始まりの日

未来 - 2

2021年4月 雨宮陽生あまみやはるき

 俺、雨宮陽生は、都内指折りの進学校に仕方なく通っている。
 仕方なく、というのは、俺の父方の祖父・雨宮誠一郎が「おまえが高校に行かないんだったら、私はもう生きている意味がない」と和室にあった日本刀を引き抜いたから。元総理大臣のじいさんの言うことは、冗談が冗談でなくなることが多々あったから、その場の勢いで、通うと約束してしまった。
 その高校の、2年7組が俺のクラス。
 俺の机にぐったりとうなだれるクラスメートは、有野和也。入学してからなぜか俺につきまとってくる変な奴だ。
 有野は俺の机全体を占領してうつ伏せになったまま、憔悴しきった顔を俺に向けて、特大級のため息をついた。俺はというと、手元の携帯電話のバイブレーションを無視しながら、冷たい視線を有野に落とした。
 携帯のディスプレイに映し出された名前は「ジジィ」、俺のじいさんだった。どうせ大した用じゃない。
「はぁ……やっぱり、なんか変なものが憑いてるのかなぁ」
 有野はさっきからそんな話を繰り返した。
 鳴り止んだバイブがまた鳴り出したけど、その名前を見てまた無視する。この時間、つまり6時間目の前にじいさんが電話をしてきて、まともな用件だったことがない。はっきり言って、迷惑の一言につきる。
 そんな不機嫌極まりない俺に、有野は泣きそうな顔をして真剣に言う。
「月曜日はチャリでう○こ踏むし、火曜日は近所のガキにガムつけられるし、その次は万引き犯に間違えられるし、昨日は腹痛で早退して家に帰ったら親父が女装してるし、今日は今日でおまえに冷たくされるし。俺、このまま呪い殺されたらどうしようっ」
 バカバカしい。俺は、そういう類は一切信じていないんだ。
「なぁ、なんとか言えよ、雨宮ぁ」
 そんなこと本気で俺に相談されたって、俺に何を言えっつーんだよ。
「知るか」
 そういい捨てながら、3回目のバイブに苛立つ。今度は容赦なく携帯の電源を切ってやった。過去の事例からすると、今日あたりは「ラ・プレシューズ」のモンブランを買って来い、とかいうふざけた頼みに違いない。
「…………おまえに聞いた俺がバカだった」
「今頃気付いたか。おまえがバカだ。バカだからう○こ踏んでガム付けらて万引き犯にされて親父が女装してるんだ。俺には関係ないけど」
 あてつけにそう言ってやると、有野は身を起こして俺を睨んだ。
「あーまーみーやーあ! おまえは優しさという言葉を知らないのか、本当は頭悪いんだろっ」
「はいはい、可愛そうだね。う○こ臭かったね。近所のガキに仕返しするか? 万引きも名誉毀損で告訴するなら弁護士紹介するけど、おまえの女装趣味の親父も弁護士だったな。相談してみろよ。これでいいか?」
 うっ……、と俺の攻撃に有野が言い返せなくなったとき、校内放送を知らせるチャイムが響いた。
『2年7組雨宮陽生さん、至急職員室まで来てください。繰り返します――』
 は? 俺?
「雨宮じゃん。天罰だ。ちょっとぐらい顔と頭がいいからって調子にのるなよ」
「おまえじゃあるまいし」
 そう嫌味を言いながらも、不安が湧き上がった。
 そもそも優秀かつ品行方正な俺に突発的な呼び出しがかかるなんて、ありえない。だとすると、携帯に連絡がとれなくて、じいさんが学校にまで電話してきたのかもしれない。
 さすがに学校にまで電話してくるとなると、普通じゃないよな。何か、あったのか?
 いくら元気っつっても、もう78歳だ。そういえばこの前人間ドックで再検査になったと言っていた。たとえ東京に巨大隕石が落下して地球外生命体がはびこったとしても、人類最後の1人にまで生き延びそうなあのじいさんに限って何かあるわけがない、と思ってたけど。
 嫌な予感がした。

「行って来る」
 俺はそう言って、走り出した。

 俺の両親は、俺が4歳のときに交通事故で死んだらしい。らしい、というのは、俺には両親に関するの記憶がない。目の前でトラックにひかれたのを見たため、精神的ショックが大きすぎて記憶喪失になったのだろうと6歳の時に診療内科医に言われた。
 両親が死んで以来、じいさんが親代わりとなって育ててくれた。俺を育てるために政界から引退したのだと、月本から聞いたことがあった。
 憎らしいときもあるけど、それでも俺にとってはたった一人の家族だ。

「もしもし!?」
 教師に差し出された受話器を耳に押し付けて、叫ぶような声が出た。
 ほんの少しの沈黙。そして、
「ああ、陽生か。どうして携帯に出てくれんのだ……私はそろそろ限界が近いようだ……」
 じいさんらしくない、覇気のない声がした。
「限界って、なに言ってるんだよじいさん!」
「ありがとう、さすが私の孫だ。雅臣まさおみと祥子もきっと喜ぶだろうなぁ」
「おい、俺が行くまで絶対死ぬなよ!」
 そう叫ぶと、電話の奥で小さく押し殺したようなため息が聞こえた。
 そして、じいさんの声が途絶えた。
 まさか……。

