unHappy - 3

unHappy Valentine's Day

 今日、2月2日は俺の誕生日。両親が用意してくれたケーキを1人で食べる虚しさに嫌気がさした時、それを見計らったようなタイミングで小包が届いた。

 その箱の差出人名を見て、息が止まりそうになった。

 レイ・アンダーソンって……。
「え、ええ!? 嘘、だろ?」
 ドアが閉まると同時に、思わず声を張り上げた。
 だって、その差出人の欄には、間違いなくレイの名前が書いてあった。しかも、あの達筆で。

 リビングに戻って、包装を丁寧に剥がす。
 オレンジ色のロゴが見えた。
「……携帯?」
 まぎれもなく、携帯電話の箱だった。
 箱を開けると、CMで見たことある一番新しい機種が入っていた。
 何、考えてるんだろ。
 そもそも俺、携帯持ってるし。っていうか、これ通話料誰が払うんだ?
 不審に思いながら電源を入れると、メールが1通届いていた。
 短いメール。
『気が向いたら連絡しろ。誕生日、おめでとう』
 思わず、頬が緩んだ。

 初詣のあの日、結局何も話さずにオフィス街をぶらぶらした。20分くらいしたらレイの携帯に電話がかかってきて、仕事の呼び出しだったらしく、レイはまた何事もなかったかのように、あっさりと地下鉄の階段に消えて行った。
 結局、また名前しかわからいままだった。

 俺のことは知ってるくせに、俺はレイのことを何も知らない。
 連絡先も、仕事も、年も。

 つないだ手の感覚を何日も引きずったまま、レイに会いたくて、何度もベランダを覗いた。
 覗いたところで、いるはずもないんだけど。

 そもそも、男同士なのに、恋愛に発展するのかどうかすら、望みが薄い。
 男の俺から見てもかっこいいんだから、絶対にモテるはずだし。
 っていうか、そもそも年の差ありすぎだろ。どう若く見積もっても、25歳以上だ。俺みたいなガキ、相手にするわけないじゃん。好きだなんて言ったら、絶対に軽蔑される。
 1ヶ月間、ひたすらそうやって自分に言い聞かせて、ようやく諦められた頃、だったのに。

 一瞬嬉しかったけど、困ったような、複雑な気持ちになった。
 叶う見込みのない気持ちが、また俺の中に沸き起こる。

 どうしよう……。
 連絡しろって言ってくれたのは嬉しいけど、もしまた話したり会ったりしたら、俺はまたレイを好きになる。
 好きになって、苦しくなる。

 携帯を握りしめた。
 レイの気持ちが嬉しくて、けど、苦しい。
 それに、わからない。
 レイはどんな思いでこの携帯を送ったんだろ?
 俺と、話したいから?
 また俺をからかいたいから?
 ただの、気まぐれ?

 俺は、レイみたいに大人じゃないから、遊びみたいにレイと話せないと思う。
 またこの前みたいにからかわれたら、痛くて逃げ出しちゃうと思う。

 アドレス帳に登録された、ふたつの番号。
 ひとつは080から始まる。もう一つは、001から始まる、たぶん国際電話。
 どっちかにかければ、レイの声が聞ける。

 でも、今の俺には電話する勇気なんてなかった。

 携帯の電源を切る。
 真っ黒になったディスプレイが、俺の心の中みたいに思えた。

 それから、10日ちょっとが過ぎて、世間はバレンタインデー。
 あちこちでチョコレートを渡したり貰ったりの光景があった。もちろん、俺はその中に入ることもなく、収穫はゼロ。
「カナちゃん、チョコくれるかなぁ。やっぱりくれるよなぁ」
 放課後、昇降口に向かいながらマサシがまたのろけ出した。
「うるさいなぁ……」
「機嫌悪いなあ。おまえも、高校上がったら彼女できるぜ。がんばれ」
 彼女かぁ。
 彼女作れば、レイのこと忘れられるかなぁ。
 結局、俺は毎晩のように携帯を眺めて、電話しようか迷っている。クリスマスイブに女の子に告ったあの勇気が嘘みたいに、今は一歩も踏み出せなかった。
 忘れたつもりでも、携帯が届いただけでまたレイに惹かれている。
「どうしようかな…………」
 思わずポツリと呟いてしまった。
「え? 何?」
「何でもないよ。カナちゃん待ってるんだろ、早く行けよ」
 慌てて取り繕うと、マサシはでれ~っと顔を緩ませた。
「言われなくてもそうするよ。じゃあ、また明日な~」
 そう言って昇降口に走って行くマサシを、ぼんやりと眺めた。カナちゃんは下級生だから、いつも校門で待ち合わせをしてるらしい。
 ひとりになって、ため息が出た。
 ダラダラと階段を降りて、靴を履いて学校を出た。

