始まりの日

記憶 - 9

杉本浩介

 人間の記憶ってのは、曖昧で不安定で、本人の心の状態によって簡単に書き換えられてしまう。
 だから、事件について妙に詳しく証言できる人間には、どうして詳しく覚えているのか必ず聞くようにしている。そうすると、たいていは印象深い出来事と重なっていたか、脚色しているかのどちらかだ。
 後者の場合、悪意がなければないほど、本来の記憶が曖昧になる。
 羽田にほど近い多摩川河口の堤防でチワワを散歩中のこの40代後半と思われる主婦は、どうだろう。

「でね、死体が見つかった前の日の夜10時半くらいに黒尽くめの若い男が1人で立ってたのよぉ。ほら、あそこに」
 そう言いながら、薄暗闇にかろうじて浮かぶトタン屋根の小屋を指差した。
 その少し先の草むらに遺体が遺棄されていた。
「あれ絶対に犯人よって、今日も近所の人たちと話してたのよ。間違いないわよ」
 チワワにひっぱられるリードをものともせずに早口で、見るからに意気揚々と言う。

 まずはこの証言の信憑性からだ。
 手帳にメモを取りながらチラッと日比野を見て促すと、日比野は小さく頷いて主婦に質問を返した。
「この時間でもかなり暗いけど、この辺りって街灯ないから10時半ともなると真っ暗じゃないっすか。どうして若い男だってわかったんですか?」
 主婦は頬に手を当てて斜め上を見る。
「どうしてって…………背格好とかかしら。スラッとしてたから、ねぇ」
 ねぇ、って同意を求められてもなぁ。
 スラッとした中年や老人はいくらでもいるだろ。増してや女の可能性も高い。
 つまり、なんとなく若い男っぽく感じた程度で、顔を見てないということか。年齢も性別も断定できない。
「そーですか。その人、傘はさしてました?」
 日比野は明らかにモチベーションガタ落ち感を丸出しにして質問を続けた。
「いいえぇ、黒っぽい服で帽子をかぶってたわよ。あら、でも雨なんて降ってた? 私、車乗ってたけど降ってなかったわよ?」
 その言葉で、主婦の記憶に決定的な間違があることが証明された。
 あの夜は10時頃から雨が降り出した。つまり、時間も曖昧。
「あぁ、降ってなかったんですか。そうですか。そうですよね」
 日比野はいろんな意味で納得したように頷いて投げやりに質問を続ける。
「で、帽子はどういった形でした?」
「うーん、どうだったっけ………シルエットしか見えなかったから………」
 言いながら自分の言葉の矛盾に気づいたのか、主婦は居心地悪そうに薄笑いを浮かべた。
 これが真相か。

