始まりの日

未来 - 3

2021年4月 雨宮陽生

 放課後、俺はモンブランを買うために家とは反対方向の電車に乗り込んだ。
 あんなふうに憎まれ口を叩いていても、結局、俺はじいさんの頼みを断れない。

 俺は、物心ついたころから自分が他の子供とは違うことに気付いていた。同い年の子が平仮名も書けない年に漢字を書いて、分数を習う頃に微積分を理解していた。そして去年司法試験を受けて、めでたく史上最年少合格者になった。
 つまり、俺は「天才」なんだ。
 自分でそんなことを言ってたら世話ないけど、これは事実。
 俺のその才能に気付いた周囲は、俺を羨み、妬み、利用しようとした。わけのわからない団体や学者が押し寄せて、マスコミも騒ぎたてた。元総理大臣の孫で両親が早くに死んで、しかも天才なんて、マスコミが好きそうな話題だよな。
 どこに行ってもみんな俺のことを知ってるし、俺の知らないところで俺のことがあることないこと噂される。あまりにもウザくてイライラして、気持ち悪くて、吐き気がした。それは7歳の頃が一番ひどくて、不登校でうつ状態にまでなった。
 それでも俺が今こうして普通に生活できるのは、じいさんが手を尽くして守ってくれたおかげだ。守るといっても、マスコミや研究機関に四方八方から圧力を加えて、無理やり俺を学校に行かせただけだけど。ちなみに小学校の時は、猟銃を持ち出して俺が唯一友達だと思っていたアル(ゴールデンレトリバー・♂)を人質に取った。
 とりあえず、あまりにも変わり者で傍若無人なじいさんのおかげで、俺は半端ない度胸を身につけて、今では悪意に満ちた攻撃にも100倍にして反撃できるくらい強くなったわけだ。

 駅のホームに出ると、すぐに上りの電車が滑り込んできた。
 平日の夕方、都心に繋がった地下鉄への直通の各駅停車いうこともあって、乗客はそれほど多くない。俺はちょうど空いた一番端の席に座って、携帯の電源を切る。GPSでじいさんに俺の居場所がわかるようになっているから。
 じいさんのためにケーキを買いに行ってることを知れば、間違いなく調子に乗る。だから、電源を切って居場所がわからないようにしてやる。
 そして携帯をポケットにしまおうとした、その時だった。

 ぐらり、とゆっくり体が後ろに傾いた。
「え――?」
 スローモーションの映像のように空間が傾いた。
 一瞬、何が起こったのかわからない。
「キャー!」
 女の悲鳴が響くのとほぼ同時に、金属が擦れるような高い音が耳をつんざいた。

 脱線?

 電車が横に倒れている、咄嗟にそう判断した。
 背中が下になって、やがて向かい側の窓が青い空でいっぱいになる。
 同時に荷物や人がドサドサと落ちるような変な音が聞こえてきて、ドスン、という衝撃とともに、ガラスの割れる高い音と金属がひしゃげるような耳障りな音がした。
 座った体制のまま、高いところから落ちたような衝撃を背中を受けて、手すりに腕を強く打ちつけた。そのはずみで携帯が手の平から飛び出す。
「痛ってぇ……」

 多少のことじゃ動じない度胸というのは、どうやら筋金入りらしい。
 俺はこんな状況でも、落ち着いて受身なんてとってたりする。
 たぶん電車が脱線して倒れて、大変なことになってるんだろうな。

 電車はまだ前進していて、金属がぶつかる音で耳鳴りみたいに鼓膜が壊れそうだ。
 天井になってしまった窓枠は、まるで空の写真をはめた額縁のようで、残ったガラス片が大陽の光に照らされて、輝いていた。

「きれい……」
 そう思った時、ドサっと、突然何か俺の腹に落ちてきた。
「うぅっ!」
 ちょうどみぞおちを直撃して、息ができない。思わず目をきつく閉じて痛みと吐き気をなんとか逃がしてから、その原因を見た。
 女が、ちょうど俺のみぞおちに頭突きするような感じで落ちてきたんだ。
「ちょ、あんた! しっかりしろ!!」
 完全に気を失っているのか、まったく動かない。さすがに苦しくて頭の位置だけでもずらそうと、両手で彼女の頭を抱えた。
「な、んだ?」
 ぬるり、と手のひらに生温かい感触がした。
 赤黒い血がとめどなく流れていた。ワイシャツが、みるみるうちに赤く染まっていく。

 この人の血? それとも、俺の血……?

