短編

想い出

 最初に彼を見たのは、冬の湘南海岸。
 ランニングする姿は、月明かりに照らされていて、綺麗だった。
 次に彼を見たのは、高校の入学式。
 式の終わった体育館で、ひとり、黙々とバスケットボールの練習をしていた。
 ゴールを見据える、まっすぐな眼が、印象的だった。

「先輩、勝負」
 夏休みの夜。
 二人きりの体育館。
 部活が終わってからも、いつも夜遅くまで残って練習する先輩。
 俺はいつもの決心をして、いつもの言葉を言う。
 夏休みに入ってから、もう5回目だ。
 先輩は振り向きもせずに面倒くさそうに、
「ああ? また?」
 それから、スッとゴールを見据え、3ポイントシュートをする。
 ボールは計算されたように放物線を描いて、シュッ、と静かにリングを抜け落ちた。
 初めて見た時は、鳥肌が立った。
 どれだけ練習すれば、こんなシュートができるんだろう。
「ナイッシュー」
 お決まりの言葉を言うと、先輩は表情ひとつ変えずに、
「そうか?」
 と言う。
 どこか不満なところでもあったのかもしれない。でも、俺にとってはあまりにもレベルが高すぎてわからなかった。
 少し、悔しいね。
「勝負しましょーよー」
 だらけた調子で言いながら床に落ちたボールを拾って、俺も先輩と同じ場所からシュートした。
 ガコッ、と間の抜けた音がして、ボールは俺の元へと戻ってきた。
「だっせぇ」
 しらけた感じで言われて、ちょっとむっとした。
 インターハイを賑わすような全国区の選手に言われちゃ、身も蓋もない。
「すみませんねぇ。俺こう見えても、バスケ歴4ヶ月なんで」
「はは。バスケ歴9年の俺と勝負しようなんて、100万年はえーよ」
 からっとした笑顔で、先輩は言った。
「100万って、俺もう生きてないっすよ」
「俺も生きてない」
「じゃ、今のうちに勝負しときましょーよ」
 そう言うと、先輩はまた笑った。

 俺は、その笑顔を見る度に、自分の気持ちが強くなるのを感じる。
 先輩が好きなんだと、容赦ないくらいに、感じる。
 一瞬、先輩も俺を好きなんじゃないかと。
 自惚れかもしれないけれど、それだけで幸せな気分になる。

「ということで、記念すべき5回目の勝負を」
 そう言うと、先輩は少し驚いて、
「へえ。ってことは、今日で5勝目ってわけね」
 う……。
「それを言われると、さすがの俺も落ち込むんで」
 わざとらしく傷付いた風に言うと、先輩は、また笑った。

 いつも、真剣勝負だ。
 先輩は、バスケ歴4ヶ月の俺が相手でも、決して手を抜かない。
 俺は、いつも1点もとれないまま、負けてしまう。
 けれども、汗をかいて、先輩との唯一のつなぎ目のバスケをするこの時間が好きだ。
 
 3ゴール先取で勝負がつくワン・オン・ワン。
 もう暗黙の了解で、俺の先攻で始まる。
 俺は、慎重にドリブルでゴール下へ行く。
 けれども先輩のディフェンスは隙がないから、俺は結局ムリなシュートをして外す。
 それから、俺よりも12cm背の高い先輩のリバウンドに負けて、1ゴールとられる。
「おまえ、せっかくいいシュートフォーム持ってんだから、ちゃんと見計らって打てよ」
 Tシャツの裾をめくり上げて汗を拭いながら、先輩は俺に何度目かのアドバイスをした。
「そんな事できたらとっくにやってますよ」
 半ばムキになって俺は言い返す。
「ほら、俺のよく見てろよ」
 そう言って、先輩の攻撃が始まる。
 ドリブルをする先輩に俺がディフェンスにつくと、目が合う。

 意志の強いまっすぐな目は、俺を捕らえて放さない。
 俺だけを見ている。
 
 心臓が高鳴る。

 先輩の目が俺の右側へ動いて、ダムッ、と急にドリブルが速くなった。
 バッと俺が右に足を踏み出した瞬間、先輩は俺の左側を風のような速さで通り抜けて、綺麗なレイアップを決めた。

 くそ、これ前もやられたような気がする。
 相手にもされてないような気がして、なんかムカつくんだよな。

「騙した」
 当て付けにそう言うと、先輩はムッとしたように、俺にボールをよこす。
「テクニックと言って欲しいね。おまえだってフェイクぐらいするだろ」
「やるのと守るのは違うんですよ」
「それは俺も同感だね」
 言われて、ふと気が付いた。
 先輩にとっても、ディフェンスのが難しいってこと?
 だったら、俺がやったことのないフェイクを入れたら?

