始まりの日

赦罪 - 20

雨宮陽生

 施設を横に見る細い道路を抜けると、急に潮の匂いが強くなった。
 途中、小さな広場で子供たちが遊んでいて、その広場の眼下には、海が広がっている。広場の脇の階段を下ると西湘バイパスの高架があって、そのすぐ下は小石交じりの砂浜が続いていた。
 高架下はちょうどいい日陰になっていて、バーベキューをする家族や学生たちや、昼寝をする地元の人たち、海岸にはちらほらとサーファーと海水浴客がいた。

 その日陰の防波堤に寝転んで、ぼんやりと耳をすました。
 頭上で行き交う車の音は耳障りじゃなくて、どっちかって言うと心地よくさえある。俺がよく行っていた葉山の海は、波と風の音しかしなかったのに。

 そういえば、小3の頃に葉山の別荘に立てこもったっけ。あの時はじいさんに無理やり学校に行かされそうになって、それに反抗するために家出したんだ。

 家出したはいいけど、俺はその頃「元総理大臣の孫、悲劇の超天才児」なんて言われて面白おかしくマスコミに追いかけられてから、結局、よく遊びに行っていた葉山の別荘に隠れて、窓から海を眺めていた。
 今思うと、あの時からだったかもしれない。俺が、ある意味人生を達観し始めたのは。

 別荘に閉じこもった翌日、管理人が俺の命令を無視してじいさんに連絡したみたいで、月本が迎えに来た。
 どうせじいさんに頼まれて来たに違いないって思ったけど、月本は俺を力ずくで引っ張る奴じゃないから部屋に入れてみた。そしたら、人の部屋のソファーにゆったりと座って、
「陽生さん、どうせ閉じこもるなら、もう少し効果的な方法を思いつかなかったんですか?」
 呆れたように言った。
 なんだよ、こいつ。
「効果的?」
「あなたは、たくさんの偉い大人に可愛がってもらっているじゃないですか。水沢会長や笹川大臣のような、雨宮会長なんかよりもずっと素晴らしい方たちを知っているのに、どうしてそうやってひとりで抱え込むんですか」
 雇い主のじいさんを「雨宮会長なんか」呼ばわりすることと、家出した俺にそんなアドバイスをすることのどっちに突っ込めばいいのか迷って、結局。
「んなこと言ったって、水沢さんも笹じぃも、いつも忙しいから俺のことなんてかまってられないだろ」
 と普通に答えると、月本は迷惑そうに。
「そんなことありませんよ。現に、私は殺人的なスケジュールの中、こうして葉山くんだりまで来ています」
「くんだりって……え、あれ? 月本はじいちゃんに言われて来たんじゃねーの?」
「違いますよ。まぁ、あなたが帰ってこないことには、会長が仕事をしないので仕方なく、という理由ではありますけど」
 なんだ。結局、俺を心配していたわけじゃないのか。
「相変わらず、計算だけーよな……」
 がっかりした俺を尻目に、月本は面倒そうに、それでもあくまでも丁寧に言う。
「つまり、そういうことですよ。あなたなら、わかりますよね?」
「……じいちゃんを困らせるなら1人で反抗しないで、水沢さんや笹じぃみたいに、もっと影響力のある、損得が一致しそうな人と手を組めってことだろ」
 俺の答えに、月本は満足そうに頷いた。
「そういうことです。それと、会長から伝言です」
「やっぱり、じいちゃんに言われて来たんじゃん」
「違うと言っているでしょう。『アルを置いていったことを、後悔するんじゃないぞ』とのことです」
「…………どういう意味?」
「さぁ? そういえば、私が自宅に伺った時、猟銃の手入れをしていましたね」

 結局、俺はすぐに家に帰って、猟銃を構えるじいさんからアル(ゴールデンレトリバー・♂)を守って、事なきを得たってわけだけど。
 それにしても、子供になんてこと教えてるんだよ、あの秘書は…………。

 でも、あの月本の子供を子供とも思わない言動と図太い考え方を教えてくれたおかげで、今の俺があるんだと思う。
 月本は俺の気持ちを知っているみたいに、けれども俺にそう気付かせることなく、誘導してくれていた。もしかしたら誰よりも、俺を理解していたのかもしれない。

 2008年に来てからも、ふと考えてしまう。
 月本だったら、今の俺になんて言うんだろう?
 俺をどこへ導いてくれるんだろう――――。

 コツン、と額に何かが当たる感じで、うっすらと目を明けた。
 コンクリートに寝転がって子供の頃ことを思い出しているうちにうとうとしていたんだ。
 真上から俺を覗き込む尾形の顔が、ひどく優しく見えた。
「眠れた?」
「…………まぁね」
 意外にも優しく言葉をかけられて、思わずドキッとした。その鼓動を気付かれないように起き上がりながら、
「話、どうだった?」
 そう聞くと、尾形はニヤリといつも通りに笑って、施設で聞いたことを話した。

「――で、疑問が1つ。母親がたった300万円の借金を苦に自殺したっていうのが、どうにもしっくりこないだろ」
 尾形は俺の左側に座って、まるで捜査会議でもするみたいな感じで言った。
 けれども俺のテンションはずっしりと下がった。
 家族が死ぬ、殺される哀しみは、痛いほどわかる。俺は両親の記憶がなかったけど、坂崎さんは、母親のことがずっと記憶に残っているはずだから、よけいに辛いはずだ。
 母親が自殺し、ようやく自分が幸せになった時、「本当に親子だったらよかった」鹿島弘一が、母親と同じ方法で死んで、それから1年も経たないうちに、妹が絞殺されるなんて。

