お題SS

ラブレター

 その筆跡に、郵便受けの前で立ち尽くした。

 汚いけれど丁寧に書いただろう俺の名前は、中央に堂々と居座っている。けれども長い住所は下の方に行くほど、スペースが足りずに小さくなっていた。
 その白い封筒を裏返すと、確かに「鳴海 健なるみ たける」と書かれていた。

 咄嗟にその封筒を握り締めて、柄にもなく全速力で走った。
 この後の約束も忘れて。
 あまりにも突然で、あまりにも無責任で、あまりにも、俺の心を揺さぶるから。

 就職活動のために買ったばかりの革靴の中で靴擦れが痛んだ。
 リクルートスーツで全力疾走する俺は、すれ違う人から見たら「第一志望の会社の最終面接に遅刻しそうな就活中の学生」に見えるかもしれない。
 けれど、今の俺は第一志望の会社の面接があったとしても、絶対にこの手に握り締めている封筒を最優先にする。

 住宅街を抜けて、早朝の駅前商店街を真っ直ぐ突っ切って、線路の向こう側にあるタケルの家にたどり着く。
「おばさん、タケルの部屋借りるね!」
 と一方的に言って勝手に上がって、2階のタケルの部屋に駆け込んで、鍵をかけた。

 4年前まで足の踏み場もなかった南向きの部屋は、今はきれいに片付いている。けれども、4年前と変わらずタケルの匂いがした。
 その空気を深く吸って呼吸を整えながら、ネクタイを緩めてスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。
 それから壁際のベッドに座って、握り締めてぐしゃぐしゃになってしまった封筒を丁寧に足の上で伸ばした。
 衝動的とはいえ、もう少し丁寧に扱えばよかったなんて後悔する。

 そして、ゆっくり、できるだけ綺麗に封筒の端をちぎって、便箋を取り出した。
 震える手で便箋を開くと、懐かしい汚い字が並んでいた。

 

 こう

 元気でやってるか?
 この手紙が届く頃には、恒はもう社会人かな。それとも、大学院に進んで、就職活動中かな。
 俺は、灰になって長野の墓の中で、死んだじぃちゃんと将棋でもしてると思う。

 将来の恒のことを考えてると、けっこう楽しいんだ。
 俺がいなくなったって、たぶん恒はいつもと変わらず、淡々と過ごしているんだろうな。先輩にも容赦なく毒吐いて敵作って、それなのになぜか大物には気に入られるんだよな。
 恒はただのサラリーマンじゃ終わらないと思うよ。絶対に。ダークスーツのバリバリのエリートっていうの、今からでもリアルに想像できる。
 そう言えば、俺の姉ちゃんの結婚式でスーツ着てたっけ。あれ、マジでカッコよかった。今だから言うけど、あの時姉ちゃんの友達に紹介しろって脅迫されて大変だったんだよ。もちろんぜんぶ断ったけど。
 って、こんなこと言うために手紙書いてるんじゃないんだ。

 恒、小学校でおまえと同じクラスになって、腐れ縁で同じ中学に入って、卒業式に付き合うことになって、それから高校での3年間、おまえと過ごした時間は、俺の中で本当に綺麗に輝いてるんだ。
 俺の人生さ、去年見た花火大会のエンディングみたいに、ずっとクライマックスだった。って、ちょっとクサイか。
 でも、一番好きな奴に愛されながら死ぬなんて、この年でそうそうないだろ?
 俺って幸せ者だよ。
 だから、たぶん俺なんかよりも残された恒の方が辛いと思うんだ。
 もし立場が逆だったら、俺は恒を忘れて新しい恋人なんて作る気になれないと思うし。

 でもさ、恒が俺よりもずっと大事な人と、もっと長く一緒にいられることを、心から願っている。
 だから俺じゃない誰かを好きになって、夢中になったっていいんだ。
 俺のことは忘れてもいい。あ、いや、年に1回、命日くらいは思い出してほしいけど。

 こんな恥かしいこと、面と向かって言えないから手紙にしてみたけど、死ぬとはいえやっぱり恥かしいよな。
 生きてるうちにはさすがに渡せないから、死んでから届くようにするよ。
 死ぬ気になればなんでもできるって言うけど、そんな単純じゃねーんだな。

 なぁ、恒。
 幸せになれよ。

 誰よりも、俺よりも、幸せになれ。

「ったく…………なんつータイミングだよ…………」

 死んでからもう4年半も経っている。
 それなのに俺を見てるみたいで。今の俺の心を見透かしてるみたいで。
 意外な鋭さに驚いて、感心して、そういう相変わらずのタケルらしさに触れて、嬉しくなった。

 詰めていた呼吸をふぅっと吐き出したその時、ワイシャツの胸ポケットの中で携帯が震えた。
 まさか、と思う。
 こういう予感は当たる。
 思った通り、ディスプレイにはアイツの名前が出ていた。

 なぁ、タケル。この絶妙なタイミングもおまえの仕業か?
 そう俺に問いかけられて、「すげーだろ」と自慢げに笑うタケルの顔が浮かんだ。

「もしもし?」
『恒!? おまえどこにいるんだよ!』
 世話好きなアイツの声に、なぜかホッとした。
「あぁ悪い。ちょっと急用ができて。あと1時間くらいで行くよ」
『だったらメールくらいしろよなー。さっきから何度もメールも電話もしてるんだからさぁ』
 何度も? ぜんぜん気付かなかった。
「ごめんごめん、先に入っててよ。着いたらメールするから」
 そう言うと、電話の向こうで少し戸惑うような空気が伝わってきた。
『………何かあったのか?』
「え?」
 思わず、声がうわずった。こいつも意外と鋭いところがある。
 タケルと同じで、俺のこととなると別人みたいに頭の回転が速くなる。
『いや、おまえが謝るなんておかしいだろ。しかも2回も』
 真剣にそんなことを言う。失礼なヤツだ。
「どういう意味だよ」
 少し凄んでみせると、すぐに笑ってごまかす声が返ってきた。
『ははは。落ち込んでるなら、いつでも俺の胸に飛び込んで来い。心も体も受け止めてやるよ』
 芝居めいた口調でいつもみたいに俺を口説く。
 こんな軽い言葉にさえ心拍数が上がるようになったのは、いつからだったろうか。
 そのたびに、自分を戒めるようになったのは。
「ばーか」
 それを気付かれないように、いつものように憎まれ口を残して電話を切った。

 もう一度、左手にある手紙を眺めた。

 手紙の最後に添えた日付は、タケルがこの世からいなくなる2週間前。
 もうすぐ死ぬなんて信じられないくらい元気で、病院が似合わないなんて話をしていた。
 あんな時に、おまえは4年後の俺を想像して、こんな手紙書こうなんて考えたのか。
 悔しいけど、今の俺はタケルが想像した通りだよ。

 この4年で、日に日にタケルのことを忘れていく自分が怖かった。
 タケルのことを考えずにいる日が増えて、ふと思い出した瞬間に忘れていたと気づく回数が増えて、そんな自分を許せなかった。
 それなのに…………。

 なぁ、タケル。
 やっぱり、俺にはタケルを忘れるなんてことはできない。

 でも、おまえより幸せになれるような気がするよ。

 だから。

 そっと、手紙と携帯を握りしめた。