Got Your Back 番外編
Express Your Love 2
比呂を席に座らせながら、八代は比呂の顔を注意深く観察した。
この特殊な家庭環境におかれた生徒が、いとも簡単に痛みを受け入れてしまう性格だということを八代はよく知っている。
どんなにみなとみらい大学に魅力を感じていても、返金不要の奨学金プログラムがなければ、比呂は志望校を変えようなどとは思わなかったはずだ。
そんな彼が何を考えているのか想像がつくから、ことあるごとに義父に相談するようにと比呂に言っていたのだ。
「で、家でちゃんと話せてんの?」
「最近忙しいみたいであんまり帰んねーから」
比呂は八代を見上げて、当たり前のように答えた。
「電話は?」
「メールすれば手の空いた時にかけてくれると思うけど、それはしたくない」
やっぱりな、と八代は呆れる。
どうせそんなことだろうと思っていた。尚彬の仕事の邪魔になりたくない、というところだろう。
「あのな、仕事も大事だろうけど、おまえの進路だって大事に思ってるはずだ」
教師としてごく当たり前のアドバイスをする。
「そんなこと分かってるけど、受かるかどうか分からないし………」
確かに奨学金プログラムの判定基準は「学力、人間性、将来性」としか公開されていない。過去の例では、学科の自己採点がほぼ満点にもかかわらず不合格だった生徒がいるくらいだ。とは言え、
「だからって、合格した時点でいきなり言われる身にもなれよ。だいたい、隠されてるってだけで相当ショックだと思うぞ?」
「でも、もし奨学金なしで合格しても尚彬さんは絶対に行けって言って、結局学費出しちゃうだろ」
あまりにも予想通りの思考で、八代は内心溜め息をついた。
「あのなぁ、そんなことは今さらだろ。立花先生なら、子供のいる女性と結婚した時点でそのくらいの義務や責任は分かっていたはずだ」
「わかってるよ、それくらい」
(どこがだ)
視線を逸らしてムッとしたように言う比呂に、八代は内心そうツッコミつつも根気よく説得することにした。
「だったら、なおさらちゃんと相談しろよ。立花には話す義務があるし、『親』には聞く義務がある」
八代は、比呂が尚彬を「親」だと認識していないことを知りながら、あえてその単語を使った。
比呂の言う「わかってる」は、おそらく母親の杏子に対する尚彬の責任、とい意味での「わかってる」だろう。けれど戸籍上だろうが表面上だろうが、尚彬は紛れもなく比呂の父親なのだ。そして少なくとも、尚彬はその覚悟を持って立花の姓を名乗っているはずだ。
「自立心が強いのはいいことけど、だからと言って意地をはって本当に自分がしたいことを諦めるってのは間違ってると思うよ」
八代は俯く比呂の頭を見下ろしてそう諭したが、その言葉に比呂が納得していないのは一目瞭然だった。
比呂の幸せを誰よりも願い、力になりたいと思っているのは尚彬だろう。それは比呂も感じているはずだ。それなのにどうしてここまで頑なに拒むのだろう。
(もしかして………)
「おまえ、立花先生に負担かけたくない理由が、他にあるのか?」
八代が静かに問いかけると、比呂は驚いたように顔をあげた。
「あるのか」
「え、いや…………理由っていうか、まぁ………」
比呂はすぐにまたうつむいてそう口ごもりながら、何かを言おうか迷うように何度か口を開きかけた。そして何度か目に、ようやく言葉にしたそれは、八代が想像もしていなかった理由だった。
「っていうか………怖いんだよ」
そうバツが悪そうに言う比呂の顔を覗きこんで、八代はわずかに眉を寄せた。
「怖いって、何が?」
「尚彬さんが俺を選ぶこと、が……?」
比呂はなぜか語尾だけを疑問形のようにして答えた。
「………………」
思わず、八代は返す言葉が思い浮かばなかった。
何と比べて尚彬が比呂を選ぶのかといえば、それは仕事以外にはないだろう。つまり比呂は、尚彬が仕事よりも自分を選ぶと確信しているということだ。
(つーか、自分がなに言ってるのか分かってんのか?)
