始まりの日
赦罪 - 25
杉本浩介
田口真奈美の日記から、綾瀬の指紋と、坂崎悠真の指紋が検出された。
思ったとおり、坂崎はこの日記の存在を知っていたということだ。
それに綾瀬が公衆電話から連絡をとっていた相手も坂崎だった。それを元にもう一度綾瀬の遺品を調査して、大量のエロDVDのケースの中から、地方銀行の預金通帳を見つけた。
その口座には、今年の2月下旬から数回、数十万単位での入金があり、振込み元のATMの防犯ビデオには坂崎が映っていた。
綾瀬はそうやって手に入れた金を裏DVDや買春につぎ込んで、金がなくなると坂崎に電話をするという生活を繰り返していたようだ。
つまり、綾瀬が坂崎を強請っていたことは確実だ。2月に田口真奈美を殺して日記を手に入れ、そこに書かれていた9年前の火事の件をマスコミに流すとでも言ったんだろう。
これがずっと続くのかと恐れた坂崎が、綾瀬を殺そうと考えたとしても不思議じゃない。現に、今月は何度も連絡を取り合っていたにもかかわらず、坂崎からの振込みはなかった。
「それにしても綾瀬っていう男も相当汚いことをしてたんだな。未成年相手に援助交際以上のこともしてたらしい」
一課の捜査状況を説明してそう付け足すと、尾形は白けた顔でペットボトルを置いた。
「田口真奈美殺しの送検以前に、児童買春・児童ポルノ処罰法違反で被疑者死亡の書類送検にしたほうがいいんじゃない?」
未成年にヤクザの組長との繋がりを作ってドラッグ盛られるような状況を作っておいてよく言うよ。
雨宮も俺と同じことを思ったのか、尾形を睨みつける。
「尾形がそれを言うなよ」
どうやら雨宮は金曜日のことは思ったよりも気にしてないみたいで、どっちかって言うと尾形の神経を疑ってるみたいだ。とりあえず、心の傷みたいなことになってなくてよかったが。
その雨宮が、意志の強そうな目を俺に向けた。
「そういえば、昨日見つかった白い粉って、なんだったんですか?」
「それなら尾形が鑑定中だ」
言いながら尾形を見ると、なぜか不機嫌に俺を睨みつけて答えた。
「アコニチン」
「アコニチン? なんだそれ」
聞きなれない単語に思わず繰り返す俺とは対照的に、雨宮は小さく唇を噛んだ。それが何なのか知ってるみたいだ。
尾形はその雨宮の様子を見つつ、特に声をかけるでもなく淡々と説明をした。
「トリカブトの毒だよ」
「ずいぶん古典的な毒もってきたなぁ」
「古典的だけど、自然界じゃナンバー2の猛毒なんだよ。ちなみに1位はフグのテトラドトキシン。でも即効性で言うとテトラドトキシンより優れてるね」
「即効性か。そうは言っても、青酸系ほどじゃないんだろ?」
青酸カリのような青酸系の毒物の場合は15分くらいで死亡することがあるが、そこまでの毒物はそうそうない。けれども、尾形はニヤッと口角を上げた。
「アコニチンもシアン化合物も大差ないよ。多量摂取の場合は15分程度で症状が現れて、呼吸中枢麻痺によって1時間以内に死に至ることも多い。決定的に違うのは、シアン化合物は粘膜を刺激するから経口摂取だと吐き出すことがほとんどだけど、アコニチンは多少味が変わるくらい。致死量も15~20mg、粗塩ひとつまみだ。つまり、毒殺の中ではダントツ成功率が高い」
「おいおい………それじゃぁコーヒーの砂糖とすりかえれば簡単に殺せるってことか」
綾瀬はアコニチンなんか持って、誰を殺すつもりだったんだろう。
そう考えて、昨日部下から上がっていた報告を思い出した。
「……綾瀬の財布から甲府のコンビニのレシートが出てきただろ。そのレシートと同じ日付の日に、北林も甲府の党支部のパーティーに出席してた。それで偶然にしてはできすぎてると思って調べてみたんだが、甲府には北林の10年来の愛人がいて、その愛人が1人でやってる小料理屋で綾瀬らしい男が目撃されてる」