 路上駐車していた覆面パトカーに乗り込むと、日比野はハンドルにぐったりと伏せた。
「あーーーーったく! どいつもこいつもガセかよっ。ムカつく!!」
 別に主婦に悪気があったわけじゃない。繰り返しご近所さんに自慢してる間に、記憶が自分の都合のいいように書き換えられただけだ。
 怪しい人影を見た。あんな事件を起こすのは若い男だろう。黒い影だったから黒い服だろう。そんなことを話してる間に、それがあたかも事実のように思えてくる。
 そして次に話すときには、事実として話してしまう。
「まぁ、久しぶりに話題の事件だからな」
 俺たちが今捜査しているこの事件は、連日テレビや新聞で謎多き事件として頻繁に取り上げられている「連続死体遺棄事件」だ。
 この2週間で、同じ粗悪なMDMAによる中毒死の女性の死体が、3件連続で遺棄されているのが発見された。最近の芸能人の麻薬問題との相乗効果で世間の関心が高いおかげで集まる情報は多いが、今のところそのほとんどが信憑性に欠けるものばかりだ。
「つーかマスコミが騒ぎすぎなんすよ。無責任なプロファイリングとか勝手な憶測で犯人像決め付けるから一般人も影響されてゴミ情報ばっか溢れるんすよ」
「人間なんてそんなもんさ。無関心よりもマシだと思え」
 イラつく日比野をなだめると、日比野はふと何かを思いついたように俺を見た。
「前から思ってましたけど、杉本さんって忍耐力ハンパねーっすね」
 日比野が言うと全然伝わらないけどな。
「ありがとさん。ほら、さっさと署に戻るぞ」
 スーツのポケットから出した携帯をドリンクホルダーに放り込みながら適当に返した時、その携帯に着信が入った。
「車出していいっすよね?」
 どうせ署からだろうと思って、日比野に頷きながら電話に出るなり。
「はい、杉も―――――」
『あ! 出たっ!!』
 大音量が左耳をつんざいた。
「っ―――――」
 誰だ、こんな電話してくる奴は!
 音声のあまりのでかさに、思わず耳から携帯を離して睨みつけた。
 通話中としか表示されないディスプレイを恨めしく思っていると、耳から離してるにもかかわらず、相手の声がはっきりと届いた。
『突然すみません、雨宮の携帯からかけてるけど俺雨宮じゃないんすけど、雨宮が急に倒れちゃって』
 は?
「なに!?」
 思わず声を荒げて携帯を耳に当てた。
『あ、えっと、雨宮が倒れて――――』
「倒れたって?」
『いや、睡眠不足と微熱とちょっとした脱水症状っつー話なんですけど、大学で動けなくなって先生に運んでもらって今病院で点滴してるんだけど…………』
 焦っているのか、どこか要領を得ない説明をする。
「そうか…………」
 昨日から一睡もしてないから体力が落ちていたのかもしれない。無理やりでも店で寝かせてやればよかったな。
『尾形さんに電話したんすけど出なかったんで、とりあえず雨宮の携帯借りて数少ない登録番号にかけてみたんですけど………杉本さん、ですよね?』
「あぁ、そうだ。君は?」
 雨宮の知り合いで尾形を知ってる人間はほとんどいなはずだ。声は若い感じだけど………。
『俺、雨宮と同じ大学に通ってる深山っていいます。深い山でミヤマです』
 なるほど。
「大学の友達か。じゃぁ病院は、みな大の?」
『いや、関内の中央病院ってとこです。俺も初めて来たんすけど』
「関内か…………」
 困ったな。関内なら高速飛ばせば30分で着くけど、そこから自由が丘の尾形のマンションまで行くとなると時間がかかりすぎる。今日はもう帰るだけだから俺はいいとして、日比野をどうするか。
 そう思って日比野を見ると、意外にもこの面倒な回り道を自ら申し出た。
「俺はいいっすよ。このまま首都高乗りますか?」
 その日比野に甘えて、30分くらいで迎えに行けると深山君に伝えると、妙なオーバーリアクションが帰ってきた。
『すっげぇ………雨宮のために30分で迎え来ちゃう人がいるんだ………』
「いや、たまたま仕事終わりで車で羽田にいただけだから」
 一応いつもじゃないと否定すると、深山君はあっさり「あ、そうっすよね。ははは」と笑う。そしてまるで十年来の友達のように。
『でも雨宮って、しっかりしてるようでなんっか危なっかしくって放っておけないんすよねー。そういうとこ俺の好きな人となんとなく似てて、他人事じゃないっつーか。って、俺の話なんてどうでもいいっすね』
 早口でそう切り上げて、病院の場所を説明し始めた。

 変な奴だが、この深山という学生は、本能的に雨宮の本質を見抜いているのかもしれない。
 本能なんて能力からは程遠い雨宮には、ちょうどよさそうだ。
 入学早々、いい友達を見つけたな。

 

雨宮陽生

 川崎と別れてから大学の図書館に戻ってきたんだけど。

「何度も言うけどさぁ、具合悪いんだったらさっさと帰れよ。顔色どんどん悪くなってるし。つーかそのページめくる速度、ぜってぇ読んでねーだろ」
 俺の斜向かいに座った深山が、6人掛けのテーブルに右腕を投げ出して、その上に頭を置いた状態で俺を下から覗き込む。
「俺も何度も言うけど、気が散るから話しかけるな」
 深山を一瞥して返すと、ため息が聞こえて、俺が読み終わった本を返却しに行った。
 さっきから俺が1冊読み終わると、頼んでもないのに律儀にすぐに返しに行って、戻って来ると俺に文句を言う繰り返しだ。
 ようするに、こいつは暇なんだ。

 ダルい身体を押して図書館に戻ったのは、矢上剛に関する情報が少しでも欲しかったからだ。
 有名私大の図書館ともなればそれなりの蔵書量で、しかも法学部も政治経済学部もあるせいか、俺のニーズにことごとくマッチする本がわらわらと出てきた。それを片っ端から読み漁ったり、ネットで検索してみて、かなり色んなことが分かってきた。

