始まりの日

未来 - 22

尾形澄人

「――っ!?」
 声が出ないほど、驚いた。
 ドアは相沢が触れる前に開いて、出てきた男は一瞬の隙もあたえずに相沢にキスをした。
 それも、かなり荒々しくて濃厚なやつを。このまま本番に突入しそうな勢いだ。
 思わずその様子をまじまじと観察してしまった。
 男は間違いなく一ノ瀬だ。強引に抱き寄せて、生々しい音が俺にまで聞こえてくる。
 相沢はそれに抵抗せずに、一ノ瀬の背中に手を回していて、後姿しか見えないけど、これはどう考えても一ノ瀬のペースに従ってる。
 一ノ瀬は写真よりもいい男で、背も俺と同じくらいだから180は越えてる。……っていうか、背格好は俺と同じような感じだ。そして、もしかして、と思う。
 俺は、一ノ瀬の代わりにされてた、とか?
 飛躍した考えかもしれないけど、俺とのセックスを思い出すと、なぜかしっくりときた。そして一瞬かなりムカついて、呆れた。
 この俺を、誰かの代わりにするなんていい根性してる。けれども、相沢がそんな思いで抱かれていたのだと思うと、ひどく滑稽で、切なくて、悲しい。
 人生をふいにするか悩むほど、相沢は一ノ瀬を思っているのかもしれない。
「…………っはぁ……」
 一ノ瀬が唇を離すと同時に、完全に職務放棄した相沢が吐息を漏らした。
 そして、一ノ瀬の鋭い目が俺を捕らえた。
「で、あれは何? 司」
 何事もなかったかのような低い声で、そう言う。
 なるほど、これがヤクザの組長ってわけか。キスぐらい誰かに観察された程度じゃ、動じないんだな。
「どうも、司のセックスフレンドだった者です」
 ニヤリと笑って自己紹介すると、相沢の背中が小さく震えるのがわかった。
 そんなに感度のいい相沢を見たのは初めてで、少し嫉妬した。つまり、相沢は本当に一ノ瀬に弱いってことか。
 一ノ瀬は口角を吊り上げただけで、そのまま相沢から離れてあっさりリビングの奥に戻った。たぶんそれを目で追った相沢の背中は、どこか寂しげに見えた。
 相沢も大変だな、こんな男を好きになっちまって。
「で、俺はどうすればいいわけ?」
 相沢に後ろから厭味を込めて聞くと、俺に見えないように唇を拭って、ゆくりと振り向いた。
「仕事、だろ」
 そう言ったその顔は、いつもと変わらないゆるやかな微笑を浮かべていた。
 やっぱり相沢の心は読めない。

