始まりの日

赦罪 - 27

雨宮陽生

 夕方の駅って半端なく煩い。
 帰宅ラッシュで人が多いし、頭上で電車が走ってるし、右翼の街宣車が大音量で軍歌流してわめいてるし。
 うんざりしながら有楽町駅の構内を通り抜けて携帯のデジタル時計を確認すると、画面に「総裁選告示日決まる」というニュースがスクロールしてきた。

 ――民事党総裁選の告示日が9月4日(木)に決まった。投開票は15日(月)に行われる。

 俺は北林将岱という政治家を知らなかった。つまり、総理にはならない。
 俺の知ってる未来と同じなら、投開票までに北林の身に何かが起こるってことだ。
 北林が政界から消えたのは、不正、健康問題、女性スキャンダル、あとは――――死んだから。

 そう考えて脳裏に浮かんだのは、坂崎さんだった。

 ヒートアイランドで熱くなったアスファルトの上なのに、背筋が寒くなった。

 違う。
 坂崎さんは、そんなことしない。
 三並さんがいるだろ。
 そう言い聞かせながら、不自然に苦しくなった肺に空気を送り込んで、バーのドアを引いた。

「いらっしゃいませ」
 中に入ると同時に蟻ヶ崎さんの声がした。カウンターの中からこっちを見て、にっこりと笑う。軽く頭を下げながら、店の中を見回したけど、尾形はまだ来てないみたいだった。
 当たり前だけど、店の雰囲気が昼間とは全然違う。
 淡くジャズが流れる薄暗い店内で、テーブル席に客が3組、カウンターには蟻ヶ崎さんだけだった。
 隠れ家的な感じって、こういうのかな。
 料亭とか高級フレンチとかはじいさんの知り合いに連れられて何回か行ったけど、こういうバーは初めて入る。
 昼間と同じカウンター席に座ると、蟻ヶ崎さんが慣れた手つきでおしぼりとドリンクのメニューを出して、優しく笑った。

