始まりの日

未来 - 23

尾形澄人

 誰もいない研究室の流し台で、乾いてなかなか外れないコンタクトを無理やり眼球から剥がして、ゴミ箱に捨てた。
 かろうじて普通免許の更新ができないレベルの近視だからコンタクトで済ましていたけど、面倒だから視力矯正手術レーシックを受けてもいいかもしれない。
 白衣の胸ポケットに入れていた眼鏡をかけた時、ずいぶん上から目線の言葉が背後から届いた。
「眼鏡が似合う男、嫌いじゃないわよ」
 どうやら俺は、人が入ってくる気配に気付かなかいほど、疲れているらしい。
「見えてないだろ」
 振り向くと、私服に着替えた神田みちるが、ドアを背に不敵な笑みを浮かべた。
「やっぱり似合ってるじゃない」
「それはどうも」
 適当に返事をして、部屋の隅にある作業用デスクにあるパソコンに電源を入れた。
「で、何?」
 ちらりと神田を見て聞くと、彼女はデスクの脇に歩み寄って、ニヤニヤと笑う。
「私、他人の恋愛に興味あるの」
「……あ、そう」
 呆れた女だな。
「今度は誰なの?」
「今度?」
 俺は一度だって神田に相手のことを話したことがない。それなのに、今度というからには、それなりの情報を持ってるのか、そう含みを持たせて睨みつけると、神田はクスリと口角をあげた。
「だって、公安の課長とは別れちゃったんでしょ」
 ――は? 嘘だろ?
 愕然とした。相沢とのことは誰にも話していない。ましてや警察の人間に知られていたとなると厄介すぎる。
「なんでそんなこと知ってるんだよ」
 焦りを隠して聞くと、彼女は楽しそうに笑った。
「私を誰だと思ってるの?」
 おいおい……。
「なんてね。六本木で偶然見かけただけよ。あいつ、私と警察学校の同期だったの。さすがに公安とデキてたなんて驚いたけど」
「恐ろしい偶然だな……」
 なんなんだこの女は。
「ま、誰にも言ってないから安心しなさい。で、今度はどうなの?」
 まるで弟をからかうように言う。口は堅いから神田から相沢との関係が漏れる心配はないけど、だからといって雨宮のことを話す筋合いもない。
「そっちはどうなんだよ」
「私? おかげさまで順調よ。相思相愛、両親公認。でも人間って不思議よね。幸せすぎて怖いくらいってよく言うけど、本当に怖くなるのね」
 聞いた俺が馬鹿だったな。結局のろけに来ただけか。
「はいはい。仕事したいんだけど?」
「もう1時よ。杉本さんが言った通り、今回は異様に熱心ね」
 杉本さんも余計なこと言うなよ。
 無視してパソコンの前に座ると、神田がすぐ隣の椅子を引いて座った。
「そんなに好きなの?」
「ああ、やりがいのある仕事だね」
 何が言いたいのかいくつか検討がついたけど、あえて自分から墓穴を掘るつもりはない。しらをきると、神田はすっと目を細めた。
「さっき、日比野から逃げて地下道に連れ込んだ男の子よ。鑑識課の窓からもしっかり見えたわよ」
「だから何?」
「あの子、雨宮家とどういう関係?」
「雨宮家? なんで雨宮家が出て来るんだよ」
「雨宮雅臣に似てるわよね。さっき日比野の兄の方に聞いたら、事件当夜現場にいたんでしょ?」
「あのバカ兄弟……」
 今度会ったら絞めてやる。神田も神田だ。日比野が自分に気があると知ってて、それを利用して聞き出したんだろう。
「この事件、おかしすぎるわ。深川がわざわざ警備の厳しい総理大臣なんかを標的に選んだ意味がわからない。総理が意地でも事件を隠し通す理由も。絶対に裏があると思ってるのよ」
「恋愛に興味があるんじゃなかったのか?」
 強く睨みつけて厭味を言うと、彼女は小さく溜め息をついて、バツが悪そうに顔を背けた。
「……尾形が心配なのよ。こんな胡散臭い事件に絡んでる子なんでしょ?」
 なんだ、そんなことか。ここで堂々としなところが、神田らしいけど。
「それならそう最初から言えばいいだろ」
「悪かったわね……苦手なのよ、こういうの」
 その反応から、本当に俺を心配しているだけなんだとわかった。
 ただ、神田には悪いけど、そう簡単に雨宮のことを話すわけにはいかない。
「あいつは関係ない、俺が勝手に現場に連れ込んだだけだ。雨宮雅臣に似てるってのも、気のせいだよ」
「事件に関係ない人間を現場に連れ込むようなこと、尾形はしないでしょ」
「ああ、後悔してるよ、心底」
 これは本心だ。
 もし俺が雨宮を利用して事件の真相を知ろうなんて思わなければ、雨宮は両親が殺されるのを目の前で見なくて済んだはずだから。
「あんな所にいなければ、あいつも苦しまずに済んだだろうしね」
 睨みつけて、これ以上聞くなとけん制すると、さすがに彼女も空気を読んだのか、口を噤んだ。
 今は、沈黙が痛い。
「……もういいだろ」
 出た声が思いのほか弱々しくて、自分でも驚いた。
 神田は「そうね」と呟くように言って立ち上がった。そしてドアノブを回す音が背後で聞こえて、
「尾形、辛いときは相談しなさいよね。同類なんだから」
 ドアが閉まる音が響くと、室内がシンと冷めた。

