始まりの日

未来 - 21

雨宮陽生

 尾形はシャワーを浴びると、髪の毛を乾かしながら事件の経緯を一方的に説明した。
「皆川会の深川が、傘下の一ノ瀬組の黒田って男の妻子を人質にとって、黒田にパークタワーウェストで殺し屋に指示しろって脅したんだろう。黒田を別件で逮捕して取り調べ中だけど、まだ吐かない。妻子が無事に保護されるまでは無理だろうな。深川の目的が金だとしたら、今日明日中には、身代金を要求してくるはずだ。ただ居場所がまだ掴めてない。ま、容疑者が3人も判ってるから、時間の問題だろうけどな」
 そう言って俺に質問する隙を与えずに、早足で部屋を出ていった。
 質問されたくなかったのか、本当に急いでいるのか(そもそも仕事中だったわけだし)わからないけど、俺自身あんなことした直後に両親が殺されたことを話す気分にはなれなかった。
 俺はベッドでぼんやりとそれを見送ってから、のそのそとバスルームに入った。
 シャワーを全開にして顔から浴びると、タラリ、と何かが太ももの内側を伝った。それがあいつの吐き出したものだとわかると、伝った箇所が痺れるような感覚におそわれた。
 あんな鬼畜極まりないやり方で、しかも中出し……やばい、思い出したら恥ずかしくなってきた。
 俺、とんでもないこと口走ってなかったか? もっととか言ってなかったか?
「嘘だろおおおおぉ……」
 言ってる……信じられない。ありえない。最悪だ。あー、もうだめだっ。
 どうとでもなれ、という感じだ。
 顔をごしごしと洗って気分を入れ替え、まだヒリヒリする肛門を無理やりこじあけて、あいつの吐き出した精液を流した。

 けれども、不思議と暗い気分にはならなかった。
 気持ち悪いとか、汚いとか、傷ついたわけじゃない。
 それどころか、思いっきり運動した後みたいな感じで、ホテルの浴衣に着替えてベッドに横になると心地よい気だるさに眠りそうになった。

 どうしてなんだろう。
 嫌だったらこんなに落ち着いてるはずない。
 小さい頃、学者や医者が俺にベタベタ触ってきたときは、鳥肌が立って吐き気が収まらなかった。今でも、他人に体を触られるのは嫌いだ。それなのに、尾形にあんなことされても、気持ち悪いどころか、完全に感じてた。
 やっぱり、俺は尾形を好きで、心のどこかでこうなることを望んでいたのかな……。
 と、考えかけた自分に気付いて、げんなりした。
「ありえないだろ……」
 そう呟いたとき、携帯の着信音が鳴った。尾形だ。
 タイミングよすぎだ。
 深呼吸で動揺をおさえてから、できるだけ冷静に出た。
「なに?」
『ケツ大丈夫だった?』
「言い方考えろよ……」
 っていうか、そもそも出るなり言うことじゃないだろ。
『ま、大丈夫か。杉本さんがあとでそっちに仮眠にいくから』
「そう」
『あの人、結構まじめだから、ちゃんと跡形なく片付けておけよ。刑事だけに遺留品には目ざといし。俺が逮捕される』
 おまえがヤッたんだろ。
「……何様だよ」
 思わず呟くと、尾形は楽しそうに笑った。笑い事じゃねーよ。
『それと、おまえ相沢の携帯の番号知ってるだろ?』
「尾形は知らなかったんだ」
 記憶していた番号を伝えた。半年前から付き合いがあるのに、メールだけで連絡とってたことが、本当に体だけの繋がりだったんだって感じがして、少し割り切れない。
 非倫理的なセフレっていう関係と、尾形がそういうことをしてたという事実が、喉の奥に引っかかった小骨みたいに、チクリと刺さった。
 けれども尾形は俺がそんなふうに考えているのを知ってか知らずか、感心したように言う。
『やっぱり相沢は雨宮のこと気に入ってるんだなぁ』
「なんで俺のことなんか気に入るわけ?」
 相沢も言ってたけど、あの初対面を考えると、嘘っぽく聞こえる。
『携帯の番号なんて、俺にも教えてくれなかった。意外と素直な奴が好きなのかもな』
 俺が、素直? そんなこと言われたの、初めてだ。
『おまえも、本当は相沢のことを認めてるんだろ?』
「……別に、認めてるわけじゃねーよ」
 尾形の鋭さに少しムカついて反発したけど、本当はその通りなんだと思う。いい奴とか波長が合うとか、そういうのは全然ないけど、俺は相沢をひとりの人間として認めているのかもしれない。そもそも気にも留めない存在だったら、嫌いにすらならないだろうし。
『妬けるな』
「俺にあんなことまでしておいて、よく言うよ」
『体と心は別物なんだよ』
「相沢よりは尾形のほうがまだマシだけど」
 何気なく言うと、尾形が電話の向こうで意地悪に笑ったのがわかった。
『ふーん、相沢とはセックスできない?』
「できるわけねーだろ。だいたい、あんたとできるとも思わなかったよ」
『そうだな。好きでもなくて、会って2日しか経ってない男相手だしな』
「…………」
 言い返せなかった。
 知らない人間と寝るんだ――俺はつい数時間前に、尾形をそう軽蔑した。
 それなのに、俺は知り合ってたった2日の、それも男とあっさりセックスした。言葉と行動がバラバラで、今までの俺の常識なんてぜんぜん当てはまらなくて、自分の気持ちも尾形の気持ちもわからないことにイライラした。
 そんな俺に、尾形は追い討ちをかける。
『それでもできたのは、どうしてだと思う?』
 そうやって言質とって、俺が尾形を好きだからって言わせたいんだろ。でも、もうそんなのどうでもいい。俺は確かに尾形とのセックスを嫌だとは思わなかったし、自分の気持ちもよくわからない。ただ、
「セックス=恋愛じゃないって、一番わかってるのはそっちだろ」
『開き直ったね。でも、俺には相手が遊びなのか本気なのかくらい、わかるんだよ』
 俺のどこを見てそんなこと見分けてるのかなんて分からない。聞いたところで教えてくれないだろうけど、その根拠のみえない自信が、なぜか真実味があって少し怖かった。
『Experience without learning is better than learning without experience.ってね』
 尾形は流暢なイントネーションでそう言うと、一方的に通話を終わらせた。

