始まりの日

赦罪 - 19

杉本浩介

 尾形と雨宮を送って本庁に戻った時にはもう空が明るくなりかけていた。始発で帰ろうか迷った挙句、結局仮眠室に泊まって、携帯のアラームが鳴る前に、尾形からの電話で起こされた。
 眠い目を擦りながら坂崎さんのいた養護施設や母親の自殺捜査をした刑事に電話をし、職員に怪しまれないように尾形のことを説明して受話器を置いてから、なんで土曜の朝っぱらからこんなことをしてるんだろう、とふと我に返った。
 それでなくても、尾形に振り回される頻度が増えてきたような気がする。
 いや、もともと尾形は俺に頼るような奴じゃなかった。基本的に自分に利益になることしかしないから、自分のテリトリーの外に出ることがなかったんだ。その尾形がこんなに必死になっているのは、やっぱり雨宮のためなんだろう。
 となると、俺だって協力するに決まってるが。

 そんなことを考えながらシャワーを浴びて、所轄署へ向かおうと地下の駐車場に出ると、携帯にメールが届いた。
『休日に申し訳ありません。真奈美のマンションの防犯カメラに綾瀬と思われる男が映ってました』
 差出人は、所轄で一緒に行動している岸田さんだった。
 田口真奈美の事件は代々木警察署に拠点をおいているから、遺留品は全部代々木署で管理している。代々木署の鑑識があらいなおしたんだろう。
 エンジンをかけて「これから向かう」と返信して、ギアをドライブに入れた、その時。
 コンコン、と助手席の窓を叩く音がした。
 振り向くと、澄ました顔で中を覗く相沢と目が合った。相沢はすかさず助手席のドアを開けて、何も言わずに助手席に乗り込む。
 昨日のことを考えて溜め息をつきながら、ギアを戻した。
「何か用か?」
 睨みつけたつもりだったが、相沢は得意の柔らかな無表情をしたまま膝の上に置いた皮のビジネスバッグの中を見ながら。
「用があるから来たんです」
 そう言って、縦長の茶封筒を差し出した。
 そもそもなんで俺がここにいるのかわかったのかが謎だが、それよりもその手にある無地の茶封筒があまりにも怪しくて、思わず受け取るのも躊躇ってまじまじと見てしまった。
「…………口止め料?」
 としか考えられない。
 けれども相沢は口元に手を当てて珍しく声を出して笑った。
「クククッ、面白いですね。そう思っていただいてもかまいませんよ。世の中の犯罪者がいくら金を積んで欲しがっても手に入らないものですから」
 こういう笑い方もできる奴だったのか。言ってる内容は物騒極まりないが。
 とりあえず、その少し厚めの封筒を受け取って中身を抜き出した。
 3つ折りにされた住民票、戸籍謄本と、国民健康保険証が入っていた。
 名前は全て、雨宮陽生。
 ……どういうことだ?
 あいつには戸籍がない。もちろん、住民票も保険証もあるはずがない。
「昨日それを渡すためにあのマンションに呼び出したんですが、渡しそびれたので」
 いや、そういうことじゃなくて。
「どうしておまえがこんなもの――――」
 言いかけて、思い当たった。そうだ、こいつは公安の刑事だ。それも、かなりの権限を持った。
 俺がそのことに気付いたのを察したのか、相沢はほんの少し口角を上げた。
「公安の得技ですよ」
 …………呆れたな。本当にこんなことをしてたのか。それも、今回は職権を乱用して雨宮に貸しを作ったんだろう。
「これの見返りはなんだ? 雨宮にレイプか?」
「あれは事故ですよ。本来なら彼は香港にいるはずだった」
「彼ってのは、一ノ瀬のことか」
「ええ」
 顔色ひとつ変えずに肯定する。暴力団の組長との関係を易々と認めるのか。
 まったく、何者なんだこいつは。
「で、何と引き換えにこんなものを雨宮に提供しようと思ったんだ」
「…………強いて言えば、投資、ですよ」
 投資?
 露骨に意味不明を訴える顔をしたせいか、相沢は続けた。
「この先何が起こるのか、知りたくなった時のために」
「……………そんなことまで話したのか、雨宮は」
 それに相沢も冗談言ってる顔じゃないよなぁ…………信じてるのか、こいつは。
 もちろんタイムスリップしてきた雨宮から未来のことを聞けたら、バラ色人生も不可能じゃない。けれども、こんな馬鹿げたファンタジーに戸籍用意するなんて、リスクが高すぎると思うが。
「俺に話していいのか?」
「私を甘く見ないでください。2週間前のあの事件は、表向き公安は絡んでませんからね」
 そっちもカードを握ってるってことか。確かに、よく考えれば雨宮夫妻殺害の隠蔽だけじゃなく、殺された鹿島弘一を自殺だと断定した失態とか松下管理官と尾形の関係とか、捜査一課の失態は掘り下げれば芋ヅル式に出てくる。
 だからといって、こういうやり方は好みじゃない。
「そうやって駆け引きと嘘と、都合のいいことだけ利用して偉くなったんだな」
 厭味を言ったつもりだったけれど、相沢は悪びれもなく。
「一番早いんですよ、これが」
 本当にただの権力の亡者か、よほどの信念を持って上に上ろうとしているのか。
 こんなに冷静でしっかりしているのに、なぜか危なっかしくも感じる。
「まぁどっちにしても、そうやって急いで築き上げたものは、脆く壊れやすい。気をつけろよ」
 一応そう忠告すると、相沢は無表情のまま俺をじっと見た。何を考えいるのかなんて、もちろん俺に分かるわけもない。
 数秒後、相沢は正面を向いて。
「あなたに会うのが、もう少し早ければよかった」
 そう言うと、また挨拶もせずに車を降りた。

