始まりの日

記憶 - 20

杉本浩介

 朝9時。昨日に引き続き一ノ瀬組の事務所を張り込むために尾形を迎えに行くと、堂々と30分遅れて尾形がマンションから出てきた。
 剥き出しのノートパソコンを脇に抱えながら、車の中から右手を上げた俺に応えもせず助手席のドアを開ける。
 日曜日の午前中っていう刑事のゴールデンタイムに時間を作らせておいてこの態度とは、相変わらずなかなかの傍若無人っぷりだな。日比野が見たら発狂しそうだ。

「迎えに来させておいて堂々と30分も遅刻か」
 助手席に座る尾形を睨むと、尾形はシートの位置を調整しながら「ちょっとね」と答えをはぐらかした。罪悪感なんてかけらもなさそうだ。
「ったく。新橋でいいな?」
「いや、先に横浜」
 膝の上でパソコンを広げて、ただの気まぐれみたいに言う。
「横浜?」
「神田の実家。住所分かるだろ?」
「そりゃ昨日調べたから分かるけど―――妹の事件について聞くのか?」
 俺には麻布事件とは関係あるようには思えないが、尾形の中で何かが引っ掛かったのか?
「それもあるけど、月本慧に会いたい」
「なるほど、月本慧か」
 確かに気になる存在には違いない。
 神田さんのツテをうまく利用すれば雨宮誠一郎とのパイプになるかもしれないし、月本慧は雨宮誠一郎に雇われているわけだから麻布事件について何か聞き出せる可能性もある。ただ、婚約者である神田さんの妹が亡くなったことを考えると、このタイミングで行っていいものか。
 そんなことを考えつつ第三京浜に乗ってしばらくした時、さっきから恐ろしい速さでキーボードを叩いていた尾形が、不意に手を止めた。
「これ雨宮のパソコンなんだけど、今朝から中身解析しててさ」
 遅れた理由はそれか。まぁ遅れたことはこの際置いといて。
「雨宮の許可は――――」
 念のため聞いてみたが、予想通りの答えが返ってきた。
「まさか」
「だろうな。携帯よりタチ悪いぞ。バレたら破局だ」
「破局が先か、逮捕が先か賭けてみる?」
「逮捕?」
 思わぬ単語に横目で尾形を見ると、無表情のままディスプレイを見据えていた。どうやらかなり機嫌が悪いみたいだ。
「あいつ、みな大と神奈川県警のサーバーをハッキングしてたんだよ」
「おいおい………シャレになんねーな。退学させられるぞ」
 せっかくいい大学に入ったのに台無しだ。何考えてるんだ。
「だな。まぁ、バレるようなやり方はしてないみたいだから大丈夫だとは思うけど、正直ここまでとはね」
 いくら軽犯罪だろうと、もし発覚したら余罪の数によっては退学だけじゃ済まない。そのくらい雨宮自身も、十分わかっているはずだ。つまり、雨宮は法を犯すほど犯人捜しに躍起になっている。
「一昨日倒れたことといい、そこまで血眼になって何を調べてたんだ、雨宮は」
 ため息混じりに聞くと、尾形はなんでもないことのようにサラッと。
「2年前の神田さくらの事件が矢上の犯行だと思ってるみたい」
 は?
「嘘だろ?」
 思わず時速80キロで運転中ということを忘れそうになった。
「間違いないのか? っていうかあいつ、矢上を知ってるのか?」
 神田さくらについては心臓移植を見たらしいから知っていても不思議じゃないが、矢上剛に関しては二課でさえ極秘扱いだった情報だ。そう簡単に知られるわけがないと思っていたが。
「間違いないね。ログの中に奥田和繁の名前も入ってるから、矢上が隠し子だってことも知ってるみたいだ」
「そんな情報、誰から―――――」
 そう考えた俺を、尾形が苛立ったような口調で遮った。
「そんなことどうでもいい。問題はその先だ。雨宮は、矢上と雨宮雅臣の繋がりも探ってる」
 矢上剛と雨宮雅臣?
「おいおい、なんでそうなるんだ? 奥田和繁との繋がりを調べるならわかるけど………」
 飛躍しすぎている。普通に考えればただの大学生の矢上が雨宮雅臣が直接繋がっているとは考えない。矢上の父親が国会議員の奥田和繁だと知っているなら、まずは奥田と雨宮雅臣の関係を疑うのがセオリーだ。
「でも雨宮は、矢上と雨宮雅臣の直接の繋がりを調べている」
 尾形はキーボードを叩きながら不機嫌にそう繰り返した。
「…………何かあるってことか」
 雨宮が独自に麻布事件を調べているうちに、俺たちの知らない情報を手に入れた可能性はかなり高い。それに、雨宮はまだ17歳とはいえ、尾形が自分より上だと認めるくらいの頭脳だ。
「なんというか、衝撃だな………俺たちより雨宮の捜査の方が進んでいるような気がしてきた」
 思わず溜め息が出た。
「実際に俺たちより進んでるだろ」
 尾形はそう言うと、ノートパソコンを乱暴に閉じてバックシートに放り投げた。
 顔を見なくても隣から不機嫌なオーラがヒシヒシと伝わってくる。雨宮がハッキングしてたことに腹を立てているのか、俺たちより先を歩いていることが気に入らないのか。まぁ、両方だろうけど。
「…………で、尾形はどう考えてるんだ?」
 とりあえず尾形の考えを聞くと、尾形は少し間をおいてから流れるように話しはじめた。

