始まりの日

未来 - 6

杉本浩介

「失礼しま~す」
 研究室に聞きなれた軽い声が響いた。出入り口のほうを見ると、日比野亘ひびのわたるが研究員に軽く会釈をして、俺のいるソファに寄ってきた。俺の部下にあたる、まだ25歳の男だ。さすがにその若さで捜査一課に引き抜かれただけあって優秀だが、どこか遊び感覚で仕事をしているような印象を受ける。
「尾形いねーよな、よかった」
 どうやら尾形が嫌いな日比野は室内を見回してほっと息をつく。けれどもすぐに顔を曇らせて、
「っていうか、神田さんもいないんですよぉ」
 神田というのは、日比野が目を付けている女性の鑑識だ。日比野より4歳年上だが、鑑識なんていう地味な職業にしておくにはもったいない美貌の持ち主だ。
「そりゃ残念だったな。またの機会にがんばれ」
 そう言うと、がっかくりと肩を落とした。
「そうします……それはそうと、結局なにもなかったじゃないですか。杉本さんもよくあんな奴のために付き合いますよね」
 呆れたように日比野が言う。昨夜の張り込みの件だ。
 昨夜は仕事ではなく、尾形の「嫌な予感がする」という一言に付き合ったものだった。捜査権のない科捜研の研究員には、張り込み行為は違法になってしまう。そこで尾形は俺に頼ってきた、というわけだ。まあ、日比野の言うこともわかるが、俺もそこまでお人好しじゃない。
「あいつの勘は当てになるからな。何かあってからじゃ遅い」
 勘とは言ったが、尾形の観察眼と分析力を俺は高く評価している。
 あの性格だから、最初は上の命令とはいえ、どうして刑事の俺が科捜研の研究員なんかの面倒をみなければならないのだと不満だった。けれどもこれまでの捜査で、尾形がただの勘や予感だけで動かないことを、よくわかっていた。
 それともう1つ、尾形の頼みを引き受けた理由がある。それは、尾形の父親からの頼みもであったからだ。俺も子供を持つ身として、父親の気持ちは痛いほどわかる。
「でも、杉本さんの体持たないんじゃないっすか? 今日だってこれから捜査なんですよね。っつーか、ああゆう人のこと考えない人間って、絶対いい死に方しませんよ」
 そう尾形を非難する。ある意味、激しく同感だ。ただ、ここで尾形の悪口を言い合っているほど俺も暇じゃない。
「おまえ、何か用があったんじゃないか?」
「あ、そうそう、これ葉山の別荘の見取り図です」
 日比野が手にしていたA4のコピー用紙を差し出した。明日、総理と息子家族が葉山の別荘に移るのだ。
「なんでこの時期に面倒な移動なんてするんでしょうね」
「葉山のほうが警護しやすいんだろう。麻布の雨宮邸は死角がありすぎる。これを見る限り、この別荘はそれほど大きくないし片面が海だから侵入しにくそうだ」
「でも、移動のリスクと天秤にかけたら、動かないほうがいいような気がしますけど」
 それももっともだが、実はもっと単純な理由があった。
「そうだな、総理の我がままらしい」
 ニヤリと笑って教えると、日比野は眉間に険しい皺を寄せた。
「は?」
 予想通りの反応で面白い。尾形と違って素直でいいなぁ。
「就任してから孫と旅行に行ってないから、遊びに行きたい、とさ」
「この国の危機管理は大丈夫なんでしょうか……」
 本気で悩ましい顔をし始めた。
「さぁな。でも、警察は信用されてるってことだろう」
 とは言ったものの、本当に警察を信用しているのか、自棄になっているだけなのか、それとももっと他の理由があるのか、実のところは誰もわからない。ただ、俺たちは新たな被害者を出さないうちに犯人を逮捕するまでだ。
「で、何時に出発するんだ?」
「午前7時半です。警護車両2台と捜査一課の車両2台が同行します。足利さんが『どうせ尾形にくっついて杉本もくるだろ』って言ってましたよ。本当に葉山まで行くんですか?」
 日比野はまた気の毒そうな顔をした。
「……そうだなぁ、尾形が行くと言ったら、行くかもしれない」
「マジっすかぁ? 往復で4時間かかりますよ」
「だったらおまえが行ってくれるか?」
「なんで俺が。ただでさえ少ない睡眠時間をあんな奴のために削りたくないですね。だいたい、どうしてあんなのが今回の捜査のメンバーに選ばれたのかわかりませんよ」
 そう言いながら、さっさと科捜研を後にした。本来は現場にほどんど出ない人間が捜査員として引き抜かれていることが、よほど気に入らないらしい。まぁ、尾形も敵を作りやすい性格をしているから、仕方ないが。

