始まりの日

赦罪 - 13

尾形澄人

「尾形、一杯どうだ?」
 研究室で質量分析装置クロマトグラフの電源を落としていると、科長がめずらしく飲みに誘ってきた。
「どうしたんですか?」
「8月も今日で終わりだしな。たまに若い奴と飲みたい気分なんだよ」
 正確にはまだあと2日残っているけど、平日は今日で最後だ。つまり、今日は給料日後の金曜日。時計を見ると7時を回ったところで、科長は妻子持ちだからそんなに遅くまでは付き合わされない。だったらたまには付き合ってやってもいいか。
「焼き鳥だったらいい店知ってますよ」
 科長は「いいねぇ」と笑って白衣を脱いだ。
 機械の電源が落ちたことを確認して俺も白衣を脱いでいると、俺のデスクの内線が鳴った。
「はい化学第一」
『パークタワーのエビゾーの正体、分かったわよ』
 電話を取ると、名乗りもせずに神田がそう言う。
 坂崎さん周りの事件が刺激的ですっかり忘れてたけど、エビゾーなんて奴もいたことを思い出した。黒田が雨宮家を監視していたパークタワーホテルに残されていた、正体不明のタバコの吸殻の持ち主。指紋と唾液からAB型だということだけがわかっていて、神田が勝手にエビゾーと命名した人間だ。
「へえ、誰?」
『驚くわよぉ。なんと、綾瀬司朗あやせ しろう
「――――は? マジで?」
 まさか、綾瀬と一ノ瀬組が繋がってる――つまり、北林が皆川会と繋がっているということになる。
『どう関連してるか知らないけど、綾瀬と一ノ瀬組が繋がっていたってことは、物凄いスキャンダルね』
「スキャンダルどころの話じゃすまないだろ」
 大物政治家の私設秘書が、暴力団の組長とホテルの一室にいた。それも、雨宮夫妻殺害の現場を見張るための部屋に。
 つまり、綾瀬は雨宮夫妻殺害にも絡んでいるかもしれない。それどころか、雨宮夫妻殺害を依頼したのが、綾瀬か、綾瀬のボスの北林将岱だという可能性すらある。
 もしそうだとしたら、北林将岱が総理大臣にならないことも、説明がつく。暴力団と絡んでることが発覚したら、政治家生命なんて一瞬で終わるから。
『雨宮誠一郎と北林将岱なんて大物政治家がこんな盛大な事件の中心にいると、マスコミが嗅ぎ付けるのも時間の問題かもしれないわね』
 確かに、こういう登場人物が多すぎる事件は情報が漏れやすい。けれども、この事件はこの先少なくとも14年間は隠蔽され続ける。それは2021年で雨宮が証明している。そんなことを神田に言うつもりもないけど。
「なんでこんなに早くエビゾーが綾瀬だってわかったんだ?」
『現場指紋係の遠山さんって知ってる? パークタワーでも会ったと思うけど』
「ああ、田口真奈美の遺留品の保管場所に案内してくれた」
 どこかで会ったと思ったら、パークタワーで会ってたのか。
『その遠山さんが偶然綾瀬の現場にも行ってて、指紋採取しながら、見たことある指紋だな~って思ったんだって。職人よね』
「へぇ、それだけで綾瀬だってわかったのか」
 1日に何十、何百もの指紋を採取しているのに、「見たことがある」っていうほど区別がつくのは凄いな。
『で? 尾形はどう動くつもりなの?』
 せっかっく話を逸らしたのに、いちいち面白くないところを突いてくる。
「どうするもなにも、俺はもう捜査からは外れてる。傍観者にしかなりえないね」
『嘘ばっかり。パークタワーの一件にお気に入りの高校生が絡んでるのに、尾形が動かないわけないでしょ?』
「だからと言ってその背後にいる大物の動向まで探れるほど、俺には力があるわけじゃない。残念ながらね」
『それ厭味? 総理と直接話そうとしているくせに。ま、私には関係ないからいいけど』
「だったら切るぞ。俺もそんなに暇じゃないんで」
 すると神田は厭味なくらい大きく溜め息をついた。
『あーあ、つまらないわね。男って本命ができると、急につまらなくなるのよねぇ』
 何が言いたいんだ、こいつ。
『そうそう、16階のイケメンSP、今夜うちに来るから、うちの住所自力で調べて21時以降に来てもいいわよ』
 最初からそれが本題だったくせに、わざとらしく迷惑そうに言う。
「それ自力で調べる意味あるわけ?」
『あるわよ。軽いイジメだと思って』
「へぇ、彼女とうまくいってないから八つ当たり?」
『違うわよ。幸せすぎて怖いから、あえてトラブルを作ってみてるの。刺激よ、シゲキ』
 相変わらず、神田はどこを目指しているんだろう。タチ悪いな。
『なんなら、あんたに三角関係の一角になってもらっても構わないくらい』
 つまり刺激を作るために浮気してもいいと言ってるのか。
「俺もそういうの、嫌いじゃないけど」
 実際に、昔は浮気なんて日常茶飯事だったし、そういう駆け引きが楽しいと思っていた時もある。
『けど?』
「つまらない男なんで」
 誰かに本気になると。
『ふふ、ほんと、つまらない男ね』
 神田は笑いながらそう言って、一方的に電話を切った。

