始まりの日
記憶 - 2
尾形澄人
五反田にある神田のマンションは、白や木製の家具が並んだ予想外にシンプルで清潔感のある部屋だった。
神田のブラック中心のシックな私服のセンスから考えると明らかに神田のパートナーの趣味だろうけど、そのパートナーは仕事から帰ってきていないとかで、代わりにダークスーツの男が白いソファに仰向けになって右腕で目を隠して寝ていた。
「鍵渡してあるのよ。いろいろと便利だから」
どうせ使いっぱしりにでもされてるんだろうな。
「可哀そうに」
「それ、どういう意味?」
神田はジロリと俺を睨みつけると、寝ている男――月本慧の横に仁王立ちして、
「慧、起きなさい。そのソファに男の匂い付けないで」
男の匂いって………まぁわからなくはないけど。
月本慧は一瞬ピクッと体を震わせ、腕を数センチだけずらして神田を確認する。そして、重そうに体を起こすとソファに座りなおした。
「………遅かったな」
まだ眠そうな口調で言いながら、神田と俺を交互に見上げた。
染みひとつない白い肌に、切れ長の目と品のいい鼻筋。美人という単語が似合う男だ。神田の言うとおり「警察官にしておくにはもったいない」ほど綺麗な顔だな。いや、正確には「元警察官」か。
「そっちが早いのよ。いつからいたの?」
「20時くらい」
月本は寝起きとは思えないくらい優雅に立ち上がると、慣れた足取りでキッチンに消えて、それから数秒もしないうちにミネラルウォーターのペットボトルを持って出てきた。
そして立ったまま俺を睨むように見て。
「誰?」
俺を連れてくることを知らなかったんだろう。
「どうも。科捜研化学第一の尾形っていいます」
自己紹介してやると、月本はほんの少しだけ眉根を寄せた。
「科捜研? 本庁の?」
「そ。ちょっとあなたに頼みがあるんだって」
神田は俺の代わりに答えてソファに座ると、まるで昼ドラの飽きるほどあるクライマックスを見るように俺と月本を眺めた。
月本はそんな神田を露骨に迷惑そうに見下ろした。
「頼み? 聞きたくもないね」
美人は気が強いって言うセオリーを裏切らない。なかなか手強そうだ。
「聞くぐらいいいだろ。それとも、頼まれたら断れないタイプとか?」
「まさか。言うならさっさと言えよ」
美人だけに冷え冷えする目でジロリと睨みながら、月本はあっさりと主張をひるがえして俺の売り言葉を買った。売られた喧嘩は買う主義なのか、単純に抵抗するのが面倒なだけなのか。どっちにしてもチャンスを与えられたら利用しない手はない。
「じゃ、単刀直入に言う。雨宮誠一郎に会わせて欲しい」
それが俺の、月本慧に頼みたいことだ。
本当は去年のうちに総理大臣専属のSPだった月本に雨宮誠一郎に取り次いでもらうよう頼みたかったけれど、坂崎さんの事件があってバタバタしているうちに総理を辞任してしまった。総理でなくなれば、当然総理専属SPが警護に付くこともなく、頼みの綱がなくなったと思っていた。けれど。
「雨宮誠一郎に引き抜かれて秘書になったんなら、人ひとり引き合わせるくらい楽勝だろ? 月本さん」
神田から、月本が警視庁を辞めて雨宮誠一郎にヘッドハンティングされたと聞いたのは1週間前だ。
この男が婚約者との子供のころの約束がきっかけで警察官になったことに、今会って改めて驚いたけど、その警視庁を辞めてまで雨宮誠一郎の秘書になったことにも、かなり驚いた。正直なところ、想像もしていなかった。
その理由は気になるところだけど、今はまず雨宮誠一郎の方が先だ。
月本は、一瞬動きを止めて真意を探るようにじっと俺の目を見てから、小さく溜息をついた。
「悪いけどそれはできない。じゃ、俺はこれで」
清々しいくらいきっぱり断りながら、手にしていたペットボトルのキャップを閉めてスタスタと玄関に向かう。
まぁこのくらの反応は予想通りだ。
「だったら麻布事件について聞きたい」
月本の背中に向かって最初のカードを突きつけると、リビングのドアの手前でぴたりとその足が止まった。
ビンゴ。こいつは麻布事件を知っている。
ひき逃げ事件として処理された雨宮夫妻の死を「麻布事件」と呼ぶのは、警視庁の中でもごく限られた人間だけだ。あの事件の後に配属されたSPが知っているわけがない。それなのにこの単語に反応したということは。