カプセルホテルに泊まった、その日だ。つまりアコニチンを持って北林に会っていた可能性が高い。
「綾瀬は北林を殺そうとしてたんじゃないか?」
その可能性を言うと、尾形と雨宮が同時に、
「ありえるな」
「ありえますね」
そして尾形がコンビニで買ったプリンの蓋を剥がしながら続ける。
「ただ、そうだったとしても1つだけ説明がつかないことがある」
「動機か?」
「はずれ。アコニチンを入手した時期が不自然なんだよ」
何が言いたいのかいまいちわからない。
それなのに、雨宮は「そっか」と呟いた。
「そのアコニチン、前に何かの事件で使われてて入手ルートがわかってるってこと?」
なるほど、すでに事件で使用されていて、しかも使った人間が逮捕されてれば入手ルートや時期がわかってるはずだ。その上で、綾瀬が入手した時期との整合性がとれないんだろう。
「雨宮、おまえ頭いいなぁ」
思わず感心して言うと、雨宮はなぜか驚いたように俺を見た。
「あたりまえだろ」
と言ったのはもちろん尾形で、何か言おうとした雨宮に隙を与えずに続ける。
「指紋と同じで、前科があれば薬の正体もわかる。綾瀬が持ってたアコニチンは純度が89.7%で残りの10.3%はアコニチン以外のものが含まれてたんだけど、その割合と不純物の中身が、前に俺が鑑定したのと同じだった」
前科のある毒薬か。
「で、その前科ってのは?」
「3月4日の葛飾、3月30日新宿、4月11日練馬、4月22日新宿―――全部自殺だ。4月11日の練馬は集団自殺でその中でギリギリ助かった男から入手ルートを聞き出して、4月のうちに売人が自殺幇助と薬事法違反で逮捕されて、7月に有罪確定済みだ」
「綾瀬もそいつから買ってたとすると4月以前に手に入れたのか。ずいぶん長期間しまいこんでたんだな」
北林を殺すのが目的なら、秘書をしていた綾瀬にはそのチャンスが腐るほどあったはずなのに、行動に出なかったのは何か理由があるんだろうか。
「ま、使ってないとも限らないけどね」
「おまえなぁ、プリン食べながら物騒なこと言うなよ………。だいたいそこまで分かってたんなら、さっさと一課に報告しろ」
あまりにも呑気な尾形を見かねて言うと、さも当然のように。
「こんなこと報告したくなかったんだよ。ますます坂崎さんの容疑が濃くなるから」
「だから、堂々と捜査に私じょ―――――!」
私情を挟むな、と言いかけて気付いた。
「おい、なんで坂崎の容疑が濃くなるんだよ」
尾形は俺を見て馬鹿にするように笑う。
いちいちムカつく奴だ。
「そんな便利な劇薬を持っていたのに、なんで綾瀬は手首を切って死んだんだと思う?」
そうか。言われて見れば、アコニチンをわざわざ手に入れたにも関わらず、睡眠薬を飲んで手首切って自殺するなんて考えにくい。ということは。
「他殺だったってことか」
他殺の可能性が増せば、坂崎悠真への追求が強くなるのは間違いない。
だったら余計に尾形の報告が遅れたことが問題になる。いくらこの前の名誉の負傷があったとしても、もし坂崎が犯人だったらただじゃ済まないはずだ。
それなのにコイツは呑気にプリンなんか食いやがって…………。
思わず睨みつけると、俺の視線に気付いた尾形は。
「食べたいなら素直に言えって。杉本さんの分も買ってあるから」
尾形がプリンに夢中になる時は、触れられたくない事がある時だ。
だんだん尾形の行動パターンがわかってきたぞ。
「おまえ、まだ他に隠してることあるだろ。昨日の電話だって、俺は忘れたわけじゃないぞ」
あの時も、尾形は明らかに何かを隠していた。それも坂崎の容疑を裏付けるものなのかもしれない。