 ――学問なしの経験は、経験なしの学問に勝る。イギリスのことわざ。
 俺が考えてることなんて見通してるような言葉に、またムカついた。
 経験?
 こんな経験、あるわけない。普通の人間関係ですら避けてきたのに、ましてやホモの経験なんてあるほうが普通じゃないだろ。
 だから、尾形がそうやって俺を口説いて遊んでるのか、本気なのか、それすらわからない。

 それでも、俺の過去も本心も、他人に話したのは尾形が初めてで、こんなふうに振り回されたのはじいさん意外には尾形だけだし、無条件にほっとするのも尾形だけだ。
 それに、いちいち言葉が心に刺さるのも。
 客観的にそう事実を並べて考えると、結論は「恋愛感情だろ」ってなる。
 でも好きって言葉とは違うし、友達とも違うような気がした。
 だいたい、今俺の身に起こっている異常な状況を考えると、その異常さに流されているだけのような気さえする。
 そう考えて、思いがけず頭の中で全部がつながり過ぎて焦った。
「あ、ありえるかも……」
 吊り橋理論ってやつ。外的要因で興奮していることを、恋愛感情と錯覚してしまう心理だ。
 外的要因なんて、今の俺にとって山のようにある。いきなりタイムスリップして、目の前で親が殺されて、それを思い出して、しかも尾形とセックスしたり。
 つまり俺は今、恋愛感情を持っているんじゃなくて、「恋愛している状態の体」なんだ。
 それに、こういうの元心理学の教授だった尾形のがもっと詳しそうだ。あいつなら、知っててわざとやってるなんてことも、十分考えられるし。だとすると、尾形にまんまと嵌められてるってこともありえる。
 それはそれでムカつくけど、俺が男を好きになるはずないし、今は恋愛なんてしてる余裕ないし、こうなったら吊り橋理論のせいにしておこうかな……。