 同類……お互い、同性愛者だから、か。
 そんな問題じゃない。
 雨宮の、中国人の殺し屋の写真を見つけた時の眼を思い出した。
 目の前で両親を殺された4歳の雨宮陽生と同じように、憎しみが滲み始めていた。
 時間が経つにつれて、犯人への憎悪が少しずつ雨宮の眼を侵略していくのが分かった。
 そんな目をした雨宮を見たくなかった。
 俺と一緒にいるときだけは、事件のことも両親のことも考えさせないように、俺のことだけ考えるようにさせたかった。
 たぶん俺は無意識のうちに、そうやって雨宮を守ろうとしていたのかもしれない。
 けれども、どんなに相手を愛しても、守ろうとしても、利用できるもの全てを利用しても、どうにもならないことがあるように思えた。
「くそっ……」
 無意識に出た声が、研究室に響いた。

 この事件の理不尽さに、腹が立つ。
 雨宮夫妻殺害はひき逃げとして処理されているから、なかったことになっている。つまり、犯人が判っても殺人罪には問われない。脅迫罪で逮捕したとしても、犯人は保釈金を払って釈放され、贅沢な生活をしながら裁判を終え、刑務所に入っても数年後には仮釈放されて、また普通に暮らし始める。
 雨宮夫妻の事件は誰にも知られずに、記録にも残らずに、忘れ去られていく理不尽さ。

 その一方で、今日1日雨宮を見ていて、総理がそれを許した理由がわかった。どうせ警察上層部の発案だろうけど、雨宮総理にとっても、その方が都合がよかったんだろう。
 雨宮総理は、殺された一人息子よりも、生きている孫の未来を、見据えている。
 知能の高すぎる4歳の子供が、真実を知って、知りすぎて憎悪に駆られるくらいだったら、と。

 けれども、17歳の雨宮陽生はどうなる?
 13年前の記憶が消化されずに、突然思い出してしまった雨宮は、両親を殺した犯人が裁かれずに生きていく現実を、受け入れることができるのだろうか。
 雨宮の傷が癒されることはないような気がした。
 ひどく皮肉で虚しい結末が待っているのかもしれない――……。

雨宮陽生

 杉本さんが警視庁に戻ってから、照明を消してベッドに入った。でも、眠れなかった。
 悩みが、ありすぎる。それも呆れるくらいハードな悩みだ。
 どうやって2021年に帰ろう、帰れないかもっていうストレス。両親は誰になぜ殺されたのか。犯人が逮捕されるのか。じいさんは13年間も俺に嘘をついてたから、逮捕されてないのかもしれない。
 暗闇の中、独りになって心が落ち着けば落ち着くほど、俺が抱えている問題が冴え渡って、その全部に答えなんてないような気がして、みぞおち辺りがずっしりと重たくなった。
 考えてみると、今日1日こんなふうに落ち込まずにすんだのは、尾形がいてくれたからかもしれない。
 尾形は俺の先を歩いているような気がする。俺の数歩先を悠然と歩いてたまに振り返って、俺の心を見透かしているみたいだ。
 尾形の目には、俺はどう映ってるんだろう。
 そう考えかけて、またやめた。