 だいたい、10日経ってもレイから連絡がないところを見ると、ただの気まぐれだったんだろうな。
 それか、俺からの連絡を待ってるとか……いや、んなわけないか。

「おい! ちょっと、そこのおまえ!」
 重い足を引きずって校門を出たとき、どこかから不機嫌そうな声がした。
 誰か生活指導に呼ばれてるのかな、と思ってなんとなく見回した。
「そうそう、おまえ」
 は?
 門のそばに、目つきのきつい高校生が立ってて、俺を指差していた。
 中学生ばっかりのこの場所で、名門高校のコートをダラリと着た長身の高校生は、異様なほど周囲の視線を集めている。けれどそいつはそんなことお構いなしで、俺に近寄ってきた。
「おまえだよ、さっさと気付けよ」
 俺の前に立つと、イライラしたように俺を見下ろした。
「あ!」
 思い出した! あの時、初詣の時にレイと一緒にいた機嫌悪かった男だ。
「やっと思い出したか。ったく、いい学校通ってるくせに、記憶力悪いよな」
 そいつはそう言いながら、ポケットに突っ込んでいた右手を差し出した。
「携帯返せ」
「は?」
 何、言ってるんだよこいつ。
「レイが、おまえに送った携帯だよ」
 そっか、知ってるんだ。頼まれたのかな、レイに。
 俺が電話しなかったから、レイが怒ったのかかな。

 泣きたくなった。
 なんとか涙をこらえて、うつむいて返事をする。
「家に、あるから」
「あ、そ。じゃぁ送り返して。使わないんだろ?」
 呆れたように上から言う。
「…………」
 使わないんじゃなくて、使えないんだよ。
 そんなこと言ったって、あんたにはわからないだろうけど。
「ったく、そんな顔するくらいなら、さっさと掛ければいいだろ。あいつ、ずっと待ってるんだよ」
 え?
「顔には出さねーけど、いっつも携帯気にしててさぁ。見てるこっちがイライラしてくるんだよ」
 見上げると、さっきのイラついた顔はなくて、困ったように頭をかいていた。
「だから、その気がないんだったら、そう言うふうにちゃんと伝えてやってくんない?」
 その気? その気って……?
 言ってることが、見えそうで見えない。
「え、ちょっと待って、どういうこと?」
 そう聞くと、小さく舌打ちして、当然、とばかりに言う。
「あいつを好きか嫌いかってことに決まってるだろ」
 え………。
「それは、つまり恋愛……って意味で?」
「おまえなぁ、ただの友達なんかに、わざわざ携帯なんかやるか?」
 だいたい通話料誰が払うんだよ、と付け足す。
 言われてみれば、そうだよな。俺の中じゃレイはあまりにも常識外れな人間だから、普通に考えられなかった。
 からかわれてる可能性のが、高いと思ってた。
「っていうか、そういうのってありなの?」
 真面目にそう聞くと、どこか驚いたように俺を見た。
「あいつ、バイだぜ?」
 バイ? バイって、バイセクシャルってやつ……?
 女も男もどっちもオッケーって、いうやつ?

「え、ええええ!?」
 人目もはばからず、思わず大声で叫んでしまった。
「マジで!?」
 あの、レイが?
「……おい、驚きすぎだろ」
「だって、だって……」
 言葉が出てこない。
 すごい驚いた。それと、少しの期待と勇気。

 こいつの言ってることが本当だとしたら、俺の気持ちを伝えることくらい、許されるんじゃない?
 可能性がゼロってことじゃ、ないっていうことだよな?
 
