始まりの日
記憶 - 19
雨宮陽生
救急の搬入口から病院を出ると、霊柩車が目の前をゆっくりと横切った。黒い車体に反射した西日がまぶしくて目を細めた。
タイミング的に、月本の婚約者が乗っている車かもしれない。
好きだったんだろうな。
業平の歌みたいに、忘れられればと思ってしまうほど、彼女を好きだった。
だから月本は今、悲しいとか悔しいとか、そんな言葉なんかじゃ足りないほどの激痛にさいなまれて、呼吸の仕方も忘れるくらい苦しんでいるはずだ。
けれども月本は、この先ちゃんと立ち上がって生きていく。少なくとも、俺はそれを見てきた。今年の秋にはしっかりと俺の前に立っていた。2021年の春の月本は、確かに幸せになっている。
だから月本は大丈夫だ。
月本は、大丈夫だ。
小さくなる霊柩車を眺めながら歩き出した時、背後から聞きたくない名前が耳に入った。
「あれ、深山君?」
まさか、深山ってあの深山じゃねーよな?
こんな所でこんな気分の時にあいつに見つかったら最悪だ。ここは早々に立ち去ろう、そう思ったけれどその呼びかけに応える声がしなかった。
あの深山のバカでかい声が聞こえないわけがないから、違う人だったのかもしれない。とはいえ一応最悪の事態を想定してそろりと振り返ると、思いもしない男が俺を見て立っていた。
「え―――?」
なんでコイツがここにいるんだ?
深山よりありえねーだろ。
「あぁ、やっぱり深山君だ」
矢上剛は、誠実そうな顔を綻ばせて俺に歩み寄った。
「こんな所で会うなんて驚いたよ。お見舞い?」
「あ、はい。知り合いが入院してて」
心臓移植の件は立花先生から口止めされてるから当たり障りのない答えを返すと、それにかぶせる勢いで矢上は「僕は」とどこか興奮したように話しだした。
「僕はバイトの友達の手術だったんだ。あ、はなぶさの会の前にやってたバイトなんだけどね。心臓の大手術で日本じゃあんまり症例ないみたいだから心配してたんだけど、大成功だったよ」
え――――心臓って、移植手術?
「でもさ、今回の手術は一旦心臓止めてやったみたい。なんだか人の命を支配してるみたいで凄いよね。止めた心臓が動かなくなる可能性もあるわけだし、最初にこんな手術しようと思った医者って本当に凄いよね」
思わず驚きを隠せないでいる俺を気にも止めず、まるで映画の感想を語るように言う。どこか現実味がないというか、楽観的というか。
だから、ぞっとした。
もし矢上の話している手術が心臓移植だったとすると、矢上のバイトの友達は、提供者ということだからだ。なぜなら移植患者はまだ15歳の女の子で、移植を受けなきゃいけないほどの心臓でバイトなんて出来るわけない。
間違いなく、矢上の言うバイト友達は神田さくらだ。
矢上の友達が死んだ手術だ。それなのに、こんなに屈託なく笑えるもんか?
いくら覚悟ができていたとしても、友達の死を目の前にして、手術の凄さなんか意気揚々と語れるか?
「そのバイトの友達って――――」
慎重に探りを入れようとしたけれど、矢上は腕時計を見てそれを遮った。
「あ、ごめん! 急いでるから先に行くね。明日待ってるから。あと身分証忘れないで持ってきてね!」
早口にそう言うなり、駅の方に颯爽と走って行った。
小さくなる矢上の背中を見つめながら、頭の中で繋がった1つの憶測に、背筋が凍った。
矢上は神田さくらの死を喜んで―――いや、違う。俺の憶測が正しければ、矢上は神田さくらが死んだことじゃなくて、神田さくらの心臓が他の人間に受け継がれたことに、満足している。
まるで全能の神にでもなったように、人間の生命をコントロールしているという満足感だ。
あの日、父さんの命を弄びながら奪った殺し屋の、歪んだ笑みを思い出した。
嬉々とした目で人を惨殺し、獲物を見下ろして満足気に笑う。
自分の計画通りに人を傷つけ、追い込み、命を支配しているという優越感に浸る。
矢上も同じだ。
少なくとも神田さくらの生死を支配したしたつもりになって、楽しんでいる。
全身にじわりと冷たい汗が滲みだした。
神田さくらと矢上はどういう関係なんだろう。
月本はどこまで知っているんだろう。
そして父さんは、矢上と何を話したんだろう。
尾形澄人
玄関のドアを開けると、いつもは灯りのついている廊下が暗く静まり返っていた。
けれど、雨宮がまだ帰っていないとは思わなかった。夕食の―――ビーフシチューの旨そうな匂いがしたからだ。
省エネに目覚めたとか?