 フレッシュジュースを飲みながら携帯をいじって総裁選のニュースを読んでると、手が空いたのか、蟻ヶ崎さんが控えめに話しかけてきた。
「尾形と待ち合わせ?」
「待ち合わせっていうか、これから人に会いに行くんですけど、ここで待ってろって一方的に言われただけです」
 あの寒気がするようなキモいメールを思い出してムカつきながら答えると、蟻ヶ崎さんは「やっぱり」と苦笑した。
 一方的に待ち合わせの場所をここに指定したきり、こっちから電話しても全然出ない。会う相手が坂崎さんじゃなかったら、確実にすっぽかしてやる。
「杉本さんもよくグチ言ってるよ。この前なんて深夜1時に呼び出されてたし」
「マジかよ………」
 尾形なら平気でしそうだけど、杉本さんには子供もいるのに。
「でも、結局ちゃんと来るんだよな。杉本さんも、雨宮君も」
 笑って言うから、逆に俺たちが尾形に甘いって言われてるみたいで、妙に否定したくなった。
「別にちゃんと来たわけじゃないです。この後の用事のほうが重要だったから来ただけです」
「ははは、そうなんだ」
 って、なんでそこでまた笑うかな………。勘違いしないでほしいんだけど。
「じゃなかったら、一緒に住んでるってだけでウザいのにわざわざ来ませんよ」
 もう一度否定すると、蟻ヶ崎さんは細い目を限界まで開けてまじまじと俺を見た。
「は? 一緒に住んでんの? 尾形と? 本当に?」
 信じられないとでも言うように、大げさに何度も確認する。
「な、なんですか? 変ですか?」
 思わず聞き返すと、蟻ヶ崎さんは急に何かに納得したように頷いて、グラスと布きんを手にとって磨き始めた。
「いや、変とかじゃ………ただちょっと意外だな」
 意外?
「どの辺が、ですか?」
「うーん………尾形は基本的に二股以上だから、相手のテリトリーには容赦なく入ってくくせに自分のテリトリーには他人を入れようとはしないんだよ。本命だなっていう男でも家には上げるなんて珍しい。泊まるどころか、住まわせるなんて初めてじゃない?」
 は? 尾形が?
 あんな強引な奴が、家に他人を連れ込まないなんてありえないだろ。
「だから、本気なのかもな」
「え?」
 言ってる意味がよくわからない。
 蟻ヶ崎さんは優しく笑みを作った。
「尾形がここに男をつれて来ると、だいたい恋人とか付き合ってるっ人って紹介するんだけど、雨宮君は違っただろ。杉本さんもそうだったから、てっきりただの友達かと思ってたんだよ。でも、逆だったんだろうな」
「逆っていうことは…………」
「言い換えれば、特別なんだろうね。今までの遊び相手とは違うから、恋人だとは言わなかったんだよ」
 特別って、俺が?
 そんなこと、バナナの皮で滑って転ぶぐらいあり得ないだろ。
 だいたい、尾形の家に尾形以外の人間が住んでいなかったように思えない。料理しないのに道具は揃ってたり、マニアックな調味料があったり。
「それ、蟻ヶ崎さんの勘違いですよ。尾形にとって俺は好奇心の対象だったんです。たまたま俺が住むところも金もなかったから部屋を貸してくれただけだし、俺の前で平気でセフレの話しとかするし。それに蟻ヶ崎さんだって、さっき基本的に二股以上だって言ったじゃないですか」
 分かってはいたけど改めて口にすると、尾形のあまりの態度にムカついてくる。うんざりするほどクサいセリフ言うくせに、行動は間逆もいいところだ。
「まぁ、尾形らしいね」
「『らしい』とか『らしくない』以前の問題なんですけど」
「でも、それだけじゃないだろ?」
「……………」
 確かに、それだけじゃない。
  俺が2008年で生活できているのは、尾形がいてくれたからだ。
 麻布の時も、中華街の時も、たぶん、一ノ瀬に犯されそうになった時も。
 冗談じゃないって思うこともあるけど、今こうして前を向いていられるのは、尾形の言葉のおかげだ。
「やっぱり」
 蟻ヶ崎さんが言う。
 っていうか、なんでこの人はこんこんなに嬉しそうなんだろう。
「あの傍若無人ぶり見てたら、俺の悩みなんてどっかにふっとびますよ」
「ふ~ん」
 クスクスと笑う蟻ヶ崎さんを睨みながら、またムカついて残りのジュースを一気にストローで吸い込んだ。
「でも、雨宮君は尾形が好きなんだろ?」
「ぶっ――――!」
 な、いきなり真顔で何言い出すんだよ!
 ジュース噴出しそうになったしっ。
「い、いや、俺は別にっ…………」
 って、慌てて否定したところで―――。
 蟻ヶ崎さんは顔に似合わずニヤニヤして俺を見ていた。
「大丈夫、誰にも言わないから」

 ………完っ全にバレてる。
 ていうか、マジで恥かしい………。
 意識すると、余計にカァッと顔が赤くなるのがわかった。
 俺ってこんなに人に読まれるタイプじゃなかったはずなのに、どうして気付かれたんだろ。
 あんな短時間で、しかも昼なんて事件の話しかしてなかったのに。
「なんでわかったんですか?」
 思い切ってそう聞くと、蟻ヶ崎さんは少し考えるように斜め上を見た。
「微妙な態度とか表情とかかな。でも、雨宮君は尾形に気持ちを伝える気はないみたいだけど、いいの?」
 ………鋭すぎるだろ。いや、それとも俺が分かりやすいだけなのか。
「いいっていうか―――俺は、落としたら割れるって分かってるグラスを、落とさないようにしてるだけなんです」
「尾形に気持ちを伝えても、幸せになれないってこと?」
「そうです」
 きっと今の尾形は俺を受け入れてくれる。けれどこの先もそれが続くとは到底思えない。あの尾形に限って裏切らないわけがないし、そもそも俺だって突然2021年に戻る可能性だってある。
 だから、俺には選択肢なんてない。
 どうせ壊れるなら、今のままがちょうどいい。

