始まりの日

未来 - 4

杉本浩介こうすけ

 整然と並んだデスクにパソコンや書類がちらかったオフィスで、白衣を着た2人の職員が慌しく隣の研究室とを行ったりきたりしている。昨日の夜中に起こった3件の連続放火事件の鑑定で忙しいみたいだ。ただ、俺の目の前にいる男は「俺は非番だ」と言って手伝おうともしない。
 俺は手元の学生証ごしに、向かいのソファで悠然とプリンを食べる尾形を見た。いくら非番でも、あの2人から見るとその態度は反感を買うんじゃなかろうか。
 けれども、俺も今は他部署の内部事情に口を挟むほどの余裕はない。
「嘘、だよなぁ……」
 学生証を見ながら、思わず口に出してしまった。
 生まれて35年。こんなに意味不明の事態に陥ったのは、姉が尼になると言って出家してしまった時以来だ。ちなみに姉は今も京都の寺で精進している。
 話は戻るが、そもそも俺がこんな事態に陥ったのも、目の前で呑気にプリンを食べる尾形澄人のせいに他ならない。
 尾形が気絶した血まみれの高校生を拾ったのは、5時間前、俺たちが関わっている極秘事件の張り込み中のことだ。刑事の俺としては血まみれの高校生を道端に寝かせておくわけにもいかないし、かと言って救急車を呼ぶにはかなり不都合な場所と状況だったため、不本意だが車の中で寝かせてみることにした。しかし3時間たっても起きる気配はなく、結局、尾形の同僚の名前で医務室に寝かせている。まぁ、尾形が拾ったんだから、尾形が責任をとるのは当たり前だ。
 そして、保護者に連絡をしようと思って調べた彼の所持品から出てきた、この学生証。これが「意味不明」なのだ。
「身元わかった?」
 この厄介な事態を作り出した張本人は、正面にいる俺の様子をずっと見ていたにも関わらずそう言う。コンタクトをはずして眼鏡をかけてるあたり、すでに仕事をする気がないのかもしれない。
「おまえなぁ……」
 顔も頭もいいくせに、この典型的なB型の性格と俺様ぶりはどうにかならないものだろうか。同じ理由で何十回ため息をついたことか。
 尾形はアメリカで若干19歳で医学博士号を取得し、帰国後に医師免許を取得して去年まで犯罪心理学の客員教授をしていたらしい。まぁ、そもそも医学系の勉強をしていたのにどうして第一化学科の研究員になったのかってことからして、天才の考えることは分からんな。バカと天才は紙一重とはよく言ったもんだ。
 その上、尾形はなぜかいつも変なものを見つけてしまう。まるでどこへ行っても事件に出くわす金田一少年みたいだが、今回だけは、いつもよりはるかに意味不明なものを拾ったようだ。
「杉本さん、聞いてる?」
 尾形はあいかわらず俺を見もせずに、コンビニで買ってきた濃厚そうなプリンを食べながら言う。偉そうに。
「あぁ。わかったよ、たぶん」
 俺は学生証をローテーブルに投げ出して、曖昧な返事をした。
「たぶん?」
 尾形の動きが止まり、ようやく俺の顔を見た。
 視線をテーブルの上の学生証に向けると、尾形はプラスチックのスプーンを咥えて、空いた手でそれを拾う。そして、その学生証を見て、愕然とした。
 当たり前だ。
 発行年度は2021年4月。持ち主の名前には「雨宮陽生」、生年月日に「2004年5月28日」と書かれていた。しかも、それは今俺たちが捜査している極秘事件の関係者と同姓同名、同じ生年月日。
 2008年の今、4歳の雨宮陽生が住んでいる家の目の前に、この学生証の持ち主が倒れていた。偶然にしては、できすぎている。かと言って悪戯にしては手が込みすぎているし、偽造だとして何の得があるというのだろう。
 尾形はしばらくしてから、おもむろに咥えていたスプーンをはずし、
「うーん、どうしよう……」
 どこか他人事のようにも聞こえる呑気な口調で、そう呟やいた。
「どう思う?」
 これが偽造かどうかを聞いたつもりだったが、尾形の思考はすでにその先を行っていたようだった。
「彼のここ、ホクロあるの見た?」
 そう言って自分の左鎖骨を人差し指で軽くつつく。
「いや、見てない」
「『あの子』にも、同じところにあるんだよ。顔も、父親に似てると思わない?」
 あの子、というのは4歳の雨宮陽生だろう。こいつはそんなところまで見ていたのか、と感心しながらも、尾形の言おうとしていることがあまりにも現実離れしていて、驚いた。
 尾形なら考えそうだけど、さすがにそこを本気で考えると紙一重じゃなくて本当にバカ扱いされるぞ。
「同一人物だと言いたいのかぁ?」
 いくらなんでも、それはないだろ。そいうニュアンスで言うと、尾形はニヤリと面白いものを見つけたように笑った。
「さぁ? 本人に聞いてみようか」
 そう言って、食べかけのプリンをテーブルに置き、席を立つ。
「医務室に行くのか?」
「残念、トイレ」
 尾形はそう言って、オフィスを後にした。