 ようやくうとうとし始めた頃、ドアの開く音が静かな室内に響くが耳に入って、尾形が戻ってきたんだと寝ぼけた脳の片隅で思う。
 それからガサガサと音がして、尾形が俺のベッドの脇に来たのがわかった。
 ドクン、と心臓が高鳴った。
 眠りかけた脳が一気に冴えて、神経が尾形に集中した。
 なぜか俺は、起きているのを気付かれないように、静かに寝息を作る。
 小さな溜め息が聞こえた。
「陽生」
 俺の上で、声を出さずに囁く。その声が、ひどく苦しそうで、胸が締め付けられた。
 何かあった? 起きて、そう聞きたくなった。その衝動を抑えて、寝返りを打つふりをして横向きになる。寝たふりをし通す自信がなかったから、顔を見られないように。
 そして少ししてから、尾形はもうひとつのベッドが空いているのに、マッサージチェアで寝たみたいだった。
 尾形の寝息を聞いてるうちに俺も眠りについていて、朝起きるともう尾形の姿はなかった。

 何かが、始まったような、そんな朝だった。

尾形澄人

 午前8:28――いつものように捜査本部になっている会議室の壁際に立って、捜査員たちを見渡した。刑事は捜査に出払っているから、昨日の半分、20人弱しか集まっていない。杉本さんも、とっくに中華街に行ってる。
 結局、深川への唯一の手がかりだった月華樓本店はシロだった。
 そんな中、今できることは、中華街を片っ端からあたること、黒田の妻子を保護して黒田に供述させること、深川の周辺を徹底的に探ること、雨宮が見た中国人の足取りを追うこと。つまり、捜査一課と所轄の警察官の地道な聞き込み捜査が続けられている。
 8時30分丁度に捜査会議が始まり、一ノ瀬組の黒田の説明、皆川会の深川賢治の浮上が報告される。そして、現状分析とこれからの捜査方針が決まっていった。
 人数は少ないけど、科捜研のオフィスとはまるで違う緊張感だ。まぁ、被害者が総理大臣の家族だろうと、ヤクザの愛人だろうと、殺人を許すことができない人間の集まりなんだから、当たり前といえは当たり前なんだけど。
 でも、ここまでの団結力があるのは、やっぱり松下の手腕なんだろうか。あいつが、警察官の中でどれだけカリスマ的存在か知らないけど、俺にとっては、ただの不器用な父親なのに。
 ぼんやりとそう考えていた時、突然、会議室のスピーカーに電話の呼び出し音が響いた。
 来た。
「雨宮総理の携帯に着信です」
 機材に囲まれた捜査官が、ヘッドホンをして言った。会議室に緊張が走った。
 犯人からの電話を区別するために、雨宮総理はもう別の携帯を使っている。もしかかってくるとしたら、それを知らないバカか、犯人だけだ。
 松下が席を立って、会議室の左端にある捜査機材のかたまりに歩み寄り、特殊犯捜査係SITの制服を着た捜査官からマイクを受け取った。
「理事官の松下です。総理、そちらにいる交渉人の指示に従って電話に出てください」
『わかった』
 スピーカーから、総理の落ち着いた声がした。
 本当に落ち着いている。よくこんな状況で、平静が保てるもんだ。雨宮がこの男に育てられたんだったら、あの度胸にも納得できるな。
『もしもし』
『久しぶり、総理。元気だった?』
 ボイスチェンジャーで変えた、低音と高音の混ざった声がした。この音を聞くとなぜか敵意を覚える。
「逆探できません、香港からです」
 待機していた特捜班の声に、一瞬だけ周囲が慌しくなった。数人が会議室を出ていく。相沢が言っていた深川の右腕の川井正男だと考えて香港と連絡を取るつもりだろう。
『息子夫婦を殺されて、元気なわけがないだろう』
『その割にはずいぶん冷静だな』
『人間、憤りがすぎると冷静になるものだ』
 総理の言葉に、犯人が嘲笑のような声をもらした。
『なるほど。さて、無駄話はこのくらいにしよう、総理。この声は警察にも届いているんだろ? 8時半から捜査会議だと聞いている』
『…………』
 そんなことまで知っているのか。警察関係者と繋がっているということか?
「認めてください」
 松下理事官が促す。交渉班の判断が遅すぎる。
『……ああ』
『それなら話が早い』
 そう言って、犯人は一度間を空ける。ちょうどその時、知らせを受けた刑事部長が会議室に駆け込んできた。
『2月に要求した我々の仲間を釈放しろ。今回2人の命を奪ったから、釈放する仲間も2人減らしてやる。久保田と内藤はそのまま塀の中に閉じ込めておいていい。その他の5人を釈放しろ』
『総理大臣だったら、そのくらいの事は簡単にできると思っているのか』
