お題SS

捨ててしまえ

 宇佐美哉太うさみ かなたという、なんとも平成生まれらしい名を持つこの男が、伊藤博いとうひろしとういう昭和感が漂う名の自分のことをどう思っているのか、伊藤は知っている。
 例えば、視線を感じて振り向くと、だいたい宇佐美と目が合う。その宇佐美の目は明らかにを帯びている。
 人混みの中、目が悪いくせにいち早く伊藤を見つけ出してしまう。しかも後ろ姿で。
 などなど、他にも伊藤が話しかけると嬉しそうな顔をするとか、伊藤のスケジュールをいやに把握しているとか細々とあるが、極めつけはやはり、宇佐美の携帯の待受画面が伊藤だったことだろう。いや、正確には伊藤の後ろ姿だ。
 それを知った時は、さすがに驚いた。というか驚愕だった。仮にも去年まで大学生だった男が40の上司の後ろ姿を携帯の待受にしているなど、ましてやその40男が自分だなどと、想像もしていなかった。
 けれどそれまでの宇佐美からのある種のアピールにより、多少は伊藤の心に受け止める準備ができていたのだろう。驚きはしたが、嫌悪感はまったくなく、むしろ「可愛いじゃないか」とさえ思ってしまった。

 とはいえ、伊藤は男だ。
 どこからどう見ても、さえない中年男だ。
 6年前に離婚して以来今日まで浮いた話ひとつなく、無趣味で真面目だけが取り柄の中間管理職だ。元妻が「あなたといてもつまらない」と太鼓判を押すほどつまらない男だ。最近の悩みは、目立ち始めた白髪を染めようかどうか迷っていることくらいの、しがない公僕だ。

 それに比べ、宇佐美は温かみのある整った顔とほどよく筋肉の付いた長身で、警察官の制服が自分と同じものなのかと疑うほどよく似合う。しかも人懐っこい性格でよく同僚を笑わせる、いわゆるイケメンと言われるカテゴリーの今時の若者だ。とても女に不自由しているようには思えない。そんな男が伊藤のような人間に思いを寄せるなど、あるわけがない。
 何よりも男同士で何かがあっては困る。いや、そういう趣味の人間がいるということは十分承知しているが、自分が男の恋愛対象になってはならないのだ、というのが伊藤の常識だ。

 そこで、伊藤は「勘違いだ」と思うことにした。
 宇佐美哉太は誰にでも熱っぽい視線を送り、誰にでも嬉しそうな顔をして話しかけ、無作為に選んだ同僚の写真を携帯待受けにする、そういう男なのだと思うことにした。そう思えば、仕事中に見つめられても、突然後ろから話しかけられても、携帯の待受にされても、動揺することなく接することができる。
 41年間妥協ばかりの人生だったせいか、伊藤にとってそう思い込むのは簡単なことだ。

 だから、たまたま後ろを振り返った宇佐美が、何万という人混みの中から50m以上後ろにいる自分を瞬時に見つけ出して目を輝かせた時、思わず伊藤は携帯を見るふりをして気付かなったことにした。
 この距離なら宇佐美は伊藤と目があったとは思っていないはずだ。宇佐美は目が悪いのに仕事以外は裸眼で生活しているから、伊藤がどこを見ていたかまでは識別できていないだろう。
 そう自分に言い聞かせながらディスプレイに視線を落として、この微妙な偶然に対する言い訳を考えた。
 宇佐美の家がこの近所だということは知っていた。伊藤もこの近所に住んでいる。この辺りで初詣と言えば、当然神奈川屈指のこの神社になるはずだ。
 それに、宇佐美とは年末年始の勤務時間がほとんど同じなのだから、初詣が同じ日になってもなんら不思議ではない。
 そう、これは本当にただの偶然、それも宝くじに当たるよりも何万倍も高い確率の偶然にすぎないのだ。

「係長!」
 数メートル先から呼ばれた伊藤は、たった今彼に気付いたかのように、驚いた表情を作って携帯から顔を上げた。
 境内へと向かう大群に逆らって掻き分けるように歩み寄ってくる宇佐美は、正月早々満面の笑みで実にめでたい空気を醸し出している。ようやく伊藤の前にたどり着いた宇佐美は、見慣れた制服姿ではなく、お台場あたりの熱血刑事を真似たかのようなカーキのモッズコート姿だった。
「あけましておめでとうございます」
「おお、おめでとう。おまえもここに来たのか」
 わざとらしくなかったか? 伊藤はそう客観的に自分を観察しながら携帯をコートのポケットにしまう。
「そりゃ、この辺に住んだら初詣はここしかないですよ」
「昨日も一昨日もこの辺にいたのによく来るな」
 何を隠そう、伊藤と宇佐美の職場はここから歩いて数分の距離にある警察署だ。この人混みを見ていたのによく来ようと思ったな、と自分を棚に上げて不思議に思う。
「係長も同じじゃないですか。俺はおみくじ引きに来たんです」
 人懐っこい顔で言って伊藤に並んで歩く宇佐美をチラリと見上げた。
「ふーん。1人で?」
「はい。こっちに友達いないんで」
 そういえば宇佐美は富山出身だったな、と思い出す。大学も富山のため、こっちには仕事関係の知り合いしかいないのだろう。
「そうか。おまえこっち来て初めての年越しだよな」
「そうなんですよ。こんなにたくさんの人がこの神社に来るなんて知りませんでした。テレビで見たことありますけど、なんだか壮観ですよね」
 言いながら、伊藤よりも26cm高い位置から、境内へと続く大量の人の流れを見渡す。伊藤からは周囲20人程度の頭しか見えないが。
「ま、おかげでこっちは大晦日も三ヶ日も大忙しだ。おまえは初めての年越しだから帰省させてやりたかったのに」
「ありがとうございます。でも俺は初めてのことばっかりなんで楽しいですよ。こうやって係長と初詣もできますし」
 ニカッと冗談めかして笑う宇佐美を見上げて、その軽いジャブに小さな反撃をした。
「おまえ、その年で上司と初詣してどうするんだよ。若いんだから彼女作ればいいだろ」
「でも、告白しても絶対に振られるんですよ、俺。好きな人と付き合ったことないですし」
 宇佐美はいつものテンションで困り顔を作って、おそらく本当のことを言う。伊藤はいつものようにその「大げさな謙遜」を茶化して、宇佐美の気持ちには気付いていないふりをした。
「新年早々盛大な嘘をつくな。おみくじで大凶を引け」
「ホントですって。あ、そしたら係長も一緒におみくじ引きましょうよ。お互い今年前厄ですよね?」
「おう、俺はこう見えてもくじ運はいいんだ。負けねーぞ」
「いやいや、勝負じゃないですから」
 そう笑った宇佐美の顔があまりにも嬉しそうで思わず頬が緩みそうになったが、伊藤は奥歯を噛んでごまかした。

