始まりの日
未来 - 5
尾形澄人
純粋に、目の前の少年が気になってしょうがない。
初対面で威嚇するように睨み付けられたかと思ったら、今度は本心を隠すように笑う。学生証が本物なら17歳のこの子は、大人びているようで年相応な気もする、掴みどころのない少年だ。
ま、もし本当に2021年から来てたとしたら、それこそ掴みどころのない事態なんだけど。
「そういえば、俺については何も聞かないんだな」
助手席に座る雨宮陽生をチラリと見ながら、会話のネタを作る。
「あぁ……白衣にIDカードがついてたんで、名前と場所は分かりましたから」
雨宮は窓の外を見ながら、面倒そうに答えた。外の景色を自分の目で確かめているみたいだ。
本当に、2021年から来た「雨宮陽生」かもしれない。
だとしたら、今向かっている学生証に書かれた横浜の住所はどうなるんだろう。雨宮家は麻布だから横浜に行っても何もないはずだ。とりあえず、カーナビに従って首都高に乗ってはみたけど。
「でもそれだけだろう?」
「警視庁は霞が関にあるの知ってたから、すぐ帰れると思ったんです。俺が麻布で倒れてたのを拾ってくれたんですよね。本当は俺が頭なんて打ってないのわかってたから、病院じゃなくて科捜研に運んでくれたんだと思ったので」
他人事のように説明する雨宮に感心した。頭のいい人間は嫌いじゃない。
「へぇ。高校生のくせに、あの状況でよく落ち着いてそんなこと考えられたね。君の方が頭いいんじゃない?」
雨宮はそれには何も答えずに、まだ窓の外を見つめていた。普通の人間ならそこは謙遜するところだろうが、そんな余裕はないのか、それとも本当に自分が頭がいいと思ってるのか。
本当に4歳の雨宮陽生と同一人物だとしたら、後者の方だろうな。
俺の知っている4歳の雨宮陽生は、憎たらしいほど生意気なガキだ。何度か仕事の合間に話した事があるけど、4歳にして自分が子供だということを利用して大人をからかって遊んでいた。つまり、そのくらい知能が高いムカつくガキだ。
「名前は?」
そう聞くと、雨宮は視線を窓からはずして俺を睨んだ。
「俺の? 知ってるんじゃないんですか?」
「雨宮陽生、だろ」
さらり、と降参してみる。
「そうですよ」
「本当に?」
「嘘だと言ったら、納得するんですか?」
本当に高校生か、こいつは。この落ち着きはなんなんだ。
「いいや、調べ倒すよ。何が本当か、とことんね」
そう言い返すと、雨宮は何かを考えるように視線を正面に向けた。そして、しばらしてから、呟くように。
「……あんた、何か知ってるだろ」
敬語じゃなくなってる。一見落ち着いているようで、実は余裕がないのかもしれない。
「あんた? 俺には尾形澄人っていう立派な名前があるんだけど」
あえてそう言うと、雨宮はため息をついて窓の外を眺めた。こいつは頭がいい。自分が冷静でなくなっていたことに気付いたんだろう。
それから開き直ったのか、俺を睨みつけた。
「尾形ね」
「呼び捨てだったら名前のがいいな」
にっこり笑って言うと、雨宮は心底嫌そうな顔をした。
「冗談きつい」
なるほど、さすが(もしかしたら)総理大臣の孫だな。久しぶりに面白い奴に会った。
「まぁいい。で、何かっていうと例えば?」
「俺のこととか、俺の家族のこととか」
何のためらいもなくそう言われて、思わず噴き出してしまった。本当に鋭すぎる、こいつは。ますます「雨宮陽生」である可能性が高くなった。
「はは、どうしてそんな風に思うんだ?」
そう聞くと、雨宮はスラスラと他人事のように答えた。
「あんたが警察関係の人間で明け方なんかに麻布にいた、血まみれだった俺に事情聴取すらしない、それで十分だよ。雨宮誠一郎って知ってるだろ?」
「総理大臣だな」
俺の相づちに間髪入れずに続ける。
「俺の祖父だ」
自嘲するような笑みを含んだ言い方。俺がそんなことを信じないだろうと思ってるんだろう。
「へぇ、凄いね」
「とことん調べてみたら? DNAくらい、あげるよ」
挑発的な眼差しが視界の隅に入った。試しているのかもしれない。それなら俺は、売られたケンカは買う主義だ。
「……左鎖骨のホクロ、4歳の陽生くんにもあるんだよね」
正面を向いたままそう言うと、隣で雨宮が戸惑うのがわかった。信じられない、と言うように俺を見ている。俺があっさりとそんなことを認めるなんて思ってなかったんだろう。
今まであんなに冷静だったのに。面白いね。
「子供だとかわいいけど、さすがに大人になるとヤラシイな」
ついでにそう言うと、顔がわずかに赤くなるのがわかった。
「な、何言ってるんだよ」