「あんた、麻布事件の真相を調べるために、雨宮誠一郎に雇われたんだろ?」
そう追い討ちをかけると、ゆっくりと振り向いた。
そして何かを考え込むように腕を組んで、小さな間を作る。
「…………興味、?」
自分の中で答えを呟くように口に出してから、確認するみたいに俺を見た。
俺がどうして麻布事件を調べているのかを考えていたんだろう。
「残念。ある人が復讐に走らないように、先回りして犯人を探し出そうと思って」
今後のために本音を言うと、不可解そうに眉を寄せた。
「復讐? 雨宮夫妻のために?」
そんなことするような人間が思い浮かばないんだろう。
当たり前だ。そもそも雨宮夫妻が「殺された」という事実を知っている身内は、雨宮誠一郎だけだから。かと言って、こんな見るからの 現実主義者に本当のことを話して信じるわけないんだけど。それでも「復讐する人間がいる」という情報は、月本の関心を引くには十分なはずだ。
「それに俺も雅臣さんに息子を頼むって言われた手前、あの事件をひき逃げで終わりにするのは納得いかないんで」
話を逸らされたことに気づいたのか、月本は少し俺を睨んでから、それでもその流れに乗った。
「科捜研の尾形……………雅臣さんと最期に話したってのは、あんただったのか」
何かの報告書で読んだのを思い出したんだろう。俺が月本に会いに来た理由に、少しは納得してくれたように見えた。けれども。
「あいにく、そう簡単に他人を信用できるほど温い仕事をしてるつもりはない」
冷静にそう言い残して、無駄のない動きで部屋を出て行った。
まぁ、そりゃそうだ。
仮にもあの雨宮誠一郎がスカウトした男だ。最初から一筋縄でいくとは思っていない。
「フラれちゃったわね~」
神田が嬉しそうに言いながら俺の真横を通って、月本を追いかけた。
この女、どこまでもSだな。
その神田の跡を追って玄関に行くと、月本はもう靴を履いてドアを開けるところだった。
神田がそれを引き止めるように声をかける。
「慧」
半開きのドアに手をかけたまま、相変わらず迷惑そうに振り返る。
「なに?」
「慧は、タイムスリップって信じる?」
は?
なんで神田がそんな単語を言うんだ?
雨宮の正体に気付いているのか?
意表をつかれた俺とは対照的に、月本はしらけた顔で神田を睨んだ。
「なんの嫌味?」
そう言い捨てて、ドアの向こうに消えた。
「タイムスリップ?」
静かに閉じた玄関のドアの音を聞いて、神田に探りを入れた。
雨宮のタイムスリップを知っているとしたらかなり厄介だけど、それとはまったく別のことを思って言っているようにも思えたから。けれど、神田は不敵な笑みを浮かべて。
「あの高校生、正真正銘、雨宮誠一郎の孫でしょ?」
内心驚いた。でも利用価値が高いだけに、そう簡単に雨宮の正体を言うわけにはいかない。
「孫は4歳だろ?」
しらばっくれた俺に、神田はリビングに戻りながら世間話でもするように。
「私、足利さんと仲いいのよね。私が尾形から聞いた話と、足利さんがあの子から聞いた話をまとめると、そういう結論になるのよ。あとは、嘘をつけない杉本さんの反応とかね」
なるほど。確かに杉本さんにカマかければ一発だな。
「それですんなり俺の頼みを聞いたのか」
神田が理由も聞かずに俺を月本に会わせるわけがないとは思っていたけど、俺が何を考えてるのか知ってたってことだ。
「そうね。こんなおもしろいこと、首突っ込んでおかなきゃ損でしょ?」
神田は悪びれる様子もなくそう言ってクスクスと笑った。
ただ、気になるのはさっきの月本の反応だ。
「じゃぁ、なんの嫌味だったわけ?」
雨宮の話とは別に、「タイムスリップ」が嫌味になる何かが月本の背景にはある。
神田は床に置いたままだったバッグを拾い上げると、すっと真顔になった。
「そうね………誰だって人生は後悔の連続でしょ。あの時ああすれば良かったとか、こうすれば違ったかもしれないとか。普通はそれを教訓にしたりその痛みに耐える力を付けていくのよね。でも慧の場合は、その後悔を後悔にしたくないのよ」
後悔を、後悔にしたくない?