 

 伊藤は小さく溜め息をついて、椅子の背に体重を預けた。
 デスク上の資料の山とひと昔前の分厚いノートパソコンを眺めて、うんざりと溜め息を吐き出す。警察官の仕事の半分は書類作成だ。現場での捜査が長引いたり当事者がゴネたりすれば、それだけ書類作成の時間がなくなり、結果、今日のように残業せざるをえなくなる。
 伊藤の所属する交通課は24時間営業のため、残業をしているという感覚が薄くなってしまうのも、残業が長引く原因かもしれないが。
(夜勤明けは特にひどいな………)
 そんなことをぼんやりと考えてながら、椅子をくるりと回転させて登りきった朝日を眺めていると、電話をしていたスーツ姿の部下が受話器を置いて伊藤を呼んだ。
「係長、八幡宮前の目撃者捜し行ってきます」
「ああ。よろしく」
 上半身だけ振り返ってこたえると、残っていた1人を連れて出ていった。
 複数の部署がこのフロアにあるが、伊藤のいる交通課交通捜査係は伊藤だけになってしまった。そろそろ帰ろうと思っていたが、もうしばらく帰れそうにない。
 伊藤は誰もいないオフィスを眺めながら、おもむろにデスクの上から使い古した革の財布を手にとった。そしてカード入れから小さく折りたたんだ紙を出して広げる。
 縦長の、裏の指が透ける紙には堂々と「大凶」の文字が印字されていた。
 大吉を引いいた宇佐美には、この神社は凶が多いことで有名だと慰められたが、さすがに十数年ぶりに引いたおみくじが大凶とは、新年早々どうにも後味が悪い。さっさと木に結ぼうと思ったが、その下の運勢を読んで、持ち帰ることにしたのだ。
 ちなみに、帰りに「大凶を引いたら甘酒1杯無料」という看板を見つけて、大凶なのに幸運だったというなんとも矛盾に満ちた初詣となった。
 伊藤はもともと占いやジンクスを信じるタイプではない。甘酒を飲みながら、ますますそれを確信したはずだったのに。
(ま、俺もたいがい乙女だな)
 大凶よろしく容赦なく不遇な運勢がつらつらと書き連ねられたおみくじに、たった1つだけ記された幸運―――『良縁すぐそこにあり待てば整う』
 だったら、もしこのおみくじが当たったあかつきには、その流れに身を任せてやろう。そう思って持ち帰ったわけだが、その何の根拠もない予言に、もう3ヶ月もすがっている自分にひどく呆れる。いいかげんにしろ、と。

 あの初詣から宇佐美との関係は何も変わっていない。視線を感じて振り向けば宇佐美と目が合い、人混みの中で何度も宇佐美に呼び止められ、宇佐美の携帯の待受は相変わらず伊藤の後ろ姿だ。
 変わらないのだ。3ヶ月も経つのに、何も。
(捨てちまえばいいのに…………)
 目の前にかざした薄い紙切れを、指先でパシッと弾いた。
 捨てられないのはこの紙切れではなく、この紙切れに掛ける願だということは分かっている。分かっていても、捨ててしまえばすべてが終わってしまうような気がした。
 掛けた願を捨てるほどの勇気もなく、かといって自分から動くこともできない。
 だから伊藤は、この予言が外れた言い訳を考える。
 これはただの100円の紙切れだ。伊藤が大凶を引いたのも宇佐美が大吉を引いたのも、単なる確率の問題で、例えば5人いる容疑者の中からくじ引きで真犯人を決めるような馬鹿げた遊びだ。
 だいたい大凶のくせに縁談だけが大吉並なのが信用ならない。酒臭いのに飲んでないと言い張る悪質ドライバーのようだ。
「良縁すぐそこにあり待てば整う………わけねーだろ、男相手に」
 小さく呟いて、縦長の紙を小さく折りたたみ―――――、

「っ!!」

 顔を上げた瞬間、伊藤の全身がこわばった。
 数歩先に伊藤を凝視する宇佐美がいたのだ。

 まずい――――と思った。

 誰にも、もちろん本人にも知られたくない、自分でさえも認めたくない感情を知られたことが。万が一の確率にすがってしまう葛藤を知られてしまったことが、ただ「まずい」と思った。

 宇佐美哉太はゆっくりと、足元を確かめるように歩み寄る。
 伊藤を捉えて離さないその目には小さな、けれども確かな期待が宿っていた。