始まりの日

赦罪 - 26

雨宮陽生

 ヌメッとした目で見下ろされて、無条件にムカついた。
「君、麻布の雨宮総理の家で刑事と話してたよな。何話してたの?」
 やっぱり。俺が相沢と話してたところを見られていたんだ。
 俺も迂闊だったけど、めんどくせぇな。
 だいたいそんなこと聞かれたって、尾形と何回寝たとか恥かしすぎて言えるわけないし。
「さぁ、覚えてない。どうでもいいことだったから」
 適当に嘘をつくと、ヌメオは尖ったアゴで俺の手元を指す。
「じゃ、その保険証は? 雨宮陽生の保険証なんてどうやって手に入れたんだよ」
 よかった。俺が総理の孫の保険証を持っているって勘違いしてくれたんだ。それはそれで誤解を解く必要もない。
「そんなこと、あんたに話す必要ないだろ」
「話したくない理由でもある?」
 ………こいつ、バカだ。
 もし本当に俺が4歳の雨宮陽生の保険証を持っていたとして、そんな理由を見ず知らずの怪しい男に話すわけないだろ。
 ていうか、そもそも人に物を聞く態度くらい、尾形だって知ってるぞ。
「あのなぁ、いきなり知らない奴に話しかけられて意味不明の質問されて、誰が答えるかっつーんだよ。あんた常識なさすぎ」
 そう切り捨てると、そいつは一瞬だけ性格の悪そうな嫌な顔をして、すぐ上辺だけの笑みに戻る。それから「そうそう」と思い出したようにジーパンのポケットからカードケースを取り出した。
「フリーライターの川崎光浩かわさきみつひろ。以後、お見知りおきを」
 臆面もなく差し出された白い名刺には、その肩書きと名前、中野区の住所、そして「連載中」という見出しの下に、週刊誌のタイトルが書かれていた。
 その名前に、見覚えがあった。
 どうりでイライラするわけだ。
「あんた、悪口しか書いてないだろ」
「あれ、俺のこと知っててくれたんだ? 嬉しいなぁ」
 ニヤニヤと緩んだ顔をして気持ち悪いことを言う。
「あんたの記事、最低だと思ったからね。正直、吐き気がするくらい嫌い」
 ストレートに言って牽制すると、そいつは一瞬その薄い唇を震わせてから、ワザとらしく愛想笑いを浮かべた。

 この2週間、川崎光浩と署名のある記事をいくつか見た。
 特定の週刊誌だけだけど、ことあるごとに有名人を批判した記事を書いてる。批判なんて上品なもんじゃない。浮気とか悪い噂とかばっかり暴露しておもしろがってるような内容だ。
 それはじいさんや俺の両親も例外じゃなくて、裏では金で官僚を買収してたとか、銀座に3人愛人がいて恨まれていたとか、そんな根も葉もない記事を何度も書かれていた。
 ライター、記者、マスコミ―――俺の一番嫌いな種類の人間だ。

「俺を責めないでほしいなぁ。ああいう記事がウケるんだよ。背に腹は代えられないってね。それに、どんな記事を書いたとしても判断するのは読者だ。まぁ、日本人なんて大抵なんでも信じるけど」

 なんだよ、それ。
 そういう適当なこと書かれたせいで、俺は6歳でうつ状態になった。じいさんも月本も、根も葉もない記事に辛い思いをしたと思う。
 執拗に付け回してありもしない悲劇を作り出しておきながら、それに反発すると手のひらを返してバッシングして。
 第一印象も最悪だったけど、嫌いなんてレベルじゃない。気持ち悪くて吐き気すらする。

 けれどそんな俺の過去を知らないヌメオは、ヘラヘラと誠実さのかけらもなさそうな顔をしていた。
「で、君ただの高校生じゃないだろ?」
「ただの高校生です」
「そう? 俺は人を見る目だけはあるんだよねー。たぶん、君は俺の知らない決定的な何かを握っている。だから突然俺みたいな変な奴がちょっかい出しても、落ち着いていられるんだろ?」
 まぁ、間違ってはいないけど。
「でもあんた、肝心なこと忘れてるよ」
「肝心なこと?」
 どんな情報を持っていたとしても、事件を面白がって記事にするような人間になんて頼りたくない。人を蔑むようなことをなんの躊躇いもなく書ける奴なんか。
「俺、あんたみたいにヌメっとした顔の奴嫌いなんだよね」
 冷めたく言ってやると、今度は本格的に顔を引きつらせた。こいつ、次は絶対に暴力に出る。こんな公共の場でトラブルとかいう面倒なことに巻き込まれる前に。
 手早く荷物をまとめて席を立ち、早足で階段を駆け下りた。
「なっ……ちょ、おい!」
 後ろから追ってくるのがわかったけど、振り向かずに無視して日比谷公園を猛ダッシュで横切った。

