始まりの日
記憶 - 10
尾形澄人
「しまった…………」
走り出したタクシーの中で、携帯を白衣のポケットに入れっぱなしだったことに気付いた。
取りに行くにしても、もう待ち合わせの時間ギリギリ。連絡もせずに遅刻なんてしたらあっさり帰られそうだ。実際、過去に10分の遅刻で帰られたことがある。
つまり選択肢は、用が済んでから取りに戻る、しかない。
このまま家に帰るつもりだったのに。
「はぁ…………」
すれ違う車のライトを眺めながら、ため息が出た。
雨宮のせいでこんなに他のことが疎かになってるのに、なんで一ノ瀬なんかのことで動いてるんだよ。
タクシーを降りて、約束より2分遅れでタリーズコーヒーに入ると、窓際のカウンターにキッチリとダークスーツに身を包んだ相沢が座っていた。
マグカップを片手に文庫本を読んでいて俺には気づかない。
何を読んでるのか後ろから覗き込んでやろうという俺のささやかな陰謀は、あと数歩というところで遮られた。
相沢は特に驚くこともなく、まるで俺が背後にいたのを分かっていたかのように本を閉じて、振り向いた。
「注文は?」
彼特有の、柔らかな笑みを浮かべて言う。
「久しぶりに呼び出しておいて、挨拶もなし?」
「まだなら奢ろうと思ってたんだけど」
一応は負い目を感じてるわけか。
「じゃあ、お言葉に甘えて、ショートラテ、ショット追加で」
隣に座りながら遠慮なく頼むと、相沢はわずかに口角を上げただけで、何も言わずに席を立った。
『一ノ瀬組に大仏みたいなホクロがある若い組員いる?』
と、晶から聞いた一ノ瀬組の構成員についてメールを送ったのが2時間前。
直後に返ってきたメールは、
『外堀通り 内幸町 タリーズ 19時』
って…………検索キーワードかよ。
まぁ、こっちは大した期待もせず相沢に聞いてみただけなのに、相沢にとってはどうやら重要人物だったみたいだ。
少なくとも、証拠の残るメールでは、教えられないくらいには。
「雨宮君は元気?」
何の前触れもなく聞きながら、相沢はマグカップを俺の前に置いて、隣に座る。
今の俺にそれを聞くか。
「気になるなら自分で聞けば?」
多少の八つ当たりを込めて言うと、相沢は小さく笑った。
「そうだな。尾形とうまくいってないなら、俺の家へ来ればいいしね」
――――は?
「冗談だろ?」
いくら雨宮を気に入っていても、秘密主義どころか超極秘主義の相沢が自分の個人情報を開示するとは思えない。それでも、こいつの冗談とは思えない口調のせいで、思わず相沢の顔をじっと探った。
何を考えているのか分からない生まれつき口角の上がった唇と、少しも揺らぐことのない眼。
「冗談だよ」
相沢は本当に冗談だったのか疑ってしまうほどいつもと同じ顔で流すと、「メールの男の件だけど」とあっけなく本題に入った。
微妙に残ったシコリを保留にして、相沢のペースに乗ることにした。
「どこで知った?」
「一ノ瀬組には大仏顔の男は1人しかいないわけ?」
一応確認すると、相沢は至ってまじめに。
「そうだね。彼は基本的に人間の顔をした人間しか傍に置かないから」
「ははは、ひっでー。大仏は人間の顔じゃねーんだ」
一ノ瀬が顔で構成員選んでるってのは、大いにありえそうで笑える。けれど、顔で選ぼうが脳で選ぼうが、やってることは犯罪だ。
「ある女子大生がクスリ漬けにされて、たぶん売春させられてるんだろうな。その一連のグループを仕切ってるのが、一ノ瀬組の大仏男だっていう話を聞いた。情報源はその女子大生の同級生。ごく普通の一般人だから信用できる」
俺の説明に相沢は何の感情も見せずに耳を傾け、そのまましばらく間を空けた。そして。
「名前は高橋幸二 25歳。川井の側近だ」
「川井………皆川会の川井正男?」
驚いた。
川井正男は、現時点で麻布事件の真相に一番近い人間だ。
たかが25歳の側近が幅きかせてるってことは、川井が今でもかなりの力を持っているということになる。それはつまり。
「川井は、顔を変えて香港から帰国してる」
相沢はそう付け足した。
川井は麻布事件の際に香港に逃亡した。あの事件で深川も黒田も逮捕されて、川井と組んでいた深川はつい4日前に疑惑の獄中死。どう考えても殺されたとしか思えない。それもあって、警察は川井の指名手配を名目上「強盗致傷」で去年より強化している。
いくら整形してたからって、そんな状況で、香港から帰って来たっていうのか?