いや、比呂自身その壮大な惚気のような言葉で自分の気持ちを忠実に伝えられているのか不安だから、語尾が疑問形になったのかもしれないが。
「それは…………なんつーか、興味深いな」
とりあえずそんなふうに返すと、比呂には予想外だったようで小さく吹き出した。
「はは、なんだよそれ」
「だってアレだろ、仕事と私どっちが大事なのーとかいう定番のやつ」
「えっ? い、いや………まぁ、そうなんだけど」
言われてやっと自分の惚気っぷり気付いたのか、赤くなる比呂を見て、八代はどう話を促そうか考えながら、時間稼ぎを兼ねて目の前の椅子を引いて座った。
尚彬に負担かけることを頑なに拒む比呂を、懐柔するヒントになるかもしれない。
それに、個人的にも比呂の考え方に興味があった。
「ちなみに、どのくらい立花先生に会ってないんだよ」
「え? 10日くらいだけど」
事も無げに言って見せる比呂に驚いた。
「10日も?」
八代自身も救命医の忙しさは知っている。特に今は学会準備で忙しい時期だと聞いているから無理もないことかもしれない。それにしても。
(ガキのくせによく我慢でき――――、いや、どう考えても無理だろ)
30歳の八代でさえ何日も恋人に会えないとイライラするのに、高校生が付き合いたての恋人に会えない寂しさや辛さを我慢できるわけがない。しかも、普通なら毎日会える関係なのだ。
それなのにどうして比呂はそれを苦に思わないのだろう、そう考えて気付いた。
(あぁ、そうか。苦しいわけじゃないのか)
「怖い、ねぇ………。なんで怖いわけ? 立花先生がおまえを選んだら」
できるだけさらりと授業の延長線のように核心を聞くと、比呂は少し間を置いてから、斜め下に視線を移して静かに答えた。
「もし仕事よりも俺を選んだとしたら、尚彬さんはそのことを後悔すると思う。後悔して自分を責めて、そうなったら俺に対する気持ちまで否定するはずだから」
言葉少なに淡々と言い、「それだけは嫌なんだ」と付け足す比呂を、八代はじっと見つめた。
(後悔? そんなことは織り込み済みだろ、あの先生は)
もし仕事や患者より比呂を優先したとしても、尚彬はおそらく後悔などしないだろう―――そう八代はそう確信している。なぜなら、あの医者は比呂が多少傷付いたくらいでは、仕事を優先するに決まっているからだ。万が一、尚彬が比呂を優先することがあるとすれば、それは比呂の命に関わる時だけだろう。そして比呂さえ助かれば他の誰を犠牲にしても構わないと、本気で思っている。そういう男だ。
「立花先生にそういう兆候があるの?」
「兆候っていうか、病院に泊まればラクなのに無理して帰って来てくれるし、寝不足でも俺との時間作ってくれるし………そういうのって、かなりの負担になってるはずだろ」
(いやいやいやいやいやいや、それは違うだろ)
と思ったが、八代は言わないことにした。代わりに「ふーん」と曖昧な相槌をうつ。そして比呂をまっすぐ見て、比呂自身がその間違いに気付く言葉を選んだ。
「俺はさ、人付き合いってのは相手と自分の間のどこに境界線を引くかってことだと思ってるんだよね。もちろん相手も自分との間に境界線を引く。その境界線が近ければ近いほど理解しあえてるってことで、逆に2人の引いた境界線が離れている状態を壁とか溝って言うと思うわけ」
痛みを受け入れて我慢することは、悪いことではない。
けれども、痛いと声を上げなければ、誰もその痛みを理解できない。理解できなかったことに後悔するのは、必死で近付こうとしていた方だ。