「電話、返さない」
「は?」
「電話返さないから!」
 そう言い放って、走った。
 早くレイの声が聞きたかった。
 駅まで走って、電車に乗って、また駅から家まで走った。
 こんな時は陸上部でよかったって思う。
「ただいまっ!」
 誰もいない家にそう言って、最短ルートで俺の部屋に駆け込んで、即座に机の上に置いたオレンジ色の箱を開けた。
 新品の携帯。
 声が聞きたい。レイと話したい。
 ベッドに座って、震える手で携帯の電源を入れた。
 心臓が、ドクドクと鳴ている。
 呼吸を整えても、その音だけは消えなかった。

 レイが、俺の連絡を待っててくれている。
 そう思うと、たまらなく嬉しくて心臓が跳ね上がった。
 アドレス帳に登録された080から始まる番号を選んで、俺は通話ボタンを押した。

 出て。
 お願い。
 日本にいて。

 無機質なコールが、何回か続く。
 鳴るってことは、日本にいるってこと?
 ドクドクと鳴る心臓の音が同じくらい頭に響く。

 その声は、突然届いた。

『もしもし!?』
 慌てたような、驚いたような声。
『知哉!?』
 声が、出なかった。
 嬉しくて、ほっとして、泣きたくなった。
 俺を待ってたって、わかる声。
 なんでもっと早くこうしなかったんだろう。
「……うん」
 なんとかそれだけ返すと、安心したようなため息が聞こえた。
『よかった……もう、ダメかと思った』
 そんな弱気なこと、言うなよ。
 俺だってどれだけ悩んだと思ってるんだよ。
「そっちから掛けてこいよ」
『それじゃぁ意味ないだろ。俺はよくても、おまえは違うんだろ?』
「違うって、何が?」
『だから、ノーマルなんだろ』
 そういうことか。確かに。
「そうだと思ってたけど……」
 あ……。
 初詣の日、マサシが電話をしている時に聞かれたことを思い出した。
 彼女がほしいのかって、俺に聞いた。あの時の俺の答えは、思いっきり普通の男の発言だよな……。
 もしかして、俺よりもレイのほうがずっと不安だったのかもしれない。
『無理やり俺の一方的な感情で、おまえの人生……まぁ、今はそんな話はいいか』
 レイはそう言って、小さく笑った。
 心地いい沈黙。

『好きだよ、知哉』
 優しい声。
 嬉しくて、涙が出そうだった。

『会いたい』
 胸を締め付けられるような、切ない声。

「……俺も」
 好き。
 今すぐ、会いたい。

「どこにいるの?」
 そう聞くと、少しだけ躊躇うのがわかった。
『あぁ……沖縄』
 沖縄?
『仕事で、沖縄に来てる。こっちは暑いくらいだよ』
 そう言って、寂しそうに笑った。
「いつ東京に帰ってくるの?」
『たぶん、当分帰れない。ここから直接アメリカに戻るから』
 ウソ……会えないんだ……。
「そうなんだ」
 できるだけ明るく言う。俺は子供だけど、だからってレイの負担にはなりたくない。
『だから電話、送ったんだよ。会えないから、その分こうやって話そう。パソコンあればメッセンジャーでもスカイプでもいいし』
 レイの気持ちが嬉しくて、切ない。
 意地悪だけど、本当は優しいんだ。とっくに気付いてたけど。
「うん」
 両思いになっていきなり遠距離恋愛ってのはちょっと悲しいけど、仕方ないよな。
 我がまま言っても、困らせるだけだ。
『そろそろ仕事に戻らないといけないから』
「ごめん、仕事中だったんだ」
『いいよ。日本人ってすぐ謝る』
「ここは謝るだろ、普通」
『俺が電話に出た時点で、問題ないんだよ』
「あ、そっか……」
『じゃあ、また電話するから』
 落ち着いた声。
「うん。またね」

 自分からは切れなくて、携帯を耳に当てたまま待っていると、数秒後に通話が切れた。
 心は暖かいのに、切なさが込み上げてきた。
 レイ気持ちがわかって嬉しいのに、会えないなんて。

 もっと、話したいよ。
 声、聞きたい。

 欲張り、だよな……。
 両思いになったんだから、贅沢言っちゃいけないよな……。

 携帯を机において、深呼吸した。

 レイは大人なんだから俺も大人にならないと、きっと愛想つかされる。
 パシッと両手で頬を叩いて、気分を入れ替えた。
 着替えて、いつもと同じようにテレビ見て宿題済ませて、夕飯を食って、風呂に入った。
 いつレイから電話があってもいいように、携帯を肌身離さず持っていた。
 それから両親が帰ってきて、自分の部屋にこもってベッドに寝転がる。

 かかってこないかもしれない電話を待つのって、辛いんだ……。

 レイは、10日間もこんな気持ちだったのに、ぜんぜん俺を責めなかった。
 やっぱり大人なんだ。
 余裕っていうのかな、そういうの……。
 俺は、レイにつり合う男になれるのかな……。

 気が付いたら、電気をつけたままうとうとしていた。
 目が覚めたのは、聞き慣れない携帯の着信音がしたから。

「はっ!!!!」
 レイからだ!