 ぐにゃり、と目の前が歪んだ。
 気持ち悪い。吐き気がする。

 診療内科医がカルテに書いた「心的外傷後ストレス障害PTSD」という字を思い出した。

 そうだ、俺、血がダメだったんだ……。

 ふぅっと周りの音が遠のくような感覚に襲われた。
 重力が何倍にもなったように、このまま地中に引きずり込まれてしまう気がした。
 ここ何年も、血を見て気絶するなんてことなかったけど、さすがにこの量だとだめみたいだな……。

「陽生!」

 あれ、誰か乗ってたのかな……。

 そう思ったところで、俺は完全におちた。

2008年8月 尾形澄人

 深夜3時を過ぎたこの時間帯は当たり前だけど人通りが少ない。
 俺は、細い坂道の真ん中を早足で登りながら、コンビニの袋をぶら下げて、携帯電話に向かってあるがままを述べた。金持ちの家とマンションと大使館しかないここら辺にはコンビニなんていう庶民向けの店はないから、熱帯夜にもかかわらず、歩いて15分以上かかるファミマに買出しに行かされた、その帰りだ。
 つまり、なんで俺が行かなきゃならないんだ、とムカついている。
「だーかーらー、店員がレシート用紙の交換にありえねーほど時間かけてて遅くなったっつてるだろ」
 絶対に俺は悪くないと、付け足す。電話の相手は、警視庁捜査一課2係の係長、杉本浩介だ。
『レシート交換するだけで30分もかかるわけない』
「かかったから遅くなったんだろ、ものごと常識にとらわれずに考えろって幼稚園で教わらなかった? 世の中、自分のモノサシが標準じゃないって」
『そんな難しいことは教えてもらってないな』
「そうか、俺とあんたじゃ育ちが違うよな」
 自慢じゃないけど、俺はアメリカ育ちのエリートだ。
『あのなぁ……わかったから早く帰って来い』
「それが買出しを頼んだ人に言うっ、あ!」
 ガツッと、何かにつまずいて、その勢いで前につんのめった。倒れる寸前でバランスを保ち、振り返って足元を見る。
『尾形? どうした?』
 携帯から心配そうな声が聞こえた。
「……人が、落ちてる」
『は?』
「またかける」
 俺はそう言うと、携帯をスーツのポケットにしまった。そして、つまずいた原因に歩み寄る。
 道路の真ん中にうつ伏せで倒れているのは、高校の制服を来たガキだ。しかも真夏のこの時期にブレザーだ。暑くないのか?
「おい、大丈夫か?」
 反応がない。死んでる?
 しゃがみこんで首筋の脈を確かめると、しっかりと脈打っていた。脈拍も異常ない。呼吸もしっかりしている。熱もないけど、暑いのか額や首筋に汗がにじんでいた。胸ポケットからペンライトを出して、瞳孔に照らして確認する。こっちも特に異常はない。外傷もない。
 来る時にはなかったから、この3、40分の間にここに来たか誰かに放置されたんだろう。
 そう考えながらうつ伏せの体をひっくり返して、驚いた。
「おいおい……」
 腹部全面に、大量の血液が染み込んでいた。一瞬こいつの血かと思ったけど、こんなに血の出るような外傷があったら脈に異常が出るはずだ。そう思いながらシャツを捲って腹を見ると、やっぱりどこも怪我をしていなかった。
 どこかで事件に巻き込まれたか、自分で事件を起こしたか。どっちにしても、怪しすぎる。だいたい、外傷もないのにどうして気絶なんてしてるんだ。
「演技だったら瞼に目を書いて鼻にボールペン刺してやろう」
 彼の腕を顔の上までまっすぐ伸ばし、そのまま離す。当たり前かもしれないけど、重力に従って腕がドサっと顔の上に落ちた。
 演技じゃない、か。ちなみに意識のある人間だったら、腕は顔をよけて落ちる。これで演技かどうかわかる。
 何が原因かはわからないけど、とりあえず気を失っているだけみたいだ。
 彼のジャケットを脱がせて、制服のネクタイをゆるめる。そしてワイシャツのボタンを上から2つ外して、手で仰いで風を送ってやった。
 そういえば、こういうの久しぶりだな。研修医のとき以来だから、2年ぶりか。
「あ……」
 左の鎖骨の下に小さなホクロを見つけた。なんか、色っぽい位置にあるな。
 それによく見ると、結構かわいい顔をしてる。
「早く起きないと、お兄さん襲っちゃうよ?」
 ポケットから携帯を出して杉本さんに車をよこすように連絡した。

