始まりの日

未来 - 25

雨宮陽生

 予想通り留守電に切り替わった無機質な音声を聞いて、通話を切った。
 再開発の途中で、まだ少しだけ雑多な感じが残る有楽町駅前は、午前中にもかかわらず、かなりの人でごったがえしていた。何よりも、政治家の叫ぶような街頭演説が耳障りで、思わず広場の宣伝カーを睨みつけた。
 上に人が乗れるようにキャリアーをつけたワゴンに4人も乗ってて、その中の30代くらいの男の政治家がマイクを握って、汗も拭わずに必死に声を張り上げている。有名な奴なのか、周囲に人垣ができていた。
「我々が目指すのは、自分の子供に安心してバトンを渡せる国。誰もがこの国に生まれてよかったと思える日本を築くために、今しなければならないことは何なのか――」
 ありふれた演説だったけれど、その風景に、脳の中心がゆれるような感じがした。
 俺が4歳になる少し前、こんなふうに父さんを見たことがあった。
 月に数える程度しか会えない父さんに会いたくて、母さんに駄々をこねると、母さんは仕方なさそうに、父さんの街頭演説に俺を連れて行ってくれた。
 父さんが何を演説してたのかは覚えていないけど、宣伝カーから降りて俺を見つけると、驚いたように目を丸くした。それから笑って俺を抱きあげた。
「よく来たね。寒かっただろう」
 俺はそれが嬉しくて、父さんの腕が温かくて、たった数分間しか話せなかったことに落ち込んで、また母さんを困らせた。
「もう、男の子なんだからウダウダ言わないの。一緒に住んでるんだから、すぐに会えるわよ」
 さすがに母さんは呆れたように言って、俺の手をひいた。
 今よりももっとすごい人混みの中、俺は離れないように母さんの手を握って、大人たちの足の間を縫うように歩いた。

 あの時は自分がこんな人生を歩むなんて、これっぽっちも思っていなかった。
 きっと父さんも母さんも、数ヶ月後に死ぬなんて思ってなかったと思う。あの時は、これから先の何十年の中の、たった一瞬の出来事でしかなかった。
 それが、今は家族3人の、数少ない思い出になった。といっても、俺はそれさえも忘れていたんだけど……。

 ひときわ大きな歓声に、現実に引き戻された。
 気が付くとさっきの議員の演説が終わって、壇上に上がってきた白髪交じりの恰幅のいい政治家がマイクを握っていた。
 たぶん、かなりの大物議員なんだろうと思う。さっきの若手政治家よりも人垣がふくらんで、歓声も比べ物にならないくらい大きくなっていた。
 それを聞きながら周囲のビルをぐるりと見回して、ネットカフェを探した。
 今は感傷にひたってる暇なんてない。こうしている間にも犯人が逃げようとしているかもしれないんだ。
 杉本さんの口調からすると、深川が中華街にいることは間違いない。だから、中華街周辺の情報を集めてから、行ってみようと思った。

 尾形は俺に何も教えないつもりだ。
 どうせ銃を持った殺人犯に近づけるのは危険だなんて考えてるんだと思う。
 でも、そんなことよりも、時間が経って両親との記憶が鮮明になっていくにつれて、この事件の理不尽さにムカついて、何もできない自分自身にイライラした。
 絶対に、父さんと母さんを殺した犯人を見つけてやる。
 そのために俺にできることがあれば、なんだってしてやる。

尾形澄人

 中華街にある所轄署に借りた麻布事件専用の会議室を覗くと、警察無線での捜査員たちのやりとりとFAXの受信音やプリンターの音で騒然としていた。無線や録音機材が狭い部屋に詰め込むように置かれた中で、捜査員10人が全員立ちっぱなしで作業やミーティングをしている。
 1時間前に中華街の防犯ビデオから中国人殺し屋の姿が映っていたから、この近辺にいることはまず間違いなく、本庁にいた捜査員の半分がこの中華街周辺に集まっていた。
 どうせ俺が今できることはなさそうだと思って、入らずに廊下のベンチに座っていると、「尾形さんですか?」という声が聞こえた。
「あ、尾形さんですよね。ふりふりメールのログが来ましたよ」
 ドアを開けたまま廊下に身を乗り出した神奈川県警の中年刑事が、中に入るように手招きしていた。
 2時間前にハッキングした深川のパソコンのアクセス履歴から、この「ふりふりメール」というフリーメールで頻繁にやりとりしていたことがわかって、令状を取ってハイテク捜査班をふりふりメールに向かわせていたところだった。
 メールの中に潜伏先の名前が出ていればすぐに片がつくけど、徹底的に用意周到な深川が、そう簡単にわかるようなメールを出しているとは限らないから、ここで喜んではいられない。