 しっかりと握ったままの携帯のディスプレイに、レイの名前が出ていた。
 あわてて通話ボタンを押す。
「もしもし!?」
 言ってから、ちょっと後悔した。
 これじゃぁ待ってたのバレバレだろ。
『あれ、寝てた?』
 ……寝てたのもバレてるし。
「ちょっと、うたたねしちゃったみたい」
 目覚まし時計を見ると、11時を過ぎたところだった。いつもならまだ起きている時間。
『ま、お子様だから仕方ないか』
 面白そうにそう言って笑った。
「またそうやって子ども扱いするし」
 言い返しながらも、ちょっと前とは違う余裕が心に残っていた。
 こんなふうに話せることだけで、嬉しかった。
『じゃ、ちょっと外出れる?』
「え?」
『なんか理由作って、外に出ろよ』
「なんで?」
『いいから。マンション出て右側の自販機のところに、いるから』
 え? 今、なんて?
「いる……って?」
『考えてる暇があったら、さっさと降りて来い。時間がないんだよ』
 ちょっと怒ったような口調。
 携帯を握り締めたまま、部屋を出た。
「ちょっとジュース買って来る!」
 そう言って玄関を出て、エレベーターのボタンを押す。
 1階から上がってくるエレベーターの数字をイライラしながら待った。このエレベーターこんなに遅かったっけ?
 たまらずに非常階段に出て、11階から一気に3段飛ばしで駆け下りた。
 ロビーを出て、マンションの右にある自販機に走る。

 花壇のレンガに座る、黒いコートに金髪の外人が、すぐに目に入った。
 タバコをくわえて、寒そうに両手をポケットに突っ込んでいた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」
 肩で息をしながら、レイに歩み寄る。