 変な奴だ。
 なんなんだ、その本気の不倫相手に言うようなセリフは。
 だいたい書類だけ渡したいなら、この住民票の住所に郵送すれば済むのに。
 本当に、あいつは何を考えているんだろう。

尾形澄人

 二宮インターを降りて国道から細い道を海側へ曲がると、目的の建物が見えてきた。
「あれだな」
 学校のような鉄筋コンクリートの建物だ。
「袖ヶ浦学園?」
「そ。100人くらいいるらしいから、養護施設としては大きい方だな。俺のことは杉本さんから連絡が行ってるけど、雨宮はどうする?」
 建物の前の駐車場に車を止めて聞くと、雨宮は少し考えてから。
「その辺で待ってる。終わったら携帯に連絡して」
 そう言って先に車を降りた。流れ込んできた風から、潮の匂いがした。
 さすがに部外者が一緒にいたら、聞きだせるものも聞き出せないと思ったんだろう。

 すぐ裏手に相模湾が広がる絶好のロケーション。
 真夏の強い日差しも、海からの冷たい風のおかげで、都内のまとわりつくような蒸し暑さとは大違いだ。
「あんまり遠くに行くなよ」
 海の方に向かう雨宮の背中に向かって言うと、振り向いて「もう17なんだけど」と呆れたように笑った。
 久しぶりに見た笑顔だった。

