始まりの日

記憶 - 22

雨宮陽生

「深山くん、オッハヨウ!!」
 重い気持ちを切り替えてドアを開けると、中から元気のいい女性の声がした。一昨日俺の面接をした木村さんだ。はなぶさの会の副理事で、年はたぶん30歳くらいだと思う。小柄なのに目と声だけは大きい。
「おはようございます」
 普通に挨拶したつもりだったのに、なぜかムッとしたように俺を見上げた。
「挨拶は笑顔で! これ人生の基本」
「あ、すみません。おはようございます」
 笑顔を作って言い直したけれど、木村さんは困ったように笑って「まぁいっか」と言った。
 無理に笑ったから変な顔になったのかもしれない。
 作り笑いなんてタイムスリップする前は散々やっていたのに、あの頃よりも下手になってるような気がする。気を付けないとな。ここで疑われたら、矢上に近付くっていう大事なミッションをこなせない。
 気を引き締めながら事務所の端にあるロッカーに荷物を入れていると、すぐ後ろのデスクで木村さんが突然「あ!」と声をあげた。
 驚いて反射的に振り返ると、木村さんが俺を見て、
「身分証持ってきた?」
 やっぱりそれか…………。
「すみません、実は昨日財布を落とし――――」
「ええ! 大丈夫なの!?」
 まだ最後まで言ってないのに、木村さんは大げさに目を見開いた。
「現金は少ししか入ってなかったんで大丈夫なんですけど、保険証も学生証もその中に入ってて………明日、再発行の手続きするんで、新しいのが届いたら持ってきます」
「そっか、それじゃしょうがないか」
 そう俺の嘘にあっさり納得して、デスクに向き直って続ける。
「でもわかるわ~、お財布失くすとホント大変よね。あたしも失くしたことあるけど、キャッシュカードとかクレジットカード止めたり免許証再発行したりで、ただでさえ忙しいのに死にそうだったわよ。それに何がショックって、ポイントカードよね。もうこれが一番ショック。何ヶ月もお店に通ってあと1回行けば5千円オフになるところだったのに、それが全部チャラ。浮気せずに10万円も貢いだのによ? 悔しすぎて1ヶ月くらい探しまわってたわよ」
 そんな他愛のない話を独り言みたいに続け、事務所の電話が鳴ったところでようやく止まった。放っておいたらずっと話し続けそうだな。