 相沢の後を追って入った、20畳はありそうな広いリビングは、黒とダークブラウンの家具がゆったりと置かれた、間接照明で落ち着いた空間だった。
 一ノ瀬は入り口に背を向ける形でソファに深くもたれ、ワインを飲んでいた。目の前のローテーブルには書類が散らかっている。公安の人間だったらあの書類の中身が気になって仕方ないだろうが、相沢は一ノ瀬の斜め後ろに距離を置いて立ち、見下ろした。
「深川の計画を、知っているんだろ」
 その言葉に、一ノ瀬はゆっくりと相沢を見上げた。
「またその話か」
 呟くように言い捨てて、ムカつくほどゆったりとワインを味わう。BGMがシンとした部屋に響いた。
「こっちは黒田を差し出して、大打撃を受けてるんだ。優秀な会計担当だったからな」
 ただでは話さないってことか。って言っても、どうせ優秀な組長さんのことだ。
「あんたほどの人間が、片腕失ったくらいであたふたするような組織は作らないだろ? 黒田ひとりいなくても大した打撃なんて受けてないはずだ。あんまり大げさに言わないで欲しいな」
 そう言うと、一ノ瀬は小さく笑った。
「なかなか頭のいい刑事だな。出世しそうだ」
「相沢ほどじゃない」
 刑事でもないけど。
 一ノ瀬は相沢を見てニヤリと笑った。
「へぇ、司は相沢って苗字なのか?」
 一ノ瀬には違う苗字を名乗っていたってわけか。相沢を見ると、普段どおりの柔らかい表情のままだった。
「偽名だよ」
 その答えに、一ノ瀬がかぶせる。
「どっちが本名なんだ?」
「そんなこと知らなくてもいいだろ。名前なんてただの記号だ」
 そう言った相沢に、違和感を持った。
 そして、これは使える、と思った。
「そうか? 記号じゃないから、相沢はセフレの俺に『司』と名乗ったんじゃないのか? イチノセさんに名乗った名前と同じ名前を」
 俺のその言葉に、一ノ瀬が驚いたような顔をした。
 俺を一ノ瀬の代わりにしていたから、同じ名前で呼ばせた。
「おまえはそんなに俺にはまってたのか」
「違うよ。偶然だ」
 表情を変えずにやんわりと否定する。こういう時、こいつの無表情は便利そうだ。それをどう受け止めたのか、一ノ瀬はわずかに目を細めて、うっすらと笑みを浮かべた。
 そして、俺を見た。
「深川には、ここ1年会ったことも話したこともないな」
 ほら、きた。
 敵を見方にするには、同じ敵を作る。一ノ瀬を喋らせるには、相沢を攻めるのが一番手っ取り早い。
「黒田の単独行動、ってことか?」
「女が殺された上に、家族を人質にとられたから焦ったんだろう。黒田は俺には何でも相談してくれるんだよ」
 悠然とそう言う。けれども、こいつはそんな黒田をあっさりと警察に差し出したってわけだ。
「相談されて、部下のためにわざわざパークタワーウェストに行ってやったのか。心の広い組長さんだな」
 パークタワーウェストに一ノ瀬の指紋があったことを暗に含むと、一ノ瀬は、人を見下すように笑った。
「そこまで掴んでて、わざわざ俺に会いに来たということは、もう1人の人間が誰なのかは掴めてないってことだな」
 さすがに、だてに十年足らずで組を拡大した男じゃないな。
「お察しのとおり。単刀直入に聞くけど、それって誰?」
 俺の問いに、一ノ瀬があからさまに眉をひそめて、俺と相沢を交互に見た。
 答えようか迷っているのか、それとももっと別のことを考えているのか。
 十数秒の沈黙のあと、微かに口角を上げて口を開いた。
「黒田の話だと深川は明日の朝動き出す。都内の現金輸送車の情報を集めていると言っていた。深川も馬鹿じゃないからそうそう計画を漏らさないようだが、成功すれば20億近い金が手に入るって浮かれてるらしい」
 俺の質問は無視、か。まぁ、答えられないほどの人間だということだろう。ここで敢えて聞き出すのは得策じゃない。
「たったの20億か……人が3人も死んでるんだから、100億くらい目指してもらいたいね」
 そう吐き捨てると、一ノ瀬がニヤリと裏がありそうな笑みを作った。
「おまえ、面白いな。俺の下で働かないか? 今の10倍の報酬を出す」
「あいにく、俺は警察の人間なんで」
 そういう悪事、興味ないんだよね。
 一ノ瀬はそれを鼻で笑って、「思った通りだ」と呟いた。それからテーブルに置かれていたハイライトを手にして、1本取り出し、火をつける。
「警察は深川の足取りはどこまで掴んでる」
「中華街って線が濃くなってる。正確な場所は特定できていない」
 こういう時の嘘はすぐに見破られるから正直に言と、一ノ瀬は火をつけたタバコをふかした。
「そこそこ優秀だな。月華樓とかいう店に黒田が出入りしていた」
 出た、月華樓。聞き込みで何か見逃してのかもしれない。
 これだけ聞ければ十分だ。全ての情報をコイツから奪い取るのは、得策じゃない。プライドの高い人間ってのは、自分しかしらない情報を持たせておいたほうが付き合いやすい。
「ありがとな、一ノ瀬サン」
 一応笑顔を向けてそう礼をすると、一ノ瀬はタバコを持った左手を上げて応えた。
「深川は簡単に人を殺す。気をつけろよ」
 なんだ、意外といい奴じゃないか。敵は多そうだけど。
「あんたもな」
 リビングを出ると、後ろから相沢が追ってきた。
「戻るのか?」
 聞きながら靴を履いて時計を確認すると、10分も経過してなかった。
「戻らない」
 一夜を共にするってわけか。
「まぁ、よかったな……って言っていいんだろ?」
 何があったか知らないけど、とりあえずお互いの思いは通じたように見えた。でも、相沢は少しだけ首を傾けた。
「さあ。あいつの考えてることは俺にはわからないからね」
「……おまえが言うなよ」
「これでも、普段よりも表に出してるつもりなんだけど」
 確かに、いつもよりは分かるような気がするけど、それでもコレか。
「驚異的だな。じゃ、俺は戻るから後はよろしく」
「お疲れ」
 相沢の声に見送られて、高級マンションを出た。