「その境界線をどこで引くかは立花自身が決めることだ。でも大切なのはさ、家族だろうが友達だろうが恋人だろうが、ちゃんと話し合ってお互いに境界線を近づけようとすることだと思うよ。その努力をしない人間関係なんてただの自己満足だと思うし、立花先生はそういう努力をしている人だと思うけどね」
八代は飄々とそう言いながらも、尚彬が比呂に対して愛情を惜しみなく注いでる証を見せつけられたようで、内心つぶやいた。
(チクショー………羨ましいな、こいつ)
後ろから誰かが追いかけてくる足音に気付いた。と同時に、同じ方向から息を切らした声が響いた。
「立花先生!」
振り返ると、研修医の高野が聴診器を片手に駆け寄ってきた。自己紹介で自他共に認める運動音痴だと言っていたとおり、ずいぶん足の動きが遅い。
「すみませんっ…………あの、ちょっといいですか?」
ようやく尚彬にたどり着くと、崩れた呼吸を整えながら言う。
「ああ。どうした?」
高野は、尚彬に見据えられて視線を泳がせた。
「あの、…………、ええと…………」
うつむいて言葉を選ぶように言いかけては口淀む。
つい1時間前、患者が死んだ時の高野の顔を見ていた尚彬には、何を言おうとしているのかは分かっていた。けれども、それを優しく誘導するつもりは更々ない。自ら言葉にできない程度のものなら、病院にいる資格などないのだ。
静かに待っていると、高野は意を決したように顔をあげた。
「なんか、思ったんすけど、救命医っていうか、俺医者に向いてないのかなぁっていうか………」
そう言うとまた視線を泳がせて続ける。
「っていうか、自分のことばっかり考えちまうっていうか………俺ずっと休みなくて、彼女と会うのもすっげぇ久しぶりで、今日、彼女の誕生日だし絶対に行かなきゃいけないって思ってて、だから………」
強い罪悪感があるからこそ、少しでも正当化したいのだろう。自分に言い聞かせるように言う。
「さっき搬入待ってる間、本気で思ったんです。この患者が早く死んでくれたら待ち合わせに間に合う、自殺ならさっさと死ねよって………」
高野は自嘲するように力なく笑を浮かべた。
「最低っすよね、俺。本当に患者が亡くなって気付くとか、マジでありえないっすよ………」
早く帰りたい。早く仕事を終わらせたい。それは医者が人間である以上回避できない感情であり、誰もが一度は考える問題だ。仕事の大義名分よりも自分の家族や恋人を優先したくなることの方が、人間として当たり前の感情なのだろう。酷い場合は、自殺だったことを理由に患者の死を正当化したり、死んだ患者を目の前に早く帰れることを喜ぶ医者もいる。
医師は聖人ではない。
その「罪かもしれない」感情に対してどう向き合っていくのかは、他でもない自分が決めることだ。
「それで? 辞める?」
尚彬はうつむく高野の頭頂部を見おろして半ば突き放すように言った。
「えっ?」
励ましてくれると期待していたんだろう。高野は驚いたような焦ったような顔で尚彬を見上げた。
「………いや、辞めるとかは…………ただ、みんなそんな思いしてんのかと思うと、正直怖いっていうか………」
その答えを聞いて、尚彬はフッと小さく微笑んだ。
高野が医者を辞めるつもりがないのなら、やることは決まっている。
「怖いということは決して悪いことじゃない。むしろその怖さを知って初めて、患者の命や生活を左右する責任の重さに向き合える。その上で、患者のためにできる自分の限界を、自分なりに決めるしかない」
もともと眼科志望の高野は、研修が終われば生死に関わる患者を診ることは少なくなるだろう。けれども、重病であればあるほど、患者は医療に限界があることを認めたがらない。
「その限界を決める時に今日のことを思い出せるかどうかがで、自分のするべきことが変わってくるはずだ」
「…………はい」