 会議室に入ると、片隅で所轄の刑事と深刻な顔で話し込んでいた足利さんが、俺に気付いて軽く右手を上げた。
「お、来たな。これ、ふりふりメールから送られてきた資料だ」
 言いながら、テーブルの上に置いてある、電話帳並みの厚さの紙資料を気持ち程度持ち上げた。
 中年オヤジたちが揃って「ふりふり」言っているから、どうも緊張感に欠ける。
「ずいぶんありますね」
 テーブルに置いたままパラパラとめくって見ると、深川のメールのプリントアウトだった。プリントアウトなんて必要なのに、ぜずにはいられないのは、やっぱり根がアナログ人間だからなのか。
「今、別の会議室でハイテク班と鑑識と所轄刑事とで手分けして内容を確認している。そこのパソコンにデータが入ってる」
 足利さんはテーブルの端に追いやられているノートパソコンに視線を向けて、うんざりしたように溜め息をついた。
「ここに手がかりがないと、まずいなぁ」
 さすがにいつも飄々ととしている足利さんにも焦りが見えた。
「そうですね……」
 パソコンの前に座って、中身をざっと調べた。
 メールは返信も含めて全部で329通。そのうち、広告や迷惑メールを除けば、おそらく40通くらいになるだろう。
 キーボードを叩きながら、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「足利さん、深川がどうして中華街を選んだのか、わかりますか?」
 犯人が指定した銀行は全て都内にあるのに、なぜ横浜を選んだのか。
 足利さんは「やっぱり鋭いな」と呟くように言ってから、俺の隣に細長い体を折りたたむように座った。
「知ってるか? 中華街は年間2,000万人の観光客が来る。このたった500メートル四方の町に、1日平均5万5千人が押し寄せるんだよ。しかも、盆休み中の今なら、10万人弱の観光客でごった返す。ディズニーリゾートが年間2,500万人なんだけど、面積は中華街の4倍、つまり単純計算すると人口密度はディズニーランドの3~4倍なんだとさ」
 観光協会の人みたいに一気に説明して、ここから見えない階下の人混みを眺めるように窓を見やった。
 確かに、ここに来るまでに通った道路も、ほとんど人で埋め尽くされていて、この所轄署に車をつけるのも、面倒だった。
 そんなに観光客が来るほどの魅力があるかは別として、犯罪者にとっては、地元住人でない人間ばかりが集まったこのエリアは、楽なのかもしれない。
「木は森の中に隠せ、ですか」
 それに、万が一見つかったとしてもこの人混みだ。銃を持った犯人が逃げたとなれば、観光客はパニックに陥り、警察は思うように動けない。
「それとなぁ」
 と、足利さんは唸るように付け足した。
「現金の回収方法と関係あるのかもしれない。これは俺の推測でしかないけどな」
「そうですね、それは俺も考えてました」
 身代金目的の誘拐や犯罪で犯人にとって一番厄介な工程は、現金回収だ。都内の銀行から現金を受刑者に運ばせて、その後どうやってその金を受け取るつもりなのか。
「高速から投げ落とすなんて荒業は、用心深い深川に限ってしねーだろうしなぁ」
「確かに」
 これまで日本で起きたほとんどの身代金目的の犯罪では、犯人は電車や高速道路から身代金を投下させるような引渡し方法を指示している。けれど成功した例は片手で足りるほどだ。深川ならそんな実績のない方法は却下するだろう。
 じゃあ、深川は合計22億もの大金をどうやって受け取ろうとしているんだろう。
 そう思った時、パソコンに表示された1通の短いメールに目が留まった。
 ――『月B1に11時。予定通り決行する。』
「足利さん、このメール――14日、昨日の午後8:43のメールです。宛先は携帯電話」
 ノートパソコンを少しだけ足利さんの方に向けると、画面を覗き込んで目を細めた。
「『月』は月華樓のことか」
「月華樓に地下があるってことは、把握してますか?」
「杉本が今朝聞き込みに行ったはずだ。確認する」
 言いながら、会議室前方の無線用のマイクの前に立ち、杉本さんを呼び出した。
 同時にハイテク班の人のよさそうな刑事が会議室に飛び込んできた。手には、同じメールのプリントアウトが握られている。無線に向かう足利さん話で先を越されたことに気付き、がっくりと肩を落とした。
『地下……チェックしてませんね』
 杉本さんの、悔しそうな声が無線から聞こえた。そして直後に、別の声で無線に連絡が入った。
『こちら本庁捜査本部の中村、中華街の防犯ビデオに深川が映ってました! 8月3日午後1時09分、月華樓本店に入店、同日午後5時58分に同店を出ています』
 会議室の壁時計は、11:12を指していた。

