お題SS

幸せの絶頂

お題SS [ラブレター] の2人の話です。
先に [ラブレター] を読んでいただいたほうがいいかも。
あと、タイトルとはかけ離れた悲しい話ですので、幸せな話をご希望の方にはお薦めしません。

 もうすぐ春がくる。
 タケルが入院してから、2回目の春だ。

 春は、嫌いだ。

 世間は人も動物も植物もみんな浮かれていて、俺たちの事情なんてまるで関係なくて、永遠でもない別れとか新しい出会いとか、そんなものに一喜一憂して。
 バカみたいだ。
 大学病院のまだ三分咲きの桜を睨みつけながら、レミオロメンが流れ出したヘッドフォンを外して、この1年半ほとんど毎日通っている病棟の6階に向かった。

「コウ君、いらっしゃい」
「こんにちは」
 いつもどおり声をかけてくる顔見知りの医者や看護師たちへの挨拶を、不機嫌に固まった顔をほぐすリハビリ代わりにする。1年半の病院通いで、ナースステーションにいる看護師とは、挨拶をしないと怪しまれるくらい親しくなった。
 ナースステーションは、タケルの同室の入院患者が入れ替わっても、病室も何回変わっても、ずっと変わらず同じ場所にいる。
 容赦なく過ぎて行く時間の中、俺にはそれが結構救いだったりもする。

「タケル、ジャンプ持ってきたぞ」
 いつも通りの笑顔で病室のドアを開けた。
 今は2度目の個室だ。
「おー、サンキュー! 今度は誰のヤツ?」
 上半身を起こして漫画を読んでいたタケルが、顔を挙げて元気に笑った。ここのところ、入院するほどの病気を抱えているなんて思えないほど顔色がいい。
 このまま奇跡が起きて退院できるんじゃないかと錯覚しそうになってしまうくらい。
「今日は小宮山の。明日取りに来るっつってた」
 最新のジャンプを渡すと、タケルは読んでいた本をテーブルに伏せて受け取る。
「は? 返却希望? ジャンプって読み捨てじゃねーのかよ」
「近所の小学生にあげるらしいよ。最近餌付けしてるみてぇ」
「ははは、あいつ小学生になにさせようとしてんだよ」
「さぁ。犯罪スレスレのくだらねぇことってのは分かるけどね」
「間違いねー!」
 けれど、俺はそれを小宮山が見舞いに来るための口実だと思っていた。ただの見舞いだと、タケルが気を使うから。
 たぶんタケルもそれを感じているけど、気付かないふりをしていたんだと思う。

 それから俺たちはいつも、学校のこととか漫画やプロ野球とかの他愛のない話をしたり、DSで遊んだり、ただ黙々と漫画を読みまわしたりして短い時間を過ごす。
 場所が変わっただけで、することはタケルが入院する前と何も変わっていない。
 けれどその日、タケルが珍しくこんなことを言った。

「コウが幸せ感じる瞬間ってどういう時?」
「はぁ? なんだよ急に」
 タケルは根っからの体育会系というか、野球バカで単純でお調子者だから、そんな真面目なこと突然聞かれて驚いた。
 そんなこと、コイツに言えるわけがない。
「いや、この前テレビでインタビューしてたからさ」
「そんなんすぐには出て来ねぇよ」
 と言いつつ俺の頭には、「幸せ」という単語とまるで対になっていたように、3年前の夏祭りの花火大会の光景が浮かんでいた。

 打ち上げ花火のみぞおちを揺らすような音の中、タケルが俺に好きだと言った、あの瞬間だ。
 それまで俺は男同士ということが、障害でも試練でもなく、宿命だと思っていた。誰にもどうすることのできない、諦めるしかない宿命だと。
 けれどもあの花火大会で感情を抑えきれなくなった俺を待っていたのは、信じられないくらい都合のいい奇跡だった。
 タケルが俺と同じ気持ちだったことに心の底から驚き、理解するのに少し時間がかかった。それでもタケルは俺を見つめて、同じ言葉を何度も何度も繰り返した。
 タケルの照れ笑いや、声や、つないだ手のひらの温度を確かめるたびに心が震え、俺の角張った心が隅々まで満たされていくのが分かった。
 嬉しさに溢ふれてくる涙を、必死にこらえていた。

「あー、あれだ、風呂上がりのコーラ」
 適当にごまかすと、タケルは冗談を聞いたように笑った。
「ははは、それ小っちゃすぎだろ。ま、確かにあれはウマいけどな~」
「そうゆうおまえはどうなんだよ」
 この時の俺は、タケルのことを知りたいというよりも、恥ずかしくて俺の話はしたくないという思いの方が強かった。
 だからタケルの深刻な病状なんて考えてなかったし、タケルの言葉を受け止める準備なんてなかった。

「おまえさ、いつも帰る時に明日は来るとか来れないとか、次はいつ来るとか言ってくじゃん。あれ聞くと俺ってすっげぇ幸せ者だな~って思うんだよ」
 どこか嬉しそうに、愛おしそうに俺を見る。
 い、いやちょっと待て、愛おしそうって何考えてるんだ俺は。自惚れにもほどがあるだろっ。
 恥ずかしさに顔が熱くなるのがわかった。
「な、何言ってるんだよ。そんなの別に大したことじゃねーだろ」
 あわててその熱さを早口でごまかす。けれどもタケルは、優しく笑って続けた。
「いやマジでさ。入院したばっかりの頃はコウが帰る時間になると寂しくて名残惜しくて嫌だったんだけど、ここ最近はさ、明日来るなら明日までは絶対元気でいなきゃとか、明後日なら明後日まではって思うんだよ」