高野は、尚彬の言葉を噛み締めるように強く両手を握りしめた。
夕食後、少し濃くいれたコーヒーをマグカップ半分まで注ぎ、もう半分を牛乳で満たす。そしてその牛乳パックを冷蔵庫にしまうと、扉にマグネットでとめたコピー用紙をなぞった。尚彬の今月の勤務シフトだ。パソコンで組まれたシフト表の合間に、出版社との打ち合わせや講演、セミナーの予定が書き込まれていて、一目で尚彬の忙しさが分かる。
(明日が日勤、次は深夜勤か………)
小さくため息をついた。
日勤の定時は8:30~16:30、深夜勤の定時は0:15~9:00。日勤を定時に終えて帰宅しても、その6時間後には家を出なければならない。残業になれば、尚彬は必ずと言っていいほど病院に泊まる。
つまり、今日帰ってこないと言うことは、明後日まで会えない可能性が高いということだ。
(さすがに会いたいな…………)
そう思いつつも、尚彬から今日も泊まると連絡があった時、内心ホッとした。
ここ1ヶ月、尚彬は少ない睡眠時間を削って帰宅し、病院でしたほうがはかどる仕事を家に持ち帰って来り、比呂との時間を作ろうと無理をしているように見えるのだ。ちなみにこの前は、比呂が朝起きると深夜に帰宅したらしい尚彬が朝食の用意をしていて、比呂がそれを食べ終わる前に家を出て行った。
もちろん比呂にとって尚彬と過ごす時間は何よりもかけがえのない、幸せな時間であることは確かだ。けれども、尚彬がどんなに否定したとしても、無理をしているとしか思えない。
だから、想像してしまう。
たとえば今この瞬間、尚彬の目の前に消えそうな命があるかもしれない。
その命を前に、尚彬が比呂との時間を作ったがために仕事がおろそかになってしまったら。
睡眠不足でミスをしてしまったら。
きっと、いや、必ず尚彬は自分を責めるだろう。
そして自分を責めるだけでなく、尚彬の中の比呂を愛する気持ちさえも責める。
それが、たまらなく怖い。
八代の言うことも分かるが、今の尚彬を合格率すら分からない比呂の受験に巻き込むのは、尚彬の重荷にしかならないはずだ。
「…………言えねーよ、やっぱり」
そう呟いた時、玄関の方でカチャッと聞きなれた音が響いた。
(え?)
反射的に時計を見る。もう21時を過ぎだ。こんな時間に帰ってくるはずがない、そう思いながらも、比呂の顔が明るくなる。
(尚彬さん? マジで?)
思わず頬を緩めて、フローリングの廊下を走る。けれども、玄関に続く角の前でピタリと足をとめた。
(つーか、これじゃバレバレだろ………)
まるで尚彬に会いたくて仕方なかったようで、いや実際に鍵の開く音を聞いただけで嬉しくて顔がニヤけてしまうが、そんな瞬間を見られたら恥ずかしすぎて、顔を合わせるどころではない。それに、
(すぐに病院に戻るかもしれないじゃん………)
そうなった時笑顔で見送るためにも、必要以上の期待は禁物だ。
比呂は緩んだ頬を引き締め、静かに玄関に向かった。
急に冷たくなった風を感じて、星のない空を見上げた。
(そういえば今日は異常気象だと嘆く話が多かったな)
そう取り留めもないことを思い出しながら、尚彬はひと気のない駐車場の隅に停めた車に乗り込む。そして5日分の洗濯物が入った黒いバッグを助手席に投げおいて、小さくため息をついた。
一見、スポーツジム帰りのようにも見える颯爽とした身のこなしだが、ここ数日の激務のせいで息苦しさを覚えるほど疲労が蓄積していた。
思えば着替えではなく本来の意味で家に帰るのは、10日ぶりくらいだろうか。今日も帰り際に受け入れた患者が蘇生していたら病院に泊まるつもりだったから、比呂には数時間前にメールでそう伝えてあった。