雨宮陽生

 振り向くと、眼鏡に白衣のいかにも学者っぽい20代の男がドアの前に立っていた。
「あぁ、気が付いた?」
 そいつはそう言うと、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。けど、それが気のせいだったのかと思うほど、次の瞬間には鋭い眼差しに変わっていた。
 はっきり言って、俺は学者とか医者が大っ嫌いだ。幼少期にした嫌な思いってのは、トラウマになる。たぶん俺は、何度もじいさんに言われたような「今にも噛み付きそうな顔」を反射的にしたんだと思う。だから、相手も睨み返してきたのかもしれない。
 大学生にも見えるそいつの白衣の胸ポケットにぶら下がったIDカードには、尾形澄人という名前と、警視庁科学捜査研究所の文字が見えた。
 警視庁……?
「体調はどう?」
 目つきを変えずに同じ口調でそいう聞いてくる。けど、俺が答える前に次の質問を投げた。
「君、明け方に麻布で血まみれで倒れてたんだよ。覚えてる?」
「麻布?」
 なんで麻布なんかに?
 俺は広尾に向かっていて、3駅も前で電車が事故ったはずだ。それなのにどうして麻布なんかに倒れていたんだろう。
 それに、麻布は両親が死ぬまで住んでいた場所だ。そうだ、このカレンダーと同じ2008年8月まで。
 何もかもバラバラで、何が起こったのか全然見えない。
「覚えてないみたいだね。ま、俺には関係ないけど。はい、財布」
 考え込む俺に対して、尾形澄人は事務的にそう言いながら、白衣のポケットから俺の財布を差し出した。それを受け取って、中身を確認した。
 あの時と同じだった。電車に乗る前と、財布の中身は何も違わない。朝コンビニで買ったジュースのレシートも、定期券の日付も。
「あの、俺のワイシャツは?」
 あの事故で血まみれになった、ワイシャツはどこにあるんだろう。
「捨てた。あんなに血が付いてたら、もう着れないだろ」
「…………そうですか」
 人のものを容赦なく捨てるなんて、相当な自信過剰か自分勝手な奴だな、こいつ。
 それはともかく、確かに俺のシャツは血まみれだった、ってことか。ということは、電車の事故は本当にあったことだ。
 そこから考えられることは?
 例えば、事故以降の記憶を失って、その失った記憶の中で麻布にやってきて何かが起こった……っていうか、どんな仮説を立てても、この医務室の2008年のカレンダーや時代めいた設備は説明できないな……。
 しかも、ここだけが2008年じゃなかったら……?
 ふと、とんでもない単語が脳裏に浮かんだ。
 世の中全体が、何もかも2008年だとしたら? ……ありえないだろ。
 自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。けれども、どうにも落ち着かないのは、たぶんこの部屋があまりにもリアルだからだ。そんなことあるわけがない、頭ではそうわかっていても、肺が縮んだような変な胸騒ぎが消えてくれない。
「俺、帰ります」
 とりあえずこの変な不安を払拭したかった。外に出れば安心する。俺の勘違いだと証明できる。 ベッドの脇のブレザーを手にとって、するりと彼の脇をすり抜けようとした。そのすれ違いざまに、尾形澄人に二の腕を掴まれた。
「痛っ」
 必要以上に強く引っ張られて、顔を歪めた。俺の反応にわずかに力を弱めたけど、彼は掴んだ腕を放さずに冷ややかに俺を見下ろした。
「礼ぐらい言ったら? こっちは着替えさせてここまで運んで、休ませてあげたんだけど」
 むかつく。あんたのほうが身長が高いんだ。
「ありがとうございます」
 睨み返して口だけで礼を言って、腕を引き離そうとした。けれども、放してくれない。それどこか、ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「君、あんなところで何してたの? あの血、なに?」
 決して乱暴ではないけど、有無を言わせない強い口調で悠然と言う。
 聞かれるとは思ってたけど、だからって答える筋合いもない。こういう場合は下手にムキになるよりも余裕を見せたほうがいい。俺は小さく笑った。
「別に、何もしてませんけど」
 本当のことだ。何かするも何も、行こうとした覚えもないから。
「何も?」
「何も」
 目を見てそう返事をすると、彼はニヤリと口角を上げた。
「君の家、横浜だろ? あんな時間にどうして麻布にいたの?」
「財布の中、見たんですか」
 財布に入ってる学生証を。住所がわかるとしたら、それしかない。
「鋭いな。一応、保護者に連絡したほうがいいと思ってね。でも、そこに書いてある電話番号は嘘?」
 そう言いながら、俺のポケットの中の財布を指差す。
「別の家に繋がった」
 別の家って……まさか……?
 当たり前だけど、学生証の電話番号は本物だ。でも、それが別の家に繋がったのだとすると。
 ひとつの、ありえない可能性が10%増した。
 妙に癪に障る奴だけど、こいつが嘘を言っているようにも思えなかった。あまりにも堂々と嫌な奴だから。俺の経験上、何かを隠している人間は「いい奴」を演じる傾向がある。
 だから、思いきってそのバカげた質問を口にしてみることにした。
「今日って、何年何月何日ですか?」
 なんか、笑えてきた。俺がおかしくなったって言われたほうが、数倍真実味がある。でも、誰かからそれを聞かなきゃ、確信が持てない。
 けれども尾形澄人はバカにすることも笑うこともなく、俺の目をじっと見つめて真意を読もうとしているみたいだった。真意なんて知ったら、どう思うかな。
「倒れたときに、頭打ったのかも」
 苦し紛れにそう付け足しながら、自分に呆れた。ほんとに頭おかしくなったのかもな、俺。
 尾形澄人はそんな俺を見て、何を思ったのかにっこりと笑った。そして、はっきりと。
「2008年8月13日だよ。ちなみに水曜日、午前8時55分」
 やっぱり……。
「……そうですか」
 あまりにも期待通りの答え。
 ここは2021年じゃなくて、2008年。それも8月13日――俺の、父さんと母さんの命日だ。
 あのカレンダーを見たときに、すでに予感はあった。あまりにも都合よすぎる日付。ありえないと思っていたことに限って、現実になるんだ。
 もし、万が一、本当に「ここ」が2008年8月13日だとしたら?
 今日の夜、両親が死んだんだ……。