雨宮陽生

 ネットカフェで中華街の情報を集めて、京浜東北線に乗って石川町駅につくと、11時を回っていた。
 とにかく、昨日尾形が言ってた雅光殿という肉まんの店に行ってみようと思って、駅から中山路の方に向かった。
 メイン通りに出ると、ほとんどの店が開いたばかりにもかかわらず、すでに観光客で込み合っていた。8月15日、お盆休み真っ盛りだから、いつもの倍以上の人混みだ。
 中華街は赤と金が中心の似通った概観の店ばかりだから、印象は2021年とほとんど変わらない。違うのは、観光客に混ざって、警視庁で見たことのある刑事とすれ違うことくらいだ。むこうは俺のことなんて知らないんだろうけど、俺はしっかり顔を覚えていた。
 これだけ刑事がいるということは、やっぱり中華街に犯人がいるんだ。
 すれ違う男に注意を向けた。犯人の顔ははっきり覚えている。どんな変装をしていても、見破ってやる。
 そう思いながら所轄の警察署の前にある善隣門という中華街のメイン通りに入る派手な門をくぐった時。
「困ったな。杉本さんに来るなって言われただろ」
 振り返ると、全然困ったようには見えない顔で、尾形が歩いていた。少し息が乱れていて、俺を見つけて追って来たんだとわかった。
「するなって言われると、したくなるもんだろ」
 どんな顔をしていいのか分からなくて、とりあえず睨みつけて適当に返すと、尾形は笑って頷いた。
「ああ、それは分かるな」
 冗談みたいに言ってから、直後にスッと表情を引き締めた。
「深川は、ここにはいないよ」
 それは「いる」ってことだろ。だいたい、それならどうして尾形がここにいるんだよ。
「だからおまえは帰れ」
 真剣に言えば俺が言うこと聞くと思ってるのか。
「見え透いた嘘ついてどうするんだよ。俺にだってできることがある」
 けれども尾形はまっすぐ俺の目を見て。
「自分の命を大切にしろ。誰も、雨宮を責めたりしないから」
「……………」

 ――また、父さんを思い出した。
 あの事件の1ヶ月前、アル(ゴールデンレトリバー♂)の顔がひどく腫れて、痒くて掻きむしってたことがあった。急いで病院に連れて行くと、牛肉アレルギーだったことがわかった。
 その原因は俺。夕飯のステーキをアルにあげたからだ。
 俺がアルを苦しめていたんだと思うと申し訳なくて、アルがかわいそうで、泣きながら何度も謝った。
 それを見ていた父さんが、
「アルは陽生のせいだなんて思ってないよ」
 どうしてなのか聞くと、父さんは俺の目をまっすぐ見て言った。
「陽生がアルを好きなように、アルも陽生が大好きだからだよ。だから陽生がアルに元気になってほしいと思うように、きっとアルも陽生に笑ってほしいと思っている」