 けれども蟻ヶ崎さんは、
「そうなのかな」
 と、どこか否定するような口調で呟いた。
 その真意がわからなくて顔を覗き込むように見たけれど、テーブル席から客が蟻ヶ崎さんを呼んで、聞くことはできなかった。

尾形澄人

 店に入ると、カウンターで仲良さげに話していた雨宮と蟻ヶ崎が俺に気付いて振り向いた。
「遅い。呼び出しておいて1時間も遅刻するなよ」
 そう言いながらも、雨宮の顔にはまだ笑みの余韻が残ってて、ぜんぜん怒ってる感じがしない。
 いや、実際に機嫌がいいんだろう。
 っつーか、こいつがこんな穏やかに談笑してるのを初めて見た。その顔をさせているのが俺じゃないってのが、無性にイライラする。
「雨宮、そこのコンビニでタバコ買って来い」
「はぁ? なんで俺が」
「誰のおかげで不自由なく暮らせてると思ってるんだよ」
 雨宮は意外と義理堅い奴で、こういえば大抵のことには従う。案の定、面倒そうに立ち上がった。
「………なんか、じーさん思い出す」
「それは光栄だね」
「褒めてねーよっ」
 俺を睨みつけて店から出て行く雨宮を背に携帯をカウンターに置いて座ると、蟻ヶ崎が笑いをこらえて俺を見ていた。
「尾形が嫉妬するところなんて初めて見た」
 確かに、こんなふうに誰かに執着するのは初めてだけど。
「おまえが言うと厭味には聞こえねーからタチ悪いよな」
「そりゃ厭味じゃないから。僕は雨宮君の味方だし」
 味方、ね。
 こいつが俺の味方にならないのはわかるけど、雨宮と安全保障条約でも結んでたらやっかいだな。俺のいないところで、2人で何話してたんだよ。
「………手ぇ出すなよ」
 蟻ヶ崎の呼吸が一瞬止まったのがわかった。
 けれども、すぐにいつもの笑みで俺を見て言う。
「下手な冗談」
 やっぱり、こいつは大人だよな。
「ああ、冗談だよ」
 すぐに撤回したところで、付けた傷が消えるわけじゃないのに。
 こんなことして試さなくても、こいつが俺を許してるかどうかなんて、とっくに分かってるのに。
 相手が傷つくと知りながら、冷静に言ってしまうことがある。

「でも、本気なんだね」
「イタイくらいにね」
 本当に、痛いくらいに。
「だったら、―――」
 蟻ヶ崎がそう何かを言いかけたとき、カウンターに置いた携帯が震えた。大事なことを言おうとしてるような気がして無視しようと思ったけれど、ディスプレイに映し出された名前を見て、迷わず携帯を拾った。
 敦志だ。
 今は、俺たちよりもあの2人のほうが、よっぽど不安定な場所に立ってる。
「もしもし?」
 一気に脳に戻ってきた多すぎる疑惑に目を瞑って、できるだけ平静を装って出た。けれども、そんなのは意味がないほど、焦った声が耳をつんざいた。
『悠真どこにいるか知らないか!?』
 は?
「坂崎さんがどうかしたのか?」
『ねーんだよ、荷物が! 俺のマンションに!!』
 敦志にしては要領を得ない話し方で、ひどく動揺しているのがわかった。走りながら喋ってるみたいだ。
 どう考えてもただ事じゃない。
 坂崎さんに、何かがあった?
「落ち着けよ。荷物ってなに?」
『あいつの服とか、歯ブラシとか、とにかくあいつが俺のマンションに置いてたものが全部なくなってんだよ! 電話しても電源切ってるし―――っ』
 おいおい、それって―――………。

『あいつ、死ぬつもりだ―――――!』