エンジンをかけながらジャケットの胸ポケットから携帯を取り出す。そして比呂から届いたメールへの返信に『これから帰る』と書きかけて、ふと指を止めた。
比呂はさっき送ったメールを信じて、今夜は尚彬が帰らないと思っているはずだ。
少しだけ口角を上げて書きかけのメールを削除し、アクセルを踏んだ。
それは、仕事ばかりの尚彬に何一つ不満をぶつけない恋人への、ささやかな反抗とでも言うのだろうか。
ワーカホリックとも言えるこの働き方に、今まで尚彬が付き合った女は口をそろえて文句を言った。「仕事と私どっちが大事なの」という言葉はもはや尚彬の中では定番と化してしまい、そのたびに尚彬は心ない言葉を残して彼女たちと別れることを選んだ。
けれども、比呂は我が侭どころか、寂しいそぶりさえ見せない。かといって尚彬の仕事を露骨に応援するわけでもなく、ただ淡々と流れに身を任せているようにも見える。そういう比呂を見ていると、さすがに「俺のことはどうでもいいか」と思いそうになってしまう。
そんな恋人は、比呂しか―――、
(いや、比呂で2人目か)
その1人目である、比呂の母親、杏子のことを思い出した。
杏子と過ごした3年4ヶ月の間に彼女は誕生日を3回迎え、尚彬はその3回とも直前で約束をキャンセルした。誕生日だけでなく、仕事を理由に約束を破った回数は、守った回数よりも多いだろう。それでも杏子は一度も尚彬を責めることなく、毎年「来年があるから」と笑った。
けれど、4回目の誕生日を杏子と迎えることはなかった。誕生日の2ヶ月前に、彼女がこの世を去ったからだ。
杏子の本当の気持ちを知ったのは、彼女の最期の言葉を聞いた時だった。それを思い出すたびに、もっと夫らしいことをしてやれたんじゃないか、もっと我が侭を聞いてやれたんじゃないかと、何度も後悔した。
けれども、仕事よりも杏子を優先した自分を想像した時、尚彬は、彼女が尚彬を責めなかった理由に気づいた。
きっと杏子の子供であり、尚彬と同じ医師を目指す比呂も、同じことを想像したんだろう。
尚彬が仕事に妥協を許せない人間だと、彼は知っているから。
ただ、それを抜きにしても、と尚彬は思う。
尚彬の仕事の忙しさに我が侭を言わないのはいいとして、こういう関係になって半年も経つが、比呂は一度も「好き」だとか「愛してる」といった類の言葉を言わない。それが尚彬にはどうしても納得がいかないのだ。
いや、たった一度だけあったが、それは比呂自身が自分の気持ちを責めるような告白だった。尚彬に対する自分の気持ちを断罪するような、痛々しささえ覚える言葉だ。
そんな言葉が比呂から聞いた唯一の告白だというのは、あまりにも悲しすぎる。
だから多少の意地悪をしてでも、言わせてやりたい。
マンションの駐車場に車を停めてエレベーターに乗る。胸ポケットから出した携帯は、21:14を表示していた。この時間ならリビングで受験勉強中だろうか。
尚彬は黒いドアの前に立つと、車の鍵と一緒に束ねた家の鍵を差し込んだ。
カチャ、とサムターンが回る音が静まり返った通路に響く。尚彬はドアを開けて玄関に入ると、左に折れる廊下の奥に、耳を傾けた。
背後でドアが閉まる音が玄関に響く。
廊下の奥から聞こえるのは、少し慌てた物音。
トトト、とフローリングを走る音が近づいてくる。
この足音の主が自分のところへと駆け寄ってくる姿を想像して、思わず笑みがこぼれた。
精一杯の気遣いをしながら、それでも彼が自分に会いたいと思っていたという、この音は証拠だ。
比呂は驚いた顔で尚彬を出迎えた。
「お、おかえりなさい?」
その口調に、思わず吹き出した。
「ははは、なんで疑問系?」
靴を脱ぎながらそう聞く。
「え、だって泊まるってメールあったから――――」