 思えば、あの時の俺はものすごく単純で、何の疑いもなく父さんの言うことを信じていた。
 でも今は、責められた方がどんなに楽だろうと思う。
 責められることで、俺の罪がはっきりしてくれたほうが、ずっと楽だ。俺をかばって父さんが死んだんだと、俺が記憶を失くしたから未だに犯人が捕まっていないんだと責めてほしかった。
 13年前も今も、何も出来ない俺を誰も責めてくれないなら、俺が責めるしかないだろ。

 尾形は、俺の心を読んでいたみたいに、容赦のない言葉を投げた。
「それをわかっていても聞けないのは、雨宮の弱さだ」
 唇を噛んだ。
 思いやりなんて、かけらもない。
 尾形は、俺が一番堪えることを、知ってて言ってる。
 全部、俺が弱いからだ。
 弱いから、13年経っても何もできない自分を認められない。
 弱いから、自分が何かしていなきゃ、耐えられない。
 そんな現実をこれでもかと俺に突きつけて、俺を追い込んで傷つけて、これ以上事件に関わらないように仕向けている。
 グサリと、心の中心に刃物を刺して動けなくするようなやり方。
「…………相変わらず、酷いね」
「そう思われても、雨宮が危険な目に遭うよりはずっとマシなんだよ」
 尾形の真剣な目が、ひどく滑稽に見えた。
「知らないほうがいいことも、あるってことだ」
 知らないほうが、いい?
「はは、笑える……」
 俺の気持ちなんて、どうでもいいんだ。
 俺がどんなに傷つこうが、どんなに後悔しようが、一生こんな気持ちを引きずろうが、尾形にとっては、どうでもいいことなんだ。

 心臓が痛い。
 尾形が、わからない。

 俺がここに、2008年に来た理由は、犯人を捕まえるためだ。
 遊ぶみたいに父さんを殺した中国人の顔が、脳裏に焼きついている。父さんと母さんを物みたいに撃った殺し屋が許せない。それを指示した深川が、許せない。
 それに深川以外にも絶対に裏で操ってる人間が、父さんと母さんを殺して得する人間がいるはずだ。
「俺は、誰に何て言われようと深川を探すよ。そうしないと、一生後悔する」
 それが弱さだと言われてもいい。このまま何もできずに引き下がるくらいなら。
「理不尽だろ。逮捕されても罪に問われないなんて」
 父さんと母さんは殺されたのに、殺人事件そのものがなかったことになる。あの2人の殺し屋も深川も黒田も、たとえ逮捕されたとしても、殺人罪には問われない。
 そんなの、おかしすぎる。
「2人も、殺したのにっ」
 声に出すと、肺が押しつぶされるんじゃないかと思うくらい、みぞおちに黒い何かが膨らんだ。
「誰にも裁かれないなら、俺が深川を恨んで責めるしかないだろっ! 父さんも母さんも突然殺されて人生を奪われたのに、俺を守ってくれたのに、俺はそんなことすら忘れてたのに――、13年も経ったのに知ることも許されないなら、他にどうすればいいんだよ!」
 目に涙が滲むのがわかった。
 けれど、今は泣いてる場合じゃない。こんなところで尾形に泣き顔なんて見せたくない。
 唇を噛んで、ぐっと涙を押しとどめた。
 尾形は、そんな俺をまるで俺を哀れむように微笑む。
 俺のこと可哀そうだとか、同情してるとか、そんなふうに思われてるようで、また腹が立った。
 けれども尾形は、まっすぐ俺の目を見て、静かに頷いた。
「わかった」
 ……え?
 一瞬、言っている意味がわからなかった。
「どこまで捜査が進んでいるのか、全部教えてやる」
 真剣な顔でさらっと言うと、すぐに俺に背を向けて歩き出した。
「教えてやるって……」
 今まで頑なに拒んでいたのに、いきなり肯定されると、拍子抜けって言うか、逆に不安になる。
 尾形は俺を振り返りもせず、足早に俺が来た道を戻って、警察署の中に入っていった。