始まりの日 番外編(2008/7/19UP)

奇跡

雨宮のじいさんと秘書・月本です。第1部「未来」2話時点
このお話は三人称です。

2021年4月

 大手食品メーカーの会長室で、月本慧つきもとけいは溜め息をついた。
 会長1人だけとはいえ、大きすぎる重厚なデスクに応接セット、ミーティング用の6人がけデスクが揃っている広い部屋だ。
 飾り気がないのは、この会長、雨宮誠一郎の趣味だ。ブランド物や芸術には一切興味がない。
 そのシンプルな会長室に、場違いな言葉が響いた。
「ああ、陽生か。どうして携帯に出てくれんのだ……私はそろそろ限界が近いようだ……」
 窓の外の景色を眺めながら、雨宮誠一郎はわざとらしく弱々しい声を出した。電話なのだから声だけの演技でいいはずなのに、いつもピンと伸びている背中が、小さく丸まっている。
「そう出ましたか……」
 誠一郎の背中に向かって、彼に聞こえない程度に小さく呟いた。
 いつになく小さく丸まったその背中は、演技ではないだろう。

 この会長の秘書になって、もう12年になるが、78歳ながら大会社の現会長として忙しく働き、傍若無人なまでに豪快で潔い元総理大臣の、こんな覇気のない姿を見たのは初めてだった。
 気持ちはわからないでもない。
 総理の椅子を捨ててまで愛情を注いで育ててきた孫が、今日この日に「もしかしたら消えてしまうのかもしれない」のだから。
 自分が倒れたなどという単純かつ突拍子もない嘘をついてでも、最愛の孫には真っ直ぐ横浜に帰って欲しいんだろう。
『おい、俺が行くまで絶対死ぬなよ!』
 3メートル以上離れた月本の耳に、その孫の必死の怒鳴り声が聞こえる。
 どうやら類稀な天才と言われている彼の孫は、祖父のわざとらしい演技を信じてしまったみたいだ。誠一郎の企みは、うまくいったようにも思える。
 ただ、タイミングが悪すぎた。
 月本の仕事は、このどうしようもなく扱いが難しい会長をスケジュール通りに動かすことなのだ。
「雨宮会長、そういう冗談を言っている暇があるんでしたら、さっさと取締役会に出席してください」
 事務的に声をかけると、誠一郎はハッとしたように振り返った。
 そして大げさに眉間に皺を寄せて、
「ああ、わかってる。あんなくだらん会議の後には、どうしても必要なものがあるんだよ」
 と、すぐに開き直った。
 もちろんその声は電話の相手にも聞こえているはずだ。それから携帯に向かうと悪びれもなく
「というわけで陽生、プレシューズのモンブランを4つ取り置いてもらうように電話しておいたから、帰りに寄ってほしいんだが――……」
 言いかけて、携帯を耳から離し、じっと見つめた。一方的に切られたらしい。
「なんだ、孫だったらじいさんの話を最後まで聞かんかい」
 呟くように言い捨てて、携帯をスーツのポケットに入れる。そして今度は物思いにふけるように窓の外をぼんやりと眺め始めた。
「会長、プレシューズのモンブランは秋冬限定なので、今は売ってませんよ」
 背中に声をかけると、誠一郎は振り向かずに。
「もし陽生がそれに気付いたら、上り電車には乗らないだろ? 賭けたんだよ」
「……そうだったんですか」
 否応なしに下り電車に乗らせるのではなく、ある種の「運」の流れに任せたのだと。
 つまり、これは精一杯の譲歩だ。
 尾形澄人に対する。
 もちろんその気持ちも、月本にわからないでもない。
 ただ。
「会長、もう20分も役員を待たせてます」
 できるだけ事務的に、感情を込めないように言うと、誠一郎は呆れたように眉間に皺を寄せて、振り向いた。
 ぼんやりと考え込んで憂いてるよりも、今はほかの事に集中したほうがいいだろう、という月本の小さな配慮に誠一郎は気付くこともなく。
「おまえには情けってものがないのか?」
「この12年間、ずっとこの日がくるということを言い聞かせていました。覚悟ぐらいできてます」
「私が覚悟不足だといいたいのかね……」
「そうです。ここまで来たら、なるようにしかならないんです。陽生が幸せになっているんですから、いいじゃないですか」
 そもそも、本当に陽生を留めておきたかったら、今日一日家に監禁しておけばよかったのだ。この男ならそれくらい事も無げにやってのけるはずだ。それをしないのは、やはり陽生の幸せがどこにあるのかを、知っているからなのだろう。
「……おまえのその潔さには毎度関心するよ」
 溜め息まじりに言いながら、なおも往生際悪くデスクの上の書類を意味もなく揃え始める。
 いい加減、見ているほうがイライラしてくる。
「ありがとうございます。では早く会議に行って下さい。資料はこちらです。この2枚目の提案だけしっかり確認しておいてください。それ以外はゴミ以下です」
 月本が手にしていた資料を差し出すと、誠一郎は面倒そうに受け取ってパラパラと目を通す振りをする。
「ゴミ以下はないだろう。せめてゴミ同然ぐらいにしてやっても……」
 誠一郎をジロリと睨みつけると、彼は偉そうに「あーもうっ、わかったよ!」といい捨てて会長室を出て行った。
 78歳とは思えないその態度に呆れながら、月本は開けっ放しの会長室のドアを閉める。
 主がなくなると、会長室はまるで使われていないホテルの一室のように、無機質になった。

 携帯電話を取り出して、リダイヤルする。
 電話の相手は、すぐに出た。
「諒平? 今日は早く帰れるから――たぶん7時くらい。夕食、一緒に食べよう」
 少し不審そうに、けれどどこか嬉しそうな声が返ってきた。
 頬をわずかに綻ばせて電話を切り、仕事に戻った。

 大切な人が、忽然と姿を消す。
 けれど、それは彼が本当の意味で幸せになるための、奇跡だ。

 そして、今日から彼にとっての、本当の未来が始まる。

 もう一度、彼に会ってみたい。
 今はもう、30歳になる雨宮陽生に。