 どうして俺だけ。なんで俺だけが、生きているんだろう。
 きっと坂崎さんは、そう思った。俺が、そう思ったように……。

 あまりにも理不尽で、残酷な――――…………。

「雨宮?」

 ふいに呼ばれて、ハッとした。
 尾形が少しだけ眉を寄せて俺の顔を覗き込んでいた。
「あ、ああ……大丈夫」
 無理やり笑って答えると、尾形は何も言わずに、俺の左手を握り締めた。
 真夏なのに、ショックで冷え切っていた手が温められて、ゆっくりと血が流れ出す。
 たったこれだけの行為が、思いのほか俺の心を解きほぐしていくのがわかった。
 やっぱり、俺は尾形が好きなんだ。
 ずっとこの手を握って、俺の隣にいてほしい。

 でも、この手が離れないなんて信じちゃいけない――――いつか必ず俺から離れて、深い爪あとだけ残していくから。

「大丈夫だって、言ってるだろ」
 顔を逸らして軽く手を振り払うと、あっさりと尾形の温もりが消えた。
「ったく、人の親切くらい素直に受け取れよ。次、行くぞ」
 いつもと変わらない機嫌の悪そうな命令口調で言って立ち上がる。
 尾形に遮られていた風が、直接俺の左半身を掠めた。
 真夏なのに、寒いと感じたのは気のせいだと思うことにして、小さく深呼吸する。
「はやく来いよ、俺は夏は嫌いなんだ」
 その声に振り向くと、すでに尾形は俺に背を向けて、来た道を戻っていった。

尾形澄人

 言いかけた言葉を寸前で飲み込んで立ち上がる。
 焦る自分を押さえつけて、精一杯気付かれないように、いつもと同じように振舞う。こんな余裕がないシチュエーションは久しぶりだ。
「次って、もしかして母親の自殺について調べるの?」
 相変わらず頭の回転の速い雨宮はそう言いながら俺の横に並んだ。
 頭の回転が早いうえに、自分の気持ちを整理するのが、冷酷なほど上手すぎる。自分が傷付く前に、そうやって気持ちに踏ん切りをつけながら生きてきたんだろうな。
「ああ。さっき杉本さんに連絡して当時の担当刑事の連絡先を教えてもらった」
「この近く?」
「そ、太田さんって人。何かと坂崎さんの人生の岐路で出てくる名前だな。母親の自殺捜査にはじまって、親戚に虐待されてた兄妹を施設に保護したり、坂崎さんに鹿島弘一を紹介したり」
 自殺した母親を発見した6歳の子供の将来が気になるのは分かる。でも、それだけか? それ以上の何かがあるような気がした。

 太田さん――太田康夫元警部の家は、袖ヶ浦学園から15分くらい東京方面へ戻ったところにあった。
 途中、コンビニで飲み物なんかを買って、なんの目印もない閑静な住宅地のど真ん中で「目的地周辺です」とカーナビが曖昧な表現で案内を終えたのに多少の苛立ちを覚えながら、徐行して周辺の番地を数えて太田家を探した。
 この辺りは都内で働く人たちのベッドタウンでもあるんだろう。建売の同じような家が整然と立ち並んでいる。住宅街にしては道も広いから、比較的新しいエリアなのかもしれない。
 こんな絵に描いたようなマイホームを建てた太田さんは、警察官をまっとうして、幸せな老後を送っているんだろうか。
「あの家じゃない?」
 雨宮が窓の外を指した。
 小さな庭のある、薄い塀で囲われたどこにでもある一軒家。2階のベランダには洗濯物が風にゆられていた。小さな子供服もあるから、息子夫婦と一緒に暮らしているのかもしれない。
 表札を確認して通り過ぎ、道路が少し広くなったところに車を停めた。
「俺、ここで待ってるよ。駐禁切られるのも面倒だし」
 雨宮はまたそう言って、シートのリクライニングを後ろに倒した。
「了解。エンジンかけておくから」
 さすがにこの時間にクーラーが効いてないと熱中症で死ぬ。せっかく俺が気を利かせてやってるのに、雨宮はすでに寝る体勢になってさっきコンビニで買った新聞を顔に乗せ、右手を上げるだけで応えた。
 顔の上の新聞がジャンプならまだしも、これじゃどう見ても杉本さんと大差ないオヤジだろ。
 呆れながら車のドアを閉めて、4軒先の太田さんの家を眺めたとき、その平凡な塀の内側から黄色いポロシャツを着た白髪交じりの男が出てきた。
 そして迷わずに俺を見ると、浅く会釈した。
 間違いない。太田さんだ。
 軽く頭を下げながら歩み寄る俺を、彼はほんの少しだけ頬を強張らせて迎えた。
「警視庁の、尾形さんですね」
 ベテラン刑事らしい幹のしっかりした声だった。
「ええ。太田康夫さんでよろしいですね」
 威圧的にならないように聞くと、彼はしっかりと頷いた。それから玄関の方を見やった。
「…………うちには家内がいるので、申し訳ないが近くの店かどこかで話をしたい」
 聞かれたくない話ってことか。もしかしたらビンゴかもしれないな。
「わかりました。車に乗ってください」
「隣にいた少年は?」
 タイミングの良さでわかってたけど、家の中から見てたのか。
「あぁ、あれは気にしないでください。話すときは席外させるんで」
「……そうですか」
 太田さんはそれ以上は何も言わずに、車に向かって歩き出した。
 何気なく家の方を見ると、2階のベランダから30半ばの男が赤ん坊を抱いてこっちを見ていた。息子と孫なんだろう。
 気付かなかったふりをして、太田さんを追った。

 この人は、どこまで知っているんだろうか。