尾形澄人

 俺の番号は知っているくせに、10コール目でようやく出た。
「どうも」
 短く挨拶すると、ため息のような小さな呼吸が聞こえた。俺と話せるのにいきなりため息とはいい態度だ。
『どうも』
 静かにそう返ってくる。
「もう一度、一ノ瀬に会いたいんだけど、つないでくれない?」
『行き詰ったのか』
「それ、嫌味?」
『いいや、正直なところ、こっちもだ』
 ほんの少しだけ、相沢の声に疲れが見えたような気がした。けど俺の脳裏に浮かんだ表情は、想像でしか見れない顔なんだろう。
「なら話が早い」
『杉本さんが来る?』
「いや、今回は俺が行く」
 そう答えると、数秒の沈黙が帰ってきた。そして、静かに相沢が言う。
『……それは断る』
 へぇ。そう来たか。杉本さんならよくて、俺がダメって、どういうこと?
「俺だと、何か不味いことでもあるんだ」
『さあね。とにかく断る』
 説明もなしに言われちゃ、こっちだって黙っていられない。
「……これはとても不本意なんだけど、公安の機密情報が本部に流れたこと、報告していい?」
 情報命の公安の課長が刑事部なんかに重要機密を話したなんてことが知れたら、上の連中が黙っているわけがない。下手したら地方左遷もありえる。
『そっちがその気なら、こっちにも十分な情報を握ってるってことを忘れないでほしい』
 雨宮のことか。
 相沢は、公安が何かを掴んだのだと俺にかまをかけたんだろけど、
「即効性があるのはどっちだと思う?」
 いくら公安とは言え、2008年に存在しないはずの「雨宮陽生17歳」の身元は、まだ判っていないはずだ。
『卑怯だね』
「卑怯な真似してでも、犯人を捕まえなきゃいけないんだよ、俺は」
『あの子のために?』
 少し予想外の返しだった。どうして相沢はそんな話をするんだろうと思いながらも、本心を答える。別に隠す必要はない。
「そうだよ」
『本気なんだ』
「珍しくね」
 そして、次の言葉に、一瞬自分の耳を疑った。
『……あの子のために、人生ふいにできる?』
 何言ってるんだ、こいつ。誰かのために、なんて言う奴じゃなかったはずだ。
 相沢は、誰かのために何かを犠牲にしようとしているのか?
「今、初めておまえの心の中が見えた気がした」
 もしかしたら顔を見ないほうが、こいつの感情が分かるのかもしれない。
 だったら俺が教えてやろう。
 そんなことは、はっきり言って無駄だ。
「愚問だね。俺は、自分の人生を捨てなくても絶対にあいつを守れる。お互いが幸せになるためにだったら、利用できるものはすべて利用するな。じゃなきゃ、意味がないだろ?」
 そう言うと、くすり、と笑う声が聞こえた。
『おまえらしいな』
「あのなぁ、俺はおまえと恋愛トークに花を咲かせるために連絡したんじゃねーんだけど」
 そう言うと相沢は「そうだな」と、小さく答えた。
『10時半に銀座2丁目にあるグランドセントラル銀座というマンションの前に来い』
「了解。おまえ、本当はいい奴だろ」
 じゃなきゃ、俺のこんな要求にあっさり受け入れるわけがない。それか、よっぽど弱ってるかだ。
『尾形がそう思うなら、そうかもしれないな』
 と、真意のよくわからない返答をして電話を切った。

 ああ見えて、相沢もそれなりに恋愛してるんだろう。そう思うと、どこか嬉しい気もするけど、今はそんなことに付き合ってる暇はない。
 10時半まであと1時間、もう一度事件の経緯を見直すことにした。

 そして1時間後、一ノ瀬の部屋に続くエレベーターの中で、相沢はわずかに口角を上げた。
「尾形が本気になるなんてことが、あるんだ」
「あたりまえだろ。おまえと違って、俺は心の温かい人間だ」
 そう返すと、相沢は表情を変えずに即答する。
「そうだな」
 ……嫌味か。
「だから、尾形をここに連れてきたのかもしれない」
「――?」
 思わず相沢の横顔を見た。わかりきったことだったけど、やっぱり相沢の表情は何一つ変わっていない。何が言いたいのかよくわからない。
「一ノ瀬に出会ったのは、おまえと初めて会った日の、前日だ」
「半年前、か」
 適当に相槌を打ちながら、相沢の言葉に違和感を覚えていた。ただの捜査対象のはずの一ノ瀬に「出会った」なんて言葉を使うのは、不自然だ。
 エレベーターのドアが開き、相沢は俺に無言で微笑んで先に下りるように促した。
 そして、マンションの廊下を無駄のない足取りで歩く相沢を追って、一番奥のドアの前で足を止めた。1303号室、ネームプレートには「ノースワン企画」とあった。おそらく一ノ瀬が適当に作った幽霊会社かなんかだろう。
「ここにいるのか」
「ああ」
 無表情に頷いて、相沢はスーツのポケットからカードケースを取り出す。
 目を疑った。
 取り出したのは、カードキーだ。それを、迷わずドアノブの上にある差込口に差し込んだ。カチャッと小さな音がして、鍵が開く。
 こいつ、一ノ瀬とどういう関係なんだよ……。
 思わず、ドアノブにかけた相沢の手を、掴んだ。
「ちょっと、待て。俺にわかるように説明してくれない?」
 有無を言わせない口調で聞くと、相沢はまた小さく微笑んだ。くっ……読めん。
「想像にまかせる。俺は、理由がほしかっただけだよ。ここに来るための」
 淀みなくそう言って、あっさりドアを開けた。玄関には革靴が1足脱いだままの状態になっていて、中から、女性ボーカルのR&Bが聞こえる。一ノ瀬がひとりでいるということか。
 相沢は躊躇うことなく部屋に上がった。マンションにしては贅沢な廊下。部屋の方角からして、おそらく一番奥にリビングがあるのだろう。そこに向かって進む相沢の後を追った。
 ここに来るための理由、だと?
 暴力団の組長のマンションの鍵を持っている公安刑事。
 2人の関係は……禁断の愛と言うやつだったりして。
 冗談のように考えたそれは、次の瞬間に証明されてしまった。