 奥田和繁の愛人の息子は、その存在自体が世間には知られていなかった。ゴシップ記事にもなければ、ネットでいくら検索しても噂すら出てこない。
 けれども、矢上剛がボランティアをしてるという「はなぶさの会」というNPOをネットで調べてみると、寄付金を贈与した団体のリストに奥田和繁が地元で経営している会社の名前があった。
 川﨑ヌメオは俺に情報提供するという契約を、早々に破ったということだ。でも逆に、川崎がこのことを話さなかったのは、その先に俺に言いたくないくらい重大な何か掴んでいるからという可能性もある。例えば「はなぶさの会」に寄付した金を矢上が横領してるとか、奥田の関連会社と法外な額で取引しているとか。
 そう思って、念のためNPO運営に関する法律や経理の本を読んでると。

「外、けっこう暗くなってきたんデスケド………」
 深山がボソッと俺の頭上でぼやいた。
 顔を上げて窓の外を眺めると、ついさっきまで正面の校舎を照らしていた西日が跡形もなく消えて、窓に明かりが灯っていた。
「なぁ、こんなの帰ってから調べればいーじゃん。そろそろ帰んねぇ?」
「1人で帰れよ」
 家でネットするには尾形のパソコンを借りなきゃいけない。でも今は、尾形と普通に話せる自信がない。
「えーー、だって寂しいじゃーん」
 呆れるほど棒読みで言う深山を冷ややかに睨みつけながら、何度目かのため息が出た。

 こいつ、何が目的でこんな時間まで俺に付き合ってるんだろう。
 川崎の会話を聞いての興味本位かとも思ったけど、その件については何も聞いてこないし、あれほどしつこかったサークルの勧誘も、特殊な恋愛とかいう相談もしてこない。かと言って、何か企んでるようにも見えない。
 今までの俺の経験だと、こういう場合はだいたい元総理大臣の孫という肩書きか、この異常な脳が目当てだった。
 今の俺にはそんな大層なものはないけど、なぜか深山にはそういう打算なんてないような気がした。

 たぶん、深山と話してて居心地が悪いのは、そういうところだ。
 損得勘定で付きまとってくるほうが、対処方法が明確でずっとラクだ。打算がないと、どうやって払いのければいいのかわからない。
 その上、叩いても叩いても起き上がる不屈の精神の持ち主だから性質が悪い。ある意味、羨ましくもあるけど。
 って、なんで俺が深山のことなんか真剣に考えてるんだよ。本当に集中力切れだな…………。

 本を閉じると、深山ががばっと起き上がって目を輝かせた。
「帰る!?」
 ………そんなに帰りたいなら、さっさと帰ればいいのに。
「この本返した、ら―――」
 言いながら立ち上がりかけた時、ぐにゃり、と目の前が歪んだ。
 ヤバ…………。
 机に手をついて、吐き気と眩暈をやり過ごす。額と背中に油汗が滲むのがわかった。
 自分のものじゃないような体の重さに目を閉じる。
 血の気が引いていく感覚に、寒気がした。
「雨宮?」
 すぐ目の前にいるはずの深山の声が、耳の奥にこもって聞こえた。

 集中してて気づかなかったけど、体は思ったよりもかなり悪化してたみたいだ。だからって、深山に気付かれて「だから早く帰ればよかったのに」とか嫌味言われるのもなんか癪だし。
「なんでもない」
 まだ残る眩暈を無理やりおしのけて、机に散らかった本をまとめる。けれども、その本は深山に強引に奪い取られた。
「ったく。俺がやるから座ってろよ。マジで顔色悪りぃぞ」
 深山は少し怒ったように言うなり、20冊以上の本を乱暴に重ねて軽々と抱えあげる。
「いいか、俺が戻ってくるまで1歩も動くなよっ。1ミリも、1ナノもだからな!」
 そう言い残して、政経の本棚の列に歩いて行った。
「ナノは無理だろ………」
 呟きながら座りなおして、1冊ずつ、でも見るからにデタラメに本を差し込む深山を眺めた。

 なんで深山は俺にかまうんだろう。
 利害とか打算とかじゃないとは思う。
 でも、親切心とも違う気がする。
 もっと乱暴で、こう、容赦なく俺のテリトリーに深く入り込んでくるような――――………。

 あぁ、そうか。
 こいつ、じいさんに似てるんだ………。

 そう思ったところで、思考が途絶えた。