『あの子のために、人生ふいにできる?』
 つまり相沢にとっては、一ノ瀬のために人生をふいにできるのかってことか。
 公安の、将来を有望視されているエリート中のエリート。このまま進むと警視総監あたりの娘と結婚させられるのがオチだなろうな。偽装結婚して一ノ瀬の通い妻? 警視総監の娘の旦那がヤクザの愛人ってのも、警察辞めてヤクザに嫁入り、ってのもお互いの地位がそこそこなだけにマスコミが嗅ぎつけたらシャレにならないな。
 それに、警察はそれほど馬鹿じゃない。いつまでも隠し通せるわけがない。一歩間違えれば、相沢のキャリアは台無しだ。そればかりか、捜査情報を一ノ瀬に流した疑いがかけられて、下手すれば犯罪者になる。
 あまりにも脆く、危うい関係。
 相沢は、どうするんだろう……。
 俺があの時言ったように、自分の人生を捨てずに幸せになる方法を見つけるんだろうか。

杉本浩介

「もとさん……杉本さん」
 ハッと目を開けると、雨宮がいた。
 2時間で起こしてもらうように頼んでいたのを思い出した。死んだように寝ていたのだろう、寝相が布団に入ったときと一緒だ。
「もうすぐ1時」
「ああ、悪い……」
 両目を手のひらで押さえて、体を起こした。もう年かな、たった2時間じゃ疲れが抜けない。
「大丈夫ですか?」
 雨宮に心配そうに言われて苦笑した。
「凶悪事件が起きると、こんなことばっかりだからな。慣れてるよ」
「刑事って大変なんですね」
「ま、被害者のことを考えると、勝手に体が動くんだよ」
 ちょっと格好良すぎたか。そう思ったけど、雨宮は綺麗に笑った。
「ありがとうございます」
 そう言われると悪い気はしない。ただ、少し照れくさくて、それを隠すためにベッドの脇に置いた携帯電話を取った。
「杉本です、何か進展ありました?」
 本部に電話をすると、8歳年上のベテラン刑事が相変わらず間延びした口調で出た。
『あー、ちょうどよかった、足利だ。さっき生安部から、8月13日の23時50分頃に六本木5丁目のバーを出るところが防犯ビデオに残ってたって連絡があったぞ』
 麻布の雨宮邸と六本木5丁目は目と鼻の先だ。つまり「ターゲットが死ぬのを確実に見届けるために犯行後も周辺にいた」という尾形のプロファイリングは正しかったということか。
『俺に隠れてなぁに頼んだんだよ』
 雨宮の見た中国人のことは、情報源を明かせないから誰にも報告していない。ただ、手がかりが少なすぎるこの状況と、1人の男の行方を大都会の真ん中で追うなんて、俺ひとりじゃ、とても無理だ。
「実は、目撃者がいたんですよ」
 そう打ち明けると、たっぷり10秒近い沈黙が返ってきた。
 それから足利さんが溜め息混じりに言う。
『……おいおい、それどういうことだ』
「詳しいことは話せないんです。だから、報告できなくて……申し訳ありません。ただ、その防犯ビデオに写っていた男が、雨宮夫妻を殺害した実行犯だと思います。足取り追えませんか?」
 こんなことを捜査会議で言ったところで、一蹴されるのは目に見えている。だから、この事件の捜査本部の刑事の中でリーダー的な存在の足利さんに直接頼むしかない。
 足利さんは「う~ん」と唸ってから、気分を入れ替えるように小さく溜め息をついた。
『まぁ、それは保留だなぁ。さっき科捜研の尾形君が来た』
 保留?
 あまりにも曖昧な返事に反論しようとしたけれど、足利さんが続けて話した内容に耳を傾けることにした。
『深川が現金輸送車を狙うんだと』
 他人事のように言って、深川が明日の朝、現金輸送車を狙う可能性が高いことと20億円手に入るともらしていたこと、そこから複数の輸送車を狙うだろうという予測、そして、深川の潜伏先が中華街の月華樓という店に間違いないだろうということを説明した。
 正直、驚いた。
 一ノ瀬がそんなにたくさんの情報をくれるとは、思っていなかった。尾形が優秀なのか、それとも相沢の根回しなのか。どちらにしても、一ノ瀬の言うことが本当なら、数時間以内には何か動きがあるはずだ。
『一応都内の現金輸送車の情報収集はしてるが、あいつの情報筋ってのはどこまで信用できるんだ?』
 足利さんが疑い深げに言う。ただの科捜研の職員があまりにも突拍子もない情報を持ってきたんだから、驚くのも無理は無い。
「みんなにそう言われるけど、実は俺もよく分かりません」