 さすが、うまいな。できないと言うニュアンスを含みつつ、断ったわけじゃない。相手の出方を見るには最適な答え方だ。
『……何のために孫が殺されなかったと思う? まぁ、総理の場合は身内程度では懲りないようだから、総理自身でも、一般人でもいいんだが。それに我々のところには、毎日人殺しの依頼が来ているんでね』
 なんだ、それは?
 人殺しの依頼――つまり、深川は殺しの請負までしている。これまでも、無差別に殺しているわけじゃなかったってことか?
『さて、仲間を釈放する方法を言う』
 来た、これからが奴の本当の目的だ。
『道場洋平は今日正午、都南銀行銀座支店から出る現金輸送車に乗せろ。わかってるだろうが、現金も一緒だ。道場幸介は午後1時にMIFバンク新宿南支店を出る現金輸送車に、山本は午後1時45分に都南銀行お台場支店――――』
 犯人は次々と釈放場所を指定していく。それぞれ現金輸送車を5人の受刑者に運ばせるつもりだ。
 盆休み中の、しかも金曜日の今日はATMで金をおろす客が多い。銀行もそれに対応してATMに補充する額を多くしている。つまり、現金輸送車で運ぶ現金が通常より多くなる。それを計算して一昨日犯行に及んだのかもしれない。
『銀行側には直前まで知せるな。もちろん現金輸送車にはすべて通常通り現金を積んで走れ。万が一、偽札だったり要求に従わなかった場合は、わかるよな? 監視しているから、下手なことはしないほうがいい。11時50分にもう一度電話をする』
 そう言うと一方的に通話が切られた。
 数秒の沈黙のあと、松下の冷静な声が響いた。
「総理、指示をお願いします」
 隣にいる上司の刑事部長ではなく、総理に指示をあおいだのは、計算だろう。
『釈放の準備を進めてくれ』
 総理がそう指示を出すことを松下は見抜いて。
 そして予想通り、隣で刑事部長が慌てたように立ち上がり、松下のマイクを奪った。
「そ、総理、お言葉ですが釈放して万が一のことがあったら」
『かまわない。責任は全て私がおう』
 遮るように、雨宮誠一郎の太い声が響いた。続いて松下がそれに従う。
「わかりました」
 刑事部長が悪人面を歪めて松下を睨みつけた。万が一のことがあったら、責任をとるのは自分になる、そう考えると釈放だけは阻止したいというのが見え見えだ。
 自分の立場しか考えていない刑事部長に、捜査員から非難のような視線が向けられた。松下はそんな捜査員たちを確認するように見渡して、ゆっくりと口を開いた。
「あと3時間ある。正午までに、我々が容疑者をあげるしかない。それが、俺たちの仕事だ」
 その一言に、おそらくここにいる全員の目が、まだ見えぬ犯人に向けられた。こうやって一癖も二癖もある捜査一課の刑事たちを、わずかな言葉だけで同じ目的に向かわせる。それが、松下英二という男のカリスマ性なんだろう。ただ、すべてが計算だと分かってると、嫌になる。
 会議室を後ろから眺めてそんなことを考えていると、松下の目が俺を捕らえた。
「尾形、電話の容疑者は川井正男だと思うか」
 またか。俺は第一化学科だっつってるのに。
 若い刑事が俺にマイクを渡した。無線で中華街の刑事たちにもこの会議の様子が届いているから、発言するときはマイクを使うことになっている。
「結論から言うと、川井正男だろう」
 答えると同時に、プロジェクターに川井正男の写真とデータが映し出された。鋭い一重の、面長の男だ。
「プロファイリングからわかることは、電話してきた人間は、言葉遣いからある程度の社会経験を積み、社会的地位を確立している。40代~60代の男、大規模組織の幹部クラスの人間と考えられる。それと、孫がいるはずだ」
 プロジェクターの川井正男のデータとほとんど一致する。
「孫がいるというのは、どこからわかる?」
「『どうして孫が殺されたなかったと思う』と言ってて、ここだけ総理の立場に立った言い回しになっている。今回の犯行の場合は『殺さなかった』というはずだ。犯人はどこかで総理に同情している節がみうけられる。つまり、犯人自身に孫がいて、しかも主犯ではない可能性が高い」
 ざっと説明すると、松下理事官は俺を見て頷いた。それから、何かメモを取りながら、指示を出す。
「E班、深川と川井の周辺を徹底的に洗え。A班、該当の銀行に確認を――」
「ああっ、ちょーっと待ってください」
 松下の指示を遮るように、会議室の前から2列目のテーブルに座っていた長身の刑事が、右手を挙げながらのそっと立ち上がった。