 何が「ああいう記事がウケる」だよっ。
 自分が書いた記事のせいで誰かの人生が変わることとか考えろよ。しかも書いたものに対して責任持たないって、ありえねーだろ!
 あー、マジでイライラする。
 こんな真夏に屋外走らせるなよっ。

 汗を拭きながら後ろを確認すると、もうヌメオの姿はなかった。

尾形澄人

 仕事をする気になるわけもなく、狭い研究室で1人ぼんやりと窓の外を眺めていると、背後から唐突に声がした。
「陽生って名前みたいね、あの子」
 振り向くと、神田がどこか勝ち誇ったように微笑んで立っていた。
 彼女のすぐ後ろで、壁の色と同じドアがゆっくりと閉まる。
「あの子って言うと?」
 とりあえずの防御をすると、神田は途端に白けた顔をした。
「あーあ。本当につまらない男に成り下がったわね。尾形がここまでディフェンスに徹する男だとは思わなかったわ」
 言いながら、ドア側の椅子に座って続ける。
「確か雨宮雅臣の子供も陽生って名前だったわよね。あの子、いったい何者なの? 尾形が総理に会いたい理由と関係あるんでしょ?」
 相変わらずこの察しのよさと情報網は、刑事並だな。
「知りたいなら、仕切り直しのアポ調整よろしく」
 どっちにしてもSPの月本慧に会った時に、事情は説明するつもりだ。
「あなたって本当に反省しないのね………」
「どうせ何かのついでだったんだろ?」
 神田の電話だと、幼馴染のSPが神田の家に来るから、来たいなら来い、みたいな言い方だった。だったらそこまで怒られる理由はない。
「そういう問題じゃないでしょ」
「俺としては連絡入れただけでも褒めてほしいくらいの緊急事態だったんだけど」
「謝るどころか、褒めろって言うの?」
 溜め息混じりに言う。そして、直後に小さく微笑んだ。
「ま、いいわ。あなたをけい に会わせてみたいし」
 その笑みがいつもの神田からは想像もできないのど優しいもので驚いた。月本慧がただの幼馴染じゃないなんてことが分かるくらいに。
 けれど、そこについては踏み込まないことにした。
「俺に口説けって言ってるわけ?」
「それもいいわね。彼、ストイックすぎるから」
 神田はそう言って不敵に笑うと、候補日をメールするように残して研究室を出て行った。

 ストイックすぎる、か。
 坂崎さんを思い出す。

 それにしれも、坂崎さん――――。
「事情聴取だよな…………さすがに」
 いくら政治家が苦手な警察でも、坂崎さんが強請られて金を渡していたことがわかったわけだから、明日には任意で事情聴取に踏み切るはずだ。
 俺でさえ坂崎さんの犯行を否定できないんだから、一課の刑事はもっと疑ってる。

 けれども、坂崎さんが綾瀬を殺したとすると、どうしても解決できない疑問が2つある。
 なぜ日記を回収してから殺さなかったのか。そして、どうしてわざわざ俺に相談して、綾瀬の死体を見つけさせるようなことをしたのか。
 まるで早く自分を逮捕しろとでも言ってるみたいで、なぜか自傷行為のような孤独感を感じる。

 やっぱり仕事が手に付かなくなって、コーヒーでも飲みにオフィスに戻ろうとしたとき、携帯にメールが届いた。
『急に会議が入ったから20時に変えてもいい?』
 20時か。蟻ヶ崎の店で時間潰そうかな。
 坂崎さんに「了解」と返信して、雨宮にメールで伝えると、すぐに「はぁ?なんで? つか、ハートがウザイ」と返ってきた。