「始まりは2年前の神田さくらの拉致監禁事件だ。
 犯人の1人は矢上剛だったけど警察は矢上にたどり着くことなく、被疑者すら特定できないまま時間が過ぎた。
 その翌年、雨宮雅臣が、奥田和繁のいる永和会と関東屈指の暴力団の皆川会の癒着を知る。それを調べる過程で、奥田和繁に矢上剛という隠し子がいることを突き止め、接触した。―――と、ここで疑問が生まれる。
 雨宮雅臣は、何のために矢上に接触したのか?
 雅臣は親の不正に子供を巻き込むような男じゃない。つまり矢上に接触した理由は奥田の不正以外にあるということだ。その理由が神田さくら関連だとしたらどうだろう? 矢上を犯人だと疑って直接矢上に問い詰めた可能性は大いにありえる。それどころか、自首を促した―――――」
「ちょ、ちょっと待て待て待て」
 慌てて尾形の話を遮って車を高速の路肩に寄せた。とてもじゃないが、運転しながらではついていけない。
「はあ? なんだよ。最後まで聞けよ」
 尾形は相変わらず不機嫌なまま、俺がつけ忘れたハザードのボタンを押した。その礼を言う余裕もないくらい俺の頭はパンク寸前だ。
「いやだっておまえ、俺はてっきり矢上と雨宮雅臣の繋がりについて話すんだと思ってたから心の準備が――――」
「あ、そう。じゃあ準備しろよ。待っててやるから」
 なんだろう、この馬鹿にされた感は…………。いや、今はそんなこと言っても仕方ない。
「…………じゃぁまず聞くが、雨宮雅臣が永和会と暴力団の癒着を知ったのはどうしてだ?」
「そんなの知らねーよ。坂崎さんが知ってたって言ったんだから知ってたんだろ」
 投げやりだが、確かにそのとおりか。
「じゃあ矢上剛が隠し子だってことは――――」
「二課でも分かったんだから、雨宮雅臣の耳に入っても不思議じゃない」
 まぁ総理大臣の息子で雨宮の父親だしな………。でも雨宮雅臣が矢上に奥田の不正ではなく神田さくらの事件について問い詰めたというなら。
「それじゃ、雨宮雅臣は神田さくらの事件をどうやって知ったんだ?」
「矢上の周辺を調べていく過程で知ったと考えるのが妥当だろうね。神田さくらサイドから調べて矢上にたどり着けなくても、矢上サイドから調べたら神田さくらに突き当たる可能性は高い。俺の見立てでは、犯人は神田さくら個人に異常な執着心と支配欲を持っているはずだからね」
 この際、どうして犯人が執着心と支配欲を持っているのかは尾形のプロファイルを信じるとして、まぁ、つじつまは合っているな…………。
「続き、説明していい?」
 尾形が腕を組んで冷めた目で俺を睨みつけた。完全に馬鹿にされてるな。
「ああ、たのむ」
 尾形は正面を向いたまま、淡々と続けた。
「雨宮雅臣に神田さくらのことを問い詰められ、相当焦ったはずだ。麻薬取締法違反に強姦致傷だからね。でも幸い矢上の父親は、雅臣の父親に任命された民自党の幹事長・奥田和繁だ。矢上は奥田に雅臣を黙らせてほしいと泣きつき、自分の隠し子に犯罪者になられては困る奥田はそれに応じた。
 最初は脅迫みたいな形だったはずだ。事件から手を引かなければ殺すとかなんとか。まぁ、それ以前に雅臣にはかなりの葛藤があったと思うよ。奥田のスキャンダルは任命権者である総理の足元を大きく揺るがす。1人の女を精神崩壊まで追い詰めた犯人の逮捕を優先するか、父の雨宮誠一郎の総理大臣という地位を守るか」
 そこで一旦言葉を区切ると、ゆっくりと視線を伏せた。
 尾形は生前の雨宮雅臣と面識がある。何か思うところがあるのかもしれない。
「雅臣がそうやって迷っている時間は、矢上と奥田にとっては蛇に睨まれたカエルみたいな心境だっただろうね。さすがに耐え切れなくなって、皆川会の深川と川井に雨宮雅臣の殺害を依頼した。ここまでいい?」
「ああ、大丈夫だ。それにしても、少ない情報でよくここまでの推理ができるなぁ」
 あまりの滑らかさに感心すると、尾形にまた睨まれた。
「呑気だね、杉本さん。これ、雨宮にとってはものすごい残酷な憶測だったんだけど」
「残酷?」
 口封じのために親が殺されたというだけで十分残酷だとは思うが、それ以上に何かあるのか?