「――――それ、間違いない?」
「顔を変えたり指紋を消すことはできても、声紋はそう簡単には変えられないからね」
声紋鑑定済み、ってか…………。
公安はすでに、声を録音できるくらい川井に近づけているということになる。そんなこと捜査一課の連中が聞いたら、歯軋りするくらい悔しがるだろうな。
それに、雨宮が知ったらどう思うだろう。
金で雨宮夫妻殺害の依頼を請け、殺し屋を手配した男が、整形してのうのうと生きてると知ったら。
憎悪が膨らんで、抑えられないかもしれない。
ひとりで川井を探し出して、殴りこむかもしれない。
「いつ戻ってきてたの?」
「1ヶ月前。香港で大量の覚せい剤とMDMAを仕入れて持ち込んだみたいだ。それで一山築こうって魂胆なんだろうね」
「中国じゃ売人は捕まったら死刑だからな」
その点、日本ではどんなに刑が重くても無期懲役で、大人しく服役してれば十数年後には仮釈放だ。まとまった金を手に入れたらまた海外に逃げるつもりなんだろう。
「そこまで分かってて、なんで公安は逮捕に踏み切らないわけ?」
川井は深川の下で暗殺屋みたいなことをしていた。その依頼人を知っている可能性があるわけだから、公安としては早いところ拘束したいはずだ。
「川井を香港から呼び戻した協力者がいるはずだろ?」
「なるほどね。川井を泳がせて、その協力者が誰なのか調べてるってわけか」
確かに川井の帰国を手引きした協力者がいるはずで、俺はそれが一ノ瀬だと思っていた。でもこの相沢の口ぶりじゃ、一ノ瀬は麻薬を売りさばくための縄張りだけ貸してるんだろう。
たぶん相沢は売り上げ金の流れを探ることで、協力者をつきとめようとしている。
「で、誰だと睨んでんの?」
公安はあてもなく捜査をするような組織じゃない。それなりの目星はついているはずだ。
相沢はゆるりとマグカップを口に運んだ。そして、帰路を急ぐサラリーマンの群れを眺めながら、脈絡を無視した話を始めた。
「16年前、ある新聞記者がビルの屋上から転落死した。当時その新聞記者は、厚生省の麻薬取締官が押収した覚せい剤を皆川会に不正転売しているという情報を入手して調べていた。記者は、死ぬ3日前、決定的な証拠を手に入れたと編集長に電話で話していたが、記者の所持品の中には、麻薬取締官の資料は一切なく、愛用していた手帳も消えていた。数日後、遺書ともとれる内容の手紙が息子宛に届き、転落死事件は自殺として処理された」
見事なまでに表情を変えずに、訴状を読み上げる検事のように淡々と事実を羅列する。
その事実から浮かび上がってくるのは、その記者が口封じのためにマトリに殺されたという可能性だ。右翼担当の相沢が捜査しているということは、マトリが横流しした覚せい剤が、右翼系暴力団の資金源になっていたんだろう。
そして、今こんな話をするってことは。
「そのマトリが、川井を手引きした?」
16年前からマトリだったことを考えると、今はそれなりの地位についているだろうから、少しくらい情報操作ができても不思議じゃない。そう考えると、川井が大量の麻薬を持ち込んで売り捌いていられる理由も説明できる。いや、そもそも川井が売っている麻薬は香港から持ち込んだものじゃなく、そのマトリが横流ししたものだという可能性もある。
相沢はわずかに口角を上げて、小さく頷いた。
「川井を拘束したら、16年前のことも麻布事件のことも、わかるかもしれないね」
「一石二鳥? そううまくいくかな」
リスクは大きい。
指名手配で整形までしてる人間がそう簡単にボロを出すとも思えない。それに、警察が川井を拘束する兆しが強ければ強いほど、川井の口を封じたい人間は、川井を殺そうと動き出す。
深川が獄中で殺されたことを考えると、かなり強引な手を使ってきそうだ。
まぁ、その辺りは公安に任せるか。優秀みたいだし。
にしても。
「で、相沢はなんで俺にそんなに情報くれんの?」