 そして、はた、と気付いた。
 尾形はトイレにしては、遅くないか? 時計を見るともう15分が経過していた。
 そして「雨宮陽生」の財布が、ない。
「あいつ、まさか……」
 慌てて医務室に向かった。
 あいつの単独行動には、何度も困らされている。まさか今回も何かしでかしてるんじゃなかろうか。
 非常階段を下りて、1つ下の階にある医務室のドアを開ける。俺の悪い予感は的中していた。もぬけの殻、だ。
「はぁ――――」
 誰もいない医務室に、俺のため息が響いてよけいに虚しくなった。
 とにかく、祈るしかない。仮にも警察の人間なんだから、未成年には手を出すなよ……。
『警視庁科捜研職員が男子高生にわいせつ行為』という新聞の見出しがなぜかリアルに浮かんで、どっとに疲れが出た。

雨宮陽生

 で、俺はゲイをカミングアウトした男と一緒に住むことになった。
 仕方なく、本当に不本意ながらやってきたマンションは、自由が丘にあった。自由が丘は高校の帰りによく寄って遊んでいたから、土地勘がある。駅から徒歩10分圏内、2021年でもあまり変わっていない通りの一角。こんな状況でも、知ってる街の昔の姿を見るのは、楽しかった。
 尾形の家は年にしてはかなり羽振りのいい高級マンションの15階で、言ってた通り3LDKだった。家の中なんて10年ちょっとじゃ大差ないみたいで、普通に友達の家に遊びに来たみたいだ。
 尾形は、玄関をあがると、ぶっきらぼうに廊下の右側にある部屋のドアを開けた。
「ここ使って」
 そう言われて、部屋を覗いた。
「は……?」
 何もないフローリングの部屋。たぶん6畳くらいあると思う。大きな窓からベランダと町並みが見えた。つまり、カーテンすらない。
「何にもない……」
 ある意味、刑務所のほうが設備が整っているかも……。
「必要なものがあったら、言って」
 尾形はさらりとそんな事を言ったけど、はっきり言って
「言わなくてもわかるだろっ」
「なに?」
「ベッドとか布団とかカーテンとか、しかもこの部屋、照明すらねーってどういうことだよっ」
「あぁ、そうだったな」
 わざとらしくそう言ってしばらく考え込んで、真面目な顔で思いついたように、
「じゃぁ、俺と一緒に寝る?」
「…………」
 ありえない。2008年でホモに襲われるなんて、冗談じゃない。
 ギロッと睨みつけると、尾形は楽しそうに笑った。
「ははは、冗談だよ」
「マジだったらコロス」
 言いながら、綺麗な笑顔をした尾形にまたムカついた。
「それは困るな、まだ死にたくない。そうだなぁ、これから買い物でも行く?」
「あんたさえ良ければ」
 じゃなかったら、寝るところも着替えもない。
「尾形」
「はいはい、尾形さえよければ」
 くそ面倒臭い奴だ。睨みつけてそう言うと、尾形は今度はふんと鼻で笑った。
「あそう、じゃぁやめよう。俺は今日は貴重な休日なんだ」
 げ、やばい。
「やっぱり行く」
「それが人にものを頼む態度? 見ず知らずの人間に金を出させる態度かなあ?」
 ああああああぁ、疲れる。マジで、疲れる……。
「行きます、お願いします、尾形さん」
 目だけは思いっきり抵抗しながら、降参した。絶対に、俺の反応を面白がってる。
 尾形はそんな俺にお構いなしに、笑いながら早足で廊下を歩いて、早口で間取りを説明する。