「先輩、1ゴールとれたら、ご褒美くれますか?」
 これが、俺の決心。
「あ? ご褒美?」
 先輩は一瞬怪訝な顔をして、それからニヤッと笑う。
「ま、所詮俺に勝てっこないし。なんでも言えよ」
 う~ん、自信過剰っぽいところも、好きだな。
「なんでも、きいて下さいよ?」
 俺はそう念を押して、位置に付いた。

 勝ったら、告白する。
 いつも、そう心に決めていた。

 全身が緊張する。
 この賭けみたいな1回の勝負が、すべてを決めるような気がした。

 先輩にパスすると、キレのいいパスが返ってきた。
 先輩は、さっきよりもきついディフェンスで俺にはりつく。
 ボールがバウンドする音と、バッシュのキュッと鳴る音が体育館に響く。
 神経を集中させた。
 じりじりとドリブルをしながら、ゴールへ近付く。
 
 チャンスは1回。
 先輩には、一度見せたらもう同じ手はきかない。

 その瞬間を、俺は狙った。
 左へのフェイクを入れ、シュートすると見せかけ、先輩の左を抜けた。
 目の前にあった厚い壁がいなくなって、俺は練習の時みたいにシュートする。
 ボールがきれいな放物線を描いてリングへと向かった。

「入れ――――!」
 思わず叫んでいた。
 まるでこれが最後のチャンスみたいに、手に汗が滲む。

 ボールは、赤いリングに当たって、リングの縁を遊ぶように回る。
 それから、気を変えたように、ゆっくりと外側に落ちた。

「あ……」

 ぽつり、掠れた声が出た。

 無性に泣きたくなった。

 何か大きな存在に、否定されたような気がした。
 俺のこの思いは、わざわざ本人に言うまでもなく、叶わないものなんだと言われたような気がした。
 急に夢から現実に引き戻されたような、そんな虚しさだった。

「おしーぃっ」
 背後で、先輩の悔しそうな声がした。
「おまえ、よくあんなフェイク入れられたな。バスケ歴4ヶ月のプレーじゃねーよ」
 がっくりする俺の肩を、明るく叩く。
 けれども、それがかえって俺に現実を突き付けた。

 なんだ。
 結局ダメなんじゃん。
 先輩に告白するって決めたのに。
 5回も決心しておいて、全部ムダだったってわけじゃん。
 なんで、気付かなかったんだろう。

 一瞬でも、先輩が俺の事を好きなんじゃないかとか、もしかしたら叶うかもなんて思ったけど、そんなことあるわけないのに。
 男同士でそんなことあるわけないのに。
 なんでそんな事に、気付かなかったんだろう。

「水沢……?」

 俯いたままの俺を、先輩は心配そうに呼んだ。
 ズキン、と心を刺した。

 俺はその痛みをかき消すように、むりやり笑顔を作って顔をあげた。
「あ~あ、入ったと思ったのにな~」
 先輩は、戸惑うように眉を寄せる。
 でも、俺はかまわずに先輩に背を向けた。
「こう、ボールにもフェイクされたって感じ? あ、俺ウマイ。座布団一枚ってね」
 適当に言って、体育館の出口へ向かった。