杉本浩介

 捜査会議から戻ってくると、俺のデスクに知らない男が座っていた。
 男っていうよりも「男の子」だな。
 ビジネスバッグを抱きしめて、ひどく居心地悪そうに小柄な肩を縮めている。面接の順番待ちをしている大学生みたいだ。
「お疲れさん。俺に何か用か?」
 声をかけると、彼はビクッと大げさなくらい体を震わせて俺を見上げた。けれどもメガネの奥のでっかい目は、俺の目じゃなくて首のあたりを見ていて、しかもその顔があまりにも不安そうで、何も悪いことをしてないのにこっちが申し訳なくなってしまった。
「あ、いえ、その……あ、あし、足利さんにここに座ってるようにって、言われたんですけど……す、すみません……」
 うつむいて噛みまくりながら言う。最後の方は蚊の鳴くような声になっていた。
 対人恐怖症なのか、よほど後ろめたいことがあるのか。よくこれで公務員試験受かったな。
「で、その足利さんは?」
 見たところ、オフィスにはいないみたいだ。
「あ、た、たぶん喫煙室じゃないかと………」
 自信なさすぎだろ。相変わらず俺と目を会わせようともしないし。
「そう。そこ、俺の席だから隣に移ってもらってもいいか?」
 相手があまりにも動揺しているから必要以上に優しく言ってしまったが、それ以上に彼が恐縮した。
「あぁっ、す、すみません、気付かなくて……すすすすぐに移ります、本当にすみません」
 ガタッと立ち上がって、ビジネスバッグを抱えたまま何度も頭を下げた。
「いや、そんな謝るほどのことじゃないんだけど……」
「すみません…………」
 ……………なんてお約束な奴だ。
 それにしても、こいつは誰だ?
「君、一課の人間じゃないよね?」
 こんなんで一課の仕事が務まるわけはない。基本的に一課の刑事は他部署や所轄から優秀な人間を引き抜いてくるから、こういう「殺人」と聞いただけで顔を青くしそうな人間は入ってこないはずだ。
「は、はい。そそそそ捜査二課の、し、塩入ヶ谷しおいりがやといいます」
「ん? しお……?」
 噛みすぎで名前が聞き取れずに聞き返すと、泣きそうな顔になって、
「す、すみません。塩に入る谷で、塩入ヶ谷です…………」
「塩入ヶ谷? 変わった苗字だな」
 けれども、それ以上にこいつが警察でやっていけるのか本気で心配になってきた。しかも二課だろ。いくら血生臭い現場はないとはいえ、企業役員や暴力団まがいの奴ら相手にやっていけるのか?
 いや、今はそれよりも。
「二課ってことは、もしかして――――」
「すーぎーもーとっ」
 妙に高いテンションで呼ばれて振り向くと、足利さんがデスクの合間を縫って歩いてきた。
「こいつから話聞いたか?」
「いえ、まだ挨拶しかしてないです。北林の件ですよね?」
「ああ。おもしろいことがわかったぞー。な、要」
 話を振られた塩入ヶ谷は、少しだけ嬉しそうに頷いた。そしてずれたメガネを直して、シャキッと背を伸ばした。
「あ、はい。あまり詳しいことは話せませんが、ここで説明しても大丈夫ですか?」
 さっきとはまるで別人みたいに流暢に言う。
 というか、顔つきとか仕草まで堂々としていて、本当に別の人格になったみたいだ。
 この変貌ぶりは、ある種の病気なんじゃなかろうか………。
 あまりの変貌に驚いている俺とは反対に、足利さんは特に気にする様子もなく、空いてる椅子を引っ張ってきてドサッと座った。
「おう、頼む」
 この様子だと、足利さんの前ではいつもこんな感じなのか。
 塩入ヶ谷は「はい」と生き生きと返事をして、バッグの中から書類を抜き取るとデスクに並べた。3枚並んだA4のコピー用紙にはそれぞれ写真付きの個人情報が印字されていた。
「今年の3月、北林将岱について郵送でタレコミがあったんです」
 言いながら初めて俺と目を合わせ、そして俺が想像もしてなかった名前を挙げた。
「登場人物は、北林将岱と皆川会幹部の深川賢治、それに株式会社セブンスフィアの前CEOの紺野和彦です」
「え――――セブンスフィア?」
 三並敦志の会社と、北林が繋がっている?
 つまり、坂崎悠真→田口真奈美→綾瀬司郎→北林将岱→三並敦志そして坂崎悠真、というサークルが成り立つ。
 偶然というにはあまりにも出来すぎた「繋がり」に、驚きというか、不気味さすらある。
 思わず足利さんを見ると、ニヤニヤと笑みを浮かべていて、不気味さが増した。