始まりの日

赦罪 - 24

尾形澄人

 始まりは、23年前。

 23年前、母親を父親に殺された。
 9年前、2人の人間の死をもって救った妹の命は、24歳で父親の秘書に奪われた。
 その秘書は妹の殺害を苦にする形で自殺した。
 そして今朝、自分自身が襲われて大怪我を負った。

 こんなふうに客観的に事実を並べただけでも悲惨な人生なのに、杉本さんの言っていた通りだとしたら、泣きたくなるほど悲しい人生だ。
 幼くして父親が母親を殺し、生き別れたたった1人の妹を性的虐待から守るために2人の人間を焼死させ、そうまでして助けた妹は24歳という若さで殺された。そして、復讐のために綾瀬を殺した。
 悲運というひと言では片付けることができないほど、容赦なく凄まじい人生。

 それでも、たとえ同情の余地があったとしても、人を殺した人間が裁かれないのはおかしい、って杉本さんなら言うんだろうな。
 そして必ず逮捕に踏み切る。

「雨宮は俺がもし殺人犯だったらどうする?」
 帰り道、運転しながらできるだけ自然に聞くと、雨宮は露骨に眉間に皺を寄せて俺を睨んだ。
「は? 何言ってんの? 意味不明」
 バッサリと切り捨てるように言う。
「いいから。俺が人を殺していたとしたら、雨宮はどう思う?」
 もう一度同じことを聞くと、雨宮は少しだけ何かを考えるような間を作ってから、雨宮らしい強気の口調でキッパリと答えた。
「尾形が殺人なんてするわけないじゃん。んなこと想像できねーよ」
「もっと想像力働かせろよ、俺の経歴知ってるだろ。完全犯罪なんて楽勝なんだよ」
 そう返しながらも、思った以上にホッとした自分に気付いて、内心苦笑した。
 雨宮だったら、人に裏切られることに慣れている雨宮なら、こんなふうに否定しないんじゃないかと思っていたから。
「きっちり想像して出た結論だよ。尾形だったら殺すことよりも、一生苦痛を感じる状態で生かしておく方を選ぶね」
「それは光栄だなあ」
「褒めてねーよっ」

 けれども、心臓の中心にある暗闇をそっと探った。

 俺には、絶対に自分が殺人を犯さないとは言い切れない。
 横浜で銃口を向けられている雨宮を見た時、拳銃を手にしていたら、確実に撃っていた。
 雨宮が一ノ瀬に犯されていたと知った時、心の底から殺意が沸き起こった。あの時、自分の手に刃物があったら確実に刺していた。
 だからこそ、雨宮が俺の殺意を認めなかったことに安堵した。
 その雨宮の信頼を裏切っていないと、自分を認めることができる。

 結局のところ、心の闇を摘み取れるのは、自分じゃなくて、愛する人からの信頼や愛情なのかもしれない。
 坂崎さんにも、同じように信じる人が、敦志がいる。

「坂崎さんの母親は、北林に殺された―――少なくとも太田さんはそう確信しているし、俺もそうだと思う」
「え……………」
 頬を凍りつかせるような雨宮に、できるだけ淡々と、感情を込めずに太田さんから聞いた事実と、田口真奈美の日記のことを話した。

 母親の自殺の真相も、妹の養父母の焼死も、妹の死も、1つ1つの事件に直接的な関係はないかもしれない。
 けれども、坂崎さんの中では確実に1つの線の上にある出来事で、たった1人でそれを受け止めている。

 ただ、そんな悲痛さを受け止められる人間だからこそ生まれる、負の感情があるとしたら―――?

 それを、俺が敦志に告げることになるかもしれない。
 敦志の唯一を、失わせることになるかもしれない。

 重く湿った液体が心臓に充満しそうになるのを、そっと振り払った。

 どんなにわずかでも、その傷を浅く済ませるために、俺にできることは――――。

「明日、坂崎さんに会いに行こう」

雨宮陽生

 休日出勤で仕事に行った尾形から「杉本さんとランチミーティングするから、残像見えるぐらい急いで来い」とかいうふざけた条件で呼び出されて来てみたんだけど。
 有楽町の路地裏にあるバーの前で、その木目の扉を引くのを躊躇った。
 理由は2つ。

「Closeって………やってねーじゃん」
 ドアに掛けられた黒いプレートには、営業時間が18:00~と彫られてる。どう考えても平日の昼にランチなんてやってなさそうな店構えだし。
 何かの間違い……なわけないよな。どうせ尾形が無理やり開けさせたか閉めさせたかだ。
 だから中に入れば尾形がいるはず。となると、杉本さんもいる。
 それが、この扉を開けたくない理由の2つ目だ。