 とりあえず時間までにトイレに行っておこうと思った時、ポケットの携帯に着信が入った。
 川崎からだ。昨日、矢上剛のアルバイトの同僚に「神田さくら」の名前がないか調べるようにメールしたから、たぶんその返事だ。
 木村さんはまだ電話で話しているから、断らずに事務所の外に移動した。
「どうでした?」
 あのヌメッとした顔を思い出しながら電話に出ると、ワザとらしいため息が聞こえた。
『挨拶もなしに嫌悪感丸出しで聞かれると、話したくなくなるんだけど?』
 尾形と同じような反応するなよ。
「あんたが神田さくらの素性知りたくないならいいけど」
『相変わらず抜かりねぇガキだな』
「ありがとうございます。それより、どうだったんですか?」
『聞き逃げするなよ』
 厭味な笑みを含んだ口調でそう言うと、矢上剛と神田さくらの関係を話し始めた。
『矢上が過去にしたバイトは2つだけだった。1つは今年、矢上が在籍する大学の入試係員。もう1つは2年前、父親の奥田和繁の選挙時の事務スタッフだ。その奥田和繁の選挙スタッフの中に神田さくらの名前があった』
 昨日ハッキングした警察の捜査資料には彼女がそんな情報はなかった。失踪前のバイト先を調べないなんてありえない。たぶん自分の不利益を考えて奥田が手を回したんだ。
 っていうか、
「矢上はなんで奥田の選挙のバイトなんてしてたんですか?」
『そんなこと知らねーよ。大学の掲示板でバイト募集の張り紙を見て応募したみたいだけどな。ま、日当1万円で昼飯付き、学生にしてはいいバイトだしね』
 確かに、矢上は法学部だからそれが普通だ。神田さくらもみな大の法学部だから不自然じゃない。でも矢上は関係を隠していたのに、なんで自分から奥田の近くにいたんだろう。
『ま、俺だったら選挙のジャマでもして落選させてやるけどな』
「ということは、矢上は父親を恨んでたんですか?」
『普通は恨むだろ。自分と母親を捨てて大企業の令嬢と結婚したわけだし』
 でも、矢上に学費やマンションの家賃が払えるほどの収入があるとは思えないから、奥田が支払う養育費で生活している可能性が高い。それが奥田の厚意か矢上の脅しかはわからないけど、どっちにしても矢上にとって奥田は大事な金ズルで、選挙に落選なんてしたら奥田から搾取できなくなる。
 それにもし金なんてどうでもいいくらい父親を恨んでいたとしたら、矢上は自分自身の存在を週刊誌に売ってでも、奥田を追い込んでいたはずだ。つまり矢上が奥田に近付く理由は他にあるってことだ。
「そのバイトいつからいつですか?」
『えーっと、3月17日から3月31日までの2週間。つっても3月30日の夜に矢上貴子が死んだから、31日は矢上は休んでるだろうな』
 父親の選挙のバイトはともかく、母親の死に神田さくら拉致。短期間に事件が起きてるのか。
「矢上は神田さくらとは親しかったんですか?」
『当時一緒にバイトしてたオバサンに話を聞いたんだけど、神田は特に忙しい2日間だけのバイトだった。2人はそのバイトが初対面で、矢上が一方的に好き好きオーラを発してたらしい。ちなみにその神田さくら、相当な美人なんだってな。オバサンが絶賛してた』
 こいつ、意外と仕事が早い。昨日の夕方頼んだのにもう関係者の話まで聞いたのか。
「2日だけってことは、2人は特に親しいわけじゃなかったんですよね?」
『そんなに気になるなら矢上から聞き出せよ。そのために面倒なボランティアなんてしてるんだろ』
「もちろんそのつもりですけど」
 と言った時。
「あ! 深山君こんなところにいたの。今日矢上君お休みだって」
 木村さんが事務所のドアから顔を出しながら、相変わらずよく通る声でそう告げた。そしてすぐに「あ、電話中ね」と人差し指を口の前で立てて、去って行った。
 なんつータイミングの良さだよ………さっきの電話、矢上だったのか。
『はははは! マンガみたいなオチだな』
「そっちも困ると思いますけど」
『俺はそれよりも、神田さくらが何者かってことの方が気になりますけど』
 俺の口調を真似て言う。電話越しでもニヤニヤと胡散臭い顔をしているのが分かる。
『契約は守らないとねぇ』
 こいつマジでムカつくな。確かに頼んだ時に神田さくらの情報は提供するって言ったけど、こんな男に神田さくらの婚約者が元総理大臣じいさんの秘書だなんて絶対に言えない。
「別に聞き逃げするつもりはありませんよ。神田さくらは、2007年4月13日に拉致されて9日間監禁・暴行を受けた事件の被害者です。MDMA中毒の状態で倒れているところを発見されました。それ以来彼女は解離性障害で記憶を失って、みな大のメンタルケアセンターに入院していました。未だに容疑者すら上がってません」
 感情が出ないように、できるだけ事務的に話した。
『で、その容疑者が矢上? 理由は?』
「神田さくらは昨日病院で亡くなったんですが、そこで偶然矢上に会ったんです。その時、彼女が死んだ時のことを笑って話してました」
 あの時の矢上のゾッとするほど屈託のない笑みを思い出しながら説明すると、電話の向こうでニヤッと笑う気配がした。
『へぇ、完全にヤッてるだろソレ』
 人の不幸を愉しむように、そう断言した。

 

尾形澄人

 月本は視線だけを下に向けたまま、小さくため息をついた。
 そして静かに立ち上がると神田の背中を見下ろして、人形のように整った唇を最小限に開いた。
「みちる、帰れ」
 低く、けれども威圧的な声で言う。
 神田は驚いたように振り返り、月本を見上げた。
「なによそれ。尾形に話すなら私だって――――」
 そう切り返した神田を、月本は冷ややかに睨みつけて制止した。
「帰れ」
 まるで何か絶大な権力でもふるうような月本の威圧感に、神田の身がわずかに震えたように見えた。
「…………わかったわよ」
 不満気に呟くと、神田は「じゃあね」と俺を一瞥して、あっさり帰って行った。
 すげぇな。神田をこんなふうに扱える人間がいるとは思わなかった。神田の弱みでも握ってるのかもしれないけど、月本より神田の方が年下に見える。
 確かに雨宮誠一郎が気に入りそうだ。

