始まりの日

記憶 - 7

杉本浩介

 二日酔いの頭痛を引きずって科捜研の自販機スペースに行くと、白衣姿の尾形がベンチに座って、窓の外を眺めていた。
 腕時計は、7時半を回ったところだ。30分前に雨宮がカム・クロースを出たと尾形にメールしたら、すぐに「科捜研にいる」という返事が返ってきたが、まさか本当にいるとは思わなかった。
 いつも働き過ぎだと俺をバカにしているのに、定時の1時間半も前に出勤しているなんてのはどう考えても尾形らしくない。やっぱり朝帰りの雨宮と顔を合わせたくないのか―――いや、尾形に限ってそれはないか。単純に眠れなかったからだな。

「今日もいい天気になりそうだな」
 声をかけながら隣に座ると、尾形に俺を軽く睨みつけた。
 西向きの窓からは、朝日に照らされている国会議事堂が見えた。
「酒臭い」
 昨日の夜も雨宮に隠れてメールしてやったのに、その恩をまったく感じていない態度をとるのはいつものことだ。けれど、どことなく尾形がやつれているように見えるのは、俺の気のせいじゃないはずだ。
「ちゃんと寝たのか?」
 せっかく気遣ってやったのに、尾形は自分を棚に上げて俺に八つ当たりしてきた。
「杉本さんこそ、その年で朝まで飲み明かすとか、そろそろ自重したほうがいいと思うよ。だいたい飲み屋に朝までいる未成年を黙認するなんて警察官のすることじゃないだろ」
「おまえに言われてもな………。いや、俺は雨宮には1滴も飲ませてないぞ、警察官として断固」
「で、あいつなんか言ってた?」
 自分から話振っておいて俺の主張は無視か………。
「ああ、マスターの弟と会ったみたいで、そいつのこと散々に言ってたよ」
 尾形は「やっぱりな」と小さく息をついた。
「じゃぁ、2年前のことも蟻ヶ崎から聞いたんだ」
「あれだろ、三角関係だったんだろ? 雨宮も驚いてたぞ。まぁおまえのことは何も言ってなかったけどな」
 と、尾形に聞かれたら言うように雨宮に頼まれた。
 自分の気持ちの整理がつくまでは、自分以外の口から中途半端な情報を尾形に伝えたくないから、と。どっかの偉い政治家みたいな理由だが、俺自身も第三者が下手に口挟むことじゃないとも思っている。
 とはいえ。
「おまえ、雨宮に何した?」
 放っておくのも心配で聞くと、尾形は特に興味もなさそうに。
「したっていうか、言った。ちょっと傷つけた」
「傷つけたって…………何言ったんだよ」
 雨宮が傷つく要因なんて山ほどある。ただでさえマスターの弟に会って落ち込んでたっていうのに。
 尾形は何も言わずに立ち上がると、白衣の下から小銭を出して自販機に押し込んだ。そして迷わずにボタンを押しながら。
「杉本さん、なんかの事件で俺に聞きたいことあるんじゃなかったっけ?」
 また無視か。確かにそうメールして尾形に会いに来たけど、それが単なる口実にすぎないなんてことくらい尾形ならわかってると思うんだが。
「ったく…………」
 傷ついてるのは雨宮だけじゃない、か。
 完全に両思いなのにどうしてこううまくいかないんだ。まぁ、雨宮が躊躇う気持ちもわからないでもないが。
「言いたくないなら聞く気はないけど、あんまり無理するなよ」
 落ちてきたペットボトルを拾う背中に言うと、尾形はそのままの姿勢で一瞬止まって、それからゆっくり体を起こして俺の隣に戻った。
 そして無表情で緑茶のキャップを捻りながら。
「無理してるように見える?」
「見えるわけじゃない。でも、おまえ自分でも言ってただろ。尾形がここまで気持ちを抑えてるなんて、去年までは考えられなかったからな」
 我慢しすぎして爆発させて傷つけたんじゃ、本末転倒だ。
 尾形は自嘲するように笑った。
「自分でも考えてなかったよ。雨宮が帰ってこないだけでこんなにダメージ受けるなんてね」
 一ノ瀬のマンションで、フォクシーを投与された雨宮を助け出した時を思い出した。あの時もかなり沈んでいたけど、今回はそれ以上かもしれない。
 かといって、部外者が余計な口を挟むのもどうかと思うし………参ったな。
「しょうがない、今日の昼飯は俺が奢ってやるから元気出せ」
 苦肉の策で慰めてやったのに、尾形はジロッと俺を睨んで。
「日比野じゃないんだから、昼飯ぐらいで元気出るかよ」
「………人の好意をことごとく足蹴にする奴だな」
 少しは俺を頼ってくれてもいいのに。
 まぁ、尾形にこんなこと言っても、さらに足蹴にされるに決まってるか。
 つくづく損な性格してるな、尾形も。