けれども尾形は、そ知らぬ顔をして蟻ヶ崎さんが出したコーヒーに口をつけた。
「ったく………子供じゃないから細かいことは言わないけどな、自分が警察の人間だってことだけは、忘れるなよ」
呆れながらも一応釘を刺したが、なぜか尾形は嬉しそうに笑った。
「杉本さんって、やっぱり安心安全だよな」
だめだ、こいつ人の話聞いてない…………。
雨宮陽生
「公安って、違法きわまりねーな……」
図書館の机に並べた書類から、「国民健康保被保険者証」と書かれたクリーム色のカードを手にとって眺めた。
杉本さん経由で、相沢から受け取った身分証明書一式。
どうやら俺は山梨県出身で、8月17日に死んだ雨宮政五郎という89歳の爺さんの孫と言う形で登録されていた。政五郎の妻は35年前に死亡、俺の両親にあたる政五郎のひとり息子とその妻は17年前に一緒に死亡、俺の生年月日は18年前の7月21日ということになっていた。
俺が知ってる健康保険証とはちょっと違うけど、十分本物っぽい。戸籍謄本も、住民票も。しかも戸籍謄本の「未成年後見人」の名前が尾形になってるし………尾形、聞いてないと思うんだけど。
それにしても、頼んだのは俺だけど、こんなに簡単に戸籍が手に入るなんて思わなかった。つまり相沢にとっては消すことも簡単ってことだよな。
なんか、すごい弱みを握られたような気がする。
っていうか、相沢の仕事って一体なんなんだろ………。
そういえば、相沢ってヤクザと付き合ってるくせに、親を殺されてるみたいな感じだったっけ。
『君が羨ましいね』
『過去に戻って、真実を知れた。そのおかげで犯人が逮捕されたということだろ』
俺の父親が雨宮雅臣だと知って、そういつもの穏やかな顔でそう言った。
確かに俺が2008年にタイムスリップしたことで、父さんを殺した男が逮捕された。
けれど、犯人に対する憎しみや復讐心が薄れたわけじゃない。自分のことなんてどうでもいいくらい、両親を殺した奴らが憎くて、悔しくて、歯止めの利かない醜い感情の塊が押し寄せてくる。
おまえも同じだ。
おまえも、いつか人を殺す。
見えない誰かにそう言われてるようで、俺は違うと言い切る自信がなくなりそうになる。
だから、俺は坂崎さんにふりかかってる疑惑を直視できない。
坂崎さんへの容疑が濃くなるほど、杉本さんの話に、耳を塞ぎたくなる。
復讐のために人を殺すんだと目の前で証明されるのが怖いから。
「雨宮、陽生?」
ふいに後ろから声がして反射的に振り返った。
明らかにこの名前に心当たりがあるような感じで、30代前半くらいのTシャツにジーパンっていうラフな服装の男が俺の手元を覗き込んでいた。
見られてたなんて全然気付かなかった。なんかヤバそうな奴だな。
「なんですか?」
素早く広げた書類やカードをしまいながら拒否感を混ぜてみたけど、薄い唇だけで上っ面の笑顔を返した。
こいつ、どっかで見たことある。誰だっけ。
「こんなところに可愛い子がいるから、ちょっと気になってさ」
見た目も会話も露骨に裏のありそうな奴だ。っつーか、図書館で寒いこと言うなよ。
「はぁ?」
睨んで牽制すると、そいつはコホンと小さく咳をして真顔になった。
「っていうのは、冗談だけど」
言いながら肩に掛けていた黒い革のバッグをドンと俺の目の前に置いて座ったその時、この使い込んだ黒いバッグを持ったこいつの映像が目の奥で流れた。
そうだ、あの時だ。
麻布の事件の後にあの家の前にいた野次馬の1人だ。そんな奴が俺に話しかけてくる理由に、嬉しいことなんてあるはずがない。
面倒なことになると嫌だな、と思うと同時に、そいつはクイッと口を片側だけ上げた。
「雨宮陽生って、総理の孫の名前だよな? あんた、何モン?」