おお、新鮮。久しぶりにこういう反応を見たような気がする。やっぱり高校生はそうでないと。
「へぇ、童貞なんだ」
「…………」
雨宮は窓の外に顔を向けて、黙り込んだ。図星だな。頭が良くても、体は年相応ってわけか。
「17、ね……俺が17歳の頃は、ヤリ放題だったけど。あの頃は楽しかったなぁ」
雨宮は相変わらず無視してそっぽを向いたままだった。
俺は6歳から19歳までアメリカにいた。飛び級のおかげで17歳でメディカルスクールの2年だった俺は、年上の友達や講師に誘われるまま遊んでいた。よく考えたら、結構危ないこともあったけど、それはそれで面白かった。
「アメリカにいたんだけどさ、近くに日本人が住んでて、そいつがすっげぇ遊び人で。遊びはほとんどそいつに教わったな。まさかアメリカで日本人にそんなこと教えてもらうなんて思いもしなかったけど。それで日本人も悪くないと思って、帰って来たんだ」
今は急成長したIT会社の社長になってマスコミでもよく見かけるようになったけど、アメリカでのことが暴露されたらと思うと面白すぎて笑いそうになる。
こいつは、そんな生活とは無縁なんだろう。普通に高校に行って、代々政治家の名家だとちやほやされて育ったんだろうか。それとも、あの父親と同じように、政治家にでもなろうと思ってるんだろうか。
まっすぐな目をした雨宮雅臣を思い出した。何よりも家族を思う誠実な男に、こいつは育てられたんだろう。
助手席をちらりと見ると、雨宮は窓枠に頬杖をついて、じっと窓の外を眺めていた。川崎の工業地帯の味気ない景色だった。
雨宮陽生
『人生、何が起こるかわからない』というじいさんの口癖を、身にしみて感じた瞬間だった。
車から見た景色は、俺の知っているものじゃなかった。
あるはずのビルがないし、電光掲示板に映し出されたニュースも日付も過去のもの。街を歩く人の服装も、一昔前のセンスだった。
もしかしたら、俺だけが2021年にいたと思い込んでいるだけで実は2008年だった、なんていうオチを考えてもみた。でも、そんなふうに片付けられないほど確かに、俺は2021年にいた。
この17年間、何していたんだろう。
隣にいる男は、きっと毎日充実していたに違いない。自由に、気ままに。こんな風に誰かをからかって面白がって。
じゃぁ、俺は?
小学校では笑った覚えがない。好奇の目に囲まれて体をベタベタ触れて、人の心に土足で踏み込んでくる奴を跳ね除けるのに精一杯だった。無理やり行かされた中学校では、何人か友達ができた。でも、一番信頼していた奴に「あいつと仲良くしておけば有利だよな。元総理の孫だぜ?」なんて俺のいないところで言っているのを偶然聞いてしまった。みんな俺の後ろにある元総理の孫とか類稀な知能っていう飾りが目当てだとわかった。ちなみに俺はその100倍傷つきそうな言葉を突きつけてやったんだけど。それ以来、できるだけ人と関わらないようにした。傷つくくらいなら、最初から関わらないほうがいい。
高校に入ってからも他人とは距離を置いていたけど、なぜか俺の「近づくなオーラ」が見えてない有野だけが、懲りずに付きまとってきた。うっとおしいけど特に害はないから放置しているくらいの関係だ。どうせ高校を卒業したら、離れ離れになって――……。
あぁ、そうか。
もう会えないかもしれないんだ。
ここには俺を知っている人間がいない。
有野にも、月本にもじいさんにも、会うことも話すこともできない。
みんな死んだみたいだ。
そう思ってから、心臓を握りつぶされたような気がして、一瞬息ができなくなった。
死んだみたいだ。
もう一生、話すことも触れることもできない。
俺は今、そういう場所にいる。
顔を見られないように窓に顔を向けたまま、右手を脚の上で痛いくらいに握り締めた。
なんだかんだ言って、俺は周りに甘えていた。俺に話しかける人がいてくれたから、自分の存在を確かめることができていた。俺を気にかけてくれていたから、俺は安心していられた。
それなのに、ここには俺を知っている人間が誰もいない。
両親が死んだと知った時、最初は、両親がいないことに不思議にすら思わなかった。
じいさんとアルだけが家族で、両親との記憶がないことにすら気づいていなかったから。悲しいとは思わなかった。初めて写真で見た時、知らない人だと思った。
なんで、忘れてちゃったんだろう。
大切な人が死んだことを、忘れたかったのかな。それとも、こういう悲しさに耐えられなかったのかな……。
「……4歳以前の記憶が、ないんだ」
言ってからハッとした。なんでこんなこと、言った?