雨宮陽生

「あーまーみーやっ」
 朝イチで医学部の事務窓口に履修届けを提出したその直後、バカ丸出しの声が後ろから届いた。
 この広いキャンパスで、どうして会いたくない奴に限って頻繁に出くわすんだろう………。
 深山と変に関わると未来が変わるかもしれないっていうリスクもあるけど、それよりも今はこいつのテンションを浴びるのが面倒くさい。
 振り向かずにそのまま出口に向かうと、慌てた足音が響いた。
「ああああっ、無視するなよ!」
 よく通る声で叫びながら俺の隣に追いついて、鞭打ちになりそうな勢いでガシッと俺の肩に腕を回した。もはやヘッドロックだ。
「ってーなぁ…………何か用?」
「なんだよ、用がなきゃ話しかけちゃいけねーのかよ。水くせーなぁ」
「水くさいって単語は、もともと親しい間柄の時に使う。俺とおまえは親しい間柄じゃない」
 深山の太い腕を剥がしながら睨みつけると、深山は大げさに「うわぁ」と眉を下げた。
「的確すぎて、親しいどころか運命感じてたなんて冗談すら言えねぇ」
 その顔でまだ運命言うか。ただの偶然だろ………。
 内心そう突っ込みながらも、どうでもよくなって溜息が出た。
 昨夜はほとんど寝なかったし、尾形のこととか自分のこととか、なんかもう心身ともに疲れた………。
 無意識に額に手を当てると、深山が横から俺の顔を覗き込んだ。
「元気ねーじゃん。なんかあった?」
 こんなデリカシーなさそうな奴に心配されるような顔をしてたのかと思うと、また溜息が出た。
「別に。寝てないから疲れてるだけ」
「へえー、雨宮って見かけによらず夜はお盛ん――ぅぐっ!」
 今週2回目の肘鉄をきめてやると、深山は腹を抑えてうずくまった。
 けれど、それを見下ろしながら深山の誤解を解く言葉を言おうとした自分に、嫌気が差した。

 俺と尾形はなんの関係もない。
 いろいろ世話にはなったけど、それだけだ。

 ――――俺はいつまで、こんな嘘をつき続けるんだろう。
 いつかこの肺の奥の痛みとか息苦しさを、感じなくなる日がくるんだろうか。
 それとも、こんな刺すような痛みにすら慣れてしまうんだろうか。