「ここが俺のベッドルーム。何見ても他言しなければ別に入ってもいいよ。隣が仕事部屋でそこがバスルームで、あっちがトイレ。その先がリビングとダイニングキッチン。週に2回ハウスキーパーが来るから適当に散らかしておいて。仕事がないとかわいそうだろ」
 また出た、わけがわからない理屈。
「腹、減ってない?」
 リビングのドアを開けながら、尾形はふと足を止めて俺を振り返った。
 そんなことを気にしている余裕がなかった。いきなり知らない時代に来て、しかも尾形はホモだし。とはいえ、確かに空腹感はあったから、
「そういえば、減ったかも」
 そう答えると、尾形はリビングに入るとその左脇にカウンターで繋がっているキッチンを指差した。
「じゃ、パンでも食べてて。あれだよ、ホームステイみたいなもんだな。おまえは客じゃない。自分のことは自分で、自分の部屋は自分で掃除しろ」
「ハウスキーパーが来るんだろ?」
「使ってない部屋は契約に入れてないんだよ」
「あ、そう」
 普通ならムカつくところじゃないけど、なんかムカつく。できるだけ早くこの家から出よう。こいつと一緒に暮らすなんて、精神衛生上よくない。
 それから尾形は郵便受けから抜いた新聞をダイニングテーブルに投げて、ポケットから鍵や財布を取り出して無造作にカウンターに置いた。
「じゃ、俺はシャワー浴びてくる。おまえはどうする?」
 確かに、体中がベタベタして気持ち悪い。いきなり真夏に来たんだから、当たり前か。
「ああ、借りる」
 そう答えると、意味深に口角を上げた。まさか、なんかヤラシイこと考えてるんじゃないだろうな……。
「じゃ、おさきに~」
 尾形は、顔が引きつる俺を見てニヤニヤしながらリビングから出て行った。
「はあああああぁ………」
 1人になって、巨大なため息が出た。調子が狂う。居候させてもらうだけで、これほどの気苦労を払わないといけないんて。どせなら、思う存分この家を使わせてもらおう。
 俺は遠慮なくキッチンに行って、冷蔵庫を開けた。そして絶句した。
 なんにもない……。
 ワインとビールと、グラス、ミネラルウォーター。つまり水分しか入っていない。冷凍庫に至っては、冷凍の生ハムが、ぽつんと捨てられているみたいだった。そしてなぜか野菜室にバターがあった。こんなでっかい冷蔵庫、いらないだろ。
 呆れながらそれを取り出して、カウンターの上にあった食パンを2枚トースターに入れる。
 そのカウンターに置きっぱなしの尾形の財布が目に入った。尾形は、俺のことを完全に信じきっているのかな。まだ会って1時間くらいしか経ってないのに。
 別に俺も盗んだりするつもりはないけど、そんなふうに人を信じられる尾形が少し羨ましくも思えた。
 パンを焼いている間にキッチンの設備や引き出しの中をチェックして、焼けたパンにバターを塗り、水とパンをダイニングテーブルに置いて座った。
 13年も前のはずなのに、基本的にはあまり変わっていなみたいだ。テレビは旧型だけどこういうの使ってる家はまだあったし、ほかの電化製品にも大きな違いはない。この分だと、ひとりで街に出ても大丈夫そうだ。
 あとは絶対に料理しないと思うけど、調理器具は十分すぎるくらい揃っていた。調味料もそこそこ揃っている。形から入るタイプなのか、飽きっぽいのか、料理好きの誰かと住んでいたのかもしれない。男、かな。