 綾瀬が、いや北林将岱が一ノ瀬組やその上の組織、皆川会と繋がっていたとしたら、北林が雨宮夫妻殺害に関与している可能性が出てくる。
 雨宮の祖父である現総理と、次期総理と言われている北林将岱。
 その北林の秘書だった綾瀬と、綾瀬が殺した田口真奈美、その実兄の坂崎悠真、そして坂崎さんが父親同然だと慕っていた鹿島弘一は、雨宮夫妻を殺害した中国人の殺し屋に殺されていた。

 事件の1つ1つが、同じ円を描いているんだと、はっきりとしてきた。けれど、それは1本の線じゃない。
 これほど大物ばかりが集まると、それぞれの思惑も複雑に絡み合ってくる。
 権力や金、憎しみ――――その中心にいるのは、雨宮総理でも北林でもない、坂崎さんのような気がしてならない。
 坂崎さんは違うと、そう言った雨宮の顔を思い出した。

「尾形、帰れるか?」
「あ、今行きます」
 出口から呼ぶ科長に返事をしてデスクの上の携帯を拾おうとしたとき、今度はその携帯が震えた。
 意外な名前が表示されていた。

雨宮陽生

「俺、未成……」
 っつっても通じないか。そう思って途中でやめると、一ノ瀬はワイングラスを差し出したまま挑発的に目を細めた。
「誰に向かって言ってる?」
「はいはい組長さん……あんたには俺の立場なんて最初から関係ねーよな」
 睨み返してグラスを受け取ると、一ノ瀬はニヤリと笑みを浮かべて、白ワインのボトルを傾けた。ワインをグラスの半分くらいまで注いで、一ノ瀬は自分の持っていたグラスを触れ合わせる。
 高い音が、綺麗に響いた。
 わりと真面目に育った俺は、アルコールなんて数えるほどしか飲んだことない。けれど、ここで断るのもバカにされそうで嫌だ。
 微妙に躊躇っていると、一ノ瀬が飲みかけていたグラスを下ろした。
「毒なんて入ってない」
 相変わらずニヤニヤと変な笑みを浮かべて、ワインを一気に飲み干した。
 そんなこと言われると、余計に怪しい気がしてくる。
「…………」
 白ワインなんて飲んだことないからわからないけど、とりあえず匂いは問題なさそうだ。甘くていい匂いがした。グラスを傾けて口に流し込む。思ったよりもあっさりと喉を通った。
「知ってるかもしれないって、何を?」
 話を戻すと、一ノ瀬はすっと目を細めた。
「君が期待していることかもしれないな」
 言いながら、一ノ瀬はボトルとグラスをダイニングのテーブルに置いて、また俺を見た。
 その動作が不自然な気がして、気付いた。
「なっ…………」
 手に、力が入らない。
 持っていたグラスを落としそうになって、寸前で一ノ瀬がそれを引き取る。そしてテーブルに置く。
「なんか、入れただろっ……」
 フラフラと足元が怪しくなってきた。睨みつけた一ノ瀬の顔は、悠然と俺を見下ろしている。
 毒なんて入ってないって、つまり入ってるってことかよっ。
 相沢の相手だと思って不用意に信頼したことを後悔した。根はいい奴なのは相沢だけで、こいつは本当に冷酷で残忍なことを平気でできる男なんだ。

 目の前の一ノ瀬が歪んで、立ちくらみみたいな気持ち悪さに目を閉じた。頭が朦朧としてきて、四肢に感覚がなくなっていく。
 ストン、と膝の力が抜けてしゃがみ込みそうになって、一ノ瀬がすくうように俺を抱えたのを感じた。
 そして、完全に気を失った。