 俺の気配に気付いて、振り向いた。
 そして、優しく微笑んだ。

「こんばんわ」
 出逢ったときと同じ台詞。

「来るなら来るって……」
 言いかけて、やめた。
 そんなこと言うために、走ってきたんじゃない。

「強行スケジュール。始発便で帰らなきゃならないんだ」
 レイはそう言いながらタバコを携帯灰皿に捨てて、立ち上がった。
 青い目が、綺麗に揺れていた。

 それから、2人で夜の住宅街を散歩した。
 上着を忘れた俺に、レイは着ていたウールのコートを貸してくれた。
 どう考えても大きすぎだけど、心から暖かかった。
「やっぱり東京は寒いな」
「そうだね。沖縄って、何度くらい?」
「日によって違うけど、晴れれば20度以上になるな」
「いいな……」
「今度、一緒に旅行でもしようか。どこ行きたい?」
「え……」
「なに、俺と一緒ならどこでもいい?」
「ち、ちがうよ。急に優しいから、驚いただけだよ」
「俺はいつだって優しいだろ」
「どこが」
 レイは楽しそうに笑った。それから小さな公園に入って、薄暗い街灯の下にあるベンチに座った。
「言いたいことが、あって来たんだ」
 ふいにそう言って、レイは真顔になった。
「俺の仕事のこと」
 仕事って。
「あぁ、正義の味方」
 思わず噴出した。何回聞いても、同じ答え。いくら俺が中学生だからって、そんな話し信じるわけない。
「やっぱり嘘だと思ってるんだろ?」
「当たり前だろ。今時信じるわけねーって」
 けれども、レイは真顔のままスーツの胸ポケットから何かを取り出した。
「映画で、見たことない?」
 そう言いながら長方形の黒い皮製のケースを開く。
「え……?」
 右側にゴールドの複雑な形をした紋章みたいなのと、左側に――。
「F、B、I……?」
 ってブルーの太字でしっかりと書かれている。そして、レイの顔写真がついていた。
 ちょっと待て、FBIって、あのFBI?
「な、正義の味方だろ?」
 そう言って、ニヤリと笑った。
「え、あ、ええ? ちょっと待って、FBIって、映画とか24とかに出てくる」
 信じられない。まさか、そんな人がこんなところにいるわけないし、しかも、つまり俺は付き合うことになったわけだ。
「24はFBIじゃない。CIAの設定だ」
 呆然とする俺に、レイは冷静に言いながらケースを胸ポケットにしまう。
「あ、そうか。じゃなくて、だって、アメリカの警察だろ? なんで日本なんかに」
「本当はFBIは海外で捜査活動しちゃいけないんだ。ちなみにCIAは海外専門なんだけどね。たまたま俺が担当していた事件が日本のヤクザと関係してたから、非公式に来てるだけ。ここ最近は日本に来ることが多かったけど、今回の事件が片付いたら、たぶんそう頻繁には来れなくなる。先週、昇進が決まったんだ」
 何を言おうとしているのか、わかったような気がした。
「お、おめでとう」
 とりあえず、昇進を祝ってみてから、言い方が全然めでたくなかったと反省した。
 けれどもレイは小さく「どうも」と受けこたえてから、真剣な目で俺の顔を覗き込んだ。
「それでも、いいか?」
 頻繁には来れない、つまり会えないけど、いいかって言いたいんだ。
「な、何言ってるんだよっ。今はIT社会なんだから、ネットでいくらでも話せるし、俺は学生で春と夏1ヶ月くらい休みあるから会いに行けるし、全然、平気だよ」
 そう言うと、驚いたように俺を見て、優しく笑った。
 ふわり、と後ろから腕を回されて、レイに引き寄せられた。そしてその手が、コートのポケットに入ってきて、俺の手にかぶさった。
 その手は冷たいけど、心が温められたような気がした。
「かわいいなぁ、知哉」
 あのなぁ、そういうこと言われて喜ぶ男がいるか。
「かわいくない」
「いじめたくなる」
「なんだよそれ。小学生じゃあるまいし」
 また、レイが笑った。
 よく考えたら、ずっとそうだったかもしれない。俺が一方的に怒っていただけで、レイは最後には必ず折れてくれてた。
「あの日、ベランダいたのは、おまえのマンションの隣の住人が今回の事件に関係してるってわかってたから、こっそり入ってみたんだ。そしたらそいつが帰ってきちゃって、仕方なく手すり伝って、知哉の家に移動した」
 ふいにそう言わわれて、一瞬何のことか理解できなかった。でもよく考えると、変なことだらけだ。
「なんか、聞きたいことがたくさんあるんだけど……」
「どうぞ」
 じゃぁ、お言葉に甘えて。
「隣の人って、そんなに悪い奴なの?」
「ははは、そうでもないよ。マネーロンダリングってわかるか?」
「聞いたことはあるけど……」
 よくドラマとかで聞くけど、実際なんなのかは知らない。それを見抜いてか、レイが説明してくれた。
「違法に手に入れた金が見つからないように他人の口座に送金を繰り返したり、株なんかを買って合法的に見せるんだ。隣の人はその手助けをしてるんだよ」
「へ、え……信じられない」
 違法に手に入れた金ってことは、違法なことをしてるってことだよな…そんな犯罪者が隣にいると思うと怖いけど、そいつがいなかったら、俺はレイに会えなかったんだ。
「でも、こっそり入ったってことは、不法侵入じゃないの?」
「まあね。ま、そもそも俺が日本で捜査すること自体、アメリカの法律じゃ違法だから。上の連中もある意味開き直ってるよ」
「結構いい加減なんだ」
「ははは」
「笑い事じゃないだろ。だって、危ないんでしょ?」
 そう言うと、レイは優しい顔をした。
「ああ。この前も、ほら、初詣の時に一緒にいた男、覚えてるか?」
「え、あの目つき悪い奴?」
「もう片方。優しそうなお兄さん」
「あ、覚えてる」
 俺を見て「なるほどね」っていう意味不明のリアクションした人だ。
「あいつがココ撃たれて1ヶ月間入院した」
 うそ……。
 1ヶ月入院って、相当ヤバイんじゃない? それに撃たれたってことは。
「じゃあレイもそういう可能性があるってこと?」
「そうだな」
 レイはそう言ってニヤリと笑ったけど、俺は到底笑える心境じゃなかった。
 そんな危険な仕事……。
 もし、レイが死んだら、どうしよう……。
 そう考えて、レイの手の中で、俺の手が震えた。
 けれども、すぐにぎゅっと強く握り締めらられる。
「大丈夫、俺はそんなヘマしないから。昇進したら現場に出なくなるし」
 優しく俺の顔を覗きこんで言う。自信たっぷりに。
「だいたい、交通事故や癌になる確立の方がよっぽど高いんだ。心配するな」
「そうなの?」
「そうだ」
 当然、とばかりに。
 不安が消えていくのがわかった。
 根拠なんてないけど、レイが言うなら大丈夫なような気がした。
「そろそろ帰らないと、心配する頃かな」
「あ、そうだ」
 言われてハッとした。こんな夜中に出かけたことなんてなかったから、さすがに帰りが遅いと心配するよな。レイに会えたことが嬉しくて、家のことまで頭が回らなかった。
 レイはポケットから手を抜くと、立ち上がった。
 俺はなんとなくそれを見守ったまま、体が動かなかった。
 ここから離れるのが、イヤだった。レイと別れる時間が近づいていると思うと、動けなかった。
 レイはそんな俺を見て、困ったように笑った。
「そんな悲しい顔、するなよ」
 悲しい顔なんてしてるつもりなかったから、慌てて顔を引き締めた。手遅れ、だと思うけど。それからレイは右手を差し出して、綺麗に微笑んだ。
「ジュース買ってこう」
「うん……」
 立ち上がってその右手を取ると、レイは俺のペースに合わせて歩き出した。

