんですか?」
 となりで俺の電話を聞いていた日比野が、疑い深げな目を向けてきた。
「まさか、あの高校生ですか?」
 日比野も意外と鋭いな。
 ごまかす言葉を考えていると、なんともタイミングよく無線の声が聞こえた。
『中華街に神奈川県警の刑事4名、所轄捜査員20名を追加配備する。C班杉本警部、加賀署に戻ってください。どうぞ』
 松下さんの早い判断に感謝だな。
「こちら杉本、了解」
 そう返事をしながら日比野にニヤリと笑って見せると、日比野が顔を頬を引きつらせて俺を睨んだ。
「じゃ、そういうことだから」
 日比野から逃げるように走って所轄署に戻った。
 それにしても所轄からは24人か、本部からも応援が来るといいけどな。
 時間が、ない。

尾形澄人

 非通知の着信を無視して、携帯をスーツのポケットにしまった。
 雨宮だ。俺が2回も出なかったから、今度は番号を非通知にしてかけてきたんだろう。
 捜査会議中だったのもあるけど、今雨宮と話すのは、辛かった。
 雨宮夫妻が殺されたあの日、雨宮の眼には悲痛さだけが宿っていたように思う。両親を殺された哀しみや、記憶を失っていた悔しさだけだった。けれど、次の日、中国人の殺し屋の写真を見つけた時は、憎しみが滲んでいた。
 目の前で血だらけで倒れる父親を見ていた、4歳の雨宮陽生と同じ眼だった。
 どんなに雨宮が俺に捜査状況を聞いてきても、俺には何も答えられない。今の雨宮が、俺の言うことを聞くわけがないだろうし、俺自身も嘘をつき通せる自信がない。
「尾形、おまえパソコン得意だったよなあ?」
 防犯ビデオの解析がどこまで進んでいるか聞きに行こうと科捜研に戻ろうとしたとき、背後から足利さんの声が聞こえた。
 振り向くと、長机の上に置いたノートパソコンを前に、足利さんが座って俺を見上げていた。ピーポくんのマウスパッドが妙に足利さんとマッチしていて面白い。
「一通りできますよ。でも報告書は自分で書いてください」
 そう答えると、足利さんが横の椅子にずれて、俺にパソコンの前に座るように促した。
「報告書じゃねぇよ。さっきハイテク捜査班に深川の会社のサーバーにつなげてもらったんだけど、その先どうしたらいいんだぁ?」
 おいおい。
「それ犯罪ですよ、足利さん」
 いくらなんでも、令状なしで警部が自らハッキングはやばいんじゃないか?
「いいんだよ。いちいちこんなことで令状取って家宅捜索したら、証拠消されてあっという間に12時だ。責任は俺がとる」
 呑気な口調で男らしく言い切ると、早くやれ、とせかした。
 そういう考え方は嫌いじゃない。確かに今は香港の黒田の妻子の行方も分からない上に、中華街でも何一つ手がかりがつかめていない。一番手っ取り早い方法ではある。
 パソコンの前に座ってディスプレイを見ると、ハッキングツールが立ち上がっていて、深川の会社のサーバーが丸見えだった。
 あくどい商売してるから、自社サーバーを使っているんだろう。
「こんな黒い文字だけの画面、何年ぶりにみるかなぁ」
 足利さんはどうでもいいことを呟きながら、青い分厚いファイルの上に頬杖を付いてのんびりと構えた。
「とりあえず、サーバーに繋がってるんで、メールログをさぐりますよ。ただ、犯罪関係のメールを会社のメールでやりとりするとは思えないので、ネットワークにもぐりこんで深川の使っているパソコンのインターネットのアクセス履歴を見てみますが、少し時間がかかりますけどいいですか?」
 キーボードを叩きながら説明すると、足利さんは感心したように頷いた。
「さすが教授。少しってどんくらい?」
 この場合、教授は関係ないけど。
「セキュリティにもよりますが、早くて5分、かかっても30分程度です」
「じゃぁ、何か出たら俺の携帯に連絡くれよ」
 足利さんはあっさり席を立ってファイルを重そうにかかえ、会議室から出て行った。隣で班長だけの秘密会議をするんだろう。
 特殊班と数人の待機人員と俺だけになった会議室に、キーボードを叩く音と警察無線の音だけが響いた。
 サーバーのメールログには怪しいメールは残っていない。それとは別に、深川宛にフリーメールからの広告メールが何通も届いていたから、このフリーメールを使っているのかもしれない。別のハッキングツールを立ち上げて、深川の会社のネットワークに侵入することにした。
 パソコンにはハッキングツールが13個も入っている。さすが警視庁のハイテク捜査班だ。
 深川の会社はヤミ金だ。普通は金融会社のネットワークはありえないくらい堅いはずだけど、所詮はヤミ金、穴だらけだった。5分もかからずに潜り込めた。あとは、深川のパソコンが立ち上がっていることを祈るしかない。
 その時、また携帯がスーツの中で震えた。
 ディスプレイには、予想通り雨宮の名前が表示されていた。