 頼むから、ついてこないで。
 俺の顔を見ないで。

「俺、先に帰ってますね。明日数学の補習あるんすよ」
 少しだけ、声が震えた。
 そのまま開けっ放しのドアを抜けて、先輩から見えなくなると走って部室へ戻った。

 誰もいない部室は、すっかり暗くなっていた。けれども電気をつける気にはなれなず、そのまま隅にあるベンチに仰向けに寝転んだ。

 くそ、なんでこんなに苦しいんだよ。
 たかがワン・オン・ワンに負けたくらいで。
 今まで何度も負けてたのに、なんで、今更こんなにも悔しいんだよ。
 痛いんだよ。

 涙が、目の端から溢れ出た。
 なんで、泣くのかわからなかった。
 でも俺は、誰もいないこの部屋でさえ、この顔をさらすのが嫌で、両腕を交差して顔を覆った。

 時間は静かに、さっそうと過ぎた。
 それから俺は、バスケが上手くなる事にだけ専念して、先輩とは距離を置いた。
 先輩もあの日の事は聞かなかったし、俺に笑いかける事もなくなった。
 インターハイを怒濤のように迎え、うちはベスト8入りして、先輩はバスケ推薦で横浜の大学へ進学が決まった。
 その慌ただしい空気にまぎれて、俺の気持ちはいつの間にかさめ、普通の毎日をおくれるようになっていた。

 けれども、年が開けて、先輩を初めて見てからちょうど1年が過ぎた冬。

 駅から学校へ向かう遊歩道で、先輩を見た。
 どこかの女子高生に話しかけられていた。

 忘れていた何かが、俺の中に生まれた。

 華奢で、大きな目をした女の子が、赤くなりながら手紙を渡す。
 こんなに人がいるのに、罪悪感のかけらもなく。
 俺には決して届かない場所。
 ただ女だと言うだけで、許されるのに。

「あれま~。朝からセイシュンだね」
 ふいに背後から話し掛けられて、驚いて振り向いた。
「わっ、都筑っ」
 担任の若い教師だ。
「おまえ、先生を付けろといつも言ってるだろ」
 都筑はムッとしたように俺の頭をゲンコツで軽く殴っって、さっさと先へ行く。
「いて~~。暴力反対」
 俺は気を引き締めながら、いつも通りを装って都筑を追い掛けるように歩き出した。
 一人でいるよりも、誰かと話していた方が気がまぎれる。
 それは少し前に覚えた。

「にしても、あいつ感心するくらいモテるよな」
 都筑は視線で先輩の方を指して言う。
「都筑も分けてもらえば?」
 俺は適当に冗談を言って、話をそらす。
「ばーか。俺はラブラブなんだよ」
 ニカッと幸せそうな笑みを浮かべて都筑は言った。
「マジで?」
 意外だ。
 都筑は顔もいいし、絶対に女ウケするとは思っていたけれど、恋人がいるなんて噂は聞いた事がなかったから。それに、そういう雰囲気に見えなかった。
「え、どんな人? どこで知り合ったの?」
 好奇心旺盛な俺は、とりあえず質問攻め。
 だって、こりゃいいネタじゃん。
 でも都筑は意地の悪い笑みを浮かべて、
「ヒミツ」
 くそ、俺が言いふらすの、わかってるな。
「じゃあ、何歳?」
 これだったら別にいいだろ。
 そして、返ってきた返事は。
「俺より10歳年下」

 え?
 都筑が29歳だから、ってことは……。

「マジ!?」
「おまえ声でかすぎ!」
 思わず叫んでしまった俺を、あわてて都筑は止める。
「あ、ごめん」
 でも、だって、じゅーきゅーさい!?
 うわ~、高校卒業したてじゃん。
 驚く俺を見て、都筑は小さく苦笑いした。
「最初はいろいろあったんだよ」 
 少しだけ、その言葉が心にしみた。

 あ、そうか。
 10歳離れてたら、いろいろあるよな。
 恋愛には誰だって、男女でだって、本人にしかわからない傷があるんだ。

「どんな人?」
 今度の問いは、興味本意じゃなかった。
 純粋に、聞いてみたいと思った。
 けれど、やっぱり都筑は笑ってごまかした。
 それから、他愛もない話をして、昇降口で別れ際に。

「ちなみに、この学校の卒業生。おまえだから教えたんぜ、誰にも言うなよ」

 と、耳もとで囁いて、都筑は笑顔で職員用の下駄箱へ消えた。

 あまりにも一瞬のことで、俺はその意味をすぐには理解できなかった。
 そして、気付いた。
 ちょっと待て。この学校って。

 だ、男子高だぞ―――――!?