 心臓がどくどくと脈打つのがわかった。
 こういう時、人は悪いことしか浮かばないんだ。

 長い、長い沈黙。
 病院の個室で医者に囲まれてベッドの上から俺に最期の電話をかけているじいさんの姿が、リアルに想像できた。

 けれども、その沈黙を破ったのは、電話の奥から聞こえた秘書・月本の声だった。
「雨宮会長、そういう冗談を言っている暇があるんでしたら、さっさと取締役会に出席してください」
 …………は?
 どう考えても病床の人間にかける言葉じゃない、月本の苛立ちを隠そうともしない口調。
 そして、
「ああ、わかってる。あんなくだらん会議の後には、どうしても必要なものがあるんだよ」
 呆然とする俺をよそに、じいさんは月本にそう応えていた。それまでの弱々しい声ではなく、いつものはっきりした声で。
 つまり、これは……。

「というわけで陽生、プレシューズのモンブランを4つ取り置いてもらうように電話しておいたから、帰りに寄っ」

 ガチャッ! と、壊れそうなほど強く受話器を置いた。いや、実際にプラスチックの破片が周囲に飛び散った。

「あんの、くっそジジィ!!!」
 そこが職員室だということを忘れて、その電話に向かって思う存分怒鳴ってやった。
 

2008年4月 尾形澄人おがた すみひと

 左側に夕日に照らされた東京タワーが見える、都心の一等地。
 広い庭だ。金持ちの家ってのは、無駄に広い。しかも周囲は高い塀と木々に囲まれてプライベートは完全に保たれている。
 そして、その内側には手入れの行き届いた日本庭園。春夏秋冬、どの季節にもそれぞれ違った顔を作り出し、いつ見ても完璧な芸術であり続ける、まさに国宝級の庭園、ってわけか。アメリカの日本食レストランにあるような偽物とは比べるのも申し訳ないくらいだな。
 ただ、この素晴らしい庭に、あの物々しいセキュリティシステムはいただけないけど、と死角がないほど設置された監視カメラを眺めた。ま、総理大臣の家なんだから仕方ないか。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと縁側で緑茶を啜った。

 昨日から配属された捜査本部。その事件の、張り込み現場の下見に来た。
 正体不明の何者かに狙われている、この家の住人。住人を守るのは警護課1係の奴らだけど、その何者かを捕まえるのが、俺たち捜査員の仕事だ。
 その捜査員の俺にわざわざ茶なんか出してくれるあたり、いい人なのか、それともいい人を装っているのか。

「尾形さん、ですよね?」
 ふいに背後から声をかけられて振り向くと、この家の持ち主の息子が柔らかい笑みを浮かべて立っていた。
 清潔感あふれる若手代議士、か。誰かが彼を――雨宮雅臣まさおみをそう評したのを思い出した。普通に知り合っていたら「いい人」だと思うんだろうけど、政治家だと知ってるからか、どうにも胡散臭く見えてしまうから不思議だ。
 麻布の名家、父親は総理大臣、死んだ祖父はこの辺りの大地主だった家の跡取りだ。素顔は甘やかされて育ったプライドの塊なんだろうな。
「どうも」
 軽く頭を下げて挨拶をすると、彼はすっと無駄のない動作でその場に正座した。そして、俺が予想すらしていなかったまっすぐな目で、俺を見た。
「父を、よろしくお願いします」
 あれ? 意外だ。まさかそんなことを言われるとは思ってなかった。
「父はああ見えて、本気でこの国の未来を考えているんです。今、父がいなくなるわけには、いかないんです」
 そう言って両手を正座した足の上に置き、深く頭を下げた。
 なるほどね。政治家ってのは、俺が理解できない職業のひとつかもしれない。世のため人のため、それを信条としている人間が、どれだけいるんだろう。
「そんなに、国が大切なんですか」
 そう言うと、ゆっくりと頭を上げた。そして、わずかに寂しそうに笑った。
 どれが、本心なんだろうか。
「大切です」
「へぇ」
 大変だな、政治家も。ちょっといじめてやろう。
「昔、『人命は地球より重い』と言った総理大臣がいたみたいですけど」 ※注釈
 彼はわずかに頬を堅くして、じっと俺を見た。何を考えてるんだろう。
 昔そう言った総理大臣は、人質にとられたのが自分の子供だったら、どうしただろうか。
 家族という近しい存在だからこそ要求を拒否するのか、それとも自分の子供を助けるために凶悪犯を差し出すのか。
 目の前の清潔感あふれる若手代議士は、ふっと小さく息をついた。
「酷いですね」
 呟くように言って、ため息をつく。そして正座をくずし、あぐらをかいた。
 この場から逃げないってことは、俺が思っていた人間像とは、違うかもしれない。
「先日、父が私に言ったんです。事件が落ち着いたら一緒に旅行にでも行こう、と。母が早くに死んで、父はずっと仕事ばかりで、私は物心ついた頃から父との思い出がほとんどないんです」
 庭の、遠くを見てそう言う。本心、なんだろう。
 見えない「テロリスト」に命を狙われる恐怖と、覚悟。それが国のためだと言われるよりも、ずっと説得力のある言葉だと思う。
「たぶん、自分を責めているんでしょう。だから私が小学校の教師を辞めて政治の世界に入ると言ったとき、父は反対したんです。息子に、陽生に同じ思いをさせていいのか、と。その時反対されて、初めて父の後悔を知ったんです。ずっと私よりも仕事が大事なんだと思ってましたから。だから、そんなふうに生きてきた父を、失いたくないんです」
 曇りのない、微笑みだった。
 外から見たら、政治家なんてみんな偽善で票を集めて利権と金のために動いてるんだろうと思ってたけど、そうじゃないのかもしれない。彼らにも家族があって、中にはちゃんと国の将来を考えている人間がいる。少なくとも、今目の前にいるこの男は、そうなんだろう。俺の選挙区だったら、俺はあんたに入れてやるよ。
「雨宮さんも、あなたも狙われてるんですから、気をつけてくださいよ。父親を思う気持ちは、陽生君も一緒なんですから」
 雨宮雅臣はもう一度深く頭を下げた。