「この憶測が正しければ、雨宮誠一郎はすべてを知っていた、ということになる」

 

尾形澄人

「すべてって、今話したこと全部か? 犯人が誰なのか、知ってるということか?」
 杉本さんが目を見開いて確認する。
「ま、奥田の不正だけは知らなかったかもしれないけどね」
「なんでそうなるんだ?」
「理由はいくつもあるから省略するけど、大前提として、雨宮雅臣が父親に何も相談しなかったとは考えられないだろ」
 俺の知っている雨宮雅臣は、人に素直に頭を下げることのできる男だった。自分のすべきことから目を逸らさない強さを持った男だった。何より、父親を尊敬し、父親の仕事を誇りに思っていた。
 そんな人間が、独りで困難に立ち向かおうなどと考えるわけがない。
 杉本さんは一瞬眉を寄せたけれど、すぐに納得したように細かく何度も頷いた。
「そうか。知っていた上で、麻布事件を隠蔽したということか………」

 すべては、雨宮陽生のために。
 雨宮に、あの惨劇を思い出させないために、復讐をさせないために。
 健やかに育ってほしいという、平凡すぎる願いのために。

「―――――というのが、雨宮の推測だよ」
 締めくくりにそう付け足すと、杉本さんはハッと顔を上げて、文字通り驚愕の表情を俺に向けた。
「は―――――?」
「言ったろ、あいつは俺よりも頭がいいって。今俺が話した内容と同じ憶測をしているはずだ」
 昨夜の、俺に縋るような態度はこのせいだ。
 ハッキングで神田さくらの事件を知り、矢上の犯した罪を知り、頭の中で繋がっていく点と点を、どんな思いで見ていたんだろう。

 雨宮の心にこびりついて離れない復讐心と殺意―――それと同じものが雨宮誠一郎の中にもあったはずだ。
 そして、その相手はすぐ手を伸ばせば殺せるところにいる。
 同じビルで仕事をし、同じ部屋で会議をし、信頼して仕事を任せていた男だ。

 雨宮は自分を責めたはずだ。
 祖父は雨宮に復讐させないために自らの良心と人生のすべてを捨てた。子供を殺された親としての尊厳を捨て、煮えたぎるような復讐心を捨てた。
 雨宮は、それを知ってもなお殺意に染まっていく自分を嫌悪したはずだ。
 きっと、自分が生きている現実さえ否定するほどに。

「―――――尾形、大丈夫か?」
 突然、杉本さんに言われて驚いた。
「え?」
 まさか俺の心配をされるとは思ってなかった。
「いや、まぁ俺はムカついてるだけだから」
 そう答えながらも、杉本さんの鋭さに焦った。鋭さ、じゃないか。優しさだな。大切な人を苦しみから救えない辛さを知っている。
「ならいいが…………雨宮は辛いだろうな」
「まぁ、かなり落ち込んでたよ」
「俺に何かできることがあればいいけど………」
 その心配そうな顔を見て、思いのほかホッとした。雨宮の苦しみを理解しようとする人がいるということが、きっと雨宮の力になる。そう思うと、一気に心が軽くなった。
「落ち込んだ時ってさ、体を動かすのが一番だよな」
「なるほど。じゃあ今度バッティングセンターにでも誘ってみるか」
 大真面目でそんなことを言う。さすが杉本さんだ。
「いやもう大丈夫だと思うよ。取り急ぎ、昨日の夜は激しく交わっておいたから」
「まじわっ………………」
 杉本さんは大げさにぎょっとしてから、でかい溜め息をつきながらハンドルに顔を伏せた。
「…………………そうだな、おまえはそういう奴だったよな」
「よく分かってんじゃん」
 ハンドルに頭を付けたまま俺の方を向いてジロリと睨むと、何か文句を言いたそうに口を開きかけてやめる。それからしかめっ面のまま起き上がると、ハザードを消してギアをドライブに入れた。
「あぁ雨宮が心配だ。本っ当に心配だ」