比呂はそこまで言って言葉を止めた。
「から、なに?」
「着替え取りに来ただけかな、と思って」
なんでもない素振りをして答える比呂をじっと見つめた。すぐ仕事に戻ってしまうと思って、期待しないようにしているのかもしれない。
(ずっとそうだったからな………)
ずっと尚彬に期待しないようにしていたと、比呂は尚彬に言った。それはもう癖になっているようで、半年経った今でも時々こういうことがある。
尚彬が真意を探ろうと比呂の目を見据えると、比呂は小さく首をかしげた。
「あ、違った?」
「ああ、今日はもう仕事はないよ」
柔らかくそう答えると、比呂は少しホッとしたように笑った。
どこか嬉しそうに見えるのは自惚れではないはずだ。
「そっか。じゃ、おかえりなさい、だね」
そう言って、尚彬の肩にかけた黒いバッグに気付く。
「あ、それ洗濯物だろ。俺やっておくから、尚彬さん風呂入れば?」
「いや、勉強中だったんだろ? これくらい自分でやるよ」
「尚彬さんの方こそ10日ぶりに帰って来たんだから早く休みなよ。明日も日勤だろ?」
比呂の言うとおり、明日の朝7時半には家を出なければならない。つまりあまり時間がなく、本当は洗濯なんてどうでもいい。
尚彬は肩にかけたバッグを廊下に捨てながら。
「ああ。でもその前に――――――」
比呂の二の腕をつかんで、そのままほんの数メートル先のドアを開けて体を押しこむ。
「え、え!?」
思わず声をあげた比呂を、その部屋の隅にある比呂のベッドに強引に押し倒した。
「ちょっ、尚彬さん?」
戸惑いながらも抵抗しない体を強く抱きしめ、スウェットの裾から手を差し込んで温かい肌に触れる。10日ぶりに感じる体温にひどく安堵した。
静かに深呼吸して比呂の匂いに身を任せると、今まで息が詰まっていたんだと実感するほど、体の奥深くまで酸素が届いた。
お湯に入れた雪のように、疲労に固まった体が溶けていく。
誰かの体温を感じてこんなにも心が穏やかになるなど、自分にはありえないことだと思っていた。
ましてその相手が同性で、かつて妻だった女の息子だなんてことは、絶対にあってはならないことだと。
けれども――――。
しばらく比呂に体を重ねて抱きしめていると、比呂の両手がそっと尚彬の背中に回った。
「尚彬さん?」
平静を装って問う声。
比呂が沈黙を嫌うのは知っている。きっと今、どう尚彬に声をかけようか必死に思いを巡らせているんだろう。その証拠に、すぐ耳元で何か言いかけては口を閉じる気配がする。
尚彬はその反応を楽しんでから、一向に話を切り出さない比呂がおかしくて、思わずクスッと笑った。そして比呂の耳に限界まで唇を近付けて息をかけるように、
「比呂」
比呂がこの低音に弱いことも知っている。くすぐったそうにほんの少し肩をすくめた。
「なんだよ」
どこか不満げに言う。さすがに比呂も尚彬にからかわれていることに気付いたんだろう。
「何か言えよ、比呂」
耳元でそう命令すると、比呂はまた尚彬の息遣いに体を震わせた。
こんなに分かりやすいのに。
(本当に………タチが悪い)
尚彬は、比呂の両脇に肘をついて体を離し、比呂の顔を上からのぞき込んだ。
「あんま見るなよ。恥ずかしいだろ」
顔を赤くして、気まずそうに目をそむける。
こんなにも分かりやすいのに、隠すと決めたことは徹底的に隠してしまう。本当にタチの悪い性格だ。
「しょうがないな」
尚彬はそう言ってもう一度比呂の首筋に顔を埋めた。
「これなら見えないだろ」
「いや、そうゆう意味じゃ………」
「俺はここが一番落ち着くんだよ」
強引に丸め込むように言って首筋にキスをすると、比呂は観念したように小さくため息をついた。