 月本はリビングの窓から門を出る神田を確認して、空いたソファではなく、元の椅子に座りなおした。そして、少し高い位置から能面のような視線を俺たちに向けた。
「さくらの、何を知りたいんですか?」
 あれ? 神田を追い払ったのは、麻布事件について話すためだと思ったんだけど違うのか。
 つまり神田さくらの事件についても、神田に聞かれちゃマズいことがある―――?
「月本さん、もしかして神田も神奈川県警も掴んでないような情報でも持ってんの?」
 月本はほんの一瞬だけ、口元に嘲笑のような笑みを浮かべた。そしてそれを掻き消すように俺の目を射ると、まるで俺を責めるように、俺が想像もしていなかったこと口にした。
「ええ、犯人を知っていますよ」
「……………へえ」
 驚くというより、月本のその言葉を口にした真意が気になった。
 推測にすぎないけど神田さくらの事件の犯人の1人は矢上剛かもしれない。ただ、さっき月本は矢上を知らないと答えた。犯人は少なくとも3人いるはずだから、矢上以外の犯人を知っているということか?
 月本は、何を考えているんだ? 本当は矢上を知っているのか、他の犯人を知っているのか、それともただのハッタリか?
 思わず裏を読んでいると、誰よりも素直な杉本さんが人としてごく真っ当な疑問を、責めるように月本に投げた。
「それなら、どうして警察に言わないんですか」
 警察に話して捜査をすれば、共犯者も分かるかもしれない。逮捕できるかもしれない。
 それなのに警察に通報しないのは―――そう考えた俺の頭の片隅をかすめたその可能性を、月本はなんの躊躇いもなく静かに口にした。

「そんなことをしたら、殺せなくなるでしょう?」

 驚いた。
 月本が復讐をしようとしていることにじゃない。復讐して当然だからこそ、驚いた。
 愛した女がレイプされて精神まで壊され、20年分の記憶を失ったまま目の前で死んだんだ。俺だったら嬲り殺しても犯人を許せない。それに最高刑が懲役20年以下の強姦罪じゃ、どう転んでも死刑にはならない。月本が復讐を望むのは当然だ。
 けれど、だったらなんで今俺たちに、警察の人間に堂々と殺意を主張する? 本気で犯人を殺そうとしているなら、警察に気付かれないように動くのが普通なのに。
「月本さん、この人こう見えても警視庁の殺人犯捜査第2係の係長なんだけど、そんな殺人予告みたいなことしていいの?」
 杉本さんを親指で指しつつ言ってみると、月本はほんのわずかに口角を上げた。
「日本の法律では、殺そうと計画するだけなら罪になりませんよ」
「でも犯人を知っていて警察に知らせないというのは、元警察官で国会議員に雇われてる身としては、社会的制裁くらい受けても仕方ないんじゃない?」
 って、復讐しようとしてる人間にこんなことを言っても無駄だろうけど。
「社会的制裁?」
 月本は、今度ははっきりと嘲笑を浮かべて続ける。

「愛する人を殺される以上の制裁があるのなら、教えてほしいですね」

 あぁ、そうか。
 この男は、雨宮や坂崎さんとは違う。
 復讐の根底にあるのは、犯人への激しい憤りや憎しみなんかじゃない。
 この男にあるのは、気が遠くなるほど暗く、深い――――、

 絶望。

 冷たく、空虚な闇だ。
 文字通りただ犯人を殺すためだけに、生きている。
 生きている現実も、この先にあるはずの時間も、月本にとっては残骸みたいなものなんだろう。
 愛する人が殺される―――それ以上の苦しみなんて、あるわけがない。

「…………ごもっとも、だな」
 俺には無理だ。
 俺じゃ月本を止めることはできない。赤の他人がどんなに正論を言っても、自分自身の将来に何も望まない人間に響くはずがない。
 杉本さんもそれを感じたのか、言いかけた言葉を呑みこんで、膝の上で両手を握りしめていた。

 けれど、
「だったらどうして警察を辞めたわけ? 捜査するにしても、犯人を殺すにしても、警察官という立場の方がどう考えても有利だろ」
 そう質問を投げると、月本は特に表情を変えることなく、淡々と答えた。

「雨宮先生がどうして議員を辞職しないのか、わからないんですか?」

 息が、止まった。
 雨宮誠一郎が議員を続けている理由――――そんなこと、考えもしなかった。
 けれど、その理由を考えるとすべてが繋がる。

 どうして麻布事件を隠蔽したのか、どうして月本を雇ったのか、どうして月本が俺たちに殺意を隠さないのか。

 驚きを隠せない俺を見て、月本は小さく笑った。
 その笑みの冷たさに、寒気がした。

「雨宮先生も、復讐しようとしているんですよ」