 あの日、オフィス街で俺はレイの隣を歩けなかった。
 自分の気持ちが後ろめたくて、レイに何も言えなかった。
 けれども、今はあの時とは違う温かさをレイの手に感じる。
 それが心地よくて、ずっと続けばいいのにと、切なくなる。

「にしてもさ、もっとマシな理由思いつかなかったのか?」
 顔を覗き込んでそう言われ、思わず目をそらした。
「だって、自販機のことが頭から離れなかったから」
「ほんとに単純だよな、おまえ」
 呆れたような、からかうような言い方。
「どうせ俺はレイみたいに大人じゃないし、バカだよ」
 当てつけにそう言うと、レイは面白そうに笑った。
「ま、否定はしないけど」
 ムカつく。
 そう思った時、レイの手が俺から離れた。
「ジュース、買ってやるよ。どうせ財布なんて持ってないんだろ?」
 もう、マンションに着いちゃったんだ……。
「ありがと」
「どういたしまして」
 財布から小銭を取り出して、自販機を眺める。
「何がいい? あ、コーヒーかココアしかないや。ココアでいいな?」
「……ココアで」
 そういい終わらないうちに、ガコン、と音がして、レイが腰をかがめてそれを拾う。
「ほい」
 そう言って俺に渡した。それを受け取りながら、レイを見上げた。
「電話、していい?」
「当たり前だろ。なんのために携帯買ってやったと思ってるんだ」
「いつでも、いい?」
「とにかく掛けろ。できるだけ出るようにするから。出なかったら、仕事中ってこと」
「いつなら、迷惑じゃない?」
「夜、10時過ぎならだいたい平気だ」
 レイは俺の質問に躊躇うことなく平然と答える。俺が、どんな気持ちで聞いてるのかわかってんのかな。
 あんまり聞くと、ウザイって怒るかな。
 でも、やっぱり聞きたいし。
「今度は、いつ会える……?」
 思い切ってそう聞くと、レイはふと考え込んでから。
「春休みって何日から? こっちに来るか?」
「え……」
「さっきそう言っただろう?」
 でも、レイの邪魔になりたくない。仕事だってあるだろうし、俺みたいな子供の相手するのなんて面白くないかもしれない。
「言ったけど、本当にいいの?」
 そう言うと、レイは呆れたようにため息をついた。
「あのなぁ……俺たちはどういう関係? 俺だって、おまえに会いたいんだよ」
「あ…………」
 ふわり、と頭を撫でられた。
 会っちゃいけないんじゃないんだ。
 別れる寂しさに冷たくなりかけてた心が、ほっこりと温まったような気がした。
「ま、チケットは俺が取ってやるから、英語の勉強でもしてスケジュール組んでおけ」
「うん。わかった」
 なんか英語だけものすごく上達しそう。
 レイが俺に会いたいって思っててくれれば、離れてても大丈夫だ。そんなふうに思えた。
「コート、ありがとう」
 脱ぎならそう言って返すと、何も言わずに微笑んだ。それから、それを着て俺の頭をぽん、と叩いた。
「じゃぁ、な」
「また、ね」
 ゆっくりと、ロビーに向かう。
 自動ドアを抜けてから振り返ると、レイが困ったように笑っていた。
 正面のエレベーターはこんな時に限って1階にある。
 ボタンを押して、乗り込んで、レイに手を振った。
 胸が詰まって、はちきれそうになった。

 ドアが閉まる。

 好きだよ。
 絶対に、会いに行くから。