 男が男を好きになるのって、どういう感じなんだろう。
 俺は普通の恋愛経験も乏しい。っていうか、ほぼない、か。そもそも俺は人と関わらないようにしてきたし、そうなる前は、外見的に可愛いと思う子がいても、実際に話すと自分の考えてることとの差がありすぎて、すぐに冷めた。それに、俺はそんなに性欲とか強いほうじゃないと思う。興味はあるけど、有野や周りの男が盛り上がるほど気になるわけじゃない。
 っていうか、ああいう欲望を、男に持つってことだよな、尾形は……。
 あまりにもリアルすぎる映像が頭に浮かんでしまって、微妙に食欲がなくなった。頭がいいと想像力も豊かで困る。
 その映像を消去して、テーブルに無造作に置かれた新聞を引き寄せた。日付は2008年8月13日。

 どうして俺は、ここにいるんだろう。
 俺がこうしている今、2021年ではどうなっているんだろう。
 どうやって、元の場所に戻ればいいんだろう。
 疑問ばっかりだ。
 このまま2008年で暮らしていくことに対しては、特に不安はない。幸い俺にはそれだけの頭はあるから。ホモと一緒だけど、とりあえず住む場所も確保した。ただ、帰れないことのほうが、不安でしょうがない。
 なんとなく開いた新聞には、現役の総理大臣をやってるじいさんが誰かと握手している写真が載っていた。
 じいさんは、俺がいなくなったことに気づいてるのかな……。
「めずらしく長期内閣だよなぁ、おまえのじーさん」
「うわっ」
 急に背後から声がして、手に持っていたグラスを落としそうになった。振り向くと、ボクサーパンツ1枚にバスタオルを肩に掛けただけの格好の尾形が、面白そうにケラケラと笑っていた。眼鏡をはずしていて、少し若返ったように見える。
「驚きすぎだろう」
 なんか、ムカつく。ていうか、シャワー浴びるの早すぎるだろ。
「悪かったな……」
 小さく呟いて、姿勢を戻して2枚目の食パンにかじりついた。俺の周りにはこんな風に俺に接するやつはいなかった。だから、どう接していいのかわからない。くすぐったいような、気まずいような、変な感覚。
「総理大臣になってもう3年か。日本にしては長い方だよな。このままの支持率でいけば、来年の総選挙でも圧勝だろうなぁ」
「じいさんは3年で辞任したよ」
 言ってから、ハッとした。口が滑るなんて、初めてだ。完全に尾形のペースにはまってたんだと思う。
 尾形は口を噤む俺を真顔で見返した。
「なんで?」
「…………」
 それを言っちゃいけないような気がした。俺の知っている未来を教えるってことは、何かを変えてしまうことにつながるかもしれない。どこで何が繋がっているかわからない。俺が何か言って、それが関係者に知られて、未来が曲げられたら、もしかしたら俺の人生も何か変わってしまうかもしれない。
 それって、かなり怖いことなんじゃないか?
「……教えない。そのうちわかるだろ」
 それだけ答えて、俺は立ち上がり、皿とグラスを片付けた。
「ま、別にいいけどね。俺も未来なんて知りたいと思わないし」
 尾形はそれ以上聞かずに、自分の部屋に入っていった。そしてすぐに部屋から声だけ届く、
「雨宮、おまえトランクス?」
「はあ!?」
「パンツぐらい換えたいだろ」
「あぁ……」
 びっくりした、なに意識してるんだ、俺。尾形がしなくてもいいカミングアウトするから。
「トランクスでいいけど」
「じゃ、新しいのあるからやるよ。」
 ちょっと意外だった。そんなところに気が回るんだ。
「ありがと……」
 って言ってから、後悔した。尾形は部屋から廊下にバサバサと乱暴に投げ出した。なんて投げやりなんだ、こいつは。床からそれを拾い上げてバスルームに行く途中、後ろから、
「バスタオルは棚にあるの適当に使って。洗濯物は洗濯機に突っ込んでおいて」
 と声がして、俺は振り向かずに返事をした。適当なのか几帳面なのかよくわからない奴だ。
 袋入りのトランクスを見て、なんとなく変なことを考えてしまった。尾形はボクサーパンツ派みたいだけど、だったらこれはどういう目的で買ったものなんだろう……。

 買い物を終えると、6時を回っていた。家具も洋服もほとんどこの近くで揃うから便利な場所だ。家と店を3往復して、サイズ測ったり、着替えたり荷物を運んだり、最高気温33度の真夏日にはかなりハードな買い物だった。
 買ってきたものを部屋に片付けて、カーテンを取り付けた。エアコンも付いてないから蒸し暑くて、それだけで汗だくだ。5日後に取り付け工事を予約したから、それまでの辛抱だな。
 尾形は俺が必要だというものは、驚くくらいあっさりと何でも買ってくれた。何万もするベッドまで、ぽんと。科捜研ってそんなに儲かるのかと聞いてみると「株やってるから。最近中国株が調子いいんだよ」と他人事のように言っていた。

 世の中、金を稼ぐ方法なんて山のようにある。俺がこの世界で生きていくのに困ることはないんだ。
 それに俺は今「元総理の孫」じゃない。もしかしたら、それはすごく楽で、開放的なことなのかもしれない。何かする度に俺にはその肩書きが付きまとって、身動きできなくなっていたから。
 その枷から開放されたんだと思うと、考え方によっては、今の方が楽しく生活できるだろ。現に尾形なんか、これっぽっちも俺に気を使ったりしてない。
 そう無理やり自分に言い聞かせた。
 そう思うことでしか、帰れない、帰る場所のない不安を消すことができなかった。

 カーテンを取り付け終えると、見計らったようにドアが開いた。
「夕飯どうする? どっか行くか?」
「ノックしろよ」
 と言ったけど「俺の家だ」とあっさり却下された。こういうところは、自分勝手なのに。
「で、どうする?」
「俺ちょっと行きたいところあるから、外で適当に食べる」
 さっき5万円借りたから、それで十分足りる。ひとりになりたかったし、そのまま麻布の家に行ってみようと思った。
「そうか、気をつけろよ」
 尾形はそれだけ言って、あっさりリビングに戻っていった。もしかしたら、俺の気持ちも少しは察してくれたのかもしれない。
 1日一緒にいて気付いたのは、尾形は人の心を読むのが極端に上手い、ということ。自分勝手で自分が一番偉いと本気で思っているところがあるけど、本当の意味で人を蔑むことはないし、誰かを傷つけることは言わない。俺がどうして血まみれで倒れていたのかとか、どうして4歳以前の記憶がないのかとか、絶対に聞いてこない。
 認めるみたいでムカつくけど、案外、人のことを考えているみたいだ。本当はいい奴なのかもしれない。
 俺はこっそり礼を言って、尾形のマンションを後にした。