「それって普通じゃねーの?」
尾形は少し笑って、ごくありきたりな反応をした。どうしてなのかとか、なんでそんな事言うのかとか聞いてこない。それがどこかバカにされたような気がして、けれどもなぜか心地よくて、その先を続けた。
こんなこと、自分から他人に話したことなんてなかったけど。
「俺にとっては普通じゃねーんだよ。5歳からははっきり覚えてる。注射されたり犬に追いかけられたり、変な大人にベタベタ触られたりしたこととか」
「それは災難だったな」
だからどうした、みたいな言い方。
「俺、IQ220あって、小さい頃の記憶とかも結構覚えてるんだ。でも、4歳以前は全然覚えてなくて……」
それに気づいたのは、6歳ごろ。
罪悪感を感じた。両親のことや、何かものすごく大切なことを忘れてしまっているような気がして。いくら目の前で親がトラックに引かれたと言われても、実感がわかないからどこか他人事で。
「それで? 4歳以前の記憶って、そんなに重要か?」
「え?」
「授乳されてる記憶があったら変態だし、オムツ替えられた記憶なんかが残ってたら屈辱的だ。恥ずかしい。覚えてないほうがいいこともあるよ」
思ってもみない反応に、一瞬あっけにとられた。
「……いや、そういうことを言ってるんじゃないんだけど」
なんか反応、違くないか? 普通はどうして記憶がないのかとか、その時何があったのか、とかそう言うこと聞くような気がするけど。
「そういうことさ。人間は必要のない記憶や覚えていないほうがいいことは、忘れるようにできている」
さらりと、当たり前のことのように尾形は言う。
こんなふうに話す人はいなかった。同じようなことを何度も言われたりもしたけど、同情して腫れ物に触るように俺に接していた。
だからかもしれない。尾形の言葉が、すっと心に入ってきた。
ほんの少し、肩の力が抜けたような気がした。そしてその瞬間を狙ったように、尾形が信じたくない核心を言う。
「雨宮は、タイムスリップしてきたんだろ?」
さっき開き直ってるからもう否定する気もないし、逃げる気もない。
尾形はニヤリと笑みを浮かべて、俺を見た。気が付くと、高速を降りて赤信号で停まっている。
そしてその先を続けた。
「気になるんだったら、どうして記憶を失ったのか、確かめてみたら」
言葉に出す、ということがこれほどグサリと刺さるとは思ってなかった。
本当は、気付いていたのかもしれない。
俺が記憶を失った理由は「両親の事故死」を目の当たりにしたからじゃない。みんなが言っていることは筋が通っていたけど、態度や雰囲気で嘘をついていると、どこかで感じていた。両親は違う方法で死んだんじゃないか、俺は違うきっかけで記憶を失ったんじゃないかって。
それを認めたくなくて、見てみぬふりをして周りを信じていた。本当のことを知るのが怖かった。
ずっと俺の思考を止めていた枷鎖が外れたような気がした。
両親の死ぬ日の朝、警察関係者が麻布で血まみれの俺を拾ったのに事情聴取もしない。4歳の俺を知っている。しかも、ホクロの位置まで。つまり警察と俺が、俺の家族が何かしら深く関わっているということ。それが何を意味するのか――事故じゃない。事件だ。
――殺された?
寒気がした。あまりにも残酷な憶測で。
ここにいる意味が、わからなくなった。
隣で尾形澄人がため息をつく音にハッとした。
「というわけで、この住所に君の家は存在しない」
振り向くと、尾形は真面目な顔つきで正面を見ていた。車がスムーズに走り出す。
「所持金は4千円弱、各種カードは使えない、洋服もない、友人も家族もあてにできない、身分証明書もない、さあどうする?」
そう言うとチラリと俺を見て意地悪に笑った。
悔しいけど、本当のことだ。俺がどんなに頭がよくても、今は犯罪でも犯さない限り、寝るところもない。
「まぁ、俺の家は3LDKで1人暮らしだから使ってない部屋がある。せっかくだから、貸してやらないとは言わないけど」
性格わる……。俺に頭を下げさせるつもりだ。
こんな奴にそんなことしたくないけど、今の俺にはそう言ってられない現実があるのも確かだ。まさに背に腹は変えられないって状況で、俺がここにいる理由なんかよりも、ここでどうやって生きていくのか、それがまず第一の問題だったりする。
俺の意思とは反して、あまりにも現実的な問題が山積みになっていることに、力が抜けた。
しかも不本意だ。物凄く不本意だけど、今はこいつに頼らざるを得ないのが現実だ。
「じゃあ、頼む……」
「何? はっきり言わないと聞こえないけど」
こいつ、俺の気も知らないで。
「っるせーな、しばらくの間、泊まらせてくださいっ、お願いします! これでいいだろっ」
「そうかぁ、しょうがないなぁ」
「わざとらし……」
「何か言ったか?」
「言ってねーよ」
「俺は素直な子しか泊めたくないんだけどなぁ」
「…………」
もしかしたら窃盗未遂で警察の世話になったほうがマシかも……。
そう考える俺に、尾形はさらに追い討ちをかけた。
「あ、そうだ。俺、ゲイだからバージン奪われないように気をつけてね」
ゲイ? ゲイって、まさか……。
恐る恐る尾形の顔を見ると、ニヤニヤと流し目で俺を見ていた。
そうだ、あのゲイだ。
「ありえねーだろ!?」
今すぐ車から飛び降りて、その辺のコンビニに強盗に入ってしまいたい気分に襲われた。