交換条件も出さずに、極秘情報をペラペラ喋るなんてのは相沢らしくない。
「尾形にじゃない。雨宮君にだよ」
相沢はあっさりそう答えると、また表通りのサラリーマンを眺めて、コーヒーを一口飲んだ。
つーか、こんなこと雨宮に言えるわけ、ないだろ…………。
雨宮陽生
母さんの鼻歌が微かに聞こえて、目が覚めた。
遠くにいると思ったのに、母さんは俺のベッドの足元に座り込んで、ベランダから取り込んだ洗濯物をたたんでいた。
この歌、なんだっけ………あぁ、青山テルマの「そばいるね」だ。この頃はどこに行っても流れてて、母さんはこんなふうによく家事をしながら口ずさんでた。
母さんの鼻歌はいつもサビの無限ループで、今考えるとちょっと笑えるけど、まだ4歳になる前の俺は母さんの声が心地よくて好きだった。
寝返りをうって声のするほうに体を向けると、俺に気付いた母さんが鼻歌をとめた。それからチラッと壁の時計見て。
「すごい、ぴったり20分。保育園のお昼寝って習慣になるのね。ブツブツ痒くない?」
言いながら畳みかけのタオルを置いて、俺のベッドに寄る。
そうだ。この日の朝、俺は水ぼうそうになったんだ。
「痒かったらお薬塗ってあげるから掻く前にすぐに言うのよ? 痕残っちゃったら大変なんだから」
言いながら俺の額にそっと手を乗せる。
その手がひんやりと冷たくて気持ちよかった。
「うん。水ぼうそうって、予防接種ないの?」
予防接種をしてたら、こんなに苦しい思いしなくてよかったのに。そう思って聞くと、母さんは少し驚いたように。
「あるけど、陽生は注射嫌いでしょ?」
「嫌いだけど、痒いほうがヤダよ。痛いのは一瞬なのに痒いのはずっとつづくもん。それに結局きのう注射されたよ」
そう言うと、母さんはにっこりと笑った。
「じゃぁよかった。おじいちゃんが『なんでも予防してたら強くなれん。子供の頃の苦労なんて病気ぐらいなんだから水疱瘡くらい貰ってこい』って言うから、お父さんもお母さんも、そうよねって思って受けさせなかったの」
つまり俺が痒い思いをすれば、その苦労分だけ強くなれるってことだったみたいだ。いかにもじいさんらしい考え方だけど、その頃の俺には、ただの迷惑でしかなかった。
「………もらってくるのはオレなのに」
「ふふふ。でも熱はあんまり出てないし、やっぱり陽生は強い子ね」
嬉しそうに微笑む母さんを見て、俺も嬉しくなった。
それからすぐにじいさんが仕事を合間を縫って俺の様子を見に来て、秘書にせかされながら10分くらいで帰って、夕方、今度は父さんが来て、1時間ぐらい一緒に本を読んでくれて、また仕事に戻って行った。
俺が病気になると、家族が帰ってくる。
仕事でほとんど会えない父さんが、俺を心配して駆けつけくれる。
そんなの家族なら当然のことだとは思っていたけど、俺のせいでみんなに迷惑をかけたような気がして、元気なふりをした。
嬉しかったけど、早く直さなきゃいけないと思った。
早く、強くならなきゃいけないと思った。
「…………ぁ、れ?」
目が覚めると、薄暗闇の中で尾形がベッドに頬杖をついて俺をじっと見ていた。
夢の中の母さんとダブって、一瞬戸惑った。
家族でもないのに、どうして尾形がこんなことするのかわからない。枕元で看病されるような病気でもないし、あのときみたいに心配されるような年でもない。
何よりも、俺は尾形に優しくされるような人間じゃない。
「大丈夫か?」
尾形の俺を気遣う台詞が白々しく聞こえた。
「平気。薬飲んで寝たらラクになった」
できるだけ普通に、今までと同じように、けれども付け入る隙のないように言うと、尾形は小さく息をついた。
「よかった」
尾形はどこか困ったような笑みを作って、俺の額に張り付いた髪の毛をそっと梳いた。
その手が、思いのほか優しくて、跳ね除けたくなった。代わりに体を起すと尾形が手を引いて、じっと俺を見つめた。
――――犯人を目の前にして本当に殺意を抑えられるのか?