 つまり、都筑のコイビトは男で、だから都筑はゲイで。
 らぶらぶで。

 『最初はいろいろあったんだよ』

 そういう意味だったんだ。
 人って、わからないもんだよな。

 また、忘れていた何かが、心の奥で動いた。

 このままで終わっちゃいけないような、そんな気がした。
 俺は、まだ何もしていなかったんじゃないか。
 一歩も、踏み出していなかったんだ。
 ただ逃げて、忘れたふりをしていただけだったんだ。

「先輩、勝負」
 二人きりの体育館。
 部活が終わってからも、いつも夜遅くまで残って練習する先輩。
 俺は最後の決心をして、6回目の言葉を言う。

「……水沢」
 先輩は、投げかけたシュートを途中でやめて、俺の方を見た。
 驚いたような、哀しいような、そんな顔だった。
 その時、俺は知った。

 先輩は、俺の気持ちに気付いていたんだ。
 そして、俺の気持ちにこたえられないから、そんな顔するんだろ?
 でも、俺はやめない。
 ダメだってわかっていても、しなきゃいけない事だってあるんだ。

「最後ですから。1本で、いいですから」
 俺は笑ってそう言うと、先輩は、曖昧な微笑みを返した。

 あの時と同じ、俺の先攻で始まるワン・オン・ワン。
 1ゴール先取で、勝負がつく。

 ドリブルをする俺に先輩がディフェンスにつくと、目が合う。

 意志の強いまっすぐな目は、俺を捕らえて放さない。
 俺だけを見ている。

 心臓が高鳴る。

 ああ、そうか。
 その眼に、惚れたんだ。
 頂点を食い入るように見つめて、中途半端なものには目もくれない。
 自分が信じるものを、決して見失わない。
 凛とした、力強い眼に。

 広い体育館に、ボールとバッシュの音が響く。
 真冬の寒さなんて感じないくらいに、体を動かす。
 先輩は、絶対に手を抜かない。
 一歩も譲らない。

 今までで一番集中していた。
 先輩の動きを目で追って、先を読む。
 ただひたすらゲームに集中して、シュートのチャンスを狙う。

 けれど、ゴールに向かって綺麗な放物線を描いたのは、先輩が放ったボールだった。
 吸い込まれるように、赤いリングの中央を抜ける。

 汗が、こめかみをつたった。
 終わり、か。
 あっけない終わり方だけれど、あの時みたいな虚しさはなかった。

「ありがとーございました」
 俺は笑って言って、ボールを拾う。
「やっぱり、先輩にはかないませんね」
 バスケ歴9年と10ヶ月の差は、歴然だ。
 先輩は、ただ哀し気な表情をして、何も言わなかった。

 俺、やっと気付いたよ。
 俺が届かなかった地位は、今はたぶん、他の誰にも届かないんだろうね。
 先輩はきっと、誰も見てはいないんだろ?

「でも、言わせて下さい」

 意志の強い曇りのない眼は、俺を見てはいない。

「好きです」

「で、結局フラレたってわけか」
 言われて、冬の寒空の屋上で、俺はがっくりと肩を落とした。
「ああああ、なんでそう言うこと、露骨に言うかな~~」
 都筑は面白そうに笑って、それからタバコに火を付けた。
 俺は悔しくなって、やけ食いにコンビニの焼肉弁当を掻き込む。

 しばらくして、都筑はため息のように煙りを吐き出した。
「まあ、そんな事もあるさ」
 さらりと言う。
 なんでもない言葉だったけれど、都筑が言うとなんとなく特別な感じがする。
 そして俺は、自然に、素直に頷くことができた。
「そうだな」

 俺のこの恋は叶わなかったけれど、未練がないなんて言わないけれど、それでもたぶん来年は、俺を好きだと言ってくれる誰かに笑って話せていると思う。

 あんな事もあったんだと。


 ――ごめん。俺、今はバスケしか目に入らない。

 先輩は、初めから俺なんて見ていなかったんだ。