雨宮陽生

「死ぬな――――っ!」

 誰かの叫び声で目が覚めた。

 視線の先に、白い天井があった。

 夢……?
 でも、どんな夢だったのか思い出せない。
 直前に聞こえた「死ぬな」という尋常じゃない叫び声だけが、鮮明に残っていた。誰の声なんだろう。
 そう考えかけて、ハッとした。
「そうだ、俺……」
 電車の事故に巻き込まれたんだ。
 心を落ち着かせて、周りを見回す。
 病院?
 俺は小さいベッドに寝ていて、周りを薄っぺらいクリーム色のカーテンで覆われていた。ベッドの下をのぞくと、靴が丁寧に揃えて置いてあった。
 病院、のような気がするけど、よく見るとナースコールやネームプレートがない。どっちかって言うと、学校の保健室みたい……って、あれ?
 俺、怪我してるはずだ。しかもシャツが血まみれになって……。
 上半身を起こしてみる。あれだけ背中強く打ったのに全然痛くない。腕にも青あざぐらいできてるはずなのに、なんともなかった。そして血まみれのシャツは脱がされて、無地の白いTシャツを着ていた。制服のブレザーがベッドの脇のプラスチックのカゴに入っている。誰かが着替えさせてくれたのかもしれない。
 でも、なんでこんなにピンピンしてるんだろう。
「夢?」
 っていうか、どこからどこまでが?
 電車の事故から夢だったりして?
 あまりにもつじつまが合わなくて、頭が混乱した。
 とりあえず、手がかりを得るために、靴を履いてカーテンを開けた。やっぱり思ったとおり学校の保健室に似た設備だ。隣に空のベッドが1つと、壁際に医療用具を収める棚や机が整然と並んでいる。窓の外は、明るかった。
 時間が気になって時計を探すと、壁に丸い白黒のシンプルなアナログ時計を見つけた。8時23分を指している。そして、その時計の下のカレンダーを見て――愕然とした。

『2008年8月』

 ……は?
 なんだ、これ……?

 何かの間違い、だろ?
 思わずカレンダーに駆け寄って、目をこすった。
 けれども、間違いなく「2008年8月」と書かれている。
 なんでこんな昔のカレンダーが飾ってるんだろう。いくらなんでも、13年前のカレンダーはねーよな。そう思って部屋の中をよく見回すと、置いてある医療器具や雑誌、ポスターはどこか一昔前みたいだ。がん患者の推移のグラフが書かれているポスターも、最新データが2007年で止まってる。

「ちょっと、待てよ……」
 こういう時は、一度状況を整理して……そう思った時、ガラリとドアが開いた。
 振り向くと、白衣を着た若い男が入り口に立っていた。
「あぁ、気が付いた?」
 彼は俺を見てそう言うと、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。