おまえに抑えられるわけがない。おまえは人を殺すために生きる、醜い人間だ。―――尾形は、そういう目で俺を見ている。
自分の感情を、コントロールできなくなりそうだ。
「そんな顔するなよ」
尾形が小さくため息をつきながら、ベッドの隅に座り直した。
「…………やっぱり、起きるの待ってて正解だったな。絶対に勘違いしてるだろ」
そう言って、事務的に一気に続ける。
「まずは、2つ、言いたいことがある。
1つ目、蟻ヶ崎の弟と、会ったんだろ。あいつとは確かに付き合ってたけど、2年前のことで、今回も一方的にむこうが来ただけで、俺は別になんとも思ってない。何言われたか知らないけど、俺は雨宮しか見てないから。
2つ目。今日携帯に出れなかったのは、科捜研に携帯を置き忘れて打ち合わせに出たから。取りに戻ったら充電切れてた。着信が14回も入ってたから、バイブでバッテリーが力尽きたみたいだ。これについては深山に文句言っておけ」
その言葉のどれもが、俺の耳を素通りした。
そんなこと、どうでもいい。
尾形が誰と何をしようと、どうだっていい。
だって尾形は。
「尾形は、俺が人を殺すと思ってるんだろ」
口にすると、思った以上に堪えた。
わかってる。
自分でも歯止めがきかないくらい、感情が暴走する瞬間がある。
あんな残酷な方法で俺から父さんと母さんを奪った、自分の手を汚さずに殺し屋なんか雇って殺した卑劣な人間の命を、俺はこの手で終わらせたい。
今すぐにでも犯人を殺したいと、心の底からそう望んでしまう醜くて弱い人間だ。
だから、麻布事件のことになると他のことなんてどうでもよくなって、一心不乱に犯人を追ってしまう。
けれど、いつも俺の暴走を止めてくれてたのは尾形だ。尾形だけは、俺の殺意を否定してくれてると思っていた。そうであって欲しいと―――――。
「殺すだろうね」
その躊躇のない、はっきりとした口調が、みぞおちに沈んだ。
尾形を見ることができなかった。ただシーツを握り締めた両手を、じっと見つめた。
バカだな、俺…………いまさら何を期待していたんだろう………。
「本気で殺したいんだろ。憎しみをぶつけたいんだろ?
おまえのその感情を消すことは、俺にできない。俺が同情したり、雨宮の立場になって想像したところで、おまえはそんなことを望んでないしだろうしね」
俺が否定することができないと分かってて、露骨な言葉で、俺の心を容赦なくかき乱す。
いつも、俺が傷つく言葉を選んで。
「だから雨宮の気が済むまで事件について調べればいいし、そのために俺に協力できることがあれば、できるだけ力になる。でも、―――――」
ふいに、ベッドが軋んだ。
尾形が俺の真横に手をついて、強引に俺の顎に手をかけて顔を上げる。至近距離で尾形の揺るぎのない目が飛び込んできた。
「でも雨宮は、自分の中にある殺意が許せないんだろ」
え―――……………?
「だったら、俺は全力で雨宮の復讐を阻止してやるよ」
真っ直ぐ見据える両眼に、吸い込まれそうになった。
「間違えるな。俺はおまえの中に殺意が無かったことにはしない。殺意が存在しないなんていうマインドコントロールに頼るな。
俺は、殺したいという感情に必死で抵抗している雨宮を、愛してる」
一瞬で、痛いくらいの緊張が解けたような気がした。
「自分の殺意と戦っている限り、雨宮は綺麗なんだよ」
嘘みたいに――――。
ずっと心臓に淀んでいた澱が、溶け出した。
冷え切った体に血が通い始めて、じんわりと温かくなるのを感じた。
こんな言葉ひとつに、心が満たされたような気がした。
「よかっ………た…………」
涙と一緒に出たのは、安堵だった。
そうか、俺はこんなにも不安だったんだ。
嬉しさよりも何よりも、ホッとして全身の力が抜けた。
俺は、尾形に見放されたんだと思っていた。
復讐心を捨てられない俺を、見放したんだと思っていた。
結局俺は、尾形に認めてもらうどころか、尾形とつながることもできないんだと。
誰とも関われない、汚い人間なんだと。
そっと尾形に抱き寄せられた。
「陽生、好きだ」
痛みを押し殺すような、掠れた声。
何度も聞いた単語なのに、まるで別の言葉みたいに俺の心に染み込んできた。
「陽生」
尾形が俺を呼ぶ。
その声が優しくて、心地よくて、体の芯が震えた。
もっと、その声を聞きたい。
もっと、近づきたい。
尾形に触れたい。
たぶん俺はずっと、他の誰でもない、尾形に認められることを望んでいたんだ――――…………。
尾形澄人
「抵抗しなくていいの?」
抱きしめたまま耳元でいつかと同じ言葉を言うと、わずかに雨宮の体が震えた。
俺は、おまえを離したくない。
離したくないけれど、俺が拘束したんじゃ、何の意味もない。
雨宮が自分で俺に歩み寄らなかったら、今までと何も変わらない。
おまえは、なんて答える?
頼むから。
応えてくれ。
祈るように、細い体を抱きしめた。
大丈夫。
俺の想いは伝わっている。
俺を押しのけないのは、雨宮が俺に歩み寄った証拠だ。
雨宮が、俺を手放したくないと思っている証拠だ。
それから静かに息を吸う音がして、はっきりと俺の耳に届いた。
「…………………離せよ」
体中の血液が、凍りついた。