 結局、何も言う気になれずにうずくまった深山をおいてその場を離れると、後ろから慌てて追う声がした。
「待てって、悪かったって。下ネタもNGだなんて知らなかったんだって」
 そういう問題じゃないけど、こんな不安定な状態で話したら変なこと口走りそうで怖い。深山に見向きせず、早歩きで事務棟を出た。
 それでも深山は、俺の横にぴたりと付いて無遠慮に言う。
「なぁ、待てよ。なんで無視するんだよっ」
「そっちこそ、なんで俺に付きまとうんだよ」
「そりゃ特殊な恋愛の先輩にいろいろ相談したいからに決まってるだろ」
「俺に相談されても迷惑。二丁目にでも行ったほうがよっぽど建設的なんじゃない?」
「うわっ、ひっでぇ! 迷えるか弱い子羊を狼の群れに放り込むようなこと言うなよなー」
 そのでかい図体のどこがか弱い子羊なんだよ………って、いちいち突っ込むのもめんどくせぇ………。
 思わずまた溜息が口をついた。
 それを見ていた深山は、何を勘違いしたのか。
「やっぱり元気ねぇな。よし、俺が学食のスペシャルランチ奢ってやるよ!」
「イヤいいです。断固お断りします」
 思わず間髪入れずに拒否すると、深山は露骨に哀しみに満ちた顔を作った。
「断固って………せっかくの親友の親切を………」
 ウザ………誰が親友だよ。
 無視だ。それが一番だ。そのまま重い足をできる限り早く動かして、大通りに続く遊歩道へ出た。
 とにかく今日は、尾形がいないうちに帰って自分の部屋でゆっくり休みたい。それだけを考えながら駅へ向かう途中、更なる悲劇が待っていた。
「ありえねー…………」
 通りの少し先に、忘れたくても忘れられないヌメッとした顔の男が目に入って、半ば呆然と立ちつくした。
 広い額に細い目に尖ったアゴのあの顔は、紛れもなく日比谷図書館で声をかけてきた怪しいフリーライター・川崎光浩みつひろだ。使い込んだ黒革のバッグは去年会ったときのままで、道端で携帯電話を耳に当てて険しい顔で話し込んでる。

 よりによって、こんなに心身ともに最悪の時に………。
 思わず、クラッと眩暈がして、すぐ傍にあったガードレールに手をついた。
 なんでこんな所にいるんだよ………。まさか俺に会いにきたわけじゃないだろうけど、去年日比谷図書館で追いかけられたし、ここで顔を合わせたら面倒なことになるに決まってる。
 マスコミの執拗さは、吐き気がするくらい経験済みだ。

 瞼を閉じて小さく深呼吸しながら、有野じゃないけど、本気でお祓いでもしてもらおうかと思うくらいに、今週に入ってからの自分の不運を呪った。
 違うか、不運じゃなくて身から出たサビ、だな…………。

 とりあえず構内に戻って少し休んで、時間をおいてから――――。
 そう思った時、深山の無神経な大声が遊歩道に響いた。
「雨宮!! 大丈夫か!?」
「だっ……………」
 っから、てめぇは声がでかすぎるんだよっ!
 と、怒鳴りつけたい衝動をなんとか堪えて、その代わり渾身の恨みを込めて深山を睨みつけた。その俺の形相にうろたえる深山を放置して、そろりと振り返ると、予想通り川崎光浩のヌメッとした目とぶつかった。
 直後、川崎はニヤリと薄い唇を歪めて、携帯をジーンズのポケットに入れながら俺に向かって直進してきた。
「えーー、俺そんな激しく睨まれるようなこと―――………?」
 背後で気弱に言う深山が、俺の視線の先にいる男に気付いて言葉を止めた。
 深山にもこの男の怪しさが伝わってたのか、「構内で不審者を見かけた場合は速やかに警備員にってガイダンスで言われたよな」なんて小声で俺に耳打ちする。
 確かに警備員呼んで追い払ってほしいところだけど、早くに帰りたい俺にとっては面倒な手続きがありそうで嫌だ。ととりあえず、不本意だけど適当に理由つけて逃げるのが一番手っ取り早い。
 こんな奴と話すのは本当に不本意で、最悪だけど。

 けれども、俺の正面に立った川崎は、去年と同じ胡散臭い笑みを浮かべて、
「久しぶり。『麻布事件』のこと、何かわかった?」
 確実に俺が逃げられない言葉を選んだ。