 答えながらその情報筋の1人、雨宮を見た。浴衣でベッドに寝転がって、ぼんやりテレビを見ている。こうして見ると、どこにでもいる普通の高校生だ。とてもあんな事件の渦中にいるようには見えない。
 俺の視線に気付いたのか、ふいにこっちに振り向く。そして、わずかにはだけた浴衣から覗いた鎖骨に、目を奪われた。
 あ、あの赤い痕は――――。
『ま、にわかには信じがたいが、おまえのさっきの中国人情報も念のため策は練っておくさ。詳しい情報出せよ………あれ、杉本? 聞いてるかぁ?』
「ああ、すみません。ちょっとボーっとしてました」
 取り繕いながらも、雨宮が気になって仕方がなかった。
 あれは、間違いなくキスマークだ。まさか、と思う。いや、まさかだ。本当にまさか。
 早々に電話を切って、ベッドサイドに置いてあるペットボトルのお茶を一気に飲み干した。落ち着きを取り戻してから、確認する。
「雨宮、おまえさぁ……」
「はい?」
 俺の呼びかけに、雨宮は本当に普通に応じた。だから俺の誤解かもしれない、いや誤解であってほしい、そう願いながら。
「尾形に、何かされなかったか?」
 その一言に、雨宮の全身が一気に凍りつくのがわかった。
 これは、図星という状態なんじゃなかろうか……。
「な、何かって、言うと?」
「いや、なんでもない。もうわかったから……」
 大きなため息をついて、手に持っていたペットボトルに口をつけて、空だったことに気付いてゴミ箱に投げ捨てた。
 雨宮の様子からすると後悔してるわけじゃなさそうだが、どう足掻いたって、雨宮は17歳……青少年の部類だよな、間違いなく。合意の上だろうがなかろうが、仮にも警察職員が立派な犯罪行為をしたことになる。
 ああ、俺もついに犯罪の肩入れをしてしまったか……。
 がっくりと肩を落としていると、雨宮が見ていたテレビを消した。
「杉本さん、尾形の性癖知ってるんですよね?」
 ベッドの上であぐらをかいて、少し照れたように俺を見ていた。
 察しのいい子だから、俺の考えてることが分かったのかもしれない。その上でこんな顔して話しかけてくるってことは、やっぱり合意の上、ってことだんたんだろうな。
「ああ、あいつは隠さないからな。おおっぴらにもしないけど」
 苦笑して答えると、雨宮もつられるように笑った。
「杉本さんはさ、男が男を好きになるのって、ありだと思いますか?」
 まっすぐに俺を見て、そう聞いた。
 雨宮は尾形に惹かれているのかもしれない。それを自分で認めたくないのか、それとも自分自身の気持ちに戸惑っているのか。どっちにしても、真剣に悩んでいるんだということが表情から伝わってきた。
 だから、正直に答えることにした。
「俺の場合は、もし男に言い寄られたりしても、応えることはできないだろうな。もう奥さんも子供もいて幸せだしな」
 俺も尾形に会うまでは、プライベートでは同性愛者と話たことすらなかった。けれど尾形の性癖を知って、自分なりに考えてみた。それでも、性同一性障害は別として、どうしても俺には理解できない部分が残るのは確かだ。
 愛があれば性別なんてどうでもいい、そう言えるくらい誰かを愛せるのは凄いと思うが、他人と接するときに最初に意識するのは性別なのだから、そうそう簡単には言い切れない。
 で、出た結論が。
「結局、好みなんて人それぞれだろ。優しい人が好きとか面白い人が好きとか、性癖なら巨乳好きもいればロリコンもいる。それが男が好きだったってくらいじゃないか? 社会的にはいろんな障害があるけど、俺はその程度だと思うな」
 開き直りとも取れる言葉に、雨宮が少し顔を引きつらせて笑った。
「はは、それって尾形が言いそうな台詞ですね」
「そう言えばそうだな。最近、長時間一緒にいるから、似てきたのかもな」
「あいつなんかに似たらヤバイですよ。杉本さんは俺の周りにいる唯一の常識人なんですから」
 確かに尾形と相沢と俺の中では、俺が一番まともなような気がする。
 それに雨宮はタイムスリップしてきていきなり尾形に振り回されて、あんな事件があって、今度は尾形に口説かれて、しかも手まで出されたんだよな……。
「雨宮も大変だよなぁ」
 思わずそう言うと、雨宮は複雑な顔で「そうですよ」と呟いた。

 同性愛の本質を垣間見たような気がした。越えなければならない高いハードルが社会的な偏見だとしたら、埋めなければならない溝は、自分自身の覚悟なんだろう。
 17歳だったら、もっと感情的に突っ走ってもいいと思うんだけどな。
 それにしても、尾形は……今回だけは、本気だといいが……。