 昨日、尾形から聞いた話――坂崎さんの父親が北林だってことや、その北林が坂崎さんの母親を殺したかもしれないってことを、杉本さんには話すなと口止めされた。

「坂崎さんに対する一課の心象をこれ以上悪くしたくない。もし坂崎さんが罪を犯していたとしたら、自首してもらいたいから」
 被疑者扱いになったら、自首は認められない。綾瀬の事件が自殺なのか他殺なのか曖昧な今だったらまだ自首扱いになるから、できるだけ警察には情報を流したくないっていう理屈は分かるけど…………。
「尾形は坂崎さんが綾瀬を殺したと思ってるんだ」
 そう聞くと、小さく首を振った。
「綾瀬に関しては、正直なところまだわからない。けれど、警察は7割がた坂崎さんに絞って捜査をしてる。そんな時に、北林の息子だったことや母親が北林に殺されたことを話したら、坂崎さんへの疑いが倍増どころか被疑者に格上げする可能性すらある」
 否定はしないんだ。
 坂崎さんは違うってはっきり言って欲しかったのに、裏切られたような気がした。俺が裏切られたわけじゃないのに。
「尾形は坂崎さんの疑いを晴らしたいと思わねーの?」
「そうじゃない。俺の思い過ごしで取り越し苦労ならその方がいい。けど、敦志の気持ちを考えてみろよ」
 ああ、そうか。三並さんか………。

 尾形に「人を殺していたらどう思う」って聞かれたとき、本当は「裏切られた」と思った。
 尾形は絶対に殺人なんてしないと、心のどこかで信じていたから。

「あいつは坂崎さんのこと本気で想ってるんだよ」

 裏切りは、深い傷を残す。
 そんなこと、嫌ってほど知ってる。
 坂崎さんが本当に殺人を犯していたとしたら、三並さんに同じ傷を残す。
 軽蔑とか憤りなんかじゃなくて。

「もし坂崎さんが犯人だったら、できるだけ敦志が納得できる状況で自首させたい。
 そりゃ、こんな小手先のことで何かが変わるとは思えない。けれど、何もしないよりマシだろ」

 真正面を向いて淡々と、けれども真剣に言う尾形の横顔は、どこか痛みに耐えているような気がした。
 もしかしたらデニーズの駐車場で俺に抱きついてきたのは、尾形なりに気持ちの整理をしていたのかもしれない。
 坂崎さんや三並さんの傷を思って。

 どっちにしても、ここでつっ立っててもしょうがない。杉本さんに嘘つくのは嫌だけど、俺だってできれば坂崎さんが不利になるようなことは隠しておきたい。
 開き直りに近い心の準備をして、重そうなドアを引いた。

「いらっしゃいませ」
 バーカウンターの奥から男の声がして、そのカウンターで尾形と杉本さんがコンビニの弁当を食べてた。尾形の奥で杉本さんが笑顔で軽く手を上げるのを見て、やっぱり少しだけ罪悪感が沸いた。
「遅い」
 尾形が偉そうに言いながら、ここに座れとでも言うように隣の椅子を引く。
「そっちが急に呼び出すからだろ。自由が丘からだと電車の乗り継ぎが悪いんだよ」
 座りながら言い返すと、杉本さんが大きく頷いた。
「早いほうだと思うぞ。だいたい、尾形はいつも急すぎるんだよ。マスターも迷惑だったらはっきり言ったほうがいいよ」
「ええ、そうします」
 カウンターの中の20代後半くらいの男が、細い目を線みたいに細くして笑った。マスターなのにTシャツだし他に客がいないから、やっぱり営業中ってわけじゃないんだ。
 無理に店借りてるってことは、尾形の知り合いかな。そう思ってると、尾形がサンドイッチのテープを剥がしながら、
「研修医の時の同期。医者やめて今年この店始めたんだよ。蟻ヶ崎、こいつ雨宮」
 そう言ってチラッと俺を見る。その意味深な視線に、恋人とかそういう紹介されたら殴ってやろうと思って、拳を準備した。
 けれども。
「未成年だから酒出すなよ」
 あれ……なんか肩透かし?
 とりあえず浅く頭を下げると、彼はにっこりと笑っておしぼりを差し出した。
「よろしく。近くに来たら遊びに来てね。20歳未満のお客様からはチャージ取ってないから」
 尾形って意外と友達いるんだ。しかも今度は普通の人だ。自然体って言いうか、クセがないっていうか。
 ちょっと安心して頷くと、尾形が会話を邪魔するみたいに、コンビニの冷やし中華とペットボトルのお茶を俺の前に置いた。
「これおまえの。本当は蟻ヶ崎に適当に作らせればよかったんだけど、杉本さんが買ってきちゃったからこれで我慢しろ」
 相変わらずここにいる人間すべてを敵に回す言葉を選ぶ。なんか、ムカつくってよりもあえてそういう態度をとる尾形が不思議になってきた。
「おまえなぁ、昼真っから店開けさせて作らせるってどういう神経してるんだよ。少しは相手の身になれ」
 杉本さんは杉本さんで、尾形を矯正することを諦めてないみたいだし。この2人って、10年後もこういう会話してそうだよな。
「それより、一課で分かってること教えろよ。そのために店開けさせたんだ」
「…………ったく、偉そうに言うな」
 杉本さんは空になった容器を片付けながら呆れて言うと、ペットボトルのお茶を一口飲んでからこれまでの捜査状況を一気に説明した。