皮肉まじりにそんなことを考えながら靴を脱いでリビングに行く。俺が開けたドアの音に気付いて、雨宮がソファから俺に背中を向けてむくりと起き上がった。
ローテーブルの上に置いたノートPCのディスプレイが白く光っているおかげで、照明は付いていなくても室内は薄暗く照らされていた。
「なんだ、寝てたのか」
そのPCで何を調べた? そう聞く代わりに言いながら、照明のスイッチに指を重ねた時、
「つけないで」
背中を丸めたままかすれた声で言う。
心当たりはある。あるけれど、あえて気付かないふりをする。
「それ、誘ってんの?」
んなわけあるかエロ公務員、とか返ってくるのを予想して言ったのに、雨宮は振り向きもせずに沈黙だけを返した。
本当にうんざりするほど、心当たりがある。
雨宮が怒り狂いそうな事実も、絶望しそうな真実も、とっくに飽和状態だ。
それでも俺はただ何も知らないふりをして、雨宮の傍で雨宮の復讐心の枷になって、雨宮の先回りをするしかない。
「照明ないと見えないんだけど?」
ドアの枠に寄りかかって会話を続けた。
雨宮は少し間を置いてから独り言みたいに。
「………だからつけるなって言ったんだよ」
「ビーフシチューは? 作って待っててくれたんだろ?」
「…………明日のがうまい」
「そりゃまぁ煮込みだしね。――――じゃ、パソコン使いたいんだけど」
「俺が使ってる」
「テレビも見たいし」
「ワンセグでも見れる」
珍しいな。こんな駄々をこねる子供のような雨宮は滅多に見られない。
「じゃ、パソコンの後ろにある新聞取って」
「……………」
無視、か。
それでも自分の部屋にこもらずにリビングにいたってことは、俺を待っていたってことだろ?
だから俺がここで引いたら、また怒るんだろ。
「で、腹減ったんだけど―――」
「もいいからさっさと来いよ!!」
正直、その口調の強さに驚いた。けれども、直後に思わず顔がニヤけた。
顔なんか見えなくても分かる。羞恥心を隠すような、自棄になったような、そんな言い方。
本当に誘ってたわけだ。
その縮こまった背中に歩み寄る。
雨宮はピクリともせずに、俺を待つ。
ソファの脇を抜けて雨宮の正面に回り込んで、雨宮の向かいのローテーブルに座った。
「お待たせしました、ご主人様」
俺のセリフへのツッコミはなく、唐突に、雨宮の悲痛に潤んだ目が俺を捉えた。
必死で涙をこらえるように、痛みに耐えるように。
助けを求めるように。
「――――どうした?」
気遣うフリをしながら、その濡れた上目使いに欲情した。
いや、確実に、それもかなり重大な何かがあったはずだ。それは分かる。
けれども、雨宮が俺を求めているという現状に、血液が躍動した。
激しい痛みに耐えながら、俺を好きだと、全身で叫んでるような――――。
狂おしい、という言葉が浮かんだ。
そっと雨宮の頬に右手を添えると、雨宮の体がビクッと震えた。
かまわずに顎を引き上げて、親指で固く結んだ下唇をなぞる。
ぎこちなく誘うように弛んだ唇に中指を差し込む。遠慮がちに、舌が絡んできた。上顎を撫でて頬の裏の柔らかい肉をゆっくりと指で犯す。唾液の水音と雨宮の苦しそうな呼吸が部屋に響く。二本の指で舌を挟みながら擦ると、飲み込めなかった唾液が口の端からつたい落ちた。
「エロい顔」
「っ…………は、ァ………」
俺の指を咥えたまま、反論するように睨みつける。
説得力のないそのわずかな抵抗はただの強がりだ。
「何も考えられなくしてやるよ」
それが、おまえの望みだろ。
雨宮は頷くように瞼を閉じた。
あとどのくらい痛みに耐えれば、雨宮は解放されるんだろうか。