 タケルの病巣の深刻さを思い出した。
 最近の顔色のよさは抗がん剤治療を中断しているからというだけで、この瞬間にも病気は確実にタケルの命を削り取っているということを、思い出した。
 俺がずっと目をそらしたいと思っていた現実だ。

「ほら、前に俺ICUに入ったことあるだろ。あそこっておまえ中に入れねーじゃん。あん時ICUのガラスの外でおまえがすっげぇ悲しい顔してるの見てさ、あんな顔もう見たくねぇって思ったんだよ。だから俺が死ぬ時は、ぽっくり死ぬことに決めたんだ」
「おまえ、なに言って――――」
 思わず身を乗り出して声を上げたけれど、タケルは俺を遮って真剣に言った。
「ICUに入ってまたおまえのあんな顔見るくらいだったら、この病室で夜寝て翌朝起きなかったくらいの方がいいだろ」
「…………………」

 ムカついた。
 俺のせいにするのが気に入らなかった。
 違う―――俺のため、というのが気に入らなかった。

 勝手に俺の価値観を決め付けるな。

 死ぬ話なんてしてほしくない。
 死に方の話なんて、聞きたくない。
 タケルが俺の前から消えるなんて、そんな覚悟できるわけがないし、したくもない。

「俺は、おまえにはギリギリまで生きていてほしい」
 おまえがもう限界だって思うまで。

 それは、俺がタケルに言ったただ一つの願いだった。

 タケルは、少し照れたように優しく笑った。
「サンキュ。俺も好きだよ」
「―――なっ、『も』ってなんだよ、俺はそんなこと一言も言ってねーだろ!」
「うん。でも、そう聞こえた」
 な、なんでそうなる…………。
「…………幻聴が出てるって溝端先生に報告してやる」
 羞恥に顔が熱くなるのを必死で押さえながら、できるだけ冷静に装って厭味を返す。
「うわ! おまえ絶対今俺のこと好きだって思ってたくせに素直じゃねーなー」
「お、思ってねーよ! 自惚れんなっ」
 というかこれはもう無理だ。ここにいたらカッコ悪いところばかりをタケルに見られる。
 いつもより少し早いけれど、荷物を持って立ち上がった。
「………そろそろ帰るわ。ジャンプ返すんだから汚すなよ」
 できるだけ普通に、いつもどおり言うと、タケルもいつもどおり「おう」と返事をする。
「わかってるって。気を付けてな」
「じゃあな」
 タケルに背を向けて、早足で病室を出た。

 俺はその時、次はいつ来るのかを言わなかった。
 あんな話をされた直後に、恥ずかしくて言えるわけがない。
 けれど廊下を歩きながら、エレベーターのボタンを押しながら、エントランスの自動ドアをくぐりながら、後悔していた。
 その後悔に気付かないふりをして、歩を進める。

 だいたい大袈裟なんだよ。
 俺の帰り際の一言で元気でいなきゃって、なんだよそれ。こんなことで幸せ感じるって、おまえこそ小さすぎる。
 俺のためじゃねーだろ。おまえのためだろ。
 おまえが、自分のために元気でいないでどうするんだよ。
 おまえが、俺と一緒にいたいって言えよ。

 けれど病院の外に出て少し落ち着くと、言いようのない不安が俺を襲った。

 タケルは、今どう思っているんだろう?
 俺が来ることを生きる力にしているのなら、がっかりしているかもしれない。
 途方に暮れているかもしれない。
 あんなこと話さなければよかったと、後悔しているかもしれない。

 明日はもう、タケルが待っていないかもしれない―――――。

 心臓を踏みつぶすような圧力に、息苦しくなった。
 その痛みを振り払って、病院のエレベーターホールへ走った。2台あるエレベーターが両方とも上層階にいるのを見て、たまらずに階段を駆け上がる。
 すれ違った看護師に注意されるのもかまわず、6階の病室まで一気に登った。このあと誰に叱られたっていい。とにかく1分でも1秒でも早くタケルに伝えなきゃいけないと思った。
 ナースセンターの前を駆け抜け、あがった息を必死で整えながら病室のドアを開けた。

「言い忘れたけどっ、明日も来るから!」
 荒い呼吸のまま叫ぶような声で言うと、タケルが驚いた顔で俺を見た。
 それからすぐに、ニカッとタケルらしく笑って、「ああ」とだけ言う。その顔を見て、俺の気持ちがタケルに伝わったんだと分かって、それが恥ずかしくてまた自分の顔が赤くなるのがわかった。
 だから、ドアを閉めるのと同時に、怒鳴るように、
「あとっ、俺は中3の8月20日20時前後だから!」
 伝わらないかもしれないあの花火大会の日時を言い置いて、一気に階段を駆け降りた。

 走ったからなのか恥ずかしいからなのか区別のつかない顔の熱さと心臓の鼓動を感じながら、1階のエレベーターの前で足をゆるめた。
 呼吸を整えて、エントランスの自動ドアを通り抜けながら、俺の不安がさっきとほとんど変わっていないことに気付いて、唇を噛んだ。
 結局、俺が何を言っても言わなくても、 俺が来ても来なくても、タケルに奇跡は起こらない。
 明日タケルは、あのベッドにいるかもしれないし、いないかもしれない。

 けれど、それは俺が何もしない理由にはならない。
 そう何度も、何度も言い聞かせる。

 三分咲きの桜を見上げながら耳にあてたヘッドフォンからは、アンジェ・アキの「手紙」が聞こえてきた。
 涙をこらえて、不安に押しつぶされそうな心を必死でつなぎとめた。

 何年後かの俺は、幸せだったと言えるようになっているんだろうか――――。