 ゆくりと、目を閉じた。
 目を開けたら、誰か「ドッキリ大成功」とかいうプレートを持って出てきてくれないかな、マジで。
 この際じいさんでもいい。誰が暴露しても怒らないから、出てきてくれ。

 でも、瞼を上げるとそこには目を閉じる前と同じように尾形澄人がいるだけだった。
 そして、目の前の「科学しか信じません」というような眼鏡に白衣の男が、真面目な顔で非現実的な単語を口にした。
「君、もしかしてタイムスリップしてきた、とか?」
 そうか、財布の中身の日付に気付いてたんだ。
 タイムスリップかもしれないね……。でも、こんな密室じゃ実感なんてわかない。
 それに、俺だってそんなこと簡単に信じたくない。
「まさか」
 わざと笑ってそう言うと、尾形澄人も笑みを浮かべた。
「だよな。ま、気になる点は多々あるけど、とりあえず帰るなら家まで送っていく」
「いいです、一人で帰れますから」
 絶対に断ろうと思ってはっきりと言ったけれど、彼はまた意地悪な笑みを浮かべた。
「だめだ。頭打ったかもしれないんだろ?」
「…………」
 嘘だと知っているくせに。こいつ、絶対に性格悪い。「すみと」か「すみひと」か知らないけど、名前負けしてるな。心はまるで澄んでない。
 軽蔑するように睨み付けたけど、効果はなかった。
「さぁ、行こうか」
 にっこりと、裏があるに違いない笑みを作って、尾形はドアを開けた。

 でも、本当に俺が帰る場所はあるんだろうか。
 何かものすごい賭けをしているような緊張に襲われた。