静かになった比呂の頸動脈から、鼓動が唇を伝わって尚彬の体に響く。
少し早いその刻みが、なぜかひどく心地いい。
ハードワークと睡眠不足で重たくなった体が、比呂の体に吸い込まれるような感覚を覚えた。
「…………俺、尚彬さんに愛されてるんだな」
ぽつりと呟く声で、飛びかけていた意識を取り戻す。
「………今頃気づいたのか」
もう何度も、何度も言っているのに。
「愛してるって、い…る………」
無意識に言いながら、心地いい温もりに飲み込まれるように、尚彬は完全に眠りに落ちた。
「尚彬さん………?」
比呂の声に応えることなく規則正しく呼吸が紡がれるのを感じて、小さく微笑んだ。
(子供みたい…………)
無防備に体を預け、遊び疲れた子供のように眠ってしまう尚彬がどこか可愛く、心の底から愛おしく感じる。
比呂は尚彬を起こさないようにそっと上半身をずらし、深い寝息を立てる尚彬を見つめた。
いつもの完璧に整った顔は、至近距離で見ると目の下にはくまが出ているし肌は荒れ、形のいい唇も白くかさついている。きっと何日もろくに眠っていないのだろう。
今日も病院に泊まっていれば、今より2時間は多く睡眠時間をとれたはずだ。
それなのにどうして、こんなに無理をして帰ってくるのだろうか――――そう考えて、八代の言葉を思い出した。
『立花先生はそういう努力をしていると思うけどね』
境界線を近づけようとする努力―――なのだろうか。
無理をして帰ってくるのも、睡眠時間を削って比呂と食事をするのも、ただ会いたいとか話したいとかいう理由ではなく、比呂との溝を埋めるためにしていることなのだろうか。
(あ――――もしかして、俺が話すのを待って………)
比呂が自分から尚彬に話すのを、待っているのだろうか?
半ば直感のように考えて、思わずハッとした。
すべてが繋がってしまのだ。
比呂が進路を変えたのが約1ヶ月前で、普段なら病院に泊まるシフトでも無理をして帰ってくるようになったのも、1ヶ月前頃からだ。
八代が言っていた『地域密着型』も、みな大のERの誰かと話したということなのかもしれない。ということは尚彬も、比呂が進路を変えたことを知っているということだ。それでも比呂を責めることなく、比呂が自分から言うのを待っている。
思えば半年前から、初めて尚彬の気持ちを聞いた時から、そうだったではないか。
『自分の足で、俺の隣に立ってほしい』
尚彬はそう言って、比呂の答えをずっと待っていてくれた。
それについさっきも、比呂の言葉を待っていてくれた。
忙しい中、その時間を作って。
(俺が、無理させてたんだ―――………)
心臓を絞めつけられるような痛みに唇を噛んだ。
尚彬の負担になることを恐れながら、結局、尚彬を苦しめていたのだ。
自分がひどく情けなく思えた。そして同時に、優しさなんて言葉では足りないほど深い尚彬の愛情に気付いた。
半年前、尚彬は「すべてを投げ打ってでも、比呂と一緒に生きていく」と言った。
実際、尚彬を見ていると本当に何よりも比呂を優先してしまうのではないだろうかと不安を覚える時がある。
けれども、比呂に同じように生きろと言ったことは一度もない。いつも比呂に選ばせ、比呂の選択を尊重していた。比呂自身の足でその人生を歩けるように。
人を愛するということは、そういうことなのかもしれない。
(人の部屋に押し入って2分で寝ちゃうくらい強引なのに………)
小さく口角を上げて、尚彬のかすかに震える睫毛を見つめた。
(尚彬さんに愛されてるんだな、俺)
もう一度、数分前よりもずっと強くそう思う。
そして数分前よりも強く、深く、
「愛してるよ…………俺も」
逃げるのはもう終わりにしよう。
自分の足で、尚彬の隣に立つために。