 来客用らしい玄関から建物の中に入り、窓口で要件を伝えると職員室と札の下がったドアからジャージ姿のオバちゃんが出てきた。年は、40後半、いや50代か。
 ショートカットと真ん丸い顔で、商店街の惣菜屋とかにいそうな感じだ。
「こんにちは、警視庁科学捜査研究所の尾形です」
 言いながら科捜研のIDを見せると、オバちゃんはにっこりと笑顔を浮かべた。
「こんにちは。お休みだったのに、大変ですね」
 たまたま休みの俺が近くに来てたから立ち寄って話を聞きに来たと、杉本さんから事前に連絡を入れてもらっていた。本当は科捜研の職員が聞き込みに来るなんてありえないんだけど、刑事ドラマのおかげで不審に思われることはほとんどないから楽だ。
 オバちゃんは俺を応接室に案内し、それからすぐにどこかに行って、数分後に書類と麦茶の入ったグラスを持って戻ってきた。
「えぇと、私、佐々木と申します。悠真君の高校の時の担当保育士で、3年間一緒に生活をしてました。でもこの学園には100人くらいしか子供がいないんで、職員は全員の子供の名前がわかるんですよ」
 ニコニコと笑って、子供に言い聞かせるようなゆったりとした口調で言う。職業病っていうよりも、もともとおっとりとした性格なんだろう。天然っぽいな。
「小中の時の担当はもう退職されてしまったんですか?」
「ええ、一昨年定年で。でも、私は悠真君がこの学園に来る前から働いてますので、だいたいのことはわかりますよ」
 そう言うと、持っていた数枚の色あせた書類の中から、B4の紙を1枚広げた。
「これが、悠真君がここに来たときの入園申込書です。ここに来たのは6歳の時でした。ご存知だと思いますが、父親がおらず、母親が亡くなって、一度その母親の親戚に預けられたんですが、2歳の妹を連れて家出した時に、警察に保護されてその親戚の方からの虐待が発覚したんです。それで見かねた警察の方、そうそう太田さんって言う方なんですけどね、その人がいろいろ手配してくださったんです。本当にいい方で、毎年お母さんのお墓参りに悠真君を連れて行ってあげてたんですよ」
 虐待されて、6歳で家出、か。杉本さんの言葉を借りるなら、本当に「絵に描いたような不幸な」奴なんだな。ただ、妹を連れて家出するだけの自立心があったことは、不幸中の幸いだったと言うべきか。
「それから真奈美ちゃんが3歳になってすぐに、里親が見つかったんです。あの時のことは、よく覚えてます。別れ際って、あのくらいの子なら泣いて追いかけて手がつけられなくなるんですけど、悠真君は涙をこらえて、じっと去っていく車を見つめてました。家族の愛情を何よりも欲していた悠真君にとって、大切な妹にその家族ができることを、必死で祝福しようとしてたんでしょうね。切なくて、こっちが泣いちゃいましたから」
 思い出して涙ぐみながら、じっと窓の外を見つめた。
 この窓から見える駐車場での出来事だったんだろう。
「それからですね、悠真君が猛勉強するようになったのは」
「猛勉強?」
「ええ。偉くなって真奈美ちゃんを迎えに行くんだって、言ってたみたいです」
 どこまでも妹思いの兄だったんだな。
「勉強の甲斐あって、中学も高校も成績はいつもトップで、学園の自慢だったんですよ。高2の時の全国模試で数学で1位になったことがあって、記念に結果通知の紙もらっちゃった。見ます?」
 佐々木さんは自慢げに言いながら、手にしていた書類をめくって探し始めた。っつーか、そんなもん記念にもらうなよ。
「で、真奈美さんとは会えたんですか?」
 話を戻すと、佐々木さんは顔を上げて真顔に戻った。
「……たぶん、会えてないんじゃないでしょうか。里親さんの要望で、私たちから妹さんがどこに行ったのかは話してはいけないことになってましたから」
「そうですか」
 里親も本当の親子でない分、坂崎さんという唯一の血縁者を隠すことで、必死で親になろうとしていたのかもしれない。けれど、どういう方法かはわからないけど、坂崎さんは真奈美と連絡を取っていたのは事実だ。