「過ちを認めたくない?」
「ちょっと違うわね。終わらせたくないのよ、いろんなことを」
そう言って、神田はこれ以上聞くなとでも言うように、小さく微笑った。
雨宮陽生
結局、あのあと深山に2時間以上追いかけられた。
大学の構内ならまだしも、電車の中まであのプラカード持って付いてきた時は、マジで殴ってやろうかと思ったけど、さすがに公共の場でそんなことできるわけなく、横浜駅で途中下車して地下街やデパートの中を走り回って、ようやく深山をまいたときには、すでにフルマラソンを走ったみたいな疲労感があった。
肉体的な疲労って言うよりも、まいてもまいてもスッポン並みに喰らいついてくるあのしつこさに精神力を奪われる。
それで夕飯を作る気力もなく、駅前のマックで食べてマンションに戻った時には、もう夜8時を回っていた。普段ならちょうど尾形が帰ってくる時間だ。
夕飯作れないってメールはしておいたから、外で食べてくるか買ってくるかだと思うけど、作れとか言いそうで嫌だな………。
冷蔵庫にトマトがあったな、とパスタの具を考ながらエレベーターを降りて廊下の角を曲がると、尾形の部屋辺りに立つ見慣れない人影が目に入った。
一瞬深山かと思ったけど、さすがにこんなところにいるわけない。
つーか、なんで俺が被害妄想気味にならなきゃなんねーんだよ。マジで誰かあいつをどうにかしてくれ………。
今日何度目か分からない溜息をつきながら、その叱られた子供みたいに壁に背中をつけて立ってる男に歩みよると、彼は俺の気配に振り向いてから、すぐにがっかりしたようにまた俯いた。
そのしぐさだけで、彼がどういう人物なのか分かった。
本当に、嫌なことって重なるんだ。
心底そう実感してから、ふいにタイムスリップした日の有野の泣き顔を思い出して、もう少し慰めてやればよかったなとか頭の片隅で考えながら、彼を睨みつけた。
年は、たぶん尾形より少し下くらい。アパレルとかデザイン事務所とかで働いてそうな感じで、右目の下にホクロがある。
「その部屋になんか用?」
そう声をかけると、俺を見て少し驚いたみたいだった。
けれど、すぐに敵意むき出しで睨みつけて口を開いた。
「おまえ、誰?」
「そっちこそ誰?」
睨み返すと、そいつは俺の手にあるマンションの鍵を見て鼻で笑った。
「ふーん、新しい家政婦?」
「……………」
本当に今日はついてない…………イジメには慣れてるけど、こういう悪意ってけっこう堪えるんだ。
ただの同居人だと説明してやるのが筋かもしれないけど、仕返しのひとつもしてやりたくなった。だから、こっちも鼻で笑って、
「あんたは尾形の、昔の、男?」
昔の、を強調して言ってやると、ピクリと片眉が動いた。
やっぱりね。
そう思うと同時に、自分で言ったその単語が、思いのほか強く刺さった。
尾形がこういうことにルーズでドライだなんてことくらい知ってる。
それに、こいつと同じようにここに押しかけてきた男が他に2人いた。俺とはち合わせしただけで2人だ。だから本当はもっといるんだと思う。
尾形がどういうふうにその人たちと付き合っていたのか知らないけど、結局俺も同じなんだと思い知った。俺にしたように、尾形は彼らを口説いて同じ言葉をかけて、同じように抱いたんだと。
そしていずれ俺も尾形に捨てられて、尾形は今俺とこうしているように次の誰かと暮らし始める。
今考えただけで心臓がにぎりつぶされそうなのに、本当にそうなった時、自分がどうなるのかなんて想像がつかないほど怖い。
だから裏切られても傷つかないように、これ以上尾形に依存しないように、尾形に近づきすぎないように自分に言い聞かせていたのに―――。
こういう男が来るたびに、尾形に対する感情を容赦なく思い知らされる。
俺が尾形を好きだからこんなにも心臓が痛いんだと、思い知らされる。
「俺と澄人のことは、おまえなんかに関係ないだろ」
彼はそう言い捨てると、俺の横をすり抜けた。
その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
嫌味なくらい、その言葉が核心を突いていたから。
あいつの言うとおりだ。
俺は尾形を最初から信じていない。信じようとしなかった。
これ以上近づかないと、自分で決めた。
だから尾形が誰と付き合おうが、何人と遊んでいようが、俺が傷つく資格なんてないんだ…………。
わかっていたのに。
気をつけていたのに。
俺はいつの間に、何を、尾形に期待していたんだろう。
背後でエレベーターのドアが閉まる音が聞こえた。