「でも、その猛勉強のおかげで、ほら、悠真君たちをここに面倒みてくれた太田さんが、政治家の先生を紹介してくださったんです」
「鹿島弘一ですね?」
「ええ、大学の時のお友達だったみたいで。高校を卒業したらここにはいられませんし、大学へ行くお金なんてあるわけないですし、どうにかならないかと学園の職員がいろんな方に相談していたんです。それが太田さんの耳にも入って、鹿島先生をご紹介いただけたんですよ」
 懐かしそうにそう話す佐々木さんを見て、坂崎さんの人柄が分かったような気がする。
 力になってやりたい、そう思わせる何かがあるのかもしれない。
「それで大学の学費を出してもらったんですね」
「ええ。鹿島先生も本当にいい方で……。悠真君も立派に法学部を卒業して、鹿島先生の秘書になったんですよ。ここの子供たちをどれだけ勇気付けたか……でも、鹿島先生はあんなことになって、ねぇ……」
 坂崎さんの不幸を思ってなのか、それとも鹿島を気の毒に思ったのか、佐々木さんは眉間に皺を寄せた。
「高校を卒業するまで、ここにいたんですよね」
「ええ、その後は大学の近くに下宿してて、たまに遊びに来てくれましたよ。最後に来たのは……私の娘が結婚した年だから、4年前ね」
 4年前……敦志が日本に帰ってきた頃か。
「母親は自殺だったみたいですが、何かご存知ですか?」
「そうそう、借金を苦にして首を吊った聞いてます。でもたったの300万円ですって。よっぽど追い詰められてたのかしら……」
「300万?」
 そんな額で、自殺するか?
「でもね、それよりも私がショックだったのは、悠真君が第一発見者だったってことです」
「――――え?」
 驚いた、というよりも、彼女が言うように「ショック」だった。
「母親のご遺体を目の当たりにしたわけですから、精神的なショックは物凄かったと思います……それに虐待もあって、ここに来たばかりの頃はとても痩せ細って、真奈美ちゃんの手をぎゅっと握って…………」
 そして、今回鹿島弘一も首吊り自殺の形で見つかり、坂崎さんが第一発見者だ。――何か因縁めいたものを感じた。
「そうだったんですか…………。父親のことについて、坂崎さんは何か話してませんでしたか?」
「さぁ……誰が父親なのかも、知らないんじゃないんでしょうか? 認知もしてもらってないって、高校進学時に父親を恨むような感じでしたよ」
 確かに坂崎悠真の戸籍には父親の名前がなかった。本人も知らない可能性は充分にあるし、事件に関わっていると考えるには、早すぎるか。
「あの、悠真君、なにかしたんですか?」
 佐々木さんが神妙な面持ちで、探るように聞いてきた。学園の自慢なだけに心配なんだろう。
「いえ……田口真奈美さん、殺されたんです。3月に」
 用意していた言い訳をすると、佐々木さんは小さく声を上げた。
「え……?」
「それで、戸籍を調べて坂崎さんが兄だったことがわかったんです。でも、ただの裏づけ捜査ですよ。坂崎さんにはアリバイがありますし、妹さんを大事に思っていたってことがよくわかりました」
「そうだったんですか……良かった、いえ、真奈美ちゃん亡くなったんだから、良くないわね。真奈美ちゃんは、幸せだったのかしら」
「詳しくはわかりませんが、14歳で火事で養父母を亡くして、高校を卒業して赤坂の建設会社で事務の仕事をしてたみたいですよ」
 ヤクザの愛人だったことは言わないことにした。けれど、佐々木さんはしきりに心配そうに、まるでまだ彼女が生きているかのように、神妙な顔をしていた。

 里子に出た真奈美は、こんなふうに心配してくれる人がいたことを知らないまま殺され、妹や親同然の人間を亡くした坂崎さんは、今怖いほど幸せだという。

 怖い、の意味が分かったような気がした。
 計り知れないほどの負の部分を経験しながら、地位も金も、愛する人も手に入れた。
 けれども、手に入れた幸せは必ず奪われていくと、何度も思い知らされている。妹や鹿島弘一を奪われたように。

 いつ、最愛の人を奪われるのか――――。

 それでも愛